雑文「読書について」
元来引きこもりがちなぼくにとって、読書という行為は、趣味であると同時に、「警戒すべき行為」である。どういうことだろうか。※本ページはプロモーションが含まれています。

読書は、基本的に引きこもって独りでなされる行為と言っていい(むろん「読書会」という例外もあるが)。換言すれば、冒頭で挙げた自らの傾向に拍車をかけてしまうものなのである。
引きこもって読書にふけるのもいいけれど、外出することや他人との交流もやはり重要だ。凡庸だが、要はバランスが肝心なのである。
このバランスを保つために、ぼくは自らを内ではなく外へ向けるような本を時折、意識的に手に取るようにしている。
例えば、片岡義男の作品がそれにあたる。彼の『一日じゅう空を見ていた』に含まれるいくつかの短編を読むと、そのストーリーやシチュエーションによるのか、あるいは文体によるのかはともかく、どこかへ行きたくなるような、体を動かしたくなるような、そんな気分に駆られるのである。少し引用しておこう。
「よく晴れた空の透明な奥行きの、どことも定めないさまざまなところを、静かな視線でじっと見ているだけで、彼女は充分に幸せだった。室内にまきこまれてくる風が彼女の顔に当たり、髪をあおった。自動車の振動や走行音がおだやかに彼女の体をつつみ、体は室内にとりこまれたまま、視線だけが、Tバー・ルーフごしに自由に空を泳いだ。」(角川文庫版 p.270)
村上春樹の『風の歌を聴け』なども個人的にはそんな本だ。印象的な箇所を少しだけ引用する。
「文明とは伝達である、と彼は言った。もし何かを表現できないなら、それは存在しないのも同じだ。いいかい、ゼロだ。[…]医者の言ったことは正しい。文明とは伝達である。」(p.30~31)
「そう、ラジオ。文明が産んだ……ムッ……最良の機械だ。[…]ラジオを聞かなきゃ駄目さ、本を読んだって孤独になるだけさ。そうだろ?[…]本なんてものはスパゲティーをゆでる間の時間つぶしにでも片手で読むもんさ。わかったかい?」(p.57~58)
哲学の本でいえば、ソール・クリプキの『ウィトゲンシュタインのパラドックス』などがあるだろう(解説書としては飯田隆著『規則と意味のパラドックス』がおすすめ)。素人のぼくが語るのも非常にはばかられるが、本書でクリプキは、言葉の意味というのは、共同体において、他人とのコミュニケーションが遂行される(ように見える)ことによって、なんとか担保されている(ように見える)ものだということを言っているように思われる。頭の悪いぼくとしては、こうした主張に触れると、引きこもって本を読んでいても仕方がない(そこに言葉の本体はないから)、自らをコミュニケーションの方へ向けよ、といったようなインプリケーションを受け取らざるを得ないのである。
以上のような本を折に触れ手に取りつつ、バランスを取りながら今後も生活していきたい。
☞紹介した本はこちら:『一日じゅう空をみていた』(紙の書籍はこちら)『風の歌を聴け』『ウィトゲンシュタインのパラドックス』
☞『ウィトゲンシュタインのパラドックス』の解説書としておすすめ:『規則と意味のパラドックス』
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