【いざ鎌倉(17)】源頼家政権の終焉
さて、年内最後の更新です。
前回は源通親の人物伝でした。
前々回更新の本編16回は阿野全成の失脚、北条時政が千幡の乳母夫に就任したところまで書きました。
今回はこの続きとなります。
頼家政権の内部抗争もいよいよ最終局面です。
頼家、病に倒れる
建仁3(1203)年7月20日、2代将軍頼家が急病で倒れ、床に伏します。
頼朝の弟・阿野全成が粛清されてからおよそ1か月後。
幕府内の度重なる権力闘争に心身ともに疲弊していたのかもしれません。
頼家は重病で、危篤となり、幕府宿老たちは余命は長くないと判断します。
誰もが予想しなかった若き将軍の急病により、政局が動きます。
8月27日、家督継承についての評定が行われることとなりました。
3代目鎌倉殿の候補は2人。
頼家の嫡男で比企能員が支える6歳の一幡。
頼家の弟で北条時政が支える12歳の千幡。
家督継承についての議論を主導したのは比企能員でした。
自身の娘・若狭局が産んだ一幡を後継者とすることを認めさせることに成功します。
正統性では嫡男の一幡に分があります。
千幡の方が年上ではありましたが。まだ幼いということに変わりはありません。
千幡が一幡を押しのけて家督を継承するだけの理由はありませんでした。
ただ、北条時政は大人しく引き下がる政治家ではありません。
家督継承の議論では大人しかった時政は、千幡が譲られる所領の配分の増加を強く主張します。
家督継承の議論で勝ち目がないと考えていた時政は財産分与こそ、この日の勝負所と考えていたのではないでしょうか。
評定は、頼家の嫡子・一幡を後見する比企能員vs頼家の弟・千幡を後見する北条時政の激論の場となりました。
評定決着
議論の末、この日の評定は次のように決着します。
一幡が日本国惣守護、関東28か国の地頭職を継承。
千幡が関西38か国の地頭職を継承。
日本国惣守護というのは源頼朝が後白河院に認められた立場で幕府の棟梁「鎌倉殿」と同義です。
なので家督は一幡が継承するということです。
千幡には関西38か国の地頭職が譲られることになりました。
28と38で数字だけ見ると千幡の方が数多くの所領を継承したかのように見えますが、当時の鎌倉幕府はまだまだ関東を中心とした政治・軍事集団であり、西国には十分に浸透していません。
この数字だけで所領の規模を判断すると実態を見誤る可能性があると思います。
それでも時政がかなりの規模の千幡への財産分与を勝ち取ったのは間違いありません。
比企能員は、所領配分が幕府分裂につながる懸念を抱きましたが、一幡の家督継承を勝ち取り、目的は達しました。
北条時政も、贈与された所領の規模から千幡が将来的に幕府に強い影響力を行使できる立場になることは確実となり、後見人たる乳母夫としての目的を十分に達しました。
評定は、従来の政権主流派と非主流派の立場が逆転するようなものではありませんでしたが、時政の激しい主張と粘り強い交渉により、両者が最低限の目的は達する痛み分けに終わったと言えます。
しかし、両者の対立はこれにてノーサイド、これからは仲良くとはなりませんでした。
6日後の9月2日、比企能員は北条時政に殺害されます。
『吾妻鑑』による比企氏の乱
幕府の史書『吾妻鑑』によると殺害の経緯は次の通りです。
9月2日、病床の頼家が比企能員を招き、分割相続を止めるために北条時政討伐を計画します。
しかし、この計画を政子が障子ごしに聞いていました。
驚いた政子は父・時政に急報します。

時政は政所別当である大江広元を訪ねて自分への支持を強要し、味方とすると、新造の薬師如来像供養を理由に能員を自邸に招待しました。
能員は危険であるとの一族の忠告を無視し、時政邸を訪れ、その場で殺害されました。
その後、政子は頼家が正常な判断力を失ったと主張して幕府の主導権を握り、軍勢を派遣して比企氏を滅ぼします。
頼家の後継候補だった一幡もこの時に死亡しました。
これが幕府と北条氏の公式見解ですが、ちょっと話ができすぎていて真実ではないというのが近年の定説です。
政子に聞かれるような場所で時政討伐を計画し、そしてそんな物騒な計画をしている能員がのこのこと時政の屋敷に出かけていくというのは話としてやはり無理があるでしょう。
比企能員殺害の真相は?
まず、将軍頼家はどこで床に伏せっていたのか?という問題があります。
天台座主・慈円の著した『愚管抄』では頼家は大江広元の屋敷で倒れ、重体となり、そのまま床に伏せったとされます。
そうなると、頼家と能員が時政討伐を計画したのは広元邸となりますが、人の屋敷でそんな物騒な話をするのかという問題が生じます。
そして、それを障子ごしに聞いた政子も当然広元邸にいたことになりますが、あなた何故そこにいるの?という話に。
時政が広元に自分の味方となるよう強要したのも広元邸ですが、自分の殺害を計画している頼家が伏せっている同じ屋敷の中でそんな話をするというのもちょっと考えられない。
ということでやはりこの話は色々とおかしい。
あと『愚管抄』では一幡は母・若狭局が抱いて連れ出しており、この日比企邸では亡くなっていません。2か月後、義時が探し出して殺害したことになっています。
一人負けだった北条政子
分割相続で千幡が所領を継承することになったとしても、家督は自身が後見する一幡が後継することに決まったわけで、比企能員には時政討伐を計画する動機が希薄です。
そして、能員が時政に呼ばれて躊躇なく屋敷を訪ねたのも、27日の評定で満足した結果が得られ安心していた、時政との対立は解消したと考えていた証拠でしょう。
やはりこの政変は比企氏の乱ではなく、北条氏の側から仕掛けたクーデーター「北条氏の乱」と考えた方が自然です。
27日の評定は比企能員だけでなく、北条時政も最低限の目的は達したと書きました。そういう意味では実は時政も能員殺害の動機は希薄といえます。
ただ、政子は違います。
これまで幕府の政治に介入できたのは先代将軍後家、当代将軍生母という立場があったから。
次の将軍が一幡となれば、この立場は比企能員の娘で一幡の母・若狭局に交代することになります。
27日の評定の決定で「一人負け」なのが政子であり、政変を仕掛けた張本人は動機のある政子というのは頷ける一つの説ではあります。
ただ、動機があっても証拠はありません。
最低限の目的達成では満足できなかった時政の主導なのか、政治力の低下が避けられない情勢となった政子の主導なのか。
結局一連の政変の真相ははっきりしません。
ただ、比企氏の館を攻める軍勢は侍所別当の和田義盛をはじめ、三浦義村、小山朝政、結城朝光、畠山重忠といった幕府重臣が加わっています。
時政には彼らに指示できる権限はなく、頼家を除けば政子以外に命令は下せません。比企氏をこのタイミングで滅ぼすことに政子が同意していたことは間違いありません。
3代将軍源実朝の誕生
その後、頼家は奇跡的に回復し、事件の顛末を聞いて激怒しますが、最大支持勢力であった比企氏が滅亡したことで政局を押し戻せる力は最早どこにもありませんでした。
9月7日、政子のすすめで頼家は出家し、伊豆の修善寺に幽閉されました。
頼家はさぞ無念であったことでしょう。政変は頼家の死を前提に引き起こされましたから、生存するのならこの時点で後継者争いはありえませんでした。
同じ日、京では幕府が「頼家が亡くなったので千幡を将軍に任じてほしい」と要望し、後鳥羽院は「実朝」の名を与えたうえで、征夷大将軍に任じます。
実際には頼家は死亡しておらず、結果的に「虚偽報告」だったわけですが、後鳥羽院は後々も問題とせず、新体制の幕府との協調を優先しました。

千幡あらため源実朝(甲斐善光寺木像)
比企能員が討たれたのが9月2日ですから、3代将軍実朝の将軍宣下までわずか5日しかありません。
5日あれば鎌倉から京まで情報伝達は可能ですが、後鳥羽院が「実朝」という名前を考える時間も、朝廷が将軍就任を議論する時間もほとんどありません。
後鳥羽院という人は幕府が要望すれば、あっさりと応じるような人ではないでしょう。
今日の国会が指名すればその日のうちに天皇陛下が任命する総理大臣とは違います。
やはりこのスピード感を見れば、時政と政子、どちらの主導であったとしても北条氏が事前に頼家の排除と能員の殺害を計画し、十分な根回しをしていたと考えるのが自然ではないでしょうか。
「頼家死去」という虚偽報告も、実際には9月2日より前に使者は鎌倉を出発しており、当初は頼家も討つつもりだったのが何らかの計画変更があったのかもしれません。
次回予告
新年最初は人物伝・源頼家です。
比企能員の人物伝は……書きたいことがないのでありません。
9月から書き始めておよそ4か月。
みなさんに読んでいただけるのがモチベーションです。
全ての読者に感謝申し上げます。
みなさまよいお年をお迎えください。
