主体性は命令では生まれない――家庭で育つ「普遍としての貢献」と、場ごとに異なるその発現
主体性を持て。
指示待ちになるな。
自分で考えて動け。
教育でも職場でも、こうした言葉は何度も繰り返される。いかにも正しそうに聞こえる。だが、私は最近、この言葉にかなり強い違和感を持つようになった。
違和感の理由は単純だ。主体性は、命じて出てくるものではないからである。
人は、ただ「主体的になれ」と言われたから主体的になるわけではない。自分が何かをしたとき、それがこの場に接続し、意味を持ち、踏みにじられず、一定の仕方で受け取られる。そういう見込みがあって、はじめて人は自分から動ける。
つまり主体性の根にあるのは、気合いや性格ではなく、関係性への信頼である。
このことを、私は子育ての中で、あらためて考えるようになった。
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なぜ私は、子育て中の親としてこのことを問うのか
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正直に言えば、出発点にはかなり生活的な実感がある。
子どもに、もう少し家のことをやってほしい。
食事の前後、片づけ、準備、ちょっとした気づかい。そういうものが、どうしても親の側に偏る。もちろん子どもだから仕方のない部分はある。だが、最近それが単なる負担の問題としてではなく、もっと別の問題として気になってきた。
それは、家庭がお客様として過ごす場所になっていないか、という違和感である。
食事が出てくる。服が整っている。風呂が沸いている。必要なものが、いつのまにか用意されている。子どもからすれば、それは「あるもの」だ。環境の一部である。
だが実際には、その背後には、考えること、選ぶこと、段取りすること、補充すること、気にかけること、片づけることがある。
にもかかわらず、それらが見えにくい。
いや、見えにくいどころか、便利な社会は、家庭から労働を消したように見せてしまう。
洗濯はボタン一つで終わるように見える。食事も、出来上がったものがテーブルに並ぶところしか見えない。外食や中食や宅配が増えればなおさらだ。
だが、家庭の労働は消えたのではない。見えなくなっただけである。
そして、見えない労働は、感謝されにくい。参与もされにくい。
私はたぶん、そのことに引っかかっている。
子どもに従順になってほしいのではない。親の便利のためだけに家事を押しつけたいのでもない。
そうではなく、家庭を消費するだけの人になってほしくないのだと思う。
自分が受け取っているものの背後に、誰かの労力や配慮や時間があることを感じられる人であってほしい。できれば、自分もまた、その営みを少し支える側に立てる人であってほしい。
私がこのことを問うているのは、そこなのだと思う。
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家庭は、最初の共同性の場である
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家庭は、人が最初に出会う共同性の場である。
ここで子どもは、自分がただ世話される存在なのか、それともこの場を少しでも支える一員なのかを、言葉以前の水準で学んでいく。
食事が整うこと。衣服が洗われること。空間が保たれること。家族の日常が回っていること。そうしたものが、誰かの労働と配慮と段取りの上に成り立っていると知ること。そこから、自分は受益者であるだけでなく、参与者でもあるという感覚が芽生える。
ここで育つべきなのは、私は「普遍としての貢献」だと思う。
それは、自己犠牲の倫理ではない。
「家族のために我慢しろ」という話でもない。
もっと基礎的な話である。自分はどの場においても、単なる消費者としてだけではなく、その場を支える側にもなりうる、という感覚である。
これは能力の話ではない。
性格の話でもない。
人間が共同の世界に属しているという、かなり根本的な感覚の話である。
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貢献は、自発性だけからは生まれない
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ここで、少し言いにくいことを言わなければならない。
こうした感覚は、最初から完全な自発性や納得の上にだけ成り立つわけではない。
現代は、自由や自己決定を非常に大切にする時代である。それ自体は重要だ。だが、その発想がそのまま子育てやしつけに持ち込まれると、「本人が納得したことしか引き受けなくてよい」という奇妙な理想が生まれやすい。
しかし実際には、人間はまず形から共同性へ入る。
家庭において「これはあなたの役目だ」と半ば先取り的に位置づけられることはある。
食器を運ぶ。洗濯物を取り込む。風呂の準備をする。下の子を見る。
それはある意味で半強制である。だが、私はそれをただちに悪いことだとは思わない。むしろ、先に役割があり、後から意味がわかるという順序は、教育の本質に属している。
もちろん、そこで終わってしまえばただの命令である。
やらせるだけでは、貢献感覚は育たない。
決定的なのは、その行為が場の中で意味づけられ、承認されることだ。
「助かった」
「これで家が回った」
「あなたがやったから、みんながすぐ動けた」
そう返されてはじめて、自分の行為は単なる服従ではなく、共同性の一端を担った経験になる。
承認とは、褒めること一般ではない。
自分の参与が世界に効いていると感じられることである。
ここを外すと、子どもの中に残るのは、「また使われた」という感覚だけになる。
逆にここがあれば、役割はやがて当事者性に変わる。
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自己中心性の多くは、「個人主義」ではなく未成熟である
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このことを考えていると、現代社会でしばしば「個人主義」や「自己中心性」と呼ばれているものの中身も、少し違って見えてくる。
一般には、自分のことしか考えない態度を「個人主義的」と呼びがちである。
だが、そのかなりの部分は、本来の意味での個人主義ではないのではないか。
むしろそこに見られるのは、貢献や関係性の理解が十分に育たないまま、発達が幼児的な段階で止まっている状態ではないかと思う。
幼児は、自分の欲求を中心に世界を組織する。
自分が今やりたい。自分が今ほしい。自分が今それを必要としている。
それ自体は自然である。発達段階として当然だ。
だが、その構えが大人になっても基本原理として残るなら、そこにあるのは思想としての個人主義ではない。
受益者としての自己の未分化な持続である。
自分の権利はわかる。自分の都合は尊重されたい。だが、自分が場を支える側でもあるという理解はない。
ここにあるのは成熟した個人ではなく、「権利」だけを知り、関係を担う感覚が育っていない状態である。
だから問題は、個人を大切にしすぎたことではない。
むしろ逆だ。個人が共同性の中でどう成立するか、その理解が育っていないのである。
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個人の尊重は、共同性の敵ではない
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ここは誤解されやすいところだが、個人を大切にするという理念そのものは、共同性の敵ではない。
むしろ、個人の尊重は共同性の分化である。
未分化な共同体では、人は役割や空気や序列の中に埋め込まれやすい。「家族なんだから」「みんなそうしているから」「黙って従え」という論理が強くなる。そこでは個人の境界や意思や限界が軽視される。
そこから、一人ひとりの尊厳や事情や意思を認める方向へ共同性が組み替えられていくこと。それが近代的な個人の発見だった。
だから、個人の尊重とは共同性の崩壊ではない。
共同性の成熟である。
対立しているのは、個人か共同体かではない。
対立しているのは、個を押し潰す未分化な共同性と、個であることを免罪符にして参与を拒む未成熟である。
前者では個が消され、後者では共同性が成立しない。
必要なのはそのどちらでもない。
個として尊重されながら、なお場の一員として参与するという、より高い水準の共同性である。
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普遍なのは貢献への構えであり、発現はつねに文脈的である
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ただし、ここでさらに区別しておくべきことがある。
それは、普遍としての貢献と、その具体的な発現とは別だ、ということである。
自分は場を支える側にもなりうる、という構えそのものは、かなり普遍的に育てられる。
しかし、それがどう現れるかは、つねに文脈に依存する。
ある場では、それは発言として発現する。
別の場では、沈黙や配慮として発現する。
さらに別の場では、一歩引くこととして発現する。
ここを混同すると、主体性の議論はすぐに壊れる。
教育でも職場でも、「主体的な人」と言うと、手を挙げる人、発言する人、前に出る人ばかりが想定される。だが、それはあまりに雑だ。
本当に重要なのは、その人がその場にどう参与しているか、その参与がその文脈において適切かどうかである。
発言は発現の一形式にすぎない。
家庭でもそうだ。
いつも率先して何かを言う子だけが、家族に参与しているわけではない。親の様子を見て黙って食器を運ぶ子、下の子の空気を読んで先に動く子、場のざわつきを見てあえて引く子もいる。
それは声高な主体性ではないかもしれない。だが、立派な参与の発現である。
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職場では、主体性はしばしば搾取に回収される
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ここで、もう一つ明確に線を引いておかなければならない。
家庭で育てたい貢献感覚と、企業がしばしば求める「主体性」は、同じではない。
経営の文脈において「主体性」「貢献」「当事者意識」が語られるとき、それはしばしば、搾取の内面化として機能する。
本来なら制度設計や人員配置や報酬の問題であるはずのものが、「もっと自分ごととして考えろ」という言葉で、個人の内面へと転嫁されるからだ。
ここでは主体性は、自由ではない。
自己動員の技術になる。
だから、子どもに家庭で育てたいのは、誰かに便利に使われる従順さではない。
自分は場を消費するだけではなく、支える側にもなりうるという成熟した感覚である。
しかも、その感覚をどこでどう発現させるかは、つねに文脈を見て判断されなければならない。
腐った場にまで無条件に尽くすことは、美徳ではない。距離を取ること、参与を留保すること、撤退することすら、場合によっては成熟の一形態である。
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主体性は、命令ではなく信頼から生まれる
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要するに、主体性とは個人の内部に閉じた資質ではない。
それは、関係の中で可能になる世界への身の差し出し方であり、その根には信頼がある。
その信頼の原型を育てうる最初の場所が、家庭である。
家庭において、自分は受け取るだけの存在ではなく、少しは支える側でもあるという感覚を持てるかどうか。役割を与えられ、その行為が意味づけられ、承認される経験を持てるかどうか。
そこから、普遍としての貢献は育つ。
ただし、その貢献がどう発現するかは、つねに特殊であり、文脈的である。
前に出ることもあれば、引くこともある。
語ることもあれば、黙ることもある。
支えるとは、いつも同じ顔をして現れるわけではない。
だから本当に問うべきなのは、「もっと主体的になれ」ではない。
まず問うべきなのは、貢献が意味を持ち、承認され、ただの収奪に変わらない関係があるか、である。
主体性とは、命令によって引き出されるものではない。
信頼のある共同性の中で、ようやく発現しうるものなのである。
了
