「いりません」の奥にあったもの――ある認知症患者さんから教わった心の声
認知症病棟に勤務していた頃のお話です。
ある日、一人の80代の女性患者さんが入院されました。いつも眉間にしわを寄せ、笑顔を見せることはほとんどありません。私たち看護師が話しかけても、返事をしていただけないか、「いりません」の一言で終わってしまう。それが毎日の光景でした。
そんなある日、その患者さんが発熱してしまいました。原因を調べるために検査を、と主治医が説明しても、返ってくるのは「しません、しません……」という拒否の言葉ばかり。無理に進めようとすれば、かえって患者さんの中の「恐怖感」や「不信感」を強めてしまいます。私たちは半日、様子を見ることにしましたが、熱はじわじわと上がっていきました。
認知症の方が検査や治療を拒まれる背景には、体調不良からくる混乱、何のために痛く不快な思いをするのか分からない恐怖、見知らぬ器具や威圧的な雰囲気への抵抗があるのだと思います。そこで私たちは「体がだるくて、熱くてお辛いですよね。少しでも楽になるようにお手伝いさせてくださいね」と、まずは患者さんの辛さに寄り添う声かけから始めることにしました。
上から見下ろすと、それだけで威圧感を与えてしまいます。そこでベッド脇に座り、目線を同じ高さ、あるいはやや下にして、手をそっと包み込んだり、背中を優しく撫でたりしながら話す――ユマニチュードの技法も取り入れてみました。すると患者さんも、少しずつご自分の体調の悪さに気づかれたのか、表情が和らぎ、検査を受け入れてくださるようになったのです。
検査の最中も、工夫を続けました。針や器具に視線が向かないよう、別のスタッフが正面に座り、「お孫さんのお話」や「昔のお仕事、趣味のお話」を振ったり、好きな音楽を流したりして、意識をそっと逸らします。あれほど拒否の強かった患者さんの検査が、驚くほど順調に進みました。
結果は、大きな異常はなく風邪症状とのことでした。発熱には座薬の解熱剤を使い、なるべく負担の少ない方法を選びました。内服薬は服薬ゼリーを使い、「美味しいゼリーを一口どうぞ」と声をかけると、すんなり飲んでいただけました。
そして解熱したタイミングで、遠方に住む息子さんが面会に来られました。息子さんが来たことをお伝えし、その姿を見た瞬間――患者さんは、まるで子供のように飛び跳ねて喜びを爆発させたのです。いつも気難しい表情を崩さなかった方が、その日は満面の笑顔でした。私たち看護師も、その変わりように思わず驚いてしまったほどです。
入院生活や認知症による不自由さの中で、人は無意識に警戒心を強め、自分を守るために「気難しさ」という防衛本能を働かせることがあるのだと思います。けれど、絶対的な安心感と信頼感を持つ身内――息子さんが現れたことで、その張り詰めた糸が一気にほどけたのでしょう。「大切な我が子が会いに来てくれた」という親としての無上の喜びと同時に、息子さんの前だからこそ見せられる甘えや無邪気さが、「子供のように飛び跳ねる」という身体表現となって溢れ出たのだと感じます。
気難しく、拒絶的に見える態度の背景には強い「不安」や「孤独感」「寂しさ」が隠れていることもあります。言葉では「いりません」「放っておいてくれ」とおっしゃっていても、心の中では誰よりも人との繋がりや安心感を求めていらっしゃるのではないでしょうか。
「気難しい」という表面的な態度の奥に隠れていた、患者さんの本来の温かい感情と、安心したいという切実な思い。それが表れた素晴らしい瞬間に立ち会わせていただき、認知症の患者さんの心境を学べる貴重な機会をいただきました。今も、あの患者さんには感謝しています。
