FIREした無職が「勤労の義務」について考えてみた
教育の義務
勤労の義務
納税の義務
誰もが一度は耳にする、日本国憲法の三大義務。
これを習った小学生の私は、「ん?気のせいか?なんか1つだけ変なのが混じってるぞ」と、思わずにはいられなかった。
そして、そのまま大人になった。
「私は違憲者なのだろうか?」
ときどき、こんな問いが脳裏をよぎる。
私はおよそ10年の会社員生活を経てFIRE(Financially Independence Retirement Early)に至り、今や晴れて無職の身である。
しかし、日本国憲法にはこうある。
すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
義務。つまり、働かない私は、憲法に違反しているのか?
無職の私は、非国民として取り締まられるべき存在ではないか?
今回は、FIRE民の視点から、この「勤労の義務」について少し考えてみる。
私は違憲者
無職である私は、どう考えても憲法の義務に違反している。
義務に違反すればどうなるか。
脱税をすれば逮捕されるし、わが子への教育を放棄すれば罪に問われる。「納税の義務」と「教育の義務」は、厳格に運用されている。
しかしながら、専業主婦(主夫)、リタイアした高齢者、ニート、FIRE民、誰であろうと、働いていなくとも罰則はない。
もはや「勤労の義務」は、ただの倫理規定と化しているのが実態である。
ざっと調べてみたところ、日本以外で憲法に「勤労の義務」や「労働の義務」を掲げている国はそれほど多くない。
代表的なところでは、
韓国
中国
北朝鮮
ベトナム
モンゴル
キューバ
韓国は日本と似たようなものだが、その他は一目瞭然である。
憲法制定時に社会主義的な影響力が強かった国だったり、現在ユートピアだったりする国には、「勤労の義務」が欠かせないらしい。
結局は、そういうこと。真っ赤っかなのです。
となると、いまだ日本国憲法に「勤労の義務」があるのは、なんのためだろうか。
国家がいつでも労働力を確保できるようにするため?
あるいは、万が一の社会主義革命の余地を残すため?
そもそも、憲法に「義務」が含まれていること自体が不思議だ。
義務を定めるのは普通、法律の役割である。
憲法とは、国家権力の濫用を防ぐためのものであり、国民に対して直接的な拘束力を持つべきものではない。
ちなみに、西側の民主主義国家で「勤労の義務」があるのは、イタリア・スペイン・ポルトガルくらいである。
(勝手な印象だが)南欧の「のんびりした」国々に勤労の義務があるのは興味深い。もちろん形骸化しているが。
…と、話がそれたが、結局私は取り締まられない違憲者なのである。
勤労の義務って、いりますか?
上位規定たる憲法ですらゆるゆるなんだから、運用だってガバガバである。
私は会社を辞めたのち、失業給付を受けるために「国営冒険者ギルド」こと、ハローワークへ通った。
失業給付を受けるには、仕事を探すか、仕事を探すフリをしなければならない。
FIRE民である私は本気で職探しをする気など毛頭なかったが、月に2回冒険者ギルドに出向き、
パソコンを5分ほどポチポチして求人検索画面を眺める
「がんばってるんですけど、いい仕事なかったっすわー」と面談で適当に報告する
このルーティンを繰り返すだけで、しっかりとお金が振り込まれた。(当然、ハロワ担当官も私が本気で職探しするつもりでないことに気付いている)
私の場合、月23万円の手当が3ヶ月分支給されたので、投入した時間と労力に対するリターンは、めちゃくちゃよかった。
この世界には2種類の無職がいる、と思っていた。
働きたいけど、働けないひと
働けるけど、働かないひと
ここでは、前者を「受動的無職」、後者を「能動的無職」と呼ぶとしよう。
「勤労の義務を果たすことができない受動的無職には手当てをしましょう」とするために、勤労の義務を前提とするのならまだわかる。
老齢や障害、子育てにより働けない人、解雇を通達された人、家を買った瞬間に配偶者が転勤を命じられ、専業主婦(主夫)を余儀なくされた人などには、救済措置があってしかるべきだ。
・・・・いや、よく考えると、FIRE民だって受動的無職なのではないか。
私は、現行の社会システムでは会社員として生きるに値しないから無職を選んだわけで、心の底から「会社員たぁのしぃいーーー!」だったら勤労を続けていたと思えば、ある意味では「働きたいけど、働けないひと」に該当する。
となるともはや、この世には能動的無職なんて存在しないことになっているのかもしれない。
このような解釈を成立させるために「勤労の義務」があるのではないのか?
でもそれって結局はこじつけで、やっぱり思うのはこの1点。
「勤労の義務って、なくてもよくね?」
そう考えあぐねながら、私は失業給付を懐に収めた。
まあ、失業給付をもらったとて、のちに納める住民税や社会保険料でチャラになるので、実質は一時的な減免措置にしかならないのだが。
石を投げれば無職に当たる
日本国憲法が制定された時代は、職業がアイデンティティの一部だった。
職業=個人の属性であり、人生において不可欠なものだった。
平成生まれの私には実感が湧かないが、戦後の復興期や高度経済成長期では、働けば働くほど豊かさを享受することができたという。
そんな時代の勤労の価値は、今よりもずっと高かったに違いない。
ひるがえって現代。多様な生き方が広がり、個人がいくつもの仕事を掛け持ちできる時代になった。
私は「書面上は」無職だが、実際には家事育児をしたり、執筆したり、株の投資やトレードをしているFIRE民である。
今や「職業」という概念自体が崩れつつある中、本業の有無ではその人を明確に特定することができない。
そして、働いても豊かになれないどころか貧しくなっていく世界では、勤労の価値がどんどん失われていっている。
その事実が、私のようなFIRE民を生み育てている。
これからも「書面上の」無職は増えていくだろう。
いや、高齢化を考慮すれば、無職は大量生産されていくに違いない。
国民が違憲者であふれかえる時代が、もうそこまで来ている。
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旅の途中でお世話になった現地の方に、「〇〇さんからのオゴリです」とビールをごちそうします。