作業療法士16年の父親が、7歳の娘に泣かされた4つの瞬間
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はじめに
作業療法士として16年、特別養護老人ホームで働いている。
仕事では、80代90代の利用者さんの最期に立ち会うことも多い。人の人生の終わりを、何十回も見てきた。
そんな私が、家に帰ると7歳の娘の父親になる。
正直に言うと、私は娘の前ではよく泣く。
利用者さんの看取りでは、淡々と仕事をする。家族の方が泣いていても、私は冷静に体を整え、清潔を保ち、最期の時間を整える。それが作業療法士としての私の仕事だ。
でも、娘のことになると、なぜか涙が出る。
それも、特別な大きな出来事ではない。むしろ、他の親から見たら「そんなことで?」と思うような、ささやかな瞬間で、私は涙を流してきた。
今回は、7年間の父親人生の中で、私が泣かされた4つの瞬間を記録しておきたいと思う。
これは娘への手紙であり、いつか娘が大人になった時に読んでほしい記録でもある。
第1の瞬間:3歳、「やまのおんがくか」を歌う娘
最初に泣かされたのは、娘が3歳の時、こども園の発表会だった。
娘は10月に3歳になり、その月にこども園に入園した。発表会は12月。つまり、入園してたった2ヶ月後の本番だった。
私はこの発表会のために、中古のビデオカメラを買っていた。父親としての"はじめての記録"を、ちゃんと残したかった。
会場に着いて、ステージからそれほど遠くない位置に三脚を立てた。心臓が少し速くなっていたのを覚えている。
娘の役は「りすさん」だった。
不思議なことに、娘はステージに上がっても落ち着いていた。周りには泣いてしまう子もいた。入園して2ヶ月、まだ不安だらけの時期に、ステージに上がって泣かない3歳児がどれほど立派か、親なら分かると思う。
りすさんの役を演じきった時点で、私はもう胸がいっぱいだった。
でも、本当に涙が出たのは、その後だった。
劇が終わって、子どもたちが舞台で「やまのおんがくか」を歌った。
娘は鈴を握りしめて、必死に歌っていた。
ちゃんと鈴も鳴らしていた。歌詞も間違えなかった。3歳になったばかりで、入園2ヶ月で、ステージの上で、鈴を鳴らしながら歌う。
それを見た瞬間、自然に涙が出てきた。
「こんなに立派にやってるんだ」
ビデオカメラのファインダーがにじんで、よく見えなくなった。
特養で看取りの場面でも泣かない私が、3歳の娘の鈴の音で泣いていた。
第2の瞬間:年中のかけっこ、立ち上がった娘
2回目は、娘が年中の時、10月の運動会だった。
秋晴れの気持ちいい日だった。私は入場ゲート横の観覧場所で立ち見をしていた。三脚にビデオカメラをセットして、娘の出番を待っていた。
かけっこのスタートが切られた。
娘がトラックのコーナーに差しかかった、まさにその序盤。
派手にこけた。
手をつくこともできず、体ごと、まるでヘッドスライディングのように、地面に突っ込んでいった。
ファインダー越しに見ていた私は、一瞬、息が止まった。
「あっ」と声が出たかもしれない。
周りの保護者からも、思わず「あ〜」というどよめきが上がった。
でも、娘はすぐに立ち上がった。
派手なこけ方だったから、私の方がびっくりしていた。痛くないはずがない。手もつかずに体から突っ込んだのだから、絶対に痛い。
それなのに、娘は泣かなかった。
顔を歪めることもなく、立ち上がってまた走り出した。表情は、こけたことなんて気にしている素振りもなく、ただ一生懸命にゴールへ向かっていた。
周りの保護者から、大きな拍手が起きた。
順位は、もちろん最下位だった。
でも、私の目からは、もう涙が止まらなかった。
立ち上がって、必死で走っているあの小さな背中を見ていたら、自然に涙が出てきた。
ファインダーが、また、にじんで見えなくなった。
私はビデオカメラを構えながら、こっそり涙を拭った。
順位なんてどうでもよかった。
こけても泣かずに、最後まで走りきる。それを4歳が、誰に教わるでもなくやってのけた。これは、勝つことよりもずっと尊いものを、娘が見せてくれた瞬間だった。
ゴールしてきた娘の頭を撫でながら、私はこう言った。
「よく頑張ったな。痛くないか?」
娘は「うん」と短く答えた。
それだけだった。
でも、私にとってこの「うん」は、特養で何百回と聞いてきたどんな言葉よりも、強く心に残っている。
人は、転んだ時にどう立ち上がるかで決まる。
特養で100人近い人生の最期を見てきた私は、知っている。最期まで穏やかに過ごせる人と、最期まで何かを抱えたままの人の違いは、人生の中で何度「転んでも立ち上がってきたか」に表れている。
4歳の娘が、その最初の一歩を、運動会のトラックで見せてくれた。
私が父親として一番泣かされたのは、間違いなくこの瞬間だ。
第3の瞬間:6歳、祖父が作った鉄棒で回れた逆上がり
3回目に泣かされたのは、娘が6歳の時、年長の運動会の練習中だった。
年長の障害物競走には、逆上がりの種目があった。
娘はその2ヶ月くらい前から体操教室にも通っていた。でも、逆上がりだけはどうしてもできなかった。
腕の力が足りないのか、踏み切りの推進力が弱いのか。何度も挑戦するけれど、体が鉄棒の上まで上がってこない。
そこに登場したのが、私の父——娘にとっての祖父だった。
父は、コーナンで木材を買ってきて、家の前にうんていと鉄棒とブランコを手作りで組み立ててしまった。
「孫のために」というのは、口では言わない人だった。ただ黙々と作っていた。
それだけでは推進力が足りないと分かると、駆け上がるための補助板まで作ってくれた。
家の中でも練習できるようにと、私と妻は室内用の鉄棒を買ってきた。
朝起きて練習する。保育園から帰ってきて練習する。お風呂に入る前に練習する。
思えば娘は、3歳から3年間スイミングを続けてきていた。6歳で体操も始めて、何かを毎日コツコツ積み重ねるという習慣は、すでに娘の中に根づいていたのだと思う。
練習を重ねるうちに、3回に1回はできるようになっていた。
迎えた運動会本番。
——できなかった。
先生に手伝ってもらって、ようやく1回まわった。
でも、私は別にがっかりはしなかった。
正直に言うと、私は娘に「できるようになってほしい」とは思っていない。逆上がりができても、できなくても、どちらでもいい。
ただ、毎日鉄棒に向かっている娘の姿を、ずっと隣で見てきた。
できなくて悔しそうな顔も、3回に1回できた時の嬉しそうな顔も、全部見てきた。
私にとっては、運動会本番で「できる/できない」よりも、その手前にある「やり続けている」ことの方が、ずっと尊かった。
だから、運動会で先生に手伝ってもらいながら回った娘を見ても、私はただ、必死に応援していた。
そして、娘はそこで諦めなかった。
運動会の後も、家の鉄棒で練習を続けた。
ある日、家の中の鉄棒で、誰の補助もなしに、初めて自分の力だけでくるりと回った。
その瞬間、家にいたのは私と妻と娘の3人だった。
私がたまたま鉄棒で逆上がりをして見せた直後だった。娘は「やってみる」と言って、必死に飛びついて、そして——回った。
「できた!」
娘の声が、家中に響いた。
私は、また泣いた。
祖父が作った木の鉄棒、補助板、室内用の鉄棒——家族みんなで応援してきた、その積み重ねの先に、娘は自分の力でたどり着いた。
家族みんなで感動した、あの瞬間。
特養で私が大切にしている「意味のある作業」という考え方がある。人にとって意味のある作業は、その人の人生そのものを支える力になる、というOTの基本理念だ。
6歳の娘にとっての逆上がりは、まさに「意味のある作業」だった。
そしてその意味は、祖父が作った鉄棒の木の感触と一緒に、娘の中に一生残っていくのだと思う。
第4の瞬間:7歳、気づいたら跳び箱9段を跳んでいた
4回目は、つい最近の話だ。
娘は体操教室に通っている。学校では5段までしか跳ばせてもらえない。安全上の理由だろう。
でも、体操教室では違う。
6歳の頃、跳び箱は3段を跳ぶのがやっとだった。
小学校1年生の夏には5段か6段くらいまで跳べるようになっていた。
そして、気づいたら9段を跳んでいた。
正直に言うと、私はいつ娘が9段を跳べるようになったのか、正確な瞬間を覚えていない。
毎週通う体操教室で、少しずつ段数が上がっていって、ある日、先生から「9段、跳べましたよ」と聞かされた。
「えっ、9段?」
私は、自分の声がひっくり返ったのを覚えている。
大人の男性が普通に跳んでも、9段はかなり高い。それを7歳の女の子が、助走をつけて、踏み切って、両手をついて、空中で体を伸ばして、向こう側に着地する。
体操教室で実際に跳ぶ姿を見せてもらった。
軽々と、と言ったら嘘になる。娘なりに必死だった。でも、確かに、9段の上を娘の体が飛び越えていた。
私はまた、目頭が熱くなった。
「気づいたら跳べていた」
このフレーズが、何より娘の努力を物語っていると思う。
派手な瞬間ではない。劇的なエピソードもない。
ただ、毎週、休まず、3段から、4段、5段、6段、7段、8段、そして9段。
階段を一段ずつ登るように、娘は跳び箱の段数を上げていった。
私はその過程のほとんどを、ただ送り迎えするだけだった。
でも、その「ただ送り迎えする」ことの中に、父親としての時間がぎゅっと詰まっているのだと、9段を跳ぶ娘を見て気づいた。
おわりに:娘から教わった、本当に大切なこと
ここまで、娘に泣かされた4つの瞬間を書いてきた。
3歳の発表会で鈴を鳴らした娘。 4歳のかけっこで、こけても立ち上がって走りきった娘。 6歳で、家族みんなの応援の先に、自分の力で逆上がりを決めた娘。 7歳で、気づいたら跳び箱9段を跳んでいた娘。
どれも、世間から見たら「普通の子どもの成長」かもしれない。
でも、私にとっては、特養で見てきたどんな立派な人生にも引けを取らない、尊い瞬間だった。
娘は今、体操、水泳、合気道を習っている。
振り返ってみると、3歳から5歳まではスイミングだけ。6歳でスイミングに加えて体操と合気道が始まり、週4回の習い事になった。小学校1年生でスイミングの選手育成クラスに入ってからは、スイミング3回、体操2回、合気道1回で、週6回。
合気道は、年長で「武道を習いたい」と本人が言い出した。私には少し柔道の経験があり、妻は剣道2段。そういう影響もあったかもしれない。でも一番のきっかけは、娘が大好きな名探偵コナンに出てくる、和葉ちゃんが合気道をしていて「かっこいい」と言ったことだった。
合気道は今、5級に合格した。準5級も5級も、ちゃんと取った。
不思議なのは、どの習い事も、病気以外で休んだことがないということだ。
「休みたい」と言ったこともない。
どれも、自分から「やりたい」と言って始めたものだから、続いているのかもしれない。
才能のある子、という感じはしない。むしろ、努力の子だ。
正直に言えば、私は娘に何かを期待しているわけじゃない。
逆上がりができてほしいとも、跳び箱9段を跳んでほしいとも、合気道で黒帯を取ってほしいとも、思っていない。
ただ、頑張っている姿を見せてもらえるだけで、十分なのだ。
その姿が、ただ尊い。
父親として私が涙してきたのは、結果が出た瞬間ではなく、いつも、頑張っている娘の姿そのものに対してだった。
派手にこけても泣かずに走りきれる子だから、跳び箱もコツコツ9段まで跳べるようになった。きっとそういうことなんだと思う。
特養で人の人生の最期を見ていると、最期まで穏やかな人には共通点があると感じる。
それは、「自分のやってきたことを、肯定できているかどうか」だ。
派手な成功じゃなくていい。大きな成果じゃなくていい。
転んでも立ち上がってきた。 できないことを、できるようになるまで続けてきた。 家族と一緒に、笑ったり泣いたりしてきた。
そういう小さな積み重ねが、人生の最期に「いい人生だったな」という穏やかな表情を作る。
私は7歳の娘の中に、すでにその種を見ている気がする。
だから私は、これからも泣くんだと思う。
きっと、もっとたくさんの瞬間で。
娘がいつかこの記事を読んだ時、「お父さん、こんなことで泣いてたんだ」と笑ってほしい。
そして、その時にこう伝えたい。
「あなたが、お父さんに教えてくれたんだよ」と。
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