短編「三百件の向こう側」
毎週金曜日は短編を投稿しています。
今日は、「不動産営業電話のお仕事小説」です。
朝九時。
アクシス・リンク営業フロアの蛍光灯は、今日も容赦なく白かった。
壁には「投資用マンション販売部」と書かれた紙が貼られている。
新人の佐藤は、その文字を見ないようにして席に座った。
机の上には、今日も“地獄リスト”が積まれている。
医療系、士業、会社経営──
安定した職業の人ばかりが並んでいる。
十年前の名刺の匂いがする紙束だ。
隣の席では田中が缶コーヒーを開け、
「今日もマンション売るぞ〜」と冗談とも本気ともつかない声で言った。
三十代半ば、声が大きく、笑いの沸点が低い。
人の失敗を見るとすぐ肩を震わせるタイプだ。
もう一人の先輩・村上は、足を組んでスマホゲームをしていた。
二十代後半。
営業成績は良いが、やる気があるのかないのか分からない。
「佐藤、今日のノルマ三百件な」と言いながら、画面から目を離さない。
「……はい」
佐藤が返事をすると、田中がふと思い出したように言った。
「お、そうや。佐藤、念のため流れだけ確認しとくか」
缶コーヒーを机に置き、指を一本立てる。
「まずな、最初は会社名と名前だけ名乗る。“営業です”とは言うな」
「……はい」
「“ご挨拶で”とか“簡単なご案内で”って濁す。受付突破が第一関門や」
佐藤はうなずいた。
田中は二本目の指を立てる。
「で、担当につながったら、そこで初めて中身や。節税とか資産形成。要は“話を聞く理由”を作る」
「話を聞く理由……」
「そう。“ああ、ちょっと聞いてもええかもな”って思わせたら勝ちや」
村上がスマホから目を離さずに口を挟む。
「投資用マンション。自分で住むんやなくて、人に貸して家賃取るやつ。節税になる、って話で引っかける」
佐藤は机の上の紙束を見た。
“地獄リスト”。
そこに並んでいるのは、その“引っかける”対象だ。
田中は三本目の指を立てた。
「で、最後はアポや。会ってもらって、ようやくスタートライン」
「……はい」
「この三つや。受付突破、興味付け、アポ取り」
少し間があって、田中が笑う。
「まあ、三百件かけて一件取れたら上出来やけどな」
佐藤は思わず聞き返した。
「三百件で……一件ですか」
村上が淡々と言う。
「それ、理想な」
その一言で、空気が少しだけ冷えた。
佐藤は受話器を見た。
黒いプラスチックの塊が、やけに重く見える。
(これを、三百回)
指先に、じわっと汗がにじんだ。
「……はい」
佐藤は受話器を持ち上げた。
手汗で少し滑った。
深呼吸を一つ。
二つ。
三つ目で、ようやく番号を押す。
コール音が鳴る。
胸の奥がじわっと熱くなる。
今日最初の電話。
これがうまくいけば、少しは気が楽になる。
佐藤は受話器を持ち上げた。
(受付突破、興味付け、アポ取り)
頭の中でさっきの言葉をなぞる。
深呼吸を一つ。
番号を押す。
コール音。
「はい、○○株式会社です」
受付だ。
「お忙しいところ失礼します、アクシス・リンクの佐藤と申します。
〇〇様いらっしゃいますでしょうか?」
「どのようなご用件でしょうか」
来た。佐藤は一瞬だけ言葉に詰まる。
「営業のご挨拶でお電話させていただいております」
一拍。
(通るか……?)来た。
佐藤は一瞬だけ言葉に詰まる。
(ここで止まったら終わる)
「少々お待ちください」
佐藤は受話器を持ったまま、背筋を伸ばした。
心臓が少しだけ速くなる。
(いけた)
数秒後。
「お電話代わりました」
低い声。
さっきまでとは明らかに違う。
ターゲットだ。佐藤は息を整える。
(受付突破、次は興味付け)
「お忙しいところ失礼します、アクシス・リンクの佐藤と申します。
今回、資産形成の一環としての──」
「いらないです」
間髪入れず、切られた。
ツー、ツー、という音だけが残る。
佐藤は受話器を持ったまま、しばらく動けなかった。
田中の声が飛ぶ。
「はい、それが基本形な。通常運転。朝の準備体操や」
次の電話。
「お忙しいところ失礼します、アクシス・リンクの佐藤と申しま──」
ガチャッ。
受話器の向こうの無音が、逆に耳に痛い。
佐藤はゆっくり受話器を置いた。
田中が振り向きもせず言う。
「向こうも慣れてきたらな、会社の名前聞いた瞬間に切るで」
「社名出さなきゃだめですよね……」
「それがルールやからな」
佐藤はもう一度、受話器を持ち上げた。
コール音が鳴る。今度こそ、と祈るように。
「お忙しいところ失礼します、アクシス・リンクの佐藤と申します。
〇〇様いらっしゃいますでしょうか?」
「ん?ぼくやけど、何の用かな?」
「えっと、その……簡単なご案内でお電話させていただいたのですが──」
「……営業の新人さんやな?ちゃんと先輩の言うこと聞きや」
すぐに切られた。
「新人さんやな、っていわれました」
田中は肩を震わせて笑い、村上が言う。
「声で分かる。死んでるやつは新人や。生きろ」
生きろと言われても、死ぬほど電話してるのに。
次の番号を押す。コール音が鳴る。
さっきより少しだけ深呼吸が浅い。
「お忙しいところ失礼します、アクシス・リンクの──」
「絶対買わんけど、暇やし相手したるわ」
佐藤は一瞬、救われた気がした。
怒られない。切られない。
それだけで、こんなに心が軽くなるのかと驚いた。
「え、あ、ありがとうございます……?」
「いや、暇つぶしや。どうせ買わんで」
言い方は冷たいのに、声の温度はどこか柔らかい。
佐藤は、ほんの少しだけ笑ってしまった。
「そうですよね……あの、もしよければ──」
「いや買わんて言うてるやろ。ほなな」
電話は切れた。
田中がニヤニヤしながら言う。
「ワンチャンあるんちゃう?」
「ないです!」
「でも話は聞いてくれたやん」
「……まあ、そうですけど」
心のどこかで、
(ゼロではないのか?)
と考えてしまう自分が嫌だった。
──だから、やめられないのかもしれない。
村上が言う。
「佐藤、そういう相手は“優しい地獄”や。期待させて、何もくれへん」
佐藤は受話器を置き、深呼吸した。
まだ十件目。今日のノルマは三百件。
地獄は、まだ始まったばかりだった。
昼になった。
営業フロアの空気は、午前中より少しだけゆるんでいる。
電話のコール音が止まり、代わりにコンビニ弁当の匂いが漂い始めた。
佐藤は机に突っ伏したい気持ちを抑えながら、
コンビニの焼きそばパンを開けた。
食欲はあまりない。
田中がカップ味噌汁をすすりながら言う。
「佐藤、午前で何件いった?」
「……六十件です」
自分で言って、少しだけ嫌になる。
「まあまあやん。新人の頃はそんなもんや」
村上は弁当の唐揚げをつまみながら、
スマホをいじっている。
佐藤は、ずっと気になっていたことを口にした。
「先輩たちって……実際、どれくらい電話して、どれくらいアポ取れるんですか」
田中が「出たな」という顔をした。
新人が必ず一度は聞く質問だ。
「現実言うたるわ」
田中は指を三本立てた。
「まずな、一日三百件かけて、話を聞いてくれるのが十人くらい」
「十人……」
「そっから、アポに繋がるのが一人か二人や」
「……そんなもんなんですか」
「そんなもんや。むしろ良い方や」
佐藤は思わずパンを握りつぶしそうになった。
村上が口を挟む。
「でな、アポ取れても、実際に会ってくれるのは半分」
「半分……」
「で、会ってくれた中で契約してくれるのは、さらにその一割」
佐藤は計算した。
三百件かけて、十人が話を聞き、
一〜二人がアポに応じ、
そのうち半分が実際に会い、
そのまた一割が契約。
つまり──
「……六千件かけて、契約一件いくかどうか、ってことですか」
「そういうことや」
田中は笑っているが、目は笑っていない。
村上が唐揚げをつまみながら言う。
「まあ、俺らは“温かいリスト”も回ってくるから、もうちょいマシやけどな」
「温かいリスト……」
「問い合わせしてきた人とか、セミナー来た人とか。
“買う気ゼロじゃないやつ”やな。
お前が今かけてる“地獄リスト”とは別物や」
佐藤は自分の机の上の紙束を見た。
十年前の名刺の匂いがする、あの紙束。
田中が言う。
「佐藤、お前まだ契約ゼロやろ」
「……はい」
「普通や。新人は半年ゼロとかザラやで」
村上が続ける。
「俺なんか初契約まで四ヶ月かかったしな。
その間、よう“新人さんやな?”って言われてたわ」
佐藤は少しだけ救われた気がした。
自分だけが特別にダメなわけじゃない。
この世界では、これが普通なのだ。
田中が味噌汁を飲み干し、言った。
「でもな、一件決まったら全部報われるんや」
「……そんなもんですか」
「そんなもんや。
三百件の地獄が、一瞬で“まあええか”になる」
村上が笑う。
「ギャンブルと一緒や。
当たった瞬間だけ、全部忘れられる」
佐藤は焼きそばパンをかじった。
味はよく分からなかったが、
それでも、午後の電話に向かうしかない、と思った。
午後一時。
昼休憩のぬるい空気がまだ残っている。
フロアのあちこちで、コーヒーの香りとため息が混ざっていた。
佐藤は、午前の六十件が胸に重くのしかかったまま、
受話器を持ち上げた。
昼休憩で少し回復したはずなのに、
指先はまだ震えている。
「……いきますか」
自分に言い聞かせるように呟き、番号を押す。
コール音が鳴る。
昼食後の静けさの中で、その電子音だけがやけに大きい。
「お忙しいところ失礼します、アクシス・リンクの佐藤と申します」
ようやく、ターゲットにつながった。
スクリプト通りの会話をつなげることができる。
そう思った瞬間、
「そんな仕事して、恥ずかしくないの?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
声は冷たくも怒ってもいない。
ただ、事実を述べるような調子だった。
だからこそ、刺さった。
佐藤の胸の奥が、じわっと熱くなる。
午前中に田中から聞いた数字が頭をよぎる。
六千件かけて、契約一件。
アポすら取れない日もある。
新人は半年ゼロも珍しくない。
恥ずかしいかと言われたら──
まあ、恥ずかしい。
誰にも仕事の話はしていない。
名刺も、まだ実家には送っていない。
でも辞めたら家賃が払えない。
今日もノルマゼロだ。
今月のカードの支払いもある。
「……はい。失礼しました」
受話器を置くと、田中が横目で見てきた。
「お前、今の声、魂抜けてたで」
「抜けますよ……」
「まあ、午後はこんなん多いからな。気にすんな」
気にするなと言われても、
次の番号を押す指が、少しだけ重かった。
佐藤は深呼吸をして、次の番号を押した。
コール音が鳴る。
さっきより少し長く感じる。
「お忙しいところ失礼します、アクシス・リンクの佐藤と申します。」
「マンションの営業ですか?」
淡々とした声だった。怒りも苛立ちもない。
ただ、事実を確認するだけの口調。
なぜ第一声がそれなんだ?
佐藤は一瞬、言葉を失った。
午前中の“新人さんやな?”とは違う。
これは、完全に見透かされている。
最初の一言で、全部終わっている。
「……はい。そうです」
「いりません」
ガチャ。
佐藤は受話器を置き、天井を見上げた。
蛍光灯の白さが、目にしみる。
田中が笑いながら言う。
「初手で見破られるのは、まあまあ痛いな」
「どうしたらいいんですか、あれ……」
「どうもならん。“詰み”」
「違う、って言うたら続けられへんし、
そうです、って言うたら切られてしまう。
あきらめろ」
佐藤は苦笑した。
地獄は、続く。
午後三時を過ぎると、営業フロアの空気はさらに重くなる。
昼食後の眠気が引き、代わりに疲労がじわじわと押し寄せてくる時間帯だ。佐藤は、正論パンチと見破りの連続で、すでに心が半分くらい削れていた。
そんな中、村上が受話器を取った。
姿勢は崩したまま、足を組み、片手でスマホゲームを続けている。
電話をかける気配がまったくない。
「村上さん、午後もかけるんですね」
「まあな。たまには仕事してるとこ見せんと」
村上は番号を押し、コール音が鳴ると同時に、
まるで“決め台詞”のように口を開いた。
「アクシス・リンクの村上です。マンションの営業です!」
佐藤は思わず顔を上げた。
田中も吹き出しそうになっている。
受話器の向こうは、一瞬の沈黙。
その沈黙すら、村上は楽しんでいるようだった。
「……は?」
相手の困惑が、受話器越しにも伝わる。
村上は微笑んだ。
「どうせバレるんでね。最初に言っといた方が楽なんで」
相手は戸惑いながらも、なぜか切らない。
むしろ、少し興味を持ったような声になっていた。
「……まあ、正直でええけど。で?」
「投資用マンションのご提案です。ただ、押し売りはしません。
興味なかったら、今切ってもらって大丈夫です」
「……いや、そこまで言われたら逆に聞くわ」
佐藤は目を見開いた。
田中が小声で言う。
「これが達人や。普通は切られるのに、相手が“聞く”って言うんや」
村上は淡々と説明を続け、
五分ほど話したあと、静かに受話器を置いた。
「アポ取れたんですか?」
佐藤が聞くと、村上は肩をすくめた。
「いや、取れてへん。でも、話は聞いてくれたやろ」
「それでいいんですか」
「いいんや。営業は“話してもらう”だけで勝ちや」
佐藤には、まだその境地が理解できなかった。
でも、村上の余裕は確かに“強者”のそれだった。
同じ仕事のはずなのに、
やっていることがまるで違う。
午後四時。
フロアの空気はさらに重く、
電話のコール音だけが乾いたリズムを刻んでいた。
そのとき、田中が受話器を置いた。
顔が赤い。
どうやら、いきなりガチャ切りされたらしい。
「なんやねん……」
田中は舌打ちし、勢いで折り返しボタンを押した。
(あ、それはまずい)
佐藤は嫌な予感がした。
村上はゲームを止め、興味深そうに顔を上げた。
「いや、お客さん相手にガチャ切りは失礼でしょ!」
フロアが一瞬静まる。
佐藤は息を呑んだ。
受話器の向こうから、落ち着いた声が返ってきた。
「申し訳ありません。それで、ご要件は?」
田中の目が泳いだ。
言葉が出てこない。
「………………」
佐藤は思わず言った。
「いや、そのあとどうするつもりなんですか」
村上が吹き出した。
「田中さん、それもう詰んでるで。
将棋で言うたら、王を自分から敵陣に突っ込ませるやつや」
田中は受話器をそっと置いた。
「……もう帰りたいわ」
「まだ四時ですよ」
「地獄か」
三人はしばらく笑い続けた。
だが笑いながら、佐藤は思った。
(……この仕事、ほんまに地獄やな)
それでも、まだ百件以上残っている。
そう思った、そのときだった。
佐藤の机の電話が鳴った。
会社の代表番号にかかってくる電話は珍しい。
佐藤は反射的に受話器を取った。
「はい、アクシス・リンクの佐藤です」
受話器の向こうから、明るい声が響いた。
「お忙しいところ失礼します!
大都生命の者ですが、保険のご案内で──」
佐藤は固まった。
田中と村上が同時に顔を上げる。
(……不動産会社に、営業電話?)
相手は続ける。
「えーと、その、将来の資産形成に向けて──」
村上が小声で言った。
「佐藤、言え。あれ言うんや」
佐藤は深呼吸した。
午前中、言われたあの言葉。
「……新人さんですか?」
受話器の向こうが一瞬静まり返った。
「えっ……なんで分かるんですか……?」
佐藤は思わず笑ってしまった。
田中は机を叩いて笑い、
村上は親指を立てている。
佐藤は優しく言った。
「声が……」
少しだけ間をあける、
「声が、死んでるからです。
がんばってください」
相手は小さく「はい……」と言って電話を切った。
佐藤は受話器を置き、深く息をついた。
田中が言う。
「お前、ついに“言う側”になったな」
「いや、言いたくて言ったわけじゃ……」
「でも、ちょっとスッキリしたやろ」
「……まあ、ちょっとだけ」
村上が笑う。
「不動産会社に営業電話かけてくるやつは、ほんまの勇者や」
三人の笑い声が、
蛍光灯の白い光に溶けていった。
地獄は地獄のまま。
でも、少しだけ明るかった。
「……さて」
佐藤は再び“地獄リスト”に目を落とした。
「お、佐藤。また顔が死んできたな。ええ傾向や」
田中が空になった缶コーヒーをゴミ箱へ放り投げた。
「生き返るのが一番の無駄ですからね」
佐藤が淡々と返すと、村上がスマホをポケットにしまい、背伸びをした。
「……三百件まで、あと何件や?」
「あと、五十二件です」
「よし。終わったら、その辺の安い居酒屋で『地獄の反省会』な。奢らへんけど」
「そこは奢ってくださいよ、先輩」
佐藤は今日、何度目になるかわからない深呼吸をした。
肺の奥まで冷たいエアコンの風が入り込む。
(受付突破、興味付け、アポ取り)
頭の中で呪文を唱え、次の番号を押す。
受話器を耳に当てると、またあの無機質なコール音が鳴り響いた。
プルルル、プルルル。
いつかこの音の向こう側に、地獄ではない何かが待っているのか。
それとも、地獄がただ深くなっていくのか。
それは、あと五十二回繰り返せばわかることだ。
「お忙しいところ失礼します、アクシス・リンクの佐藤と申します――」
佐藤の声は、先ほどよりも少しだけ低く、そしてどこまでも平坦に、白い営業フロアへと溶けていった。
以上です。明日、創作メモアップします。
https://note.com/kitten89/n/n2ef8d317d5ff
