映画『アフター・ザ・ハント』感想:グアダニーニョが描く、再生の可能性と世界への信頼
ルカ・グアダニーニョの『アフター・ザ・ハント』をAmazonプライムで鑑賞しました。ジュリア・ロバーツ主演でありながら配信ストレートになってしまうあたり、洋画人気の低下を実感してしまい、何とも言えない寂しさも覚えました。ただ、確かにこの作品は物語の輪郭がつかみにくく、さまざまな問題提起が複層的に含まれており、劇場公開向けの“わかりやすさ”を求める層には届きにくいと判断されたのかもしれません。
『アフター・ザ・ハント』は、グアダニーニョ作品に通底する、“肉体が先に動き、欲望が物語を進める”という作家性を、より複雑で痛ましい形に押し広げた作品だと感じました。舞台は大学という知的な空間ですが、登場人物たちの判断や行動は、知性よりも先に欲望や不安によって動かされていきます。特に主人公アルマの人物造形には、グアダニーニョが単なる“師弟関係の破綻”ではなく、自らの倫理観と過去の経験のズレに苦しむ中年女性の心そのものを描こうとした意図が強く感じられました。その点について述べてみたいと思います。
ーーーーここからネタバレーーーー
■グアダニーニョ作品に共通する「肉体が欲望を先導する」世界観
『君の名前で僕を呼んで』の若さの疼き、『サスペリア』の呪術的なダンス、『ボーンズ アンド オール』の共食という禁忌。グアダニーニョは一貫して、肉体の衝動が倫理を揺らし、関係性を濁し、人が変容していく過程を描いてきました。『アフター・ザ・ハント』も同じく、アルマは“考えて行動する”というより、“心身が揺れ、その後に理性が追いついていく”タイプのキャラクターです。この構造が、彼女の言動の不安定さを形づくっています。
興味深いのは、本作におけるクィア性が「同性愛」というカテゴリーではなく、“欲望の境界が曖昧になること”として描かれている点です。『チャレンジャーズ』の三角関係が流動していたように、アルマと教え子マギーの関係も、師弟/友情/憧れ/所有欲といった複数の力が混ざり合い、単一のラベルでは説明できません。グアダニーニョにとってクィアとは、誰を愛するかではなく、“関係性が揺らぐことそのもの”なのでしょう。
■多層的な人物造形――信じられない自分の倫理観
アルマは哲学教授として、自分の倫理観を大切にして生きてきた人物です。リベラルでフェミニストであるという自己像は、彼女の“正しさ”への願いでもあり、同時に“仮面”でもあります。しかし、その自己像は過去の経験によって揺さぶられ続けています。
若い頃、年長男性との関係を「自分が望んだ恋愛」と理解していたアルマは、後年その関係構造が法的にも倫理的にも「加害」であったと悟ります。さらに、彼女には虚偽の告発によって男性を自殺へ追い込んでしまった“加害者としての側面”もあります。この二つの罪悪感が重なり合い、現在マギーから向けられる告白の前で、彼女は二重三重に迷い続けます。何が正義で、何が誤りなのか。自分の人生のどこが自由で、どこが搾取だったのか。アルマはその判断がつかなくなっています。
こうした“内側の揺らぎ”ゆえに、アルマは一見すると矛盾した行動をとってしまいます。しかしそれは倫理の放棄ではなく、“かつての自分は間違っていたのではないか”という痛みを抱えた誠実さの裏返しでもあります。劇中に繰り返し鳴る秒針の音は、“いつか崩壊してしまうかもしれない自己像”への恐怖を象徴しているように感じました。
■『TAR/ター』との共通性――転落の“引き金”としての教え子
この構造はトッド・フィールドの『TAR/ター』とも強く響き合います。両作とも、才能ある中年女性が、教え子との歪んだ関係によって破滅へと導かれます。教え子は単なる若い才能ではなく、“主人公の傲慢さ・欺瞞・罪悪感を映す鏡”として機能する点が共通しています。
また、どちらの主人公も才能ゆえに孤立し、他者との距離を誤ります。天才であることは祝福でもあり呪いでもあり、孤独は支配へと変質しやすい――このテーマは現代社会の権力構造と密接に結びついています。
■両作品の違い――『TAR』は“構造の映画”、本作は“欲望の映画”
しかし、両作品はここから大きく分かれます。『TAR/ター』が描くのは“権力構造の腐敗”です。音楽界のヒエラルキーやSNSによる断罪など、リディアの転落は社会による冷徹な裁きとして描かれます。
対して『アフター・ザ・ハント』は、アルマの破綻を“個人の内部での崩壊”として扱います。映画が問うのは「権力は腐敗するか」ではなく、「欲望はどう人を変えるのか」というより繊細で個人的な問いです。そのため作品は断罪では終わりません。グアダニーニョは“変容”や“赦し”、“再生”の可能性を残します。ここに、彼独自の“世界への信頼”があるように感じました。
■名女優たちの“ブチギレ演技”が暴露する、人間の滑稽さと痛み
そして忘れがたいのが、ケイト・ブランシェットとジュリア・ロバーツによる怒りの爆発です。両作品ともに本来は深刻な場面であるにもかかわらず、不謹慎ながら笑ってしまうほど激しい感情の噴出が描かれます。
ケイトの怒りは、知性の崩壊として表現されます。統制された理性的な言葉が一瞬で壊れ、天才指揮者がもっとも幼稚な姿を晒す。その落差が滑稽さを生み、権力の危うさを際立たせます。
一方、ジュリア・ロバーツの怒りは生理的でむき出しです。言葉より先に肉体が動き、怒声と混乱が一気にあふれ出します。その勢いが逆に可笑しさを生み、人間の原始的な怒りの姿があからさまになります。
どちらの演技も、人物の傲慢さと同時に、人間の脆さや幼さを強く感じさせる見せ場でした。
■アルマはなぜ再生できたのか――“寄り添う他者”の存在
終盤、アルマは持病の悪化で倒れ、夫フレデリックに救われます。恐れていた“過去の罪”を告白すると、彼は責めることなく、ただ受け止めて寄り添います。作品内でアルマの再起は詳しく描写されませんが、私はフレデリックの“無条件の受容”が、彼女が再び立ち上がる力になったのではないかと受け止めました。
この部分こそが『TAR』との最大の違いです。リディアには、絶望の淵で手を取ってくれる人がいませんでした。その孤独ゆえに彼女は断罪されたまま終わります。しかしアルマには寄り添うパートナーがいました。自分を受け止めてくれる最小の共同体である“家族”が、彼女の物語を破滅ではなく再生へ向かわせたのではないでしょうか。
■結語――欲望の混乱からしか人は変われない
『アフター・ザ・ハント』は、師弟関係、クィア性、罪悪感、欲望、怒り、再生が複雑に絡まり合う作品です。しかし、その中心にあるのは「人は欲望に揺れながらも変わることができる」という、シンプルで普遍的な真理だと感じました。
『TAR』が“構造の悲劇”を描く映画だとすれば、
『アフター・ザ・ハント』は“関係性の悲喜劇”と言えるのではないでしょうか。
欲望の揺らぎ、倫理の迷い、怒りの爆発――それらを経た、アルマの崩壊と再生の物語には、露悪的な人間像と楽観的な人生観の混ざり合う、不思議な余韻が残る“赦しの映画”を感じました、そこにはグアダニーニョの人間に対する優しい眼差しと世界への信頼が宿っていたのではないかと私は思います。
