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漫画|『夏のおわりのト短調』少女は最初に、世界のひびを見つける

『バナナブレッドのプディング』の次に


『バナナブレッドのプディング』を書いたあとで、
もうひとつ書きたい大島弓子の作品があります。

夏のおわりのト短調』です。

大島弓子を読んでいると、ときどき思います。
これは少女漫画なのに、どうしてこんなに不穏なのだろう、と。

けれどその不穏さは、
最後まで読むと、ただ怖いだけでは終わりません。


クッキーが埋められている朝


『夏のおわりのト短調』を読んだとき、
最初に心をつかまれたのは、はっきりした事件ではありませんでした。

もっと小さくて、
もっと説明しにくい違和感です。

主人公の袂(たもと)は、両親が海外出張のため、
夏休みの間、憧れの叔母一家の家に預けられることになります。

その初日、徹夜して焼いたクッキーを贈り物として渡し、
みんなは嬉しそうに食べる。

それなのに翌朝、
そのクッキーが庭に埋められているのを見つけてしまう。

埋めていたのは叔母でした。

あの場面は、本当に忘れがたいです。

誰かが取り乱すわけでもない。
恐ろしい出来事が派手に起きるわけでもない。

けれど、何かがおかしい。
その感覚が、読者の中にすっと入り込んでくる。

表題作以外にも好きな作品が収録されています
49年前の作品なのに私の中でまったく色褪せません。むしろ解像度が上がっていく

大島弓子の漫画にある、説明しにくい不穏さ


この「何かがおかしい」という感触は、
大島弓子の漫画を読むとき、たびたび出会うもののように思います。

『バナナブレッドのプディング』でもそうでした。

わかりやすい悪意や大事件ではなく、
人と人とのあいだにある微妙なずれ。
言葉にしにくい息苦しさ。
誰も説明してくれないのに、たしかにそこにある違和感。

そういうものが、静かに積もっていく。

その不穏さは、怖がらせるためだけのものではなく、
もっと日常に近い場所から立ち上がってくる気がします。


ふと思い出した、映画『サスペリア』


その不穏さを考えていて、
ふと連想したのが、1977年の映画『サスペリア』でした。

『サスペリア』は、少女が名門バレエ学校にやってきて、
そこで異様な出来事に巻き込まれていくホラー映画です。

舞台は華やかで、美しい。
主人公もまた、可憐な少女です。

本来なら憧れの場所であるはずの学校が、
少しずつ恐ろしい顔を見せていく。

この構図は、『夏のおわりのト短調』とも
どこか似ています。


憧れの場所が、少しずつおかしくなる


袂にとって叔母一家の家は、
外から見れば魅力的で、整っていて、
憧れの西洋館での上等な暮らしの象徴です。

『サスペリア』のバレエ学校もまた、
美と規律と才能の場として立ち現れる。

けれど、その美しい場所は最初からどこか変で、
主人公の少女だけが、その異様さに敏感に反応する。

論理で解き明かすより先に、
感覚が「おかしい」と言っている。

そこが、とてもよく似ている気がします。


少女の直感が、最初に異様さを見つける


大島弓子の少女たちも、
『サスペリア』の少女も、
探偵のように謎を整理する人ではありません。

もっと曖昧で、
もっと傷つきやすい感受性を持っている。

だからこそ、大人たちが取り繕っているものや、
空間にしみついた異様さを、
誰より先に感じ取ってしまうのだと思います。

それは弱さというより、
世界の表面だけでは済まされない何かを
受け取ってしまう力なのかもしれません。


1970年代後半という時代の空気

1970年代後半という時代の空気も、
きっと無関係ではないのでしょう。

奇しくも1977年に『夏の終わりト短調』と
『サスペリア』は公開されています。

少女漫画の世界では、
ただ夢を見るだけではない少女たちが描かれるようになっていった。

恋愛や憧れのきらめきだけではなく、
家族のひび割れや、
自分の内側にある不安、
社会の中で感じる居心地の悪さまでが、
作品の中に入ってくるようになる。

大島弓子の漫画には、
その変化の鋭さがある気がします。

一方で洋画のホラーも、
この頃は単に「怖いものが出る」だけではない
表現へ進んでいたのかもしれません。

『サスペリア』の恐ろしさは、
怪異そのものよりも、
色彩や音、建物の大きさ、
美しいものがそのまま悪夢へ変わっていく感覚にあります。

つまり、恐怖が物語の外側ではなく、
空気の中に漂っている


それは大島弓子の不穏さにも、少し似ています。


美しいものの内部にある異様さ

家は本来、守られる場所のはずなのに、
そこでこそ心がざわつく。

きれいな人。
感じのいい家族。
美しい部屋。
丁寧な暮らし。

そうしたものの奥に、
言葉にならない異物が潜んでいる。

その気配を、
少女の直感がいちばん早く受け取ってしまう。

1977年前後の作品を並べてみると、
そんな「美しいものの内部にある異様さ」が、
少女漫画にもホラー映画にも、
つながっていたように思えてきます。


でも、この二作は悪夢の中で終わらない

でも、私がこの二作を好きなのは、
そこに呑み込まれたまま終わらないからです。

『夏のおわりのト短調』の袂は、
叔母一家の歪みや崩れを目にしながらも、
最後にはちゃんと現実へ戻っていく。

傷つかずに済んだ、ということではないと思います。
見てしまったものは、きっと残る。

それでも、戻ってこられる。

そのことに、私はほっとします。

『サスペリア』も同じです。

あれほど濃い悪夢のような世界をくぐりながら、
主人公は最後にきちんとそこから生還する。

恐ろしい場所は恐ろしい場所として終わり、
彼女はそこを出る。

その結末があるから、
ただ悪夢に閉じ込められる話ではなくなるのだと思います。


後味に残るのは、不安よりも安堵


だから、この二作の後味は、
怖さや不安だけではありません。

むしろ、異様なものに触れてしまった少女が、
それでも自分を失わずに戻ってくることへの安堵がある。

世界には、きれいな顔をしたまま
おかしなものが潜んでいる。

そのことを知ってしまったあとでも、
人は現実へ帰ってこられる。

大島弓子の少女たちには、
そういう強さがある気がします。

繊細で、傷つきやすくて、
でも壊れない。

ただ守られる存在ではなく、
世界のひびを誰よりも早く見つけ、
そのうえで、自分の足で戻ってくる人たち。


繊細さは、帰ってくるための力でもある

『バナナブレッドのプディング』を書いたあとで
あらためて『夏のおわりのト短調』を思い返すと、
大島弓子が描いていたのは、
少女の繊細さだけではなかったのだと感じます。

その繊細さは、
世界の歪みを察知する力であり、
同時に、そこから帰ってくるための力でもあったのかもしれません。

そう思うと、
あの作品に流れているのは、
単純な恐怖や少女の心の揺れだけではなく、
危うさを知ったあとにも残る、静かな回復の気配なのだと思います。

何度でも読み返せる作品の一つ

前回の『バナナブレッドのプディング』についてはこちら↓

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