安倍家岸家考③(安倍家に仕えた二人の女性)
安倍家の内情を知る上で欠かせない縁深い人物に寛信・晋三兄弟の養育係であった久保ウメがいる。
久保ウメの証言は野上忠興と七尾和晃のインタビューによってそれぞれ知ることができる。両者のインタビューを元にした記述と方向性については後で述べるとして、まずは野上の著作(①p55~57)から久保の来歴を紹介する。
久保ウメの実家は晋三の父安倍晋太郎と同じ山口県油谷町(現在は長門市)で、ウメの父親は晋太郎の父・寛と交流があった。ウメは幼い頃は東京の叔父の元で暮らしていたが、戦争激化で長門市に疎開し、県立深川女学校(現・県立大津高校)に入る。このとき知り合った同級生が元衆議院議員・田辺譲の長女でのちに岸信介の長男・信和の妻となる仲子であり、ウメの人生を大きく変える。
女学校卒業後一旦東京へ出るも再び故郷に戻り保母をしていたが、再び仲子との交流が始まる。仲子はすでに結婚しており、宇部興産に勤めていた夫とともに宇部市に住んでいたが、その後信和が東京へ転勤する際にウメに上京を勧める。
ウメは上京後証券会社に勤めていたが、ちょうど岸信介が総裁選を戦っていた頃、仲子から岸の筆耕などの手伝いをしないかと誘われ二つ返事でこれを受ける。ウメは南平台の岸邸に通うようになるが、そのうちに住み込みとなり、食事は岸家、寝起きは安倍家という生活に変わる。前回紹介した「毎日グラフ」キャプションの「3人の家政婦と3人の書生」のうちの一人がウメであったかもしれない。
この「毎日グラフ」記事の直後、晋太郎が毎日新聞を辞め、岸外務大臣秘書(石橋湛山病気引退後は岸内閣の総理秘書)となったことで多忙となった晋太郎・洋子夫妻の代わりにウメは寛信・晋三の世話を任されることになる(野上③p19)。以後、成人するまで二人の養育係を務めることとなり、安倍・岸両家と浅からぬ縁を持つウメは「安倍家のすべてを知る女性」(七尾⑥上p52)と呼ばれる存在となっていった。
最初の主要参考文献紹介の章で触れたとおり、久保ウメのインタビューは野上忠興のものと七尾和晃のものとで二種類ある。発表は野上の①が2004年、七尾の⑥は2006年である。発表には2年の差があるが、インタビューの時期について野上は①の段階では示していなかった。七尾の⑥には2003年秋とあり、2004、2005年の夏にも会っていたように読みとれる。野上は②(2006年8月)でもウメのインタビューを引用しているがこの際も時期や場所については示していない。七尾の⑥の発表時期(2006年5~7月号)は野上の②の出版の直前で、その後七尾は2007年に⑥をベースにした著作を発表する。
2015年。野上は③でようやくインタビュー時期を明記する。野上の久保ウメのインタビューは2003年7~8月に油谷湾沿いのホテルで2回、その際に一緒に安倍家と晋太郎の墓参りにも同行し、後に電話の追跡取材も行ったとある(野上③p19)。久保ウメのインタビューの時期については、野上と七尾では1~2ヶ月程度の差しかなかったことになる。
七尾の⑥によると、2003年9月中旬、安倍家の墓所にある墓参者記帳用のノートにある署名を見つけてウメの存在を確認したという。野上は7~8月のインタビューの際ににウメの墓参に同行したと書いているが、その際の署名であろうか。七尾がどうやってウメに近づいたかは書かれていないが、署名を確認してからそれほど間を置かずにウメへの接近に成功したようである。インタビューが「このたびは安倍晋三さんの幹事長就任、おめでとうございます」(⑥上p53)から始まっており、安倍晋三が幹事長になったのが2003年9月であることからも時期が推測される。
野上が2015年になってわざわざインタビュー時期と場所を示すようになったのは七尾の記事(とその後の著書)の書きっぷりから意識せざるを得なくなったからではないかと思われる。⑥の記事の副題が「安倍家のすべてを知る女性はなぜ『幽閉』されたのか」であり、これでは野上としてはウメへの取材は最低限公正な手段をもって行われたものであることを示さない訳にはいかなくなる。
七尾の⑥ではそもそも2003年に故郷山口の油谷(安倍家の実家でもある)に戻ってきている時点でウメは存在が秘されていた、という見立てになっている。七尾は兄からもウメが帰郷していることを明かしてもらえず、安倍の元秘書にウメと会ったことを話すと焦りと驚きを隠さなかったと書いている(七尾⑥上p59)。そして⑥の執筆の2006年、すなわち安倍晋三が総裁選に出る年に突然ウメは入院させられ関係者以外面会謝絶となってしまったとある(七尾⑥上p49)。何とか入院先を割り出すも病院側から親族以外の面会不可として門前払いされてしまったという(七尾⑥上p51)。
野上の①と②はいわゆる(カギ括弧つきの)「政治家の本」という側面があることは否定できない。本人も③で当時は未来ある政治家に「期待感を込めて『甘味料』を加えた」と認めている。しかし、だからといってウメに証言を強要するような取材をしていたのではないかと邪推される可能性を放置しておく訳にはいかない。実際、野上の③の出版直後に七尾は再びほぼ同内容の著書を出しており、予防線は無駄ではなかったことになる。
ただ野上は七尾の記事と著書について名指しで否定するようなことは書いていない。七尾の記事にはウメの少々危なっかしい証言も載っているが、野上のインタビューと内容的に重なる点も少なくなく、のちには誰もが知ることになる安倍の持病について触れられているなど、まったく根も葉もないことが書かれている訳でもない。
七尾の記事と著作は安倍晋三の乳母の証言ということを看板に書かれてはいるが、晋三少年についての印象深い証言はそれほど多くない。これから総裁選を戦おうかという政治家の健康不安(「晋ちゃんは内蔵が弱いから」⑥上p53)を言われたのはかなり不都合であったろうが、当時はそこまで深刻な問題として捉えられている感じはない。さほどネガティブに語られていない反面、魅力ある人物像が浮かび上がってこないところがウメの晋三評の核心であるが(この点は別章で改めて触れる)、これでは雑誌記事としてのセンセーショナリズムには少々欠ける。ウメが安倍家、特に洋子によって「幽閉」されている、という筋立てがその物足りなさを補うに足るかどうかは微妙であるが、七尾の記事はそういう構成になっている。
「幽閉」を事実と断言するのは正直難しいように思えるが、七尾の記事に洋子にとって都合の悪い証言が少なくないのはたしかである。一つ上げると、ウメは洋子の「際どい交友関係との遊行」(七尾⑥下p158)にも同行することがあり、とある人物(最近五輪問題で世間を騒がせているあの実業家の弟)の自家用飛行機で云々という話が出てくるなど令和の現在に読み返すとかなりスリリングである。七尾がウメを「知りすぎた女」(七尾⑥下p158)と表現するのは少々大袈裟ではあるが、そう見立てる所以は分からなくもない。
七尾の記事にはもう一人安倍家を深く知る女性が紹介されている。それは安倍(晋太郎)事務所で長年金庫番として知られた元秘書で、2005年の暮れに写真週刊誌記者が洋子とこの女性が六本木で会っているのを見たというのである。この元秘書もウメ同様油谷出身であり、安倍家は晋太郎と同郷の女性二人に支えられていたことになる。二君に仕えずなのか洋子との折り合いがつかなかったのかは分からないが(七尾の記事では後者を推測している)、この女性は秘書を辞め、「港区内のマンションで蟄居した余生を送ってい」(七尾⑥下p151)た。この密会(?)について七尾は「下衆の勘繰り」と断った上で、「晋三の自民党総裁出馬」前に「過去の話が掘り返されないように、接触して釘を刺しているのではないか」(七尾⑥下p151)と憶測している。
七尾の記事はあくまでも目撃情報と憶測までであるが、この女性であろうと思われる人物には青木理が取材している。青木の④によれば、元秘書は「寛や晋太郎と同じ旧・日置村の出身で、実に25年の長きにわたって晋太郎の秘書を務めた82歳の女性」(青木④p204)であるという(年齢は2015年の取材時のもの)。日置村はのちに周辺の村々と合併して油谷町となる。元秘書は「都内のマンションにひとりでひっそりと暮らし、これまでにメディアの取材に応じたことは一度もな」(青木④p205)かったが、「絶対匿名を条件」に青木の取材に応じた。秘書は晋太郎が亡くなったときに辞めたという。ウメの父親がそうであったように、元秘書の父親も寛の時代からの地元の支援者であったそうだ。
安倍家には晋太郎と同郷の二人の女性が縁あって仕えていて、役割はやや違うがそれぞれが安倍家のことを深く知っていた。そして晋太郎の死とともに二人とも安倍家とは距離を置くようになった、ということについては間違いないと思われる。その背後に見え隠れする洋子の存在については追々検討していくことにする。
(つづく)
