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【いざ鎌倉:コラム】後鳥羽院の武士団

前回は、後鳥羽院が遂に武士を召集し、挙兵を決断したところまで書きました。

今回は番外編「後鳥羽院の武士団」。
楠木正成や新田義貞ら、後の時代に鎌倉幕府倒幕に成功した後醍醐天皇の忠臣たちは教科書に載るほどに有名ですが、後鳥羽院の計画に集った武士たちは非常にマイナーです。
本編で承久の変を書き進める前に、まずこの武士たちを紹介し、後鳥羽院の官軍がどういった性格を持つものであるかを考えたいと思います。

藤原秀康

北河内(大阪府四条畷市・枚方市周辺)を勢力とする北面の武士。
平将門を討った藤原秀郷(俵藤太)を祖とする藤原北家秀郷流ではあるが、藤原姓を名乗るのは養子に入った父・秀宗の代から。

幕府の御家人ではなく、後鳥羽院専属の武士であり、討幕計画の中心メンバーの一人。
後鳥羽院の近臣という立場から、大将軍として実質的な総大将となるものの、実戦経験はなく、率いる武士団の規模も幕府の御家人から官軍に加わった武士たちと比べて劣っていたと思われます。
承元4(1210)年、和田義盛が強く望んだ上総介に任官し、義盛の夢が破れるということがありました。

承久3年時点の官位は従四位下能登守。幕府執権・北条義時も従四位下であり、朝廷の位階では同等。
弟の藤原秀能・秀澄も官軍に参加します。

三浦胤義

幕府の御家人。
北条氏に次ぐ勢力を誇る三浦氏の総領・三浦義村の弟
胤義が官軍に参加した経緯は本編でも触れた通りです。
上記の藤原秀康は従兄弟の子という関係にあり、実はご親戚。

官軍の主力の一人として武勇を期待されました。
和田合戦では兄・義村とともに和田義盛を裏切り、幕府方につきましたが、承久の変では兄と敵対することになります。


山田重忠

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美濃源氏の末裔。幕府の御家人で尾張国山田荘の地頭。
源平の戦いでは、地勢的な要因から源頼朝ではなく、木曾義仲、源行家らに近い立場でした。山田一門は、義仲の上洛戦にも参加。こうした経緯から、戦後は関東の武士と比較して不遇な立場でした。また、挙兵以前、古くから後鳥羽院にも仕えていました。
武勇に優れており、幕府軍を相手に奮戦し、歴史に名を残すことになります。


錦織義継

清和源氏系近江源氏の武士。
近江は源平の戦いの最前線であり、義継の祖父・山本義経は平知盛相手に激戦を繰り広げ、その名を知られました。
ただ、後に一門が木曾義仲の上洛軍に加わったため、義仲が源頼朝に敗れると没落。
上述の山田重忠と官軍に加わった事情は似ていますね。


宮崎定範

越中国の地方武士。
宮崎党は、木曾義仲の軍勢に加わり、寿永2(1183)年の砺波山の戦いで活躍したことが知られており、この人も旧・木曾義仲派。
地元・越中にて幕府の北陸道軍を迎え撃つことになります。


仁科盛遠

信濃国の地方武士。
熊野詣に向かう後鳥羽院一行が道中で偶然、盛遠と出くわし、西面の武士に取りたてられました。
しかし、幕府の許可を取らずに西面の武士となったため、所領2か所を没収されることに。これにより北条義時を恨んでいたといいます。
ただ、信濃といえば木曾義仲の本拠地。一門の仁科盛家は木曾義仲の上洛戦に参加しており、盛遠も旧・木曾義仲派として従来から冷遇されていた可能性は十分にあるでしょう。

4人連続で木曾義仲に関係する武士が続きましたが、彼らの官軍への参加により「旧・木曾義仲軍の復讐戦」という側面も見えてきます。


河野通信

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伊予水軍の棟梁。幕府の御家人。
壇ノ浦の戦いにも参戦し、その水軍は源義経軍の中核となりました。
妻は北条時政の娘。ただ、妻とは不仲であり、反北条氏的な感情が官軍に参加したきっかけともいわれます。
「旧・源義経派」でもあり、やはり不遇な立場であったでしょう。
子の河野通政は後鳥羽院に仕える西面の武士であり、父とともに官軍に加わります。
「鎌倉新仏教」の一つに数えられる時宗の開祖・一遍は孫。


渡辺(源)翔

摂津国を地盤とする嵯峨源氏。
渡辺氏に限らず、嵯峨源氏は伝統的に一字名を好むことで知られ、名前の「翔」は「かける」と読みます。
源頼光四天王として知られる渡辺綱の末裔で、由緒ある武士団・渡辺党の惣領。
幕府の御家人であり、西面の武士として後鳥羽院にも仕えた武士。
父の渡辺番(「つがい」と読む)は源義経に従い、壇ノ浦の戦いに参戦。安徳天皇の母・建礼門院徳子を救出したことで知られます。
頼朝と義経が対立するようになって以降、逃亡する義経を見送った罪で番は幕府に拘禁されてしまいました。後に許されますが、こうした「旧・源義経派」という経緯から渡辺党は幕府内で厚遇されておらず、後鳥羽院への忠義を重視したと考えられます。

完全に余談ですが、渡辺党は渡辺姓の祖とも言われますので、俳優の渡辺謙や渡辺徹は一字名の伝統を踏襲していると言える……かもしれません。


大内惟信

幕府の御家人で、伊賀・伊勢・美濃の3カ国守護(一説には越前・丹波・摂津を加えた6カ国守護)。
信濃源氏に属する源氏一門。
かつて北条時政が将軍に担ごうとした平賀朝雅の甥にあたります。
朝雅が抗争で討たれると、父・大内惟義が畿内の基盤を引き継ぎました。
以後、大内氏は在京御家人の最大勢力として後鳥羽院に接近していきます。
実朝死後、源氏一門は続々と北条氏によって粛清されており、そのことが惟信に身の危険を感じさせ、幕府と対決する意志を固めさせた可能性はあるでしょう。
官軍に参加した御家人の中では、惟信は一番の大物といえます。
ちなみに室町幕府の守護大名として知られる周防の大内氏は完全に別系統で無関係。


大江親広

幕府の初代政所別当・大江広元の嫡男。
自身も政所別当を務め、実朝死後は京都守護に任ぜられた幕府首脳の一人。
しかも、妻は北条義時の娘。
こうした立場から、後鳥羽院の挙兵への参加は消極的だったようです。
父・大江広元、息子・大江左房は幕府方であり、父とも子とも対立する道を選ぶことになりました。


佐々木経高・高重・広綱

宇多源氏系近江源氏。
佐々木経高は、治承4(1180)年の源頼朝の挙兵に当初から参加した最古参の御家人の一人です。「佐々木四兄弟」の次兄として知られます。
平家滅亡後、頼朝から淡路・阿波・土佐の三カ国守護に任じられており、有力御家人でした。
しかし、頼朝没後の正治元(1199)年7月、京で騒乱を起こしたことが原因で守護を解任されます。
後に許されますが、全ての所領は取り戻せず、北条時政・義時を恨んでいたともいいます。
佐々木高重は経高の嫡男。京都大番役で在京中でした。
佐々木広綱は経高の甥。佐々木四兄弟の長兄・定綱の嫡男。西面の武士として後鳥羽院にも仕えていました。
官軍に加わった佐々木氏のこの3名は揃って幕府の守護でした。
佐々木経高が淡路守護、高重が阿波守護、広綱が近江守護です。


後藤基清

幕府の御家人であり、検非違使・西面の武士として後鳥羽院にも仕えた武士。
元暦2(1185)年の屋島の戦いにも参戦経験がある幕府の古参。
ただ、頼朝の許可を得ずに朝廷の官位を得たり、源通親襲撃を企てたり問題行動を理由に処罰されることも多い武士でした。
基清には一条家に仕える武士という立場もあり、一条家が後鳥羽院の計画に積極的に参加する状況となった以上、官軍への参加を選択したのは自然な成り行きだったと思われます。
しかし、幕府からすれば頼朝公の恩を忘れた大罪人の一人でした。
後の世の大坂冬の陣・夏の陣で知られる武将・後藤又兵衛の先祖。


加藤光員

佐々木経高同様、源頼朝が流人だった時代から仕えていたことが確認できる古参の御家人。
検非違使・西面の武士として在京が長く、その功績から伊勢守に任じられます。
御家人が朝廷の国守に任じられることは数少なく、この後鳥羽院への恩義が官軍への参加の理由かと思います。


和田朝盛

幕府初代侍所別当・和田義盛の孫。
源実朝の側近であり、和歌の才能を愛されました。
和田合戦で実朝への忠義と一門の団結の板挟みとなり出家。鎌倉から出奔しましたが、一門に連れ戻され、幕府軍と戦いました。
戦後、姿をくらましていましたが、後鳥羽院の挙兵に参加。
再び幕府軍との戦いに臨むことになります。


糟屋有久・有長・久季

糟屋氏の三兄弟。
彼らの父・糟屋有季は比企能員の娘婿でした。
そのため北条時政と比企能員が対立した際、有季は比企氏に味方し、殺害されています。
有季の死後、糟屋氏は幕府での居場所を失うことになり、三兄弟は姉妹の嫁ぎ先であった京の一条家に仕えることに。
父の仇である北条氏を討つ機会として、後鳥羽院の官軍に加わります。

まとめ

こうして整理すると、後鳥羽院の官軍の構造がおおよそ見えてくると思います。
藤原秀康のような御家人ではない、院・朝廷専属の武士は少数派です。
多くが御家人と北面・西面の武士を兼ね、院と幕府の双方に忠誠を誓う存在でした。
やはり後鳥羽院の官軍は、幕府の御家人の取り込みなしには成立しないのです。
このことから、「官軍側が歴戦の幕府軍と比較し、実戦経験に乏しい戦争の素人だった」という見方も不適切ということが明らかになってきます。
後鳥羽院の官軍には、源平の戦いを知る古強者も多数加わっており、彼らは幕府にとって脅威となり得る存在だったのです。
ただ、大軍を指揮して戦った経験があるものはおらず、総大将格の藤原秀康は実戦経験ナシというのは弱みであったとは言えましょう。

そして、官軍に加わった武士たちの中には、源頼朝挙兵以降の40年の歴史における「敗者」が多数加わっていました。
木曾義仲や源義経の配下で平家と戦った者、あるいは比企能員、梶原景時、和田義盛といった北条氏との抗争に敗れた派閥の者たちです。
彼ら「敗者」には「勝者」である北条氏主導の幕府への恨みがありました。

後鳥羽院には、皇威を回復し、あるべき政治を取り戻すという高い理想がありましたが、一方でそうした理想とは無縁な私的な理由で幕府、北条氏を憎む武士を手広く取り込むことに成功していたと言えるでしょう。

次回予告

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遂に挙兵を断行した後鳥羽院。
参陣を拒否した京都守護・伊賀光季への攻撃により戦いが始まる。
さらに後鳥羽院は北条義時追討の院宣を下し、幕府の切り崩しを次の段階へと進めるのであった。
一方、後鳥羽院の計画を事前に察知できていなかった幕府に激震が走る。
山より高く、海より深し。
北条政子は動揺する御家人たちに源頼朝の恩を語りかける。
次回、「尼将軍の演説」


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