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「世界が女性化している」と嘆く前に|ピーター・ティールあるいはアメリカのニューライトからハンナ・アーレントへ

こんばんは。
最近、でもないですが、アメリカの動向が気になっています。

ニューヨークでは、民主的社会主義者を自称するゾーラン・マムダニが市長になり、トランプ大統領へのカウンターとなりうるかが騒がれているようです。(と思ったら、最新情報ではどうやら両者手を取り合った模様!いやあ、石戸諭氏の言う通りポピュリズムの「柔軟」さはすごいですね…。)

というわけで、今宵はポリティカル・コレクトネスあるいは多様性への反動から、アメリカのニューライト(新右翼)等における性差別の問題を通して見るアメリカ社会論を小論という形で展開したいと思います。

特にポリコレに代表される多様性の問題については、リベラルな雰囲気が圧倒的だった90年代から現在は超有名な投資家であるピーター・ティールらスタンフォード大学の異端児たちが積極的に批判していました。

これらの対立をどのように整理することができるのか、紙幅は限られていますができうる限り頑張ってまとめたいと思いますので、最後までお付き合いくださいませ。

では、早速いってみましょう!


「今の時代、多様性は大事だよね」

耳をすますと、そんな声があちらこちらから聞こえてきます。

確かに、人間にはそれぞれ肌の色や性別、住んでいる国や地域、生まれ、嗜好、思想、仕事などなどさまざまな違い(差異)があり、それらが積み重なって個人が構成されている。

そして、そんな個人が集まって社会生活が営まれるのだとすれば、みんながより良く生きていくために多様性を大事にしようという訴えは至極当然のように思えるのではないでしょうか。

しかし、一方で多様性は90年代頃から、より正確には冷戦が終結し、自由民主主義を中心とした秩序が世界を席巻しようとしていた時から、少しずつ硬直化し、教条的な概念になっていったという側面も否定できない事実であるように感じられます。

現在、日本でも女性初の総理大臣として高市早苗氏が誕生したわけですが、一部のリベラル陣営からは、多様性を軽視している時点で彼女は失格だとするレッテルを無条件に貼られてしまっている状況です。

要するに、彼女は「女性」だから、多様性を擁護するのは当然だとする、極めて一面的(一様)な理解を押し付ける層が一定数いるわけです。

こうした状況を見ていると、90年代、大学などの高等教育機関を中心にポリティカル・コレクトネスの旋風が吹き荒れる中、自らもゲイという性的マイノリティの立場でありながら多様性に懐疑的な目を向けていたとある人物のことが思い出されます。

ペイパル・マフィアのドンと呼ばれたアメリカの投資家、ピーター・ティールです。

ティールは、多様性という概念に潜む「嘘」や「欺瞞」の匂いを嗅ぎつけ、当時としてはいち早く保守の立場からそれを批判した論者のひとりでした。

起業家である石田健氏は、この点に関するティールの考えについて、以下のように述べています。

前提として「ティールがゲイであるにもかかわらず、多様性に反発している」というリベラルによる問題設定自体、ティールには受け入れ難いものだ。(中略)つまり、「彼はゲイだから多様性を支持するはずだ」という考え方は、最初からマイノリティの思考様式を単一の鋳型にはめ込もうとしており、マイノリティの「多様性」に目を配っていないとティールは考える。保守派のゲイがいてもよいではないか、むしろそれこそが「多様性」なのではないか、とティールは問いかける。

石田健『カウンターエリート』文春新書 p.73

ティールのこうした考え方は、当時の大学教育が多文化主義の視点に基づいて、「非西洋的」な議論を積極的に取り入れて学びにしていこうとする風潮に対して、それがむしろ自分たちの文化を貶めるための「反西洋的」な議論にすり替わっているとする疑念と相通じているところがあると言えるでしょう。

また、ティール自身、その出自を見ると移民でありゲイであるというマイノリティ的気質を持ち合わせながら、他方で両親が共和党の大統領であったリチャード・ニクソンの熱心な支持者であり、その後自身もデモ行進はおろか声すら上げない「サイレント・マジョリティ」を重視する姿勢を見せたロナルド・レーガン(後にトランプ)に熱烈な支持を寄せるという、複雑な人間形成を経た人物であることがうかがえます。

そうなんですよね。

人間って、どんな人であっても育った環境とか親の影響とか、そういったさまざまな外界からの影響を被ることで自分を作り上げていく。

言い換えれば、経験を通して血肉となった思考や価値観、ものの捉え方等の「偏り」こそが、その人のその人らしさ=個性を作り上げている。

ところが、過激なリベラルの一部の人たちはそれをあたかも乗り越えられるべき障害として均そうとし、自分たちは普遍的で透明な正義を実現しようとしているのだと豪語してしまうのです。

その結果、「多様性」は普遍的な価値だから「これが受けいれられないならお前は敵だ」と排除するという非普遍的あるいは特殊な態度(矛盾)を晒さざるを得なくなってしまうのでしょう。

そういう意味では、トランプが熱狂的な人気を獲得した理由も、リベラルが見せるそうした「偽善」や「欺瞞」を糾弾しつつ、自らは露悪的な態度(俺は俺の味方になるやつしか信用しないし守らない!)を徹底的に貫き通す点にこそ見出されるのではないかと思います。(ちなみに筆者はトランプをまったく支持していません。ただ、トランプを支持している人間はバカだという意見を唱えている人たちこそ、なぜトランプという存在がこれほどまでに受け入れられているのかを考えずに非難している時点で、現状から目を逸らし思考停止に陥ってしまっているのではないでしょうか。)

翻って日本の現状を見てみても、アメリカ以上にポリティカル・コレクトネスの旗色は悪いと言わざるをえません。

筆者の身近な人たちの中にも、たとえばハリウッド映画のキャストが政治的正しさに配慮したキャスティングをされているとわかった途端にアレルギー反応を起こす人たちが多くいます。

なぜ、日本で多様性やポリコレが受け入れ難いのか。

筆者の考えでは、二つ理由が挙げられます。

一つ目は単純にアメリカに比べて相対的に日本が日本人(主に大和民族)を中心とした少数の民族から構成されてきた(とされる)歴史があるという点。(当然ながら、そこにはアイヌや琉球民族、在日朝鮮人、クルド人などの異なる民族もまた、時に日本人等のマジョリティによって抑圧されたりあるいは緊張関係を保ったりしながら生きてきたという前提が含まれています。)

それに対してアメリカの人々は、よく「人種の坩堝」と形容されるようにさまざまな人種や民族が日常的に混じり合って生活してきました。

故に、人権意識や平等意識の高まりから、現代のアメリカにおいては日本よりも配慮すべきだと判断される場面が必然として多くなる傾向にあるのでしょう。

二つ目はアメリカ、というよりも西洋社会がプラトンやアリストテレス以来、フィクションを現実の模倣(ミメーシス)として見る傾向が未だに根強いという点。

これはたとえば、日本人が描くマンガやアニメの人物表現を見て西洋文化圏の人々が「なんで出てくるキャラみんな白人なの?」とか「黒人キャラを出せ!」といった疑問や要求を投げかけるのに対して、日本人が戸惑う様を思い浮かべればわかりやすいと思います。

日本のクリエイターとしては、実際に存在する海外が舞台の作品など特別な事情がある場合を除いて自身が描いているキャラクターの人種がどうとかいちいち考えているわけがありません。

むしろ日本は、フィクションを現実と地続きの模倣として捉える視点が相対的に希薄です。

無論、まったくないわけではありませんが、日本が海外に比べて、性的(エロ)あるいは倫理的(グロなど)に見て寛容なフィクション表現が許されやすい背景には、間違いなくそうした文化の違いがあるように思われます。

「現実は現実、フィクションはフィクション」という割り切り?と言ってもよい区別がなされやすいのかもしれません。(逆に言えば、マンガやアニメのキャラに影響されていじめっ子に勝つために身体鍛えましたとか、人生変わりました!という人は海外の人に比べて日本人にはなんとなく少ない気がしています。それも、フィクションはフィクションという割り切りのなせる作用なのかもしれないですね。)

逆に、西洋人は現実とフィクションのあいだにそれほど強い区別を設けないために、たとえフィクションであっても現実と同じレベルの多様性を取り入れなければならないという倫理が働きやすいのではないでしょうか。

だからこそ、寛容なアニメ文化が大好きな筆者も常々自戒を込めて考えることですが、そうした社会的文化的な背景の違いを無視して頭ごなしに反ポリティカル・コレクトネスと唱えても、あまり建設的とは言えないような気がしています。

めちゃくちゃ月並みなことを言ってしまえば、向こうには向こうの考え方や論理、ものの捉え方があるし、こちらにはこちらのそれがある。

先述した「偏り」の話ですね。

個人には個人の偏りがあるように、文化には文化の偏りが同じようにあるわけで、それらが摩擦し合ったり混ざり合ったりしながら、世界は変化していく。

それは、ティールという個人の偏りがスタンフォードの大学文化(現在はアメリカ社会全体に広がった文化)という偏り(決して「普遍性」ではありません!)に反発するといった次元でも起こりえます。

ティールの思想と一部共鳴するところでは、イギリスの哲学者にして「加速主義の父」であるニック・ランドが挙げられるかと思いますが、彼が民主主義や平等主義の根幹に見出す「啓蒙主義」を強く批判するのも、もしかするとそれが普遍性(理性)の押し付けとして機能してきたものだと考えられたからかもしれません。

ところで、先に紹介した石田氏によると、ティールやランドと思想的に近いところに存在する「ニューライト」(新右翼)と呼ばれる潮流においては、現在「人種差別に関する主張」を後退させるも未だ「性差別主義的な要素」が「色濃く残っている」といいます。

トランプ支持に一役買ったポッドキャスターらは、マノスフィアと称される。彼らは異性との恋愛・性的関係を持てない「インセル」文化とは異なり、自ら「恋愛や社会で成功する方法」を教え合い、フェミニズムを批判し、男性の権利擁護を主張する。(中略)この世界観は、好戦的なメッセージを繰り返し、何度も暗殺未遂にあい、有罪判決を受けながらも、大統領選に挑むトランプの「男らしさ」イメージとも親和性が高い。

同前 p.177-178

どうやらマノスフィアと呼ばれる性差別主義者たちは、自衛のために、そして何より恋人や友人、家族など自分の大切な人々を守れるような「強い男」であれ、という価値観を共有する傾向にあり、暴力こそが最終的な解決手段であるというシンプルな世界観に心酔しているようです。

その上で、彼らに言わせれば、今の世界は「女性化」しており、男らしさが危機に瀕しているとされる。

石田氏の文章をもう少し追ってみましょう。

こうした認識は、右派のサブカルチャーにおいて強化されている。つまり「世界が女性化してしまい、攻撃性、戦闘、対立、大胆さ、リスクを取ること、ただ決断してやってみるといった男性的な美徳が失われつつある」という感覚が、強まっているのだ。

同前 p.178

「男性性」に対する解像度が低いようにも感じられますが、仮に彼らの唱える男性原理の本質が上に引用したような「攻撃性」つまりは「私(たち)とあなた(たち)は異なる」という友敵の線引きにあるのだとすると、彼らが攻撃する本当の意味での・・・・・・・女性原理の本質とはその反対、すなわち「私(たち)とあなた(たち)は似ている」というところに見出されるのではないでしょうか。

そう、「同じ」ではなく「似ている」という表現がここでのミソになります。

というのも、同じは先から筆者が強調している「偏り」のニュアンスを消してしまう、強い言葉のように思われるからです。

何度も述べるように、ティールを始めとしたアメリカの保守派は、リベラル派の押し付けがましい「普遍」という欺瞞に対して強い抵抗を抱き批判していました。

「お前ら(リベラル)、普遍とか言っちゃってるけど、それを受け入れるやつは味方、受け入れないやつは敵ってはっきり分けてるじゃん!そんなの欺瞞だ!」と。

そして次に、「俺たち(保守)は最初から味方と敵の区別を前提にしてそれを公言しているんだから、お前らよりも数段誠実だろ!」と言うことになる。

ただ、そうなると男性原理たる友敵の区別は、「異なる」(敵)と同時に「同じ」(味方)をもまた必然的に呼び込むことにもなるでしょう。

要するに、リベラルは偏りを乗り越え普遍を目指すことで本当は存在するはずの偏りの在処を隠してしまう一方で、保守は友敵の区別を露悪的に表出することをもって自らの偏りへと過剰に同一化し結果として偏り(との距離)を失わせてしまうのです。

よって、筆者にとっては、リベラルも保守も男性原理に縛られた形でお互いを憎しみ合う「同じ穴の狢」であって、彼らの言う男性原理を生き延びさせようとする共犯者に過ぎません。

だとすれば、実は裏で無意識に手を取り合っているリベラルと保守が本当に恐れているのは、「同じ」と「異なる」を撹乱してしまう「似ている」の原理なのではないでしょうか。

リベラルと保守は主張の中身こそ180度違えど、それを主張する態度(「語り口」)において極めて似通っている。

筆者なりの肌感覚で言い換えると、彼らはともにファナティックなところがある。

それぞれが信じる主張を口にする時の熱っぽさ、陶酔、敵に対する嬉々とした攻撃性…。

彼らはお互いに罵り合うことに熱狂し、表向きは相手を滅ぼそうとしているのだけれど、その実、裏では相手が完全に滅んでしまわないことを願っている。

なぜなら、攻撃するべき相手が完全にいなくなってしまったら、自分自身の主張を誰かに対して誇示することすらできなくなってしまうのですから。

故に、彼らが本当に心底憎み滅ぼそうとしているのは、熱を持っていない「冷めた人」、いわゆる冷笑系とかシニシズムと揶揄される人たちです。

両方の陣営のどちらにもコミットせず、遠くから傍観し「あいつらどっちもどっち(DD)笑」とシニカルに構える人たちのことを、彼らは決して許さないでしょう。

けれど、本来知識人の役割とは、そこにこそあったのではないか。

たとえば、哲学者であるハンナ・アーレントは、18世紀ドイツの偉大な詩人にして批評家であるゴットホルト・エフライム・レッシングを称揚し、以下のように述べます。

レッシングは怒りと笑いの中で世界を体験しました。そして怒りと笑いはその本質からして、党派的〔筆者注:「偏り」とほぼ同義。〕です。そのため彼は芸術作品を、それが世界に及ぼす「効果」から独立に、「それ自体として」評価することはできなかったし、またそうしようとも思わなかったのです。また、そのおかげで彼は論争に際して、その都度問題になっている事柄の真偽と関係なく、それが公共圏においてどのように評価されるかに応じて攻撃したり、擁護することができたのです。あらゆるものから攻撃を受けるような人々を、そっとしておきたい、と彼が言う時、それは単なる気高さの表明ではなく、概して十分な根拠によって反駁されてしまいそうな意見や立場に対してさえも相対的権利を認めようとする-いわば本能と化した-配慮の現れでもあるのです。

ハンナ・アーレント『暗い時代の人間性について』仲正昌樹訳、情況出版 p.13

アーレントによれば、レッシングは「情動が、どれだけの現実を魂に伝達するか」こそ「リアリティー」を保証する方法であると主張しました。

それは詰まるところ、「怒り」や「笑い」といった一部の情動が、偏りとしての「現実」を暴露し、それと距離を取って自覚させる確実な方途であるということでもあります。

先述したように、リベラルも保守も偏りを透明にしてしまうか、もしくは偏りに同一化してしまうことでそれ自体から目を逸らそうとする。

レッシングに言わせれば、どちらが正しいか(間違っているか)という「真理」の問題として対立してしまう。

しかし、その時彼らが競っているのは、所詮言葉の中身(内容)についての真偽に過ぎません。

そうではなく、レッシングの述べる怒りや笑いは、いわば口調(形式)そのものに宿るのです。

レッシングもそれを引用するアーレントも、「熱っぽく」自らの正しさを捲し立ててくるような輩に対して、その内容がたとえどのようなことを物語っていたのだとしても、迷わず冷や水を浴びせかけるための口調を選択したことでしょう。

それを証拠にアーレントは、彼女自身の属する偏りである「ユダヤ民族」に対して、とある書物において極めて「軽薄」な語り口で向き合った結果、多くの同胞から非難され愛想を尽かされました。

結局、彼女はただ、世界には無数の偏りがあるだけであり、私もあなたもその偏りから自由ではいられない、そのことを自覚したところから初めて「対話」(「友情」)の真の可能性が開かれる、ということを訴えたかっただけなのだと思います。

そして、実のところティールもまた学生時代から主張や政治信条が「正反対」であったにもかかわらず、変わらず友情を維持し続けられる友人たちに恵まれていたようなのです。

ティールとホフマンは、1986年から1987年にかけての冬学期に、著名な哲学者マイケル・ブラットマンの「精神と物質と意味」と題する講義で出会った。(中略)彼らの主張はしばしば正反対だったが、ティールは後にこう語っている。

 けんか腰なものではなく、二人とも、何が真
 実かをいつも考えていたのです。
                         
(中略)こうしてティールは、自分とは正反対の意見を持ちつつも、忌憚のない議論によって「本当に重要なこと」に集中できる仲間を得た。

石田健『カウンターエリート』文春新書 p.57-58

この文章を読むと、ティールの意図がどうであれ、彼は異なる偏りを持った人間同士の対話の重要性を本当は強く意識していたのではないか、と思われなくもありません。

「世界が女性化している」と嘆く前に、ティールに限らず「男性原理」に支配されている今の好戦的な人たちは特に、できることなら今まで論じてきたようなさまざまな偏りへの自覚について今一度振り返ってみてほしいところです。


参考文献

青山直篤『デモクラシーの現在地 アメリカの断層から』(みすず書房、ニ〇ニニ年)

東浩紀『訂正可能性の哲学』(ゲンロン叢書、ニ〇ニ三年)

石田健『カウンターエリート』(文春新書、ニ〇ニ五年)

加藤典洋『敗戦後論』(ちくま学芸文庫、ニ〇一五年)

木澤佐登志『ニック・ランドと新反動主義 現代世界を覆う〈ダーク〉な思想』(星海社新書、ニ〇一九年)

ハンナ・アーレント『暗い時代の人間性について』(仲正昌樹訳、情況出版、二〇〇ニ年)


閲覧

「トランプ氏、次期NY市長マムダニ氏を「党派超え支える」 共闘へ一転 2025年11月22日 7:54|日本経済新聞」(https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN21DPD0R21C25A1000000/)より


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