『【推しの子】』の愛と嘘#14 〜アイは殺されることを知っていたのか?⑤〜
【ネタバレ厳重注意】
※原作漫画全16巻読了されていることを前提にしています。
❹アイは殺されることを知っていたのか?(5)
★東京ドーム公演の朝
アイはその日、何歳だったのだろう。
斉藤壱護がアイの新居祝いと称して森以蔵を開けた夜、酔っ払ってアイにも飲ませようとする壱護に、ミヤコは「アイさんが二十歳になるのは来週。もうちょっと我慢してください」と言った。
B小町の東京ドーム公演も、ちょうど「来週」である。
もしかしたら、アイの誕生日当日に東京ドーム公演を行う趣向だったのかもしれない。
仮に何日かのズレがあったとしても、公演中にサプライズでバースデーのお祝いコーナーを設ける演出は、十分あり得る。
まさにアイドルとして最も輝く晴れがましい舞台を目前に、アイは頂上一歩手前で殺されたことになる。
ドーム公演当日、朝起きるとアイはベッドで寝ていたアクアとルビーを強く抱きしめた。
スマホで「今日のドーム楽しみ〜〜」とつぶやくと、「いいね」が爆速で伸びていく。
そのときだった。
早朝にもかかわらず、玄関のチャイムが鳴ったのである。
アイがドアを開けると、そこには黒いパーカーを着た男が立っていた。
「アイ、ドーム公演おめでとう。双子の子供は元気?」
男は持っていた白い薔薇の花束の影から、ナイフを出す。
そして次の瞬間、有無も言わさずアイの腹部を突き刺したーー。

この間、アイは逃げたり叫んだり悲鳴をあげたりもせず、呆然としたまま、まるで他人事のようにただ成り行きを見つめている。
ナイフの痛みに思わず顔を歪ませるアイに男は言う。
「痛いかよ、俺はもっと痛かった!苦しかった!」
直前にアクアとルビーを抱きしめたことといい、狼狽えもせず、なすがままに刺されている様子といい、まるでアイは自分の死を予知していたかのようだ。
二人を抱きしめたのは、大仕事を前に精神安定剤である子供たちの温もりを確認したかっただけだろう。
ただ、アイが狼狽える様子を見せなかったのは、前回述べたように破滅の時が近づいていることを予感していたからのように思える。
ーーついに来た? でもよりによって今日? 本当にこれがそうなの?
アイはもう自分の運命を受け入れていたのかもしれない。
それにしてもナイフで刺されているのだから、痛みと恐怖で悲鳴をあげてもよさそうなものだが、なぜアイは悲鳴を上げることも狼狽えることもなかったのだろうかーー。
アイはそれまでの人生で、無数の精神的痛みを受けていた。
そして、その痛みを平気な顔で耐えることに慣れている。
メンバーにいじめられている時でも、ひとりになるまではアイドル・アイとしての笑顔を崩さないようにし、心の痛みにじっと耐えた。
その習性が、刺された時のアイの反応にも現れていたのかもしれない。
いや、そもそもアイは、幼い頃からずっとSOSを発したことがなかった。
そんなことをしても誰も助けてくれない環境で育てられたからだ。
そして、逃げたり騒いだりしたらかえって母親の怒りに油を注ぐということを、経験上アイは嫌というほど思い知っていた。
★願い
時間の経過とともに、痛みはどんどん激しくなっていく。
激しい痛みに耐えるため、アイは無意識にアイドル・アイを発動させていた。
アイは目の前の男が熱烈なファンのリョースケであることに気づく。
星の砂をプレゼントしてくれたリョースケの名前を、アイは覚えていた。
星の砂は新居のリビングに飾られている。
アイは、いつか嘘が本当になることを信じてただぼうっと歌ったり踊ったりしているわけではなかった。
人の名前を覚えることは大の苦手だったが、アイはそれを努力で克服した。
ファンからもらった贈り物は大切にとってある。
ファンレターにもすべて目を通した。
愛するということがどういうことなのか解らないながらも、アイはその中でファンを一人ひとり愛そうとしていた。
ーー私はきっと人を愛せない。だからこれは嘘なのかもしれない。
だったら、私は全力で嘘をつく。
嘘がいつか本当になることを信じてーー。

そんな情熱や誠実さが伝わったからこそ、アイはトップアイドルに登り詰めることができたのではないだろうか。
大量出血で朦朧とする状態でリョースケの名前が出てきたのも、アイの努力が生半可なものではなかったからだ。
その努力こそが愛なのではないだろうか。
愛というのはそんなに大仰なものではない。
相手を大切にすること、それが愛だ。
そこまでファンを大切にしているアイドルが他にどれだけいるだろう。
アイはすでにファンを愛していたのだ。
親の愛を知らないアイは、愛を理想化してしまっていた。
幼い頃から鎖に繋がれて育った象が、大きくなっても鎖から逃げられないと思い込んでしまうように、「自分はひとを愛せない」との思い込みによってアイは「愛」を理想化しすぎていたのかもしれない。
だが、人とひとの関係に本来、神の愛など必要ない。
なによりアクアとルビーのアイに対する思いが、全てを物語っている。
確かにアイの子として生まれる前から、二人はアイのファンだった。
しかし、実際に家族として数年間本人を間近に見てきて、もしアイが二人を愛せていなかったら、そんな気持ちもいつしか冷めていたに違いない。
既に物心をついている二人が、3年経っても変わらずアイを慕い続けているーーそれこそが答えだ。
アイは間違いなくアクアとルビーを愛していたのである。
リョースケは去った。
依然として血は流れ続けていた。
どうやら最後の瞬間が迫っている。
その時アイの脳裏をよぎったものは仕事のことが少しと、あとは全てアクアとルビーのことばかりだった。
そこには、二人の将来を気遣う母の愛が溢れていた。
いよいよ意識が薄れてくる。
まもなく命の灯火が尽きることを悟ったアイは、最後の力を振り絞って二人の名前を呼んだーー。

「ルビー、アクア」
おそらくもう視界は失われていただろう。
「ーー愛してる」
ステージ上でこれまで何百回も口にしてきた言葉のはずなのに、アイはいま生まれて初めて言ったような気がした。
目的を達成して安心したかのように、アイは動かなくなった。
アイはアイドルに憧れてアイドルになったわけではなかった。
何かの夢を実現するためにアイドルとして活動を始めたわけでもなかった。
アイは誰かを愛したくてアイドルになったのだ。
その願いは、叶えられた。
アイの努力と忍耐は報われた。
「嘘」は「本当」になったのである。
ーー愛を知らなかった少女の挑戦は、成功した。
★神木の洗脳
リョースケがアイを刺した時の、
「痛いかよ、俺はもっと痛かった!苦しかった!」
このセリフには今ひとつ説得力が感じられないと思うのは私だけだろうか。
リョースケはニノからアイに「推し変」したクチだ。
べつにファンが推し変するのは一向に構わない。
しかし、その程度のファンがそこまで逆上するものだろうか?
このセリフはきっと神木がリョースケに言わせたものなのだろう。
神木が自分の感情をリョースケの心に「移した」のだ。
恐らくリョースケは神木に洗脳されており、神木の代理として行動し、神木の代弁者として言葉を発している。
そもそもリョースケの推し変自体、怪しくないだろうか。
リョースケは自分が推していたアイドル・ニノと付き合っていた。
みんなが憧れる夢のような立場だ。
それが仲違いしたわけでもないのに、同じグループの別のメンバーに推し変するというのは、いくらなんでもちょっと不自然なのである。
ところが、もしそれが神木の仕業だったのだと考えると、俄然辻褄が合ってくる。
つまり、こういうことだ。
神木がニノとリョースケに出会った時、まだ二人は付き合っていた。
それを、神木が自分の手足として動かすためにアイの熱烈な信者として洗脳していったのである。
結果、リョースケはアイに推し変してしまう。
やがて神木は頃合いを見計らい、自分とアイが付き合っていたことをリョースケに仄めかすようになり、リョースケの心を掻き乱してアイのストーカーへと育てていった。

アイを刺した時、リョースケはアイが自分の名前を覚えてくれていたことを初めて知っただろう。
しかもアイは星の砂のことまで覚えていた。
それは、神木に吹き込まれていたアイ像とは完全に矛盾する現実だった。
そこでリョースケの洗脳は解けてしまったのではないか。
洗脳といっても神木は特別な訓練を受けているわけではなく、自分の経験から身につけただけの自己流のものだった。
洗脳が解けたリョースケは、猛烈に後悔し始めたに違いない。
彼はもう二人も殺してしまっている。
激しく狼狽するリョースケを見た神木は、「こいつはこのままだと自首するのではないか」と恐れたはずだ。
神木はニノの心を操り、ニノの言葉でリョースケを責め立てることにした。
ニノのことが大好きだった自分を思い出していたリョースケは、ニノの言葉によって激しい自己嫌悪に陥り、首を吊った。
実質的に神木が殺したのである。
(続く)
引用:【推しの子】/赤坂アカ・横槍メンゴ 集英社
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