感想『ヒューマニスト・ヴァンパイア・シーキング・コンセンティング・スーサイダル・パーソン』【吸血鬼映画の百年の進化― 支配から同意の物語へ】
Amazonプライムでサムネイルが気になり、なんとなく『ヒューマニスト・ヴァンパイア・シーキング・コンセンティング・スーサイダル・パーソン』を観た。
――タイトル、長いよ!
この作品は、美少女吸血鬼を主人公にしたオフビートなコメディ映画だが、そこに描かれているのは、ポスト・コロナ時代の孤独を抱えた人々が吸血鬼という存在を通して“共感”を取り戻していく優しい寓話だと私は感じた。
思えば吸血鬼は、ゾンビと並ぶ、映画が最も長く描き続けてきたスターモンスターだ。ゾンビが“内面のない器”として、どんな社会的物語も代入可能な存在だったのに対し、吸血鬼は常に「吸血」という行為を通じて、人と人との共依存関係を描いてきた。
吸血鬼映画の歴史は、人間社会の歴史そのものだ。
時代が変わるたびに、人々が恐れ、欲し、そして赦そうとする“他者”のかたちを、吸血鬼はその赤い瞳に映し出してきた。
ここでは過去の吸血鬼映画の軌跡をたどりながら、『ヒューマニスト・ヴァンパイア・シーキング・コンセンティング・スーサイダル・パーソン』という作品が示す現代性を考えてみたい。
I 始祖 ― 禁忌としての性と死
19世紀末のヨーロッパで誕生した吸血鬼像は、ブラム・ストーカー『ドラキュラ』(1897)においてすでに「抑圧された欲望」の象徴だった。
ヴィクトリア朝の厳格な性道徳のもと、男の暴力的リビドーと、女性が“恐ろしくも魅力的な男性”に拐かされる恍惚が混ざり合う存在。
吸血とは、侵入であり誘惑であり、理性が崩れる瞬間のメタファーだった。
最初期の吸血鬼映画『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1922)では、性は“感染”や“死”のイメージに転化され、吸血鬼は外部からやってくる疫病の象徴だった。つまり吸血鬼とは、人間が抑え込んだ本能――欲望への恐れを映す「内なる怪物」のメタファーだったのだ。
II 解放 ― エロスと自由の寓話として
1950〜70年代、戦後の価値観の変化とともに、
吸血鬼映画は禁忌の象徴から解放のシンボルへと姿を変える。
ハマー・フィルムによる『吸血鬼ドラキュラ』(1958〜)シリーズは、官能的な映像で“血と肉体”を結びつけ、性のタブーを開放的なホラースペクタクルへと変えた。
III 孤独 ― ロマン主義的存在への昇華
1980〜90年代、吸血鬼は“人間を超越した知的孤独者”として再解釈の動きが起こる。
トニー・スコット監督の『ハンガー』(1983)では、キャサリン・ドヌーヴ演じる女性吸血鬼が永遠の美と支配を手にし、性愛と死を等価に扱う。吸血鬼はもはや加害者ではなく、欲望を支配する存在となり、“血を吸う”ことは“生を掌握する”行為へと変化した。
『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』(1994)は、男同士の吸血鬼を通して愛・永遠・倫理を問うロマン主義的作品となった。
血を分け合うことは性行為ではなく、孤独を癒やす“共感の契約”へと変わる。吸血鬼は強欲の象徴から、存在の悲劇を語る哲学者へと進化したのだ。
IV ノマド ― 文化を生き延びる者たち
キャスリン・ビグロー監督の『ニア・ダーク/月夜の出来事』(1987)は、吸血鬼をアウトロー的なロードムービーの主人公として描き、略奪者ではなく“生の選択者”としての吸血鬼を提示した。
その系譜を継ぐのが、ジム・ジャームッシュの『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』(2013)だ。永遠を生きる吸血鬼カップルは、人類文明の終焉を静かに見つめ、“血”を文化と記憶のメタファーとして吸い続ける。
もはや吸血鬼は怪物ではなく、芸術と知のノマド――時代を超えて人間の精神を保存する存在へと変わっている。
V 構造批評 ― 支配と搾取の寓話
21世紀に入り、吸血鬼は社会構造そのものを映す鏡像となった。
『ザ・ヴァンパイア ~残酷な牙を持つ少女~』(2016)は、少年の孤独と暴力を通して、貧困と差別を吸血鬼神話に託す。
『レンフィールド』(2023)は、ドラキュラを“パワハラ上司”とするコメディで、吸血=支配構造のパロディとして描いた。
『アビゲイル』(2024)では、無力な少女吸血鬼が“食う/食われる”構造を逆転させる。血を吸うとは、もはや性愛の隠喩ではない。
それは権力のメタファーであり、社会の搾取の記号だ。吸血鬼映画のテーマは、性愛からシステム批判へと変化していった。
VI 倫理 ― 「同意」と「共感」の時代へ
そして『ヒューマニスト・ヴァンパイア・シーキング・コンセンティング・スーサイダル・パーソン』(2023)。
アリアンヌ・ルイ=セズヌ監督によるこの作品は、吸血鬼映画の系譜における新たな分岐点を作る。
吸血によって人を殺すことに罪悪感を抱く“ヒューマニストな吸血鬼”サシャは、“死にたい人間”ポールと出会い、「同意に基づく吸血」という奇妙な契約を結ぶ。
サシャは吸血を拒絶することで自死を選ぼうとする吸血鬼だが、”死にたい人間”ポールは彼女を生かすために自らの命を差し出そうとする。
この設定において、吸血行為は暴力でも誘惑でもなく、”倫理的な合意”として描かれる。血を分け合うことは、互いの死と生の選択を共有することなのだ。
それは、ポスト・コロナ時代の孤独と無関心のなかで、“他者の痛みに触れる”という、もっとも人間的な行為の寓話ではないだろうか。
吸血鬼はここで、ついに「生者を脅かす存在」から「死に寄り添う存在」へと変化した。暴力ではなく共感を、支配ではなく理解を選ぶ吸血鬼――
その姿は、他者と共に生きることを希求する私たちの姿そのものだ。
結語:吸血鬼が映す“人間のかたち”
吸血鬼映画の百年史は、人間が「欲望」「死」「他者」とどう向き合ってきたかの記録でもある。欲望の怪物であった吸血鬼は、孤独を語る哲学者となり、そして今、他者の痛みを理解し、支え合う同胞へと変貌した。
それはつまり、私たち自身が――
“欲望のままに相手の身体性を奪う/奪われることに必死だった時代”から、“人とつながり、心を共有しあうことを望む時代”へと移行した証なのではないだろうか。
吸血鬼とは、人間の変化を映す鏡像である。
そしてその鏡に映るものは、時代が描き続ける“人間のかたち”そのものなのだ。
