耳あり芳一【第三話】白い手②
盲目の芳一と声を出せないミヨが白い手に挑む
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第三話 第二章「鯵吉」
◇
夜の風は、まだ冷たさを帯びていた。
夏の名残が空気に混じる頃、気比の浜の西にある村では、釣り人が一人、浜辺に向かっていた。
男の名は鯵吉。三十を過ぎたばかりの漁師で、頑丈な肩と、ややつり上がった目をしていた。
気性は穏やかで、腕も立つが、いささか頑固なところがあり、ことに釣りに関しては村でも一目置かれる存在だった。
その夜、鯵吉が向かっていたのは、舟隠し岩。
磯釣りの名所として知られた、潮の満ち引きで姿を変える岩場だ。
干潮のときには遠くから歩いて渡れるが、潮が満ちれば道は消え、海に浮かぶ孤島のようになる。
夜の釣りでは、舟で近づき、岩に舟を括りつけて陣を張るのが常だった。
だが近ごろ、その舟隠し岩で奇妙な噂が広まっていた。
「夜釣りに出た者が、戻らぬ」「舟だけが波に漂っていた」「白い手を見た」――。
誰が言い出したかもわからぬ噂話に、村の者たちは半ば笑い、半ば眉をひそめていた。
◇
「なぁ、鯵吉。行くのは今夜でなくてもええじゃろ」
縁側に腰を下ろした妻・およねが、不安げに声をかけた。
細身の体に浅黄色の羽織をまとい、髪を一つに結んでいる。ふだんはあまり口出ししない女だった。
「今夜じゃなきゃ、潮が合わん。明日じゃ遅い」
鯵吉は、そう言って釣り道具を舟に積み込む。
舟は、村の突堤から少し外れた小さな浜に繋がれていた。
松明、糸巻き、餌箱。手際よく仕度を進める様子に、迷いはなかった。
「……せめて、誰かと一緒に行っておくれよ」
「誰かって誰だ。夜釣りに付き合う物好きなんぞ、そうそうおらん」
「わたしが行こうか」
「馬鹿言え。お前を舟に乗せて、波に晒す気はないわ」
そう言って、鯵吉はようやく妻の方を見た。
およねの目は真っ直ぐだった。何かを感じ取っている者の目だった。
だが鯵吉は、それを“女の勘”というひとことで片付けてしまった。
「戻ったら、鰺でも太刀魚でもうまいのを持ち帰るさ。待ってろ」
言い置いて、鯵吉は松明に火を灯し、舟を押し出した。
◇
月はなかった。
雲が空を覆い、星の光さえ心許ない。
松明の赤い火が、舟の舳先を揺らしながら暗い海を切っていく。
舟隠し岩までの道は熟知していた。
村から二町ほど沖合いに出て、西へ斜めに漕ぐ。やがて右手に巨石の陰が現れ、舟を寄せれば、小さな入り江が現れる。
海は不気味なほどに静かだった。
波の音も、風の音も、まるで眠ってしまったように消えていた。
ただ、櫂の水音と、松明の炎が焦げる微かな音だけが、夜の中で鼓膜を打つ。
やがて舟隠し岩が見えてきた。
黒々とした巨岩が、海の中から突き出ている。
火の明かりが岩肌を照らし、苔と塩で滑らかに磨かれた曲線が浮かび上がる。
舟を岩のくぼみに寄せ、縄でしっかりと括りつける。
いつもの釣り場だ。鯵吉は岩場に登り、竿を立て、仕掛けを海へ投げ込んだ。
一投目。あたりはない。
二投目。餌も残ったままだ。
松明の炎が小さく揺れる。岩壁に映る影が、少しだけ歪んだように見えた。
ふと、背後から、声がした。
「……こちらへ……」
女の声だった。
小さく、かすかに、耳の奥で囁かれるような声。
鯵吉はぎょっとして後ろを振り向いた。
岩陰に、なにかがある。
いや、“誰か”がいる。
松明をかざす。すると、そこに――
白い手があった。
ひときわ白く、なめらかで、娘のように若々しい手。
それが、岩の影から、まるで差し出すように浮かんでいた。
「……こちらへ……はやく……」
また声がした。
鯵吉は、恐怖よりも先に、咄嗟にその手を掴んでいた。
――ぬるり。
まるで濡れた昆布のような感触。
その瞬間、ぐんと腕を引かれた。
「うおっ……!」
鯵吉が踏ん張る間もなく、足元が滑り、身体ごと引きずられた。
舌のようなものが足を絡め取り、背を締めつけてくる。
「……およ……およね……!」
言葉が喉の奥で潰れる。
暗闇の中、聞こえたのは――
ガリッ。
ゴリゴリ。
グチュ、ガリ……。
骨を砕く音。肉を裂く音。
舟に残された松明が、波の揺れに合わせて、かすかにきしんだ。
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