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菅野仁『友だち幻想 人と人の〈つながり〉を考える』を読んで 

共同性としての書道とは?

社会学で言う「共同性」は、単に人と人が集まっている状態や、仲が良い関係を指す言葉ではない。むしろそれは、人がいつのまにか〈同じ前提〉を共有して生きてしまっている、その状態そのものを指している。空気を読むこと、暗黙の了解を察すること、説明しなくても通じてしまう感覚。そうした「同じ世界を生きている」という感触が、共同性の核にある。

社会学がこの概念を大切にするのは、人の性格や内面を責めるためではない。「なぜ、そう生きるしかなくなるのか」という力の所在を明らかにするためだ。その「しかなくなる」感じは、人を支えもするが、同時に縛りもする。安心や帰属感、文化や技の継承を生む一方で、「普通はこうだ」という無言の圧力や、そこから外れるものを見えにくく排除する力も含んでいる。共同性は、やさしくもあり、暴力的でもある。

書道の世界に身を置いていると、この共同性の濃さを感じる。古典を前にしたときに「良い」と感じてしまう感覚。線の呼吸や間、臨書という身体的な学び方。師弟関係や展覧会の評価軸。それらは単なる技術や制度ではなく、長い時間をかけて身体に染み込んだ価値観として共有されている。だから「なぜこの書は評価され、あの書は評価されないのか」という問いは、美的な好みの問題というより、どの共同性の内部にいるかという問題に近いのではないだろうか。

ただ、書道における共同性は一つではない。私はそれを、二つの層とする。一つは、古典を通して蓄積されてきた深い層の共同性だ。線の重さや呼吸、臨書という反復行為に内在する身体知は、千年単位で受け継がれてきたもので、そこには簡単には切り捨てられない必然性がある。もう一つは、比較的表層にある共同性で、固定化された師弟関係や団体のヒエラルキー、公募展の評価制度、所属や肩書の重視といった、近代以降に制度として整えられてきた枠組みである。

私が違和感を覚え、ずらしたいと感じているのは、後者のほうだ。伝統そのものというより、伝統が制度や権力のかたちをとって現れている部分に対してである。伝統を丸ごと否定したいわけではない。むしろ、何が残されてきたものなのか、何が後から付け加えられた制度なのかをもう一度分けて考えたい。それは破壊行動ではなく、深い層の共同性に、もう一度触れ直すための作業でもある。

その試みの一つとして、段位も肩書も持ち込まれずに書に向かう場を想像してきた。師弟関係や評価の視線も、いったん横に置く。その一方で、古典や道具、臨書、書く身体そのものは、いい加減には扱わない。制度的な共同性を正面から否定するのではなく、それを少し脇に寄せ、身体的な共同性だけが静かに作動する場をつくれないか、と考えている。

誤解されやすいのだが、これはパフォーマンスを目指すものではない。私が距離を取りたいのは、見せることを前提にした行為や、観客や意味に回収されてしまうことである。私が続けているのは、何かを表そうとする実践より、書くための身体を、その都度整え直していく行為に近い。古典に向かいながら、今日の身体がどこにあるのかを探り、線の重さや呼吸のズレを確かめる。そうして書かれたものは、作品としても、メッセージとしても、うまく収まらないまま残ることが多い。

それでも、その調整は続いていく。そこに派手な出来事はない。ただ、反復される時間のなかで、身体が少しずつ変わっていく。その静かな持続こそが、私にとっての実践であり、評価や説明から距離を保ったまま、書と関わり続けるための方法なのだと思っている。

書道の内部にいながら、その共同性を問い直すこと。それは運動でも革命でもない。ある場を成立させ、そこで同じ時間を生きる。その経験が誰かの身体に、言葉にならないかたちで残っていくこと。それを私は必要としている。

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