【公務員転職】海上保安官を辞めて、早稲田に来た。
二十代半ばで海上保安官を辞職。
周りからは「安定」を捨てた不可解な選択に見えたかもしれません。
しかしその背景には、マニュアルに縛られた労働時間への違和感や「正義」という言葉への深い葛藤、そして自らの時間を自らの意思で享受したいという切実な価値観の変化がありました。
そんな私の軌跡を公開して、今の職から離れられない、学び直ししたいけどなかなか、、、と思っている人の背中を少しでも押せたらいいなと思っています。
海上保安官を志したワケ
私が海上保安官という職業を志した原点は別の記事に記載しておりますが、中学3年の頃、
自分もいつか巡視船に乗り
海という広大な舞台で活躍する人間になりたい
その一心でした。
高校時代も大学進学という選択肢を検討することさえなく、ただ海上保安学校への入学のみを見据えて日々を過ごしていました。
数年前までは『海猿』の影響もあって、海上保安学校の倍率は10を超える時期もありましたが、私が実際に受験した際にはその熱狂もやや落ち着いた印象でした。
それでも入学して周囲を見渡せば,やはり『海猿』に感化されて入庁を志した者が数多く存在していました。特に潜水士を目指す学生たちの体力は化け物級と言っても過言ではなく、凄まじい身体能力を持った人間が全国から集まっていたのです。甲子園に出場したとか、インターハイで優勝したとか、超有名人とか、尊敬できる人がたくさんいたのを覚えています。
実際の学校生活・訓練は厳しく、当時の様子は以下の記事を見て欲しいです。
また、課業においては厳しい訓練に耐えかねて脱落していく者もいる中で、残されたメンバーでいかなる困難も乗り越えていこうと誓い合ったものです。
週末の飲み会では馬鹿騒ぎをしながら、まるで血を分けた兄弟のように密度の濃い時間を過ごしたことは、今でも夢のような、美しい思い出として心に刻まれています。
こうした海上保安学校での生活を語る上で欠かせないのが、今でも深く心に残っている校歌の存在。

特に
「夕べ楽しき語らいは,これ仁,これ智,これ力」
という一節を、私は何よりも気に入っています。
全寮制という閉ざされた環境下で、一人ひとりがまさに運命共同体として寝食を共にする学生たちにとって、一日の終わりに仲間と語り合う時間は、何物にも代えがたい宝物でありました。
そのひとときが、張り詰めた日々の生活を鮮やかに彩っていたのです。
卒業式においてこのフレーズを耳にした際,これまでの情景が走馬灯のように駆け巡り、溢れる涙を抑えることができなかった記憶は、今もなお鮮明に私の中に残っています。
現在、自分の仲間たちが全国各地の海で海上保安官として誇りを持って活躍していることを思うと、一人の元同期として純粋に嬉しく、誇らしい気持ちをになります。
このように、海上保安庁という組織には今でも敬意を持っており、決して組織そのものを否定したいわけではありません。
しかし、憧れと情熱を持って飛び込んだ世界であったからこそ、実際に現場で過ごす中で、自分自身の志向や価値観との決定的な乖離を自覚せざるを得なかったのです。
現場にて
憧れを胸に飛び込んだ現場で待っていたのは、理想とはあまりに乖離した現実でありました。
命を守る最前線における「正義」は,時として個人の思考や独自の分析を全くもって不要とされる。
組織の歯車として画一的なマニュアルを遂行することのみが求められる局面が常態化しており、そこに個人の情熱や分析が反映される余地は極めて少ないのです。
とはいえ,現場での日々が苦悩だけで塗り固められていたわけではなく、むしろ、公務員としての経済的な安定と、そこで育まれた人間関係は、私にとって疑いようのない「ポジティブな思い出」として存在しています。
特殊な勤務形態に伴う手当は厚く、高卒でありながら大卒の初任給を上回る収入を手にしていたものですから。
この平穏な日常に変化をもたらしたのは、皮肉にもコロナ禍でした。
外出する機会が激減したことで,期せずして自分自身と向き合う時間が増大したのです。
コロナ禍で危機に直面している中、新たなスキルを身につけようと学び直しに取り組む人が増え、自分自身は何をしているんだ、という気持ちになったのです。
本当にこの報酬と労働量、自分に合っているのかな。
自分はどこか停滞しているのではないか。
「停滞こそ,我が身の死」
そのモットーが再び胸の中で熱を帯び始めた瞬間でした。
では、海上保安官を辞めたら、自分はどこに行けるのだろうか。
海技士や小型船舶、無線技士の使い道は限られている。自分は高卒。
こうなったら、大学へ行くしかない。。。
本当に思いつきでしかなかったが、環境を大きく変えたいと強く思っていました。
ということで、海上保安業務の中で法律を扱ってきたし、法学部を目指そうかな、どこがいいかな、と思考をめぐらせ、
働きながら受験勉強を完結させられるように、
なるべく科目数の少ない、
私大、、、Fラン卒呼ばわりは嫌だなぁ、、
そうだ、早稲田に行こう。
外出自粛によって生まれた膨大な時間を、私は迷わず大学受験の勉強へと注ぎ込みました。
安定という名の鎖と引き換えに自らの意思を埋没させるのではなく、自らの足で立って未来を切り拓くために、大学進学という新たな夢への歩みを進めていたのです。
退職したときの話
私が受験勉強を開始した場所は、他でもない船の上でした。
海上保安官の職場は船上であり、そこは「衣食住職」がすべて密接に紐付いた制約の多い空間。プライベートが完全に確保されているわけではなく、常に他者の視線が存在する環境下で、私は教科書を開き受験勉強を進めました。
そんな中、業務とは関係のない学びを快く思わない年配の職員も。
「何をやっているんだ」と冷ややかな視線を向けられ、早稲田大学を志望していると伝えた際には、小馬鹿にしたような反応を隠そうともしませんでした。
しかし、自らの成長を否定するような人々が身近にいるという事実は、むしろ「ここには自分の未来はない」という確信を強め、勉強への執念をさらに燃え上がらせる結果となったのです。
仕事と勉強の両立は相当きつかった。
夜勤が続く中での慢性的な睡眠不足により、集中力が途切れることも珍しくはなかった。。。
次第に、こりゃだめだ、仕事やってられねえ、と考えるようになりました。
退職を決意した際、母は私の選択を一切否定せず、全力で応援してくれたましたが、父の反応は対照的であったのを覚えています。
そう言えば、海上保安官を目指すと言った時も全く別の反応でしたね。
辞職の意思を直属の上司である航海長に伝えた時にも、小馬鹿にされたんだっけ、本当に大後悔。
お前みたいになりたくないから辞めるんだよと、怒鳴りつけてやりたかったが、それも面倒だったので、最後までペコペコしていました。(本当によく頑張った👏)
実際に職場を去る日、私の心は解放感と同時に、得体の知れない恐怖に支配されていました。実家へと車を走らせる最中、ハンドルを握る手は確かに激しく震えていたのです。
「本当に早稲田に受かるのか…?」
という不透明な未来への不安が、鋭い痛みとなって胸を締め付けたのです。
実家の自室において、ようやく勉強に専念できる環境が整ったにもかかわらず、数日間は全く手がつけられませんでした。
これまで経験したことのない12時間勉強という自身に課したノルマに挑む中で、私の脳は限界を超え、ついにパニックを起こしました。
今でも忘れられないのは、突如として文字が読めなくなったことです。
漢字もひらがなもカタカナも、その意味が一切脳に入ってこなくなり、言葉すら出なくなりました。
今でも特定の時間(16:00~19:00)には完全に頭が働かなくなってしまいます。
脳の専門家がいればぜひこの症状の正体を伺いたいところですが、当時の私はただ言葉を失うほどの疲労と混乱の中にいたのです。
激しい頭痛に耐えながらも、何とか立ち直り、自分に課した膨大なタスクを黙々とこなす日々が始まりました。
しかし、退職から2ヶ月後に挑んだ最初の受験は、惨敗でした。
人間科学部、文学部、文化構想科学部、教育学部、社会科学部、、、早稲田大学のみに絞ったその年の入試は、法学部を含むすべての学部で不合格という結果に終わりました。
20代前半という時期に、職も持たず、金も稼がず、ただひたすらに机に向かう生活。。。
18歳の時に経験した就職浪人時代とはわけが違う。
まわりは結婚し、子供を授かり、キャリアを積み上げていく中で、自分だけが何者でもないという惨めさと恥ずかしさは、筆舌に尽くしがたいものでありました。
早稲田合格塾
1年間の浪人生活を決意した私は、オンライン予備校「早稲田合格塾」の門を叩きました。
「日本で一番早稲田に強い」という謳い文句は当時の私にとってこの上ない魅力的な学習塾でした。
そこで提供されるユーモア溢れる指導は、私の学力を効率的に引き上げてくれました。
しかしこの時期の記憶は、驚くほどに空白に近い。
それほどまでに「脳死状態」でルーティンを繰り返していたのです。
朝は一定の時間に起床して洗顔し、日の光を浴びながら身体を動かす。決まった時間に特定の科目を学び、昼の疲労は30分間の瞑想でリセットする。
掃除をし、風呂に入り、食事を頂き、また勉強に戻る。
今考えれば「人間離れ」した(笑)規律を、私は1年間1日たりとも欠かさず継続しました。
このような過酷なシステムに挑む若者たちの勇敢さを称えたいと思う一方で、日本の受験制度が孕む異常さを痛感せずにはいられませんでした。
そして現実は甘くはない…
あれほど追い込んだにもかかわらず、
早慶模試の結果は「E判定」を突きつけられたのです。
険しい道のりに呆然としながらも、ひたむきにペンを動かし続けた結果、気づけばクリスマスも正月も通り過ぎ、再び受験シーズンが到来していました。
前年の反省を活かし、早稲田だけでなく明治,中央,関西学院,同志社といった他大学も併願した気がします。
しかし、同志社大学の試験で手応えを感じられず、メンタルが崩壊したことで、早稲田の入試も最高のパフォーマンスからは程遠い状態で挑むこととなったのです。
「これは落ちた」
と半ば諦めかけていました。
しかし、結果として人間科学部だけが私に合格をくれたのです。
合格の報に接した瞬間、私はすぐに仕事中の母へ電話を入れ、祖父母にも報告をしました。
あの時の歓喜は、これまでの苦痛をすべて塗り替えるほどに強烈なものでありました。
当初、私は早稲田に入ればギターを手にバンド活動に明け暮れ、楽曲制作に没頭する生活を送るものだと想像していました。
しかし、実際に入学してみると、人生は私の想像を遥かに超えた面白い方向へと進んでいました。
人生の醍醐味は,この「想像のつかなさ」にあるのだと確信しています。
未知の未来を不安がるのではなく、想像できないからこそ楽しむ。
「ビビって辞めるか,ビビっていてもやるか」という選択こそが、人生の分かれ道となる。
やった後悔よりも、やらなかった後悔の方が、人生においては遥かに深く、長く響くのかもしれないと悟っています。
冷静に振り返れば、あの時の私は間違いなく「頭が狂っていた」と言えるでしょう。
しかし、その狂気がなければ、今の私はここに存在し得なかったのも事実です。
本当、頑張った甲斐があったぜ。まだまだだけどな。

私のことを知っていただきたいので、こちらの自己紹介記事を読んでいただけると、とっても嬉しいです。
今後は、リスキリングを中心に、公務員転職、公務員退職の悩みの相談や,大学・大学院進学に関するカウンセリングを行っていきたいと思っております!
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