タエ子さんは今日も忙しい #ショートショート
もう定時退社の時間だというのに、課長が資料を持ってきた。
ったく、今日は推しの配信ライブがあるのに。早く帰ってシャワー浴びて、さくっと食事して、リアタイするの。そのために今日がんばってきたのに。なんでこのタイミング?
「忙しいところ申し訳ないんですが、この資料にあるデータを集計してくれますか」
上司と呼ばれる人たちはみんな、『忙しいところ申し訳ないけど』といえばすべて許されると思っている。絶対そうだ。いまどき「これやれ」なんて命令できないから一応、「申し訳ないけど」って付ける。けっしてこれは命令じゃない。自分としては本当はお願いするのは辛いのだけど~っていう気分を添える。そういえば、こっちが「わかりました~」とか言って断れなくなるってわかって言ってる。
「この資料でいいですね?」
突然、隣から声が聞こえた。最近やってきた派遣のタエ子さんだ。田中タエ子さん。黒い丸眼鏡をかけた、背の低い小太りのアラフォーおばさん。いつも黒っぽい服ばかり着ているから、なんだか魔法使いみたい。でも、しっかり結婚していて子供もいるらしい。知らんけど。
「今、まとめている資料と同じ集計方法ですね」
「え? でも……」と申し訳なさそうな顔をしつつ、心の中でラッキーと叫ぶ私。
「そうです。田中さん、いいの?」
課長がタエ子さんに資料を見せる。
「構いませんよ。今日は残業できますし」
タエ子さんは資料を眺めながら、黒い丸眼鏡のフレームを中指でくいっと押した。
「じゃあ、申し訳ないけど頼みます」
「ホント助かります!」
私は速攻でタエ子さんに頭を下げた。課長がほっとしている空気が横から伝わってくる。タエ子さんが書類を受け取ると、課長は満足そうに席に戻った。
これで定時で帰れる。助かった。あ、ここはお礼言っとかないと。
「あの、ありがとうございます……」私はちょっとしおらしく言ってみた。
すると、
「リアタイできるといいですね」
タエ子さんは私のほうを向かず、モニターを見ながらそう小声でつぶやいた。
「……」
え? なんで……
そのままタエ子さんは仕事に集中して、画面から目を離さずキーボードを叩いている。私は若干、ひきつりながらタエ子さんの横顔をのぞく。
いまリアタイって言ったよね。間違いないよね。なんで? なんでリアタイしたいってわかったの? ひょっとして心が読まれた? いやいやいやいや、そんなことありえない。
あ、そういえば……こんなこと前にもあった。
私が誰にもみつからないようにこっそり職場を抜け出そうとしたとき、タエ子さんはこっちを見ずに「気を付けて」ってポロっと言ったんだ。思い出した。でも、あのときは私の行動パターン読まれているな、くらいにしか思わなかった。
え、まさかタエ子さんって他人の心が読めるの? 超能力者? エスパー? やめてよ。ちょっとそういうの怖いんだけど……
「なにか……?」
タエ子さんがこっちを向いた。眼鏡の奥の目がちょっと怖い。ええ?! ひょっとして、今の気持ちも読まれた? やばい、やばい、やばいかも――
◇
タエ子さんはエスパーかもしれない。そうでなければ、私の心の声がわかるはずがない。
でも、そんなことをすぐに本気で信じるほど私だってバカじゃない。こういうときはずばり聞く。それに限る。でもあんまり真剣な表情で聞いたら、それはそれで変だ。もし違っていたら、いや、よく考えればエスパーなわけないんだけど、そんな当たり前のこと大真面目に聞くのは、ちょっと恥ずかしい。
だから、顔の半分は少し微笑んで、どうでもいいんだけどって空気をたっぷり装いながら、恐る恐る聞いた。
「あの……なんで私がリアタイしたいって……」
「さっき、推しの配信リアタイするんだって、言ってましたよね……」
タエ子さんはそれだけ口にすると、また仕事に集中し出した。
「……」
言ってたって……独り言? え、私そんなこと言ったの?
「よくひとりで話してますよ」
タエ子さんは、自分も画面を見たまま、さらに続けた。
「……そうなんですか?」
と返事しつつ、たしかに私なら言いかねないかもと思う。やだ、私ったら。ほんとバカ。
「ああ、そっか、そっか。私、自分で言ってたのかな。ハハ」
何がハハなのか。でもひょっとしてエスパーですか、なんて間抜けなこと聞かなくて良かった。とにかくこれで、この話題はおしまい。それより私は……
「それより、もう帰ったほうがいいですよ」
言われてしまった。でも、そうやってタエ子さんから会話を切ってもらったほうが助かる。絶妙なタイミング。さすが、タエ子さん。
「あ、そうですね。じゃあ、私、急いでるんで帰りますね」
「お疲れ様~」
「お先に失礼しま~す」
私がいそいそとオフィスを脱出するとき、席の向こうにいた課長がちらっとこっちを見ていた。でも私には気づいてないみたい。いまがチャンス。さっさと退社しちゃおう――
やっぱり優秀な派遣社員を味方につけておくものね。今日もしっかり推し活しよう!
◇◇
「課長、集計終わりました。AIのチェックも済んでます。ファイルは共有フォルダに入れました」
部下からは見えないようにゲームをしていると、派遣社員の田中タエ子さんからのTeamsチャットが入った。すぐに確認すると……すごい。やっぱり彼女は優秀だ。派遣会社の言ってた通りだ。俺が自分でやったら小一時間はかかったろうに、彼女はさくっとやってのけてしまう。
これはお礼を言っておかなくては。仕事を依頼したときみたいに、チャットじゃなくて席まで出向いて、口でだ。
「助かりました。オッケーです」
席まで行くと、タエ子さんはもう帰り支度をしていた。黒いトートバッグに荷物を詰めている。普通、上司から了解の返事をもらうまで待つものだが、まるで俺から資料のオッケーをもらうのをわかってたみたいだ。
こういうところに少し違和感を覚える。優秀な人には違いないけど、ときどき理解できない行動をする。いつも黒基調の服装をしているし、まるで魔女だ。
「では、もう帰ってもいいでしょうか……」
タエ子さんが大きな黒いトートバッグを肩にかけて俺を見ている。もう、そのまま帰れるというポーズだ。
「あ……はい。大丈夫です。お疲れ様でした」
そう言うしかなかった。あなた魔女なんですか、なんて聞けるわけがないし。ここはあんまり深く考えないほうがいいだろう。
ただ、俺に一礼したタエ子さんがそのまま俺の横を抜けて廊下に出ていこうとしたとき、ふとさっきの違和感がよみがえった。
「……そういえばさっき、誰かと話してませんでしたか」
そう。資料を渡して席に戻ってから、タエ子さんがブツブツ言ってるのが聞こえて気になっていたのだ。
タエ子さんは俺に背を向けていたが、立ち止まって振り返った。黒い丸眼鏡の奥の目がなんか怖い。
「……いえ。別に。私一人だけですよ」
「なんか、声が聞こえたんで……」
そう答えるとタエ子さんは表情を和らげて、少し微笑んだ。あ、この人、笑うことあるんだ、すぐにそう思った。
「……気のせいですよ。課長、お疲れなんだと思います」
タエ子さんはそれだけ言うと、トートバッグに片手を入れてごそごそやった。そして、何か取り出して俺に見せた。栄養ドリンクだった。
「試供品ですが、昼休みに薬局でもらったんです。お飲みになります?」
「いやいや、そんな大丈夫ですって。心配いただいて恐縮です」
そんなものもらえるわけがない。
「そうですか。じゃあ、お先に失礼します」
「あ、お疲れ様~」
タエ子さんは栄養ドリンクをトートバッグにしまうと、さっさと廊下に出て行ってしまった。なんか、うまくはぐらかされたみたいだけど……
あれ、俺、何を聞こうとしてたんだっけ? ま、いっか。資料もできたし、俺も早く帰ろうっと――
◇◇◇
――エレベーターホールでため息をついた。
今日も忙しかった。
今度派遣された職場は、前よりずっと静かでやりやすいと思ってたのに。
あの課長は思ったより敏感なところがある。私が魔女だって感づいている。とはいえ、そのわりに軽薄だから、ちょっと魔法をかければ適当にあしらえる。
それより、面倒なのはあの子だ。
他人の心の声を読み取るのは、もうすっかり慣れている。仕事にも役立つし、うっかりバレそうになっても適当に振る舞っていればなんとかなる。
でもまさか、あんなのに出会うとは思わなかった。それに、あれの心の声まで読んだのもまずかった。油断したら、しょっちゅう話しかけてくる。いい子なんだけどね。
派遣会社に頼んで、早めに職場を変えてもらおう。引っ越しもしたほうがいいかも。
いくら魔女でも、さすがに人間じゃない同僚は疲れるもの――
<了>
