見返り鬼譚《耳あり芳一外伝》【第十夜】山女魚と、鈴の音(連作短編)
清閑寺の女が語る、夜ごとの鬼譚。
語られるのは、祇園に生きた誰かの結末――
けれどその結末は、ひとつではない。
同じ怪異、異なる結末。
読み手の耳に委ねられた真実。
『耳あり芳一』外伝 “見返り鬼譚”、ここに開帳。
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第十屋 角一と彦七の忠義 其の五
山女魚と、鈴の音
◇
ポロン……
風が鳴るのは、枝を揺らすせいではなく
枝が揺れるのは、風のせいばかりでもなく──
夜の峠にて、鬼が出たわけではございません。
人が喰われたわけでも、血が流れたわけでも。
けれど確かに、ひとつの心が揺れました。
あたたかなものに触れ、
やさしい言葉に包まれ、
ふと、旅の足を止めたくなった──
それが怪異でなければ、何と申しましょう。
鈴鹿の山には、昔から女の噂がございます。
天女とも鬼女ともつかぬ、風とともに現れては、人の行く先に影を落とす。
今宵の語りは、その女が出たとも出なかったともつかぬ、峠の一夜。
それでは、お耳をどうぞ──
ポロン……
◇
桑名の朝は、まだ冬の名残を引きずっていた。
霞む陽の下、角一と彦七の二騎が、街道をゆるりと駆けてゆく。
馬の歩みは軽く、背に積んだ荷も少ない。だが、その顔つきは急ぎの気配を隠さぬ。
「……三日で京までたどり着く。行けるな、彦七」
「行けますとも。馬もまだ元気です。人の方がくたびれてなけりゃ、ですけどね」
道の両脇には、やがて山の気配が濃くなる。
風が変わる。肌を撫でる空気が、里のものとは違っていた。
そのとき、ひとりの老婆とすれ違う。腰を曲げ、薪を背負いながら、ふたりにぽつりと語る。
「峠には……気をつけなされよ。あそこは姫が出るさかいに」
「姫、ですか?」
「鈴鹿の姫さまよ。美しいけんど、油断なさるな。
天女とも山の鬼とも言われる。笑うて道を教え、知らぬ間に足をとらす。
鈴鹿で迷うたら、もう帰れん──そう言われとりますでなあ」
角一は言葉少なに礼を述べ、彦七がにこやかに手を振った。
ふたりの背を、老婆の視線が、いつまでも追っていた。
そして道は上りに入る。鈴鹿峠。
かつての旅人たちが、祈り、歯を食いしばって超えた、鬼門の山道。
空はすでに、あかね色を含み始めていた。
「急ぐぞ、日が落ちる前に峠を越す」
「はいはい、角一さんはせっかちで助かりませんな。
でもまあ……気持ちはわかる。姫さまには会いたくないですからね」
彦七が笑ったその声も、峠の木々に吸い込まれ、やがて消えた。
◇
峠道はねじれ、黙りこくっていた。
杉の梢が風を孕み、細く長く、誰かの息遣いのように揺れる。
角一と彦七、ふたつの影が、静かな山を登ってゆく。
馬の足音も、ここではなぜか遠慮深い。
「……角一、日が傾いてきたな」
「まだ間に合う。京までは一刻でも早く」
ふたりの足がそろって止まったのは、鈴の音が聞こえたからだ。
──チリ……
乾いた枝のこすれるような、小さな音。
だが、それは確かに鉄の鈴の鳴る音だった。
チリリ……チリン……
続けざまに、数を増していく。三つ……いや、三人分。
「……角一」
彦七の声が沈む。角一は打刀の柄に手を置いた。
そのまま、ふたりは岩陰を警戒しながら歩を止める。
やがて現れたのは、若者。十代後半か、三人の男たちが、くすんだ着物に乱れた髪をなびかせて立っていた。
それぞれの腰に、ちいさな鈴が括りつけられている。
それが歩みに合わせて、チリリ……と音を立てていた。
「旅人さん、お急ぎのところ悪いね。ここ通るなら、通行料ってことで──」
彦七がにやりと笑う。
「なんだなんだ、峠道で通行料とは、粋なことを。
……親玉の爺さんは留守か?」
「三人だけでやってまして」
その口ぶりも、態度も、軽い。風に乗って出てきたような、そんな気配だった。
角一が刀の柄に力を込めかけたが、彦七が片手でそれを制した。
「まかせろ。こいつら、可愛げはある」
ふっと一息吐いてから、彦七が一歩踏み込んだ。
短槍は背負ったまま。かわりに、手刀ひとつで動いた。
ヒュッ。
一人の盗賊が浮いて、地面に背中から落ちた。
他の二人も、反射的に身構える間もなく、足を払われ、尻もちをついた。
「いってぇ……兄さん強すぎ……」
「よせ、ケンカはもうやめとこうや……」
「おまえらなぁ」
彦七がしゃがみこみ、笑いながら言う。
「鼻を真っ赤にして、鈴鳴らして、天狗か何かのつもりか?」
盗賊たちは、怒るでもなく、照れるでもなく、まるでいたずらが見つかった子供のように笑った。
「兄さんら、坂の向こうに行くんでしょ? 宿、ありますよ。あったかいとこが」
「宿?」
「ちょっと先に。一軒、灯りがあるはず」
「ふむ」
角一は無言のまま様子を見つめていた。
彦七が立ち上がり、手を払って泥を落としながらつぶやく。
「もういい、行くぞ。こいつらは風みたいなもんだ」
三人の盗賊は、再びふざけるように笑いながら、林の奥へ消えていった。
彼らの腰の鈴が、風に乗って──
チリリ……
最後に、もう一度だけ、鳴った。
◇
峠を越えた先、視界がわずかに開けた。
梢の隙間から淡い灯が覗く。
「……あれか」
角一が馬の手綱を引きながらつぶやく。
「宿の灯にしちゃ、早ぇ気もするがな」
彦七が笑い、馬の鼻先を軽く撫でた。
山の湯気が立ちのぼる。霧とも湯けむりともつかぬ香が、足元をくぐってゆく。
見えてきたのは、小さな宿だった。
藁葺きの屋根は年季が入り、軒下には小さな木の札に「湯の宿」とある。
「坂下宿……には、まだ届いてないようだが」
「……だが、あれが宿なら充分」
馬をくくりつけると、ふたりは玄関の戸を叩いた。
ギ、ギィ──
引き戸が開いたその先に現れたのは、包丁を握ったままの女だった。
年のころは二十を越したばかりか、栗毛の髪を後ろで束ね、白い頬に火のような紅が差していた。
「あら……旅のお方? どうぞ、こちらへ。すぐに夕餉を」
彦七が軽く笑って一礼する。
「盗賊が出ると聞いていたが、大丈夫かね、嬢さん」
「ええ、よく聞かれます。けれど、大丈夫。……ここは、守られてますから」
そう言って、包丁を手早くまな板に戻し、女は足音軽く台所へ引っ込んだ。
角一と彦七は顔を見合わせ、どちらからともなく笑った。
「……あやしいな」
「……だが、湯けむりの香りは、本物だ」
そのとおりだった。
奥から案内された湯場には、蒸気がほのかに立ちこめていた。
岩肌から湧き出る湯は透明で、やや熱め。まぎれもなく天然の湧き湯だ。
「ふぅ……極楽とは、このことだな……」
彦七が湯に浸かり、肩まで沈む。
「角一も、湯ぐらいは素直に楽しめよ」
「……山の気配は消えてない。気を抜くな」
口ではそう言いながらも、角一もその背を湯に預けた。
旅の疲れが、ゆっくりとほどけていく。
──しばらくして、戸がガラリと開いた。
「先客失礼しまーす……」
湯煙の奥から現れたのは、先ほど峠で出会ったあの三人だった。
盗賊の若者たちは、気まずそうに笑いながら入ってきた。
「さっきはどーも。もう戦いは御免ですよ」
「ここ、姉貴の宿でして……へへ」
「おとなしく、湯に入るだけっすから」
「……なんだ、ここはおまえらの根城か」
角一の声に、若者たちは慌てて首を振る。
「いえ、姉貴がやってるだけで、俺らはちょっと手伝ってるだけで……」
彦七は笑って言った。
「まぁいいさ。おまえら、湯には罪はない。……ただし、悪さはするなよ」
三人はぴしっと背筋を伸ばし、深くうなずいた。
湯けむりの中、どこか可笑しくも奇妙な、静かな夜が更けてゆく。
◇
翌朝。
山の冷気はまだ肌に残っていたが、湯宿の朝は静かに明けていた。
戸を開けると、湯けむりとともに杉の香りが流れこむ。
炊き立ての白米の匂いが鼻をくすぐり、角一と彦七の腹が自然と鳴った。
「おはようございます」
台所から、娘・りんが笑顔をのぞかせる。
髪をゆるく束ね、割烹着のような白布をまとっている。
「朝餉(あさげ)、お出ししますね」
そう言って、囲炉裏端に木の膳が並べられた。
陶器の皿に盛られたのは、山女魚(やまめ)の塩焼き。
皮は香ばしく焦げ目がつき、白い身がふっくらと割れて湯気を立てていた。
添えられた大根おろしが、それにほどよい清涼を添える。
湯気の立つ味噌汁には、山菜と豆腐が泳いでおり、香りは控えめながら深く。
そして、炊き立ての白飯。木の蓋を開けた瞬間に、湯気とともに立ち上る香りは、山の幸そのものだった。
「これは……贅沢すぎる」
彦七が唸りながら箸を持つ。
「塩加減も抜群だ。りん殿がすべて?」
「ええ、弟たちも少し手伝いましたけれど」
りんははにかむように微笑んだ。
「ちょっと悪さをすることもありますけど、根はまっすぐなんですよ。山女魚(やまめ)も弟達が、今朝釣ってきました」
「……なるほどな」
角一は味噌汁を啜り、頷いた。
そのとき、ふと、りんがふたりのほうを見つめた。
その瞳は、湯けむりの向こうに何かを見ているように、どこか遠かった。
「……ここにずっといても、いいんですよ」
ぽつりと、そう言った。
「毎日、温泉に入れますから──」
その声は甘やかで、どこか夢のようだった。
ふたりは一瞬、箸を止めた。
湯の温もりが、まだ背中に残っていた。
だが──
角一は静かに箸を置いた。
「……お気持ちはありがたい。だが、我らには、向かう先がある」
彦七も笑いながら茶をすすった。
「そうそう。俺たち、のんびりは下手なんでな。湯のぬくもりだけ、持っていきますよ」
りんはほんの少し寂しげに笑い、それでも明るく頷いた。
その背に、どこか鈴の音に似たものが揺れていた。
◇
ふたりが馬の背にまたがり、湯宿をあとにしたのは、朝の陽が杉の梢を白く照らしはじめたころだった。
坂は緩やかで、道脇には昨夜と同じように霧がたなびいている。
鳥のさえずりが、どこか遠くでこだました。
湯宿に背を向けながらも、角一と彦七の背中には、まだ湯のぬくもりがじんわりと残っていた。
「……角一」
「なんだ、彦七」
「……夢みてぇだったな」
彦七が馬のたてがみを撫でながら、ぽつりとこぼした。
「鼻の赤い盗賊、姉貴に温泉、朝飯に……鈴の音」
「……全部、うまく出来すぎてやがる」
角一は小さく笑った。
「だが、湯は確かに温かった。山女魚(やまめ)も、うまかった」
「それだけでも、いいじゃねぇか」
ふたりは再び黙り、坂道をくだってゆく。
数歩、馬を進めたところで──
角一が、ぽつりと言った。
「……あれは、夢だったのかもしれぬな」
その言葉が風に乗った瞬間、
──チリン。
背後の木々の向こう、遠くから微かに、鈴の音が聞こえた。
ふたりは振り向かず、再び前を向いて馬を進める。
そして、静かに霧の中へ消えていった。
◇
ポロン……
鈴の音、赤き鼻、包丁持った湯宿の娘。
それが幻か、現か。
天女か、鬼女か、姫か──
誰も確かめようとせぬまま、
坂の霧は静かに閉じてゆきました。
けれど、ただひとつ、確かなことがございます。
......あの夜。峠では、誰も喰われなかったのです。
と、清閑寺の女は
ふふふ......。
とふわり笑い、
琵琶を、そっと、静かに置いた。
──ポロ……ン。
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