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感想『ブゴニア』受け入れがたい結末

私はXで、週末に観る映画のお薦めアンケートを取り、鑑賞作品の参考にしています。先週は『ブゴニア』と『スペルマゲドン』が同率で支持を集めたのですが、上映タイミングが合った『ブゴニア』を観に行くことにしました。

私はこれまでヨルゴス・ランティモスを、「笑えない、意地の悪いコメディを撮る作家」だと受け止めてきました。

『ロブスター』や『聖なる鹿殺し』では、極端で不条理な設定を真顔で押し通し、その世界のルールに翻弄される人間を冷徹に描き出します。そこにあるのは、ギャグのような状況を笑いに逃がさない、底意地の悪さとも言える作風です。

もっとも、それらの作品には一定の均衡がありました。理不尽ではあっても、登場人物の選択が最終的に自らへと返ってくる構造が保たれていたからです。

しかし、本作『ブゴニア』は観終えたあと、ランティモスの過去作には無い、強い居心地の悪さを覚えました。
その違和感の核心はどこにあるのか、それを語ってみたいと思います。


ーーーーココからネタバレーーーー















■自己去勢という倫理の宣言

本作で印象的だったのは、冒頭のある場面。主人公テディと従弟ドンが、計画実行前に自らの臀部へ薬剤をホルモン注射をする描写があります。薬剤の中身はおそらく抗アンドロゲン剤、男性ホルモンを減退させる薬でしょう。

この描写により、誘拐という行動から「性的暴力」の可能性を、予め絶っており「この物語は性的暴力を消費しない」と宣言しています。
リメイク元の作品(「地球を守れ!」)から、誘拐されるCEOの性別を男性から女性に変更する意味で周到な設計だと感じました。

性的動機という“分かりやすい欲望”を排除したことで、彼らの行為はより純粋で、より危険になります。

欲望ではなく「正義」で動く犯罪者は、
妥協しない。

ここで物語は不穏な地点に立ちます。

テディは快楽犯ではなく、
殉教者の顔を持つ。
だが、殉教者はしばしば最も頑なで、最も暴力的になり得る。

欲望を断ち切った誘拐犯。
ここに本作の最初の倫理的なねじれがあります。


■陰謀論者の語る真実

テディは、いわゆるプアホワイトであり、陰謀論者です。社会の周縁へ押しやられ、搾取され、過去には警官からの性的虐待を示唆される傷も抱えている。

昏睡状態の母、発達障害を抱える従弟。彼の世界は、恐怖とパラノイヤに覆われています。それでも彼は「真実」を求め続ける。

地球を救おうとする焦燥が、やがて陰謀論の深みへと彼を引きずり込んでいく。狂気への転落。境遇には同情の余地があるものの、彼が人道を踏み外した罪人である事実は動きません。

ところが物語終盤、決定的な反転が訪れます。
彼の推測は虚妄ではなかった。
ミシェルは本物の宇宙人であり、アンドロメダ星人の女帝だったのです。

ここで物語は、音を立ててねじれます。

近年の映画には、「陰謀論者が実は正しかった」という構図が散見されます。

『ゴジラvsコング』では怪獣を巡る地下空洞説が現実となり、『ズートピア2』では陰謀を語る配信者が真相への糸口を提示する。『エディントンへようこそ』では、存在しないはずのテロ組織「アンティファ」が実体をもって現れる。

しかし現実社会において、陰謀論は分断と混乱を拡大させています。そうした状況下で“愚者の真実”を描くことには、やはり倫理的な危うさがつきまとう。

なぜ制作者たちは、この構図を繰り返すのか。逆張りのギャグなのかもしれません。しかし、今の時代はそれを単純な冗談として受け止められるほど、余裕のある空気ではないようにも思えます。

そしてテディの純粋さは、残酷な結末へと帰着する。母親は彼の誤った判断によって命を落とし、従弟は自ら死を選び、最後に彼自身も爆死する。

正しかった者が、報われない。

動機は純粋。

結果は破滅。

ここに、『ブゴニア』の冷酷な命題が横たわっています。


■「ブゴニア」という神話

タイトルの意味を知ったとき、この物語の冷酷さは一段と鮮明になります。

「ブゴニア」とは、牡牛の死骸からミツバチが生まれるという古代地中海の再生神話。犠牲の死が新たな生命を呼び込むという、循環の寓話です。

本作において、その牡牛にあたるのは人類です。

宇宙人ミシェルは人類実験の失敗を宣告し、平面状の地球を覆う膜を破る。その瞬間、世界中の人々はまるで電源を抜かれたかのように崩れ落ち、生命活動を停止します。

やがて画面に残るのは、人類なき地球で黙々と働くミツバチの姿。

滅びは、そのまま再生へと接続される。

けれどもそれは、人間の罪に対する応報ではありません。そこにあるのは、宇宙人による冷ややかな「実験終了」の宣告にすぎない。

救済の物語ではない。

ただ停止があるだけです。


■理不尽という後味

本作の居心地の悪さは、最終的にここへ行き着きます。

もし滅びを招いたのが傲慢な富裕層であれば、寓話として受け入れることもできたでしょう。因果応報という枠組みで、納得の余地もありました。

しかし引き金を引いたのは、壊れた世界のなかで必死に意味を探し続けた男でした。

彼の動機は純粋でした。(狂っていましたが)
私欲で行動したわけでもなかった。(衝動で殺人を犯しましたが)
そして彼は真実に触れていた。(陰謀論でしたが)

それでも世界は終わる。

動機の純粋さは、結果の正しさを担保しない。

この残酷な命題こそが、
『ブゴニア』の核心ではないでしょうか。


■ 反戦歌が鎮魂歌へ変わる瞬間

エンディングに流れるのは、マレーネ・ディートリヒの『Where Have All the Flowers Gone(花はどこへ行った)』

反戦フォークの名曲として知られるこの歌は、「花は?」「若者は?」「兵士は?」と問いを重ねながら、人間の愚行が循環する構図を浮かび上がらせます。

花は若者に摘まれ、
若者は兵士となり、
兵士は墓へと向かい、
墓は再び花に覆われる。

命と死の循環。
戦争の反復。
そして最後に残る問い。

「いつになったら人は学ぶのか?」

しかし『ブゴニア』のラストでは、
その循環そのものが途絶える。

兵士はいない。
墓もない。
花を摘む若者も存在しない。

画面に残るのは、
人類なき地球で黙々と働くミツバチだけ。

ここでタイトルの「ブゴニア」が重なります。
牡牛の死から蜂が生まれる神話。
人類という牡牛の終焉。そして蜂の存続。

本来、人類への問いで閉じるはずの反戦歌。
その問いが、本作では無効化される。

「人は学ぶのか?」ではなく、
「もう学ぶ機会はない」という宣告。

問いが消え、
循環が止まり、
人類は“実験終了”として停止する。

この瞬間、反戦歌は鎮魂歌へと変貌します。

人類の愚かさを嘆く歌が、
人類の消滅を静かに受け入れる歌へと転じる。

そこに潜むのは、ランティモスの冷ややかなユーモアではないでしょうか。


■ 結語

『ブゴニア』は、人類滅亡を再生神話として提示する寓話です。しかしその中心にあるのは、善意と使命感に突き動かされた一人の男の悲劇にほかなりません。

私はテディを完全に否定することができませんでした。彼の足掻きには、壊れた世界のなかでなお意味を探そうとする切実さがあったからです。

だからこそ、この理不尽は苦い。

それでもなお、その理不尽を神話へと昇華し、反戦歌を人類のレクイエムへと転換する冷酷さ――そこにこそランティモスの作家性があるように思えます。

滅びは再生なのか。
それとも、ただの理不尽(ギャグ)なのか。

『Where Have All the Flowers Gone』が静かに響くなか、私はその問いを抱えたまま席を立つことができませんでした。

この割り切れなさこそ、監督が観客に残したかった感情なのかもしれません。

そこに残るのは、人類なき地球で黙々と働くミツバチだけ…


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