「そういうものだ」、とコネディアンは言った。|カート・ヴォネガットとコネの抵抗論
こんばんは。
もうすぐ2025年が終わり今年もあっという間だったな、と少し寂しい気持ちになる今日この頃です。
さて、今宵は個人的に現在もアメリカを代表する作家といっても過言ではないと思っている、カート・ヴォネガットのとある作品から読み解くアメリカ論(そして人生論)をお届けします。
一応Xの方を見知ってくださっている読者の方には周知の通り、筆者は「在野コミュニティ研究学会研究員(在籍一人)」という肩書きを名乗っておりまして、ヴォネガット論はその一環という側面でも書いてみたいと思っておりました。(以上の研究学会は筆者の頭の中だけにあるものであって、実在しておりません。後、在野なのか学会なのか矛盾があるような気もしますが、細かいことは気にしない!)
今回の評論では、コミュニティ論と呼ぶには直接的にコミュニティを扱えていないのですが、「拡大家族」などヴォネガットを論じる上でコミュニティは避けて通れないトピックだと考えています。
なお、アメリカ論として以下の記事についてもリンクを貼っておきますので、ご興味のある方はご一読ください。
というわけで、早速行ってみましょう!
もう一度言おう。もし君らのように教育を受けた人たちが、結婚生活でコメディの種になりそうなまずい事態に直面することになったら、それはお金やセックスや主導権や子供をどうするかの問題じゃないんだってわかって欲しい。妻にとっての夫に関する本当の問題は、その人だけじゃ充分じゃないからかも知れない。夫にとっての妻に関する本当の問題は、その人だけじゃ充分じゃないからかも知れない。
コネ、というこの文章のサブタイトルを一目見て、大半の人は訝しんだのではないだろうか。
コネ、すなわち"connection"の略称。
関係性、縁故、人脈等、そこに込められた意味は数あれど、少なくとも大概の日本人にとっては、あまり良い印象を持たない言葉として定着している感がある。
縁故採用と聞けば、ずるい!と思ったり、コネのおかげで成功した人を見れば、実力もないくせに!と妬んだり嫉んだりと、私たちはどうしても自分の力によってではなく、他人の力や権威によって輝いているようにみえる存在に対して当たりがきつくなる傾向にあるらしい。
反対に、コネなんてなくても裸一貫、自らの実力と努力で成功を掴んだ人たちに私たちは言い知れぬ好ましさを抱く。
政治家だって、二世よりもたたき上げの方が格好良く有能そうにみえるし、血縁者による世襲制を採用している企業よりも、きちんと個々人の能力に基づいて経営陣を選抜している企業の方が真実はどうであれ、クリーンに映りやすいことは確かだ。
おそらく、以上のように感じる理由を一言でまとめてしまうのなら、それは不公平感という言葉に集約されるだろう。
先輩のAよりも俺の方が仕事ができるのに、親が偉いからといって優遇されている。
あるいは、同期のBは自分がやるべきことを人にやらせる不真面目なやつで、私はそんなあいつの尻拭いをさせられている真面目な人間なのに、なぜか上司から気に入られて一足先に出世しようとしている等。
結局のところ、能力や努力よりも、有利な関係性を初めから持っていたり新しく築くのが妙に上手かったりする者の方が社会で勝ち組になりやすいという構造そのものが、「他力中心主義」(本文では、主に自分の力で道を切り拓く考え方を「自力中心主義」とし、それに対して主に他者の力や関係性を利用して道を切り拓く考え方を他力中心主義と呼ぶことにする。ただし、仏教における「他力本願」の他力とは関係がない。)に見えるという点で人々にそのような不公平の感覚を抱かせる要因となっているのである。
それではなぜ、他力中心主義は人々に対して不公平の感覚を抱かせるのだろうか。
私見では、二つ、大きな理由が挙げられると思う。
一つ目は、関係性が血縁や身分など生まれながらのものに由来する場合、それはどんなに努力をしたり実力を発揮したりしたとしても覆すことのできない壁として立ちはだかるからである。
言い換えれば、人は生まれた瞬間からスタートラインが大きく異なるばかりか、その差は後から埋められる程度の差ですらなく、質的な差が含まれてしまうということだ。
封建制の時代には、貴族の家に生まれれば死ぬまで貴族、農民の家に生まれれば死ぬまで農民というあり方が当たり前だった。(その時代に生まれていた人々はそれが当然だったのだから、不公平感を抱くということもほとんどなかったのだろうが。)
当時に比べれば、現代は全体的に大分マシになったとはいえ、たとえば裕福な家に生まれれば将来裕福になりやすく、貧乏の家に生まれれば将来貧困に陥りやすいという傾向は、依然として存在している。
そして、それが程度の差であるのか、質的な差であるのか、見る人や立場によって解釈の仕方が変わってしまうというのが、現代の難しいところであるかもしれない。
つまり、引き続き貧富の問題を例に見ていけば、貧しい人は頑張りが足りないから貧しくなってしまった(自己に責任がある)のか、それとも社会の構造上の問題である(社会に責任がある)のか。
両者の対立はそれこそ何度も繰り返されてきたところである。
ところで、他力中心主義、ひいてはコネが不公平感を抱かせる二つ目の理由と並行して、ここでアメリカを代表するとある作家の作品を検討しながら、さらに考察を深めてみたい。
その作家とは、冒頭の引用にもあげたカート・ヴォネガット(1922-2007)である。
取り上げる作品は、彼の戦争体験を基にした半自伝的小説とも称される『スローターハウス5』。(正確を期すために記すと、本書の原著が刊行された1969年において、ヴォネガットの作家名は、「カート・ヴォネガット・ジュニア」と明記されていることに注意。なお、本文では出典の記載以外「カート・ヴォネガット」に統一した。)
断っておくと、本書についてそのあらすじを簡潔に紹介することは必ずしも容易ではない。
というのも、本書の主人公であるビリー・ピルグリムは「けいれん的時間旅行者」として、自身の人生にかかわる未来と過去とをランダムに行き来する存在だからである。
要は、時系列通りに物語が進行せず、あっちにいったりこっちにいったりする関係上、その筋が極めて拾いにくいのだ。
にもかかわらず、訳者が言うように決して読みにくいわけでもないから不思議なのだが、いずれにせよヴォネガットが、母国であるアメリカとコネ(クション)の問題について、本書で深く考えていたのではないかと私は睨んでいる。
どういうことだろうか。
その疑問に答える前に、本書を読んだことのない読者のために、簡潔なあらすじとまではいかなくても、まずは本書の内容について軽く紹介しておこう。
『スローターハウス5』は、作者であるヴォネガットが第二次世界大戦末期に体験したドレスデン無差別爆撃(アメリカ軍によるドイツの都市ドレスデンへの無差別爆撃)についての本を書こうとしていたという述懐から始まる。
"半自伝的"と形容されるだけあって、この小説に記された一部(主に戦争体験の部分)は大体その通りに起こったことであると、ヴォネガット自身出だしで断っているのがなんとも印象的だ。(これもどこまでが虚構で事実なのか、本当のところは知れない。)
以降は、作者本人ではなく、小説らしく架空の登場人物であり主人公のビリーが大戦中に「時の流れの呪縛から解き放たれた」ことで、先述したように自身の死の瞬間を含めて生涯にかかわる未来と過去とを行ったり来たりしながら、断片的に特定のシーン(ドラマ)を演じ続けることになる。
たとえば、大戦中の従軍や捕虜収容所での惨めな生活から、一転戦後の華やかで幸せな結婚生活、さらにはここが奇妙奇天烈なのだが、トラルファマドール星人と呼ばれる異星人によって拉致され動物園で見せ物にされる経験まで、ビリーが人生の中で体験するあらゆる出来事が時系列とは関係なしに、しかしあらゆる場面と場面のあいだには緩やかなアナロジーが散りばめられる形で、読み手の前に次から次へと立ち現れる。
その終着点?にいったい何が待ち受けているのか。
読者は予想もつかない結末へと、不安と期待を胸に抱きながら、本書のページを繰ることになるわけだ。
とまあ、本書の紹介らしからぬ紹介(けいれん的紹介!)はこの辺りにして、ここからは私の(独断的)視点と(偏見的)解釈を交えて、本書とコネの関係を紐解いていきたい。
よく言われるように、アメリカという国家の歴史にはヨーロッパにあったような意味での封建制(あるいは君主制)の仕組み自体が存在していなかったとされる。
それは、少なくともアメリカ人の祖先たちがアメリカ独立宣言を作り上げてから今日まで、「共和政」を統治の理念として据えてきたという理解が、基本的にはアメリカ人たちの社会の中で共有されているからである。
もちろん、彼らはそれに対して誇りを持ち、主に「リベラリズム」という仕方で自らの価値観を奉じてきた。
特にモンロー・ドクトリン以降強調されてきた「孤立主義」は、ヨーロッパの統治形態を野蛮なシステムとみなし、君主に主権を委ねる「縦」の支配被支配関係ではなく、国民同士の「横」のつながりを重視してきたのだと。
しかし、この点でもっとも興味深いのは、『スローターハウス5』の中で展開されるアメリカの貧民に関する考察的記述である。
本書には、アメリカを裏切って(正確にはアメリカのスパイとして)ナチス・ドイツの側についたアメリカ人劇作家ハワード・W・キャンベル・ジュニアという架空の登場人物が出てくるのだが、その人物が書いたというこれまた架空の報告書を以下に続けて引用しよう。
アメリカは地球上でもっとも豊かな国である。しかし国民の大半は貧しく、貧しいアメリカ人たちは自分を卑下せざるをえない状況におかれている。(中略)貧民の国でありながら、現実には貧乏することはアメリカ人にとって犯罪に等しいのだ。賢く、徳が高く、したがって権力や富を持つもの以上に尊敬される貧民の物語は、世界各国の民間伝承に見うけられる。しかしアメリカの貧民のあいだに、そのような物語は存在しない。
(前略)なかでももっとも有害なのは、アメリカではたやすく金が儲けられるという虚言である。金を儲けることが実際にはどれほどむずかしいか、アメリカ人は認めようとしない。金を持たぬものは、したがっておのれを果てしなく責めることになる。そして、この自責観念が、一方で金持や権力者の財産となってきた事実を見逃すことはできない。貧者への義務を公的にも私的にもほとんど果たすことなくすましてきたという意味では、彼らはナポレオン時代以降もっとも恵まれた支配階級といえるであろう。
付け加えるなら、ここに出てくるアメリカ人の性質に関する文章は、アメリカ軍下士官兵捕虜が貧しいが故に、いかに「品性下劣」で「自分を愛するすべを知ら」ず、また「他人を愛すること」さえできない不完全な存在であるか、その理由をドイツ人に対して説明するくだりである。
キャンベル・ジュニアによると、アメリカの貧民は自身に金がない(金を稼ぐ「能力」がない)ことを「嘲」るばかりか、「自責」の念に駆られて誰も愛することができない孤独な存在なのだという。
故に、そのような観念が邪魔をして公助や共助が適切に機能せず、富める者は富める者同士でつながりながらますます富み、貧しき者は誰のことも信用せず、お互いをすら蔑み孤立していくしかなくなってしまう。
そして、キャンベル・ジュニアは、そのような貧しいままに戦争に従軍した兵士のことを、「ひとりひとりが暇さえあれば、死んだほうがマシだと考えている不機嫌な子供」と表現して憚らない。
ここのくだりは、まさにキャンベル・ジュニアの、あるいは作者であるヴォネガットの痛烈な皮肉が効いていると考えるべきだろう。
なぜなら、本来なら誰しも簡単に手に入れられるはずの金を稼ぐ力がないことへの自己責任を社会に対して引き受けざるをえないからこそ、貧しい者は自らを「卑下」し自分なんて価値がない(そして自分と同じような境遇にある者もまた価値がない)と拗ねる「不機嫌な子供」としてしか振る舞えなくなってしまうからだ。
以上見てきたように、メリトクラシーつまりは(過剰な)能力主義への信仰が、アメリカの貧民が貧民のままに誇りを持って「大人」として振る舞うことを阻害している、というのがキャンベル・ジュニアの診断なのだった。
だからこそ、貧しい境遇から卑屈になるしかないアメリカ軍下士官兵たちに「兄弟愛」的なホモソーシャルの連帯など、望むべくもない。
すなわち、経済的な市場競争に負けたことをただちに自力の敗北であるとみなして矮小化し、どんな困難に遭おうと、たとえ貧しき境遇に陥ろうとも仲間を信頼しながら自分自身で道を切り拓かんとする姿勢が、(キャンベル・ジュニアから見た)アメリカ人には決定的に欠けているということになるのである。
だが、一方で少なくとも当のヴォネガット自身は、そこで示される能力主義への信仰にも、さもなくば兄弟愛にも、コミットするような態度を示してはいないように思われる。
むしろ彼が強調したかったのは、「自力」という時にファナティックで反物理的な心的過程の限界を、「笑い」を含んだ文体でもって示すことだった、と言って良い。
たとえば、アメリカのピューリタニズムに内在する「勤労」と「禁欲」の精神は、無尽蔵の生産性と現実創出を尊び、それが後の「ニューソート」や自己啓発的な精神運動につながっていった。
19世紀に生きたメスメリストのフィニアス・クインビー、成功哲学を編み出したナポレオン・ヒル、ジョセフ・マーフィー、あのドナルド・トランプにも影響を与えたとされるノーマン・ヴィンセント・ピールといったアメリカにおける自己啓発者の系譜は、「心で強く願えば必ず叶う」とか「気の持ちよう」など、今でこそ人口に膾炙した自力中心主義の考え方を重視する。
そうした思想が、1960年代に席巻したカウンターカルチャーからシリコンバレーの思想へと姿形を変えながら脈々と受け継がれていることはほぼ間違いないだろう。
以上を踏まえた上で、ヴォネガットの示す抵抗とは本当は何であったかを考える必要があるのだ。
私はそれが、まさに自力中心主義を基盤とした当時のアメリカの時代精神に対してのものであったと考えている。
いや、当時どころか、かの精神は今現在もアメリカという国を分厚く覆い尽くしているのではないか。
ヴォネガットの意図としては、今も昔も世の中自力ではどうにもならない他力がどうしようとなく介在しているからこそ成り立っているのであり、人間はそのような制約から決して逃れることができないというところにあった。
それに関連して、本書の中で何度も繰り返される印象的なワードのひとつ、「そういうものだ」とは、主に作品内に出てくる(無機物等のモノを含んだ)人が死んだ際に発せられる地の文中の言葉だが、その中には人間と異なり四次元世界を自由に見渡すことができるトラルファマドール星人の死生観?のようなものが垣間見られる。
たとえば、こんな具合に。
わたしがトラルファマドール星人から学んだもっとも重要なことは、人が死ぬとき、その人は死んだように見えるにすぎない、ということである。過去では、その人はまだ生きているのだから、葬儀の場で泣くのは愚かしいことだ。(中略)トラルファマドール星人は死体を見て、こう考えるだけである。死んだものは、この特定の瞬間には好ましからぬ状態にあるが、ほかの多くの瞬間には、良好な状態にあるのだ。いまでは、わたし自身、だれかが死んだという話を聞くと、ただ肩をすくめ、トラルファマドール星人が死人についていう言葉をつぶやくだけである。彼らはこういう、"そういうものだ"。
ここに出てくる言葉に代表される「他力」とは、「決定論」が示す自由意志の否定であり、同一の宇宙に属する存在がどんなに足掻いて訪れる結末を変えようとしても変えることのできない壁として現れるのである。
しかし一方で、種としてのヒトはトラルファマドール星人とは異なり、あらゆる未来や過去をロッキー山脈を見渡すように一望することができない。
だから、人間にとっては決定論というよりも、それが「運」の問題として体感される。
これこそ他力中心主義(コネ)における不公平感の第二の理由だ。
ただし、運は第一の理由、すなわち生まれや血縁の問題をすでに含んでもいる。
それに併せて、裕福な家に養子として迎えられるとか、そうでなければ戦後のビリーの人生のように逆玉の輿が実現するといったことが付け加えられることになる。
後者に関しては、コントロール不可能な生まれの問題よりは何かしらの介在可能性が残されるように感じられるものの、やはり他者や外界がかかわっているため完全にコントロールすることは不可能だろう。
よって、飽くまでも人間の視点において、前者と後者は厳密に区別しなければならない。(もちろん、トラルファマドール星人から見れば決定論の立場に立つことになるわけだから、両者は結局のところ同じでしかないのだが。)
両者を区別しなければならない最大の理由は、どうもヴォネガットが、前者によって生み出される関係性だけでは「充分じゃない」と考えていた節があるからだ。
もう言わなくてもお気づきの読者がいるかもしれないが、ヴォネガットは自力中心主義的なアメリカの時代精神に抵抗するため、他力中心主義、それもコネ(クション)それ自体を真っ向からぶつけているのではないかと、私は推測している。
とはいえ、夫婦関係や実の親子関係といった血縁の再生産もしくは血縁そのものを前提とする関係性は、自力中心主義に抵抗するどころか、自力中心主義の養分になりかねない。
特にアメリカは、君主制を始めとした身分制が事実上存在してこなかった(もちろん奴隷制のことを考えれば、これは欺瞞である。)とされるが故に、ゼロから何かを生み出すこと=自力がすべての前提をなしていた。
だが、それでもお金をたくさん持っている家は同等かそれ以上の家とできるかぎり婚姻関係を結ぼうとするものだし、お金持ちの家に生まれた子が教育やキャリア形成の機会に恵まれやすかったことは確かだろう。
そういった本当の前提が自力中心主義の名の下に隠され、下手をすれば今の成功は自分の能力と実力によってすべて獲得されたものであり、成功を獲得できない輩が出てくるのはそいつの能力や努力が足りないからだとする議論すらまかり通ってしまいかねないのが、アメリカという国の恐ろしいところなのではないか。
彼らのように初めから有力なコネを持った人間のみがますます結びつきを強めていき、そこに大してコネを持たない人間が入り込む余地はなくなる。
たとえば、コネを使えば自分から動くことなしにさまざまな情報を得たり困った時に助けてもらったりみんなで協力してひとりでは決してできないことを成し遂げたりすることもできるわけだ。
その意味では金も土地も家柄も権威も人脈も人手もすべてはコネであり、こうしたコネを多く所有していればいるほどできることが増えていく。
つまるところ、コネとは外界へと自己(の身体)が「拡張」するための本質的な力なのである。
さて、では本書において、「コネ」という概念はどのように登場するのか。
試みに次の一節を見てみよう。
宇宙人の説によれば、新約聖書の物語の欠陥は、キリストがそのみすぼらしい外見とはうらはらに、事実〈この宇宙におけるもっとも強大な存在の息子〉だったことであるという。だから新約聖書の読者は、はりつけの場面まで来ると、必然的につぎのような考えに傾いてしまうのだ。(中略)「なんということだ──連中はとんでもない男をリンチにかけようとしている!」この考えには、双子の兄弟分がある。「リンチにかけてよい人間はほかにいる」だれか? 有力なコネのない人間である。そういうものだ。
実はこの場面、本書に登場する架空のSF作家であるキルゴア・トラウトの『宇宙からの福音書』というタイトルの本の内容を、戦後復員軍人病院でビリーと同じ部屋になったエリオット・ローズウォーターが説明している箇所である。(言い忘れていたが、先に出てきたキャンベル・ジュニアも、トラウトとローズウォーターも、過去のヴォネガットの作品に登場する人物たちだ。)
さらにローズウォーター(の説明を要約する地の文)は、トラウトの小説の展開について以下のように続ける。
宇宙からの訪問者は、地球に新しい福音書を贈る。そのなかではイエスは何の値打ちもない男なので、よいコネを持つ人びとにとって彼はまったく疎ましい存在である。(中略)ある日、人びとはおもしろ半分に彼を十字架に釘づけにし、十字架を地面にうちこむ。反発はどこからも出ないだろう、とリンチしたものたちは思う。(中略)ところが、その無名の男が息をひきとる直前、とつぜん天が裂け、ついで雷鳴と稲妻。やがて神の声がとどろきわたる。神は人びとに告げる、自分はこのなんでもない男を養子にし、〈宇宙の創造者の息子〉として力と権限を永遠にさずけることにする、と。
ここに書かれている通り、トラウトの小説の中に出てくるイエスは、神との血縁関係(父と子)を持っておらず、その関係はイエスの死の直前に唐突に結ばれる養子縁組(養父と養子)の関係となっていることに注目してほしい。
おそらく、ヴォネガットは生まれながらにしてコネに恵まれない人々が、それこそ運や偶然によって後からコネを持ってしまう可能性を侮ってはならない、と言いたかったのではないかと思う。
それは、たとえば彼が後にカート・ヴォネガット名義で初めて出すことになる小説である『スラップスティック』に言うところの「拡大家族」の発想へと確実につながるものだ。
『スローターハウス5』において、必ずしも生まれながらのコネに恵まれていたとはいえない主人公ビリーが戦後になって手に入れたコネは、ヴァレンシア・マーブルとの結婚を通した義父や義父の持つ社会的立場との結びつきだった。
義父の後ろ盾のおかげで、ビリーは検眼医としては異例の成功をおさめ、お金に困らない幸せな生活を送ることになる。
しかし、にもかかわらず、ヴォネガットもビリーも別段そこに特別なまなざしを注ぐことは決してない。(好ましいか否か、という価値判断はあるにしても。)
なぜなら、ビリーは己の人生のすべてをランダムに行き来するけいれん的時間旅行者だからであり、ヴォネガットもまた(あるいは読者も)小説という登場人物たちの栄枯盛衰が刻まれた媒体をページを繰ることで行ったり来たりすることのできる存在に過ぎないからである。
ビリーの幸も不幸も、そこではまったく等しく扱われる。
あたかも地球から遠く離れたトラルファマドール星人の目から見れば、そのどれもが同一空間上に配置された一景の景色として切り取られてしまうかのように。
すべては「そういうものだ」に集約されるのだ。
ヴォネガットが自作において試し続ける「コメディ」とは、このすべてがおしなべて等しいという感覚にこそ裏打ちされているのだろう。
人によっては、そうしたヴォネガットの態度を無気力であるとか諦観に支配された悪しき相対主義と罵るかもしれない。
ヴォネガットは努力の価値を否定し人間の底知れない能力によっていかに世の中が豊かになりえるのか、そういったことを高みからすべて嘲ってコケにする悪辣な作家なのだと。
だが、果たして本当にそうなのだろうか。
そうした疑問に対するヒントとなる文章は、本書の中にすでに挟まれている。
生きることに不熱心なビリーではあるが、彼のオフィスの壁には、彼の生活信条ともいうべき祈りの言葉が額にいれてかかげられていた。それを見て、生きる勇気を与えられたとビリーにいう患者も多かった。それは、こんな文章である──
神よ願わくばわたしに
変えることのできない物事を
受けいれる落ち着きと
変えることのできる物事を
変える勇気と
その違いを常に見分ける知恵とを
さずけたまえ
ビリー・ピルグリムが変えることのできないもののなかには、過去と、現在と、そして未来がある。
この途中の文章自体は「ニーバーの祈り」という言葉で、アメリカではよく知られた一節だ。
ヴォネガットにとって、彼が生きたアメリカという国は変えることのできない物事と変えることのできる物事を区別するための「知恵」を見失っているように映ったのかもしれない。
あらゆる変革は勇気によってではなく、不平不満を抱いた者たちの「憎悪」によって引き起こされんとし、自力中心主義にますます歯止めが効かなくなっていく。
驚くべきことだが、これはまさに今のアメリカの状況にもピタリと当てはまりうるのではないか。
ヴォネガットは、決してあらゆるものが変えられないから何もせずとも良いと考えていたわけではない。
ただ、彼は変えられるものとそうでないものとを冷静に見極めた上で、まずは自分の手が届く身の回りの小さなところから変えていこうとする勇気を持つことに、何よりもこだわっていたのだと思う。
私たちはすべてが変えられると思い上がるべきではないし、すべてが変えられないと絶望するべきでもないのであって、その両端で試行錯誤を繰り返しながら、人生を少しでもよくしようとすることができる。
その結果、自分が思った通りに全部がうまく運んだわけではないけれど、周りの人たちの助けや思わぬ偶然の巡り合わせで、ほんの少し前より豊かな生活を送れるようになった、と心から満足できる日がいつか来るかもしれない。
その時、その人はこういうだろう。
「そういうものだ」
思うに、本当の笑いとは人生の最後の最後に訪れる。
うまくいったこともあれば、うまくいかなかったこともある、けれどそれでいい、それがいいと思える感覚。
そして、そうした人生が存在しえたのは、自力以外のあらゆる縁やつながりがあってこそだったのだと。
だからこそ、ビリーのようにけいれん的な時間旅行を経験できない私たち未来のコネディアンにとって、『スローターハウス5』はささやかな希望の書であり続けるのである。
参考資料
青山直篤『デモクラシーの現在地 アメリカの断層から』(みすず書房、ニ〇ニニ年)
雨宮純『あなたを陰謀論者にする言葉』(フォレスト出版、ニ〇ニ一年)
石田健『カウンターエリート』(文春新書、ニ〇ニ五年)
カート・ヴォネガット『これで駄目なら 若い君たちへ──卒業式講演集』(円城塔訳、飛鳥新社、ニ〇一六年)
カート・ヴォネガット『スラップスティック』(浅倉久志訳、早川書房、ニ〇一三年)
カート・ヴォネガット・ジュニア『スローターハウス5』(伊藤典夫訳、早川書房、一九七八年)
ドミニク・チェン+安田登「未来の身体論対話」(『現代思想2022年9月号 特集=メタバース-人工知能・仮想通貨・VTuber…進化する仮想空間の未来-』青土社、ニ〇ニニ年所収)
以上になります!
いかがでしたでしょうか。
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それでは、次の記事でお会いしましょう!
さようなら〜。

