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大きくなったのに ――わが家は今日も、ママ!ママ!!の大合唱 

大きくなったのに

――わが家は今日も、ママ!ママ!!の大合唱

わが家には、大学生の長男と、高専生の次男がいる。

もう大きい。

背も伸びた。
声も低くなった。
予定もある。
スマホもある。
それぞれの世界もある。

それなのに、家の中では今日も「ママママ」の大合唱だ。

「ママ、ちょっと聞いて」

「ママ、あれどこ」

「ママ、これどう思う」

「ママ、あいつがさ」

朝でも夜でも関係ない。
声が大きい。
要望も大きい。
話も長い。

大きくなったのに、まだ私を呼ぶ声だけは小さいころのままだ。

「子どもの成長を感じるとき」

そう聞かれて、私は少し困った。

「もう小さい子じゃないんだ」と、はっきり思った瞬間がないからだ。

卒業式。
背が伸びた日。
ひとりで何かをやりとげた日。

そういう、わかりやすい場面がすぐに思い浮かばない。

むしろ毎日は、もっとごちゃごちゃしている。

すごい。
めっちゃ成長したやん。

そう思った次の瞬間には、もう次の課題が出てくる。

成長したと思ったら、忘れ物をする。
わかっていると思ったら、また同じことでつまずく。
もう大丈夫かなと思ったら、大きな声で「ママ」と呼ぶ。

子どもの成長は、まっすぐな階段みたいには見えない。

進んだと思ったら、戻る。
戻ったと思ったら、知らないうちに進んでいる。

私に見える子どもの成長は、いつも少しジグザグだ。

長男は、幼いころからよくしゃべる子だった。

頭の中が、そのまま口から出ているような子だった。

うれしいこと。
気に入らないこと。
納得できないこと。
自分の考え。

ぜんぶ声に出ていた。

だから、何を考えているのかはわかりやすかった。

今もそこは、あまり変わらない。

長男は、次男や妹の直したほうがいいところを、本人たちにまっすぐ伝える。

そのあとで、私のところへ告げ口に来る。

「ママ、あいつさ」

「ママ、ちゃんと言ったほうがいいよ」

「ママ、聞いて」

とても正しい顔をしている。
かなり上から話す。
家の中の小さな王様みたいなところがある。

でも、その奥にあるものは、たぶんとても繊細だ。

長男として、ちゃんとしなさい。
お兄ちゃんなんだから。
こうあるべき。
こうでなければ。

そんな言葉を、どこかでたくさん受け取ってきた子でもある。

だから長男が、誰かに向かって「こうあるべき」と話しているのを見ると、私の心の奥がぎゅうっとなる。

それは本当に、あなたの声なのかな。

昔、あなたに向けられてきた言葉が、形を変えて出ているだけではないのかな。

そう思うことがある。

私はきっと、長男に「長男らしさ」を求めすぎたことがある。

しっかりしてほしい。
ちゃんとしてほしい。
下の子たちの見本でいてほしい。

そんな思いを、知らないうちに背負わせていたのかもしれない。

長男は、よくしゃべる。
えらそうに見える。
正しいことを言おうとする。

でも本当は、強く見せていないと不安なのかもしれない。

そう思うと、少し苦しくなる。

次男は、幼いころからまわりをよく見る子だった。

人の話を聞いている。
空気を読んでいる。
目の前で起きていることを、自分なりに理解しようとしている。

そんな姿をよく見かけた。

次男にとって、ライバルはお兄ちゃんだった。

負けたくない。
追いつきたい。
でも、お兄ちゃんはいつも少し先にいる。

だから次男は、お兄ちゃんをよく見ていた。

見て、覚えて、吸収して、器用にこなしていく。

お兄ちゃんは、ライバルであり、お手本でもあったのだと思う。

そんな次男も、今でも忘れ物大王だ。

大事なものを忘れる。
必要なことを忘れる。
なぜそれを忘れるのか、こちらが不思議になるくらい忘れる。

それでも、かわいいところが残っている。

「ママ、今日さ」

「ママ、聞いて」

「ママ、これ見て」

なんでも報告してくれる。

大きくなった。
でも、まだかわいい。

しっかりしてきた。
でも、まだ手がかかる。

その両方が、同じ家の中にある。

私はずっと、完璧な子育てをしたかったのだと思う。

完璧な母親。
完璧なママ。
子どもにとって、いつも正しい存在。

そういうものを、どこかで目指していた。

でも現実は、そんなにきれいではない。

怒りすぎた日もある。
言いすぎた日もある。
わかってほしいあまりに、押しつけたこともある。

「こうしなさい」

「それは違う」

「ちゃんと考えなさい」

言って聞かせたことは、山ほどある。

そのときの子どもたちは、だいたいわかっていない顔をしていた。

聞いているのか。
聞いていないのか。
本当に伝わっているのか。

わからないまま、毎日が過ぎていった。

けれど、あとになってハッとすることがある。

家族の誰かが病気になったとき。
友達との距離の取り方。
人との付き合い方。
お金の使い方。

ふとした場面で、彼らが選ぶ言葉や行動を見て思う。

え。
わかってたの。

今あなたたちがやっていることは、私が伝えたかったこと、そのまんまじゃん。

あのときは、まったく届いていないように見えた。

でも、本当はどこかに残っていたのかもしれない。

言って聞かせたことよりも、やって見せたことのほうが、彼らの芯になっている。

そんな気がする。

子どもを育ててきたつもりで、私はずっと見られていたのだ。

家の中でどう動くか。
人にどう向き合うか。
困ったときにどうするか。
お金をどう使うか。
大切なものをどう守るか。

私は、言葉で教えてきたつもりだった。

でも子どもたちは、言葉の外側にあるものも見ていた。

それは少し怖い。

でも、少し救いでもある。

子どもの成長を感じるとき。

それは、きれいな一瞬ではなかった。

「できた」

「すごい」

「大きくなった」

そんな場面を、ゆっくり記憶にしまう前に、また次の課題が出てくる。

ママママと呼ばれる。
忘れ物をされる。
告げ口をされる。
上から正論を言われる。
まだまだ手がかかる。

それでも、ふとした場面で気づく。

ああ。
この子たちは、ちゃんと見ていたのだ。

ちゃんと吸収していたのだ。

私の理想どおりの大人には、ならないかもしれない。

でも、それぞれのキャラクターのまま、大きくなっている。

長男は、よくしゃべる王様のまま。
でも、その奥に繊細さを抱えたまま。

次男は、忘れ物大王のまま。
でも、まわりを見て、吸収して、自分の場所を見つけながら。

大きくなったのに、まだ「ママ」と呼ぶ。

その声の中には、小さいころのままの部分と、もう大人になりかけている部分が混ざっている。

だから私は今日も、途方に暮れながら返事をする。

「なに?」

きっと、まだしばらくこの大合唱は続く。

でもその声の向こうで、彼らは彼らなりに育っている。

私が見逃しそうになるくらい、静かに。
私があきれるくらい、にぎやかに。

今日もわが家は、ママ!ママ!!の大合唱だ。

大きくなったのに。

いや。

大きくなっている途中だからこそ、なのかもしれない。

#子どもの成長を感じるとき

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