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見返り鬼譚《耳あり芳一外伝》【第八夜】富士川に眠り、風なき道にて(連作短編)

清閑寺の女が語る、夜ごとの鬼譚。
語られるのは、祇園に生きた誰かの結末――
けれどその結末は、ひとつではない。
同じ怪異、異なる結末。
読み手の耳に委ねられた真実。
『耳あり芳一』外伝 “見返り鬼譚”、ここに開帳。


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第八夜 角一と彦七の忠義 其の三
    富士川に眠り、風なき道にて




──ポロン。

夜の底から、ひとつ糸が鳴る。

清閑寺の女が、静かに語り出す。

「人が旅をするというのは、足だけでなく、心を運ぶことでございます。
止まれば追いつかれ、急げば見落とす。
角一と彦七、このふたりもまた、ただ前へと歩くしかございませんでした。
疲れを押し、声を飲み、されど心は黙っておりません。
……今宵は、その静かな声の物語をひとつ」

──ポロン。

◇◇◇◇◇

夜の山道を、ふたりの男が歩いていた。
風は冷たく、林の木々は闇に沈み、道は獣道のように細くなったり広がったりを繰り返す。
踏み締める足音と、荷物の軋む音だけが、眠る山々に溶けていく。

先をゆくは、角一。
長身で背筋の通った男。口数は少ないが、視線は常に遠くを見ている。
その後ろに彦七。背は少し低いが、歩調は揃っていた。
短槍を背に、荷を左右に揺らしながらも、軽口をたたく余裕は残っている。

「……角一」

「あ?」

「今日さあ、ずーっと歩きづめだよな。朝から」

「そうだな」

「いやあ、さすがに足に来るよ、こりゃ。腰も抜けそうだ」
「なら、どこかで火でも焚くか」

「お、いいね。ついにその気になったか」

角一はふと笑みを見せた。

「お前がへばったかと思ってな」
「冗談言わないでくれよ、俺がへばる前にあんたの背中が丸くなってたぜ」

「……見ていやがったな」

「見てたさ。ずっと前をな」

ふたりは無言になり、数歩進んだ。

「……空気、変わったな」

「川の匂いだ。たぶん富士川だろう」

「おお、やっと来たか。富士川! ほんとに通り抜けてきたんだなあ、俺たち」

「まだ途中だ」

「分かってるって。けどさ、ほら、川って聞くと、なんかこう……安心するんだよ」

角一は頷いた。
その顔には、安堵というよりも、警戒を解かない緊張が残っていた。

やがて視界が開け、月光を白く照り返す広い川が現れた。
静かに流れるその水面は、星を映してゆらゆらと揺れている。

「富士川だ」

「こいつは……いい眺めだな」

ふたりは足を止め、川辺の草むらに腰を下ろした。
風はやや冷たいが、木々の間よりはずっと開放的だった。

角一が無言で枯れ枝を集め、彦七が火打ち石を取り出す。

「こっち、頼むぞ」

「あいよ。……おっ、いけそうだ」

ぱちり、と火花が飛び、乾いた葉に炎がうつる。
やがて、赤い焔が、ふたりの間にぽうっと灯った。

「……あったけぇな」

「動き通しだったからな」

「ほんとだよ。さっきなんて、脚が勝手に歩いてるような気がしてた」

角一は干し布を敷いて、ゆっくりと腰を落ち着けた。
荷物を脇に置き、刀をそっと膝に横たえる。

「……先に寝る。交代で見張ろう」
「いいよ。今日は俺が起きてる番にしとく」

「すまん」

「かたいこと言わない。お互い様だろ」

角一は短くうなずいて、火のそばに横になる。
肩の力が抜け、静かに目を閉じた。

彦七は膝を抱え、火を見つめていた。

……風の音、川の音、草のざわめき。
その中に、妙なものが混じっていた。

ザ……ザ……ザ……

まるで、遠くで草を踏みしめる音。
土を歩く裸足のような、しかし隊列のような、一定の足音。

彦七は槍の柄にそっと手をかけた。
火の向こうを、見据える。

だが、誰もいない。

声もない。気配もない。ただ、音だけがそこにあった。

「……気のせいか?」

つぶやいて、肩を落とす。

「いや……違う。いたよな、今……」

あたりを見回しても、川の音と風しか残っていない。
さっきまでの音は、まるで最初からなかったように、空気に溶けていた。

「……まいったな。疲れてると、こんな音まで聞こえるのか」

空を見上げると、雲が裂けて、星がひとつ、またひとつと瞬いていた。

その向こうに――

「……あれ、富士山か?」

夜の闇の中に、うっすらと白い線。
山の輪郭だけが、空に浮かんでいた。

「明日になれば、もっと綺麗に見えるかな……」

彦七は槍をそばに置き、火のそばに腰を下ろした。
角一の寝息が、規則正しく聞こえてくる。

火のぬくもりに包まれながら、
彦七もまた、ゆっくりと目を閉じた。

夜はただ静かに、川の流れとともにあった。



火が静かに揺れていた。

夜明け前の空は、墨を溶かしたような灰色。
遠くの空のふちが、わずかに白み始めている。

「……起きろ、角一」

肩を軽く叩かれ、角一はまぶたを開けた。

「……もう朝か」

「まだちょいと早いけどな。けど、いい朝になりそうだぜ」

角一が身を起こし、体を伸ばす。
寝起きの体に、朝の冷気がしみ込む。

焚き火はまだ残っていた。
薪を足した彦七が、火に手をかざしていた。

ふたりは川辺へ降り、冷たい水で顔を洗った。

「……ひゃあ、目ぇ覚めるな」

「悪くない冷たさだ」

角一が袖で顔を拭い、川面を見つめる。

その視線の先に――

「……見えるな」

「おう。富士だ」

白んだ空に、富士の輪郭がくっきりと浮かんでいた。
朝靄の中、ゆっくりとその姿を現していく。
頂には雪が残り、裾野は霞に包まれている。

「ずっと遠くから見てたが、ここまで近づくと、やっぱ迫力が違うな」

「拝んで損はない山だ」

ふたりは黙って、しばしその姿を見上げていた。

やがて荷を整え、角一が刀を腰に差し直す。
彦七も槍を背に、荷を背負った。

「……腹、減ったな」

「うむ。蒲原に寄ろう。茶屋くらいあるだろう」

「団子と、干物。焼いたやつが食いてえなあ」

「欲張りだな」

「夜通し歩いた男の当然の欲求だって」

ふたりは富士川を後にし、蒲原宿へと歩き出した。



しばらく進むと、道が下りに入り、やがて人の気配が増えてきた。
朝の光が差し始め、家々の屋根が淡く輝いている。

蒲原宿。
駿河の街道に沿ったこの宿場町は、まだ目覚めたばかりだった。

炊き出しの煙が屋根越しに立ち上り、
野良着姿の若者が桶を担いで井戸へ向かっていく。
街道沿いには、つつましくも丁寧に作られた木の建物が並び、
早朝の静けさの中に、人々の生活の音が静かに満ちていた。

「……いいとこだな、ここ」
「ああ。通るだけじゃ惜しいくらいだ」

「けど、腹が鳴る音で風景が飛びそうだ」

ふたりは町を歩きながら、朝食を取れる場所を探す。
やがて、道の端に小さな茶屋を見つけた。
戸口に吊られた布の暖簾が、朝風にふわりと揺れている。

「ここにするか」

「うん、匂いがいい」

戸をくぐると、炭の香りと、焼けた味噌の香ばしさが鼻をくすぐった。
小さな囲炉裏の横で、年かさの娘が団子を串に刺している。

「いらっしゃい。朝早いですねえ。旅の方?」

「ああ。団子を二本ずつと、鯵の干物があれば焼いてくれ」
「かしこまりました」

娘は慣れた手つきで炭を動かし、干物を網に乗せた。

団子には味噌が塗られ、火に近づけられると甘じょっぱい香りが立ち上った。

「いやあ……たまらん。朝の飯って、なんでこうもうまそうなんだろうな」

「身体が素直なんだろう」

「それもあるな」

干物はじりじりと音を立てて焼かれ、脂が炭に落ちて香りが広がる。

「鯵、今朝干しあがったばかりで、ちょうど食べ頃ですよ。
旅の方は歩きっぱなしでしょうから、包みにもしておきます?」

「助かるな。歩きながらでも食えるし」

「じゃあ、あと三枚。包んでもらえるか」
「はい、喜んで」

娘は手際よく焼いた干物を笹の葉で包み、紙で巻いて麻ひもで括った。
その様子を眺めながら、角一と彦七は団子を頬張った。

「……沁みるな」
「うん。味がちゃんと舌に届く」

娘がにこりと笑う。

「富士のおかげです。よく乾くんですよ、ここの鯵は」




「助かった。ごちそうさん」

「うまかったよ。また来るよ、ここ通るときは」

ふたりは干物の包みを荷に収め、茶屋をあとにした。
暖簾が風に揺れ、娘が手を振る。

「お気をつけて。道中、おだいじに」

朝の光が町並みを優しく照らすなか、
角一と彦七は北を目指し、宿場を出た。

「……さあて。あの農場とやらまで、どれくらいあるかね」

「二刻ほど歩くと言っていたな」

「二刻か……また歩くのか……」

彦七は荷の紐を締め直し、口元で苦笑いを漏らす。
その横で、角一は少しだけ背筋を伸ばすように歩幅を広げた。

「……馬を手に入れられれば、次は一気に行ける」

「そりゃあ期待するさ。歩いて京までなんて、あんたでもごめんだろ」

「ああ。歩く旅は嫌いじゃないが、走る理由はある」

「それよ」

町外れの畑を過ぎ、道はゆるやかに山沿いへと入っていく。
木々の合間から朝日がこぼれ、道の端にはススキが風に揺れていた。
小鳥の声が頭上を渡っていく。

「……気持ちのいい朝だ」

「ほんとにね。さっきまでの川の音も、なんだか夢みてえだったな」

彦七がそう言った時、角一がふいに立ち止まった。

「……どうした?」

「……風が、止んだ」

「え?」

ふたりの足もと、ススキの穂が揺れていない。
木々の葉も、ぴたりとその動きを止めていた。

さっきまでの、あの心地よい風が、いつの間にか――消えている。

「……嫌な感じだな」

「……ああ」

ふたりは言葉を交わさぬまま、歩みを速めた。
枯れ葉の道を、音もなく進む。

そのとき。

「……おい」

背後から、かすれた声が聞こえた。

ふたりが同時に振り返る。
だが、誰もいない。

「……気のせいか?」

「いや、今のは……」

ふたりは一瞬、視線を交わし、それ以上は言葉を続けなかった。
歩き出そうとした、そのとき。

「まて……」

今度は、はっきりと。

耳のすぐ後ろに、誰かが囁いたような感覚。
ぞわりと背筋が粟立つ。

「走るか?」

「走ろう」

ふたりは黙って走り出した。
坂道を駆け上がり、草をかき分けて林を抜ける。
やがて、空が開け、風が、戻った。



「……あった。あそこだな、農場」

視界に開けたのは、開けた草地と、数棟の木造の建物。
その奥に馬の鳴き声が聞こえた。

農場の男たちに声をかけ、交渉はすぐにまとまった。
旅の訳は深く聞かれず、角一と彦七は茶色と黒の馬を一頭ずつ譲り受けることになった。

角一は鞍を整えながら、馬の目を静かに見つめた。
彦七は持っていた包みを馬の荷にくくりつける。

「……ふう、助かったな。これでようやく……」

そのとき、彦七が眉をひそめた。

「……あれ?」

腰の袋を探る。
ひとつ、ふたつ、だが――

「……ない。祓い札が、なくなってる」

角一が振り返る。

「落としたのか?」

「……いや、そんな感触はなかった。さっきまで、確かに――」

角一は少し黙して、それから空を仰いだ。

「……富士川と、風の止んだ道。あれから、か」

彦七も、黙ってうなずいた。

「きっと……あれから、守ってくれたんだろうな」

角一は、やや間を置いて言った。

「もう、加護はない」

「……ああ」

ふたりはしばし無言だった。

やがて、角一が手綱を握り、馬にまたがる。

「行くぞ。まだ道は半ばだ」

「あいよ」

彦七も続く。
馬の背に荷が揺れ、朝日がふたりの影を地に伸ばしていく。

その顔に、不安の色はなかった。
だが、札を失ったことの重みは、互いにわかっていた。

言葉にはしない。
ただ、歩みを止めない。
それが、ふたりの旅のかたちだった。

◇◇◇◇◇

──富士の山は見えなくなりました。
代わりに、空には雲が流れております。

札が焼け落ちたその道を、
ふたりは言葉なく、ただまっすぐに進んでいきました。

見えぬ声も、止んだ風も、
もう振り返ることはないのです。

……さて、この先に何が待っておりますやら。

また、次の夜にでも。

──ポロン。



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