巨大古墳は二か所同時に造られていた!?
大和朝廷の全国統一 第三十九回 仁徳天皇③ 巨大古墳は二か所同時に造られていた!?
ヘッダー画像:仁徳天皇陵
はじめに
仁徳天皇といえば、多くの人がまず思い浮かべるのは、大阪府堺市にある最大の前方後円墳、仁徳天皇陵(大仙陵古墳)でしょう。墳丘長約486メートルを誇る日本最大の前方後円墳であり、世界最大級の墳墓です。百舌鳥古墳群の象徴ともいえるこの巨大古墳は、世界遺産にも登録され、日本の古代を代表するモニュメントとなっています。




しかし堺市・百舌鳥古墳群を歩くたびに、私はいつも同じ疑問を覚えます。
これほど巨大な陵墓があるのに、仁徳天皇がここで暮らし、政治を行ったという生前の記憶は、ほとんど残されていないのです。これは応神天皇の古市古墳群でも同じでした。

誉田御廟山古墳(応神天皇陵)という日本第二位の巨大古墳がありながら、応神天皇が現在の大阪府羽曳野市や藤井寺市で政務を執ったというような記憶は、ほとんど残されていません。
巨大な古墳はある。しかし、生前の記憶はない。私は、この「伝承の空白」が気になっていました。
巨大古墳と伝承の空白
『記紀』を読むと、その理由が少し見えてきます。仁徳天皇の政治の舞台は難波高津宮です。難波堀江を開削し、茨田堤を築き、民のかまどを見つめる。国家を動かす舞台は、あくまで宮でした。
応神天皇も同じです。河内、宇治、大和。生前の物語は宮と行宮を中心に展開し、古墳は最後に葬られる場所として登場します。
つまり、生前の伝承が宮にあり、古墳の周辺には少ないというのは、考えてみれば自然なことなのかもしれません。宮は政治の舞台であり、人が集まり、声が響く場所です。古墳では誰も政務を執らない。役割が違うのだから、伝承の残り方も違うのでしょう。
大和でも4世紀の佐紀盾列古墳群などは、宮と陵の伝承地が近いという訳ではありませんので、宮と陵が離れた場所にあるのは、4世紀には既に始まっていたのかも知れません。
では、古墳の置かれた場所とはいったいどういう場所だったのでしょう。何を基準にそこに置かれたのでしょうか。私は、それは「暮らした場所」ではなく、「築く場所」だったのではないかと考えています。
古墳が築かれた場所は、単に埋葬地だっただけではなく、大規模工事を行うための条件がそろった土地でもあったのでしょう。
例えば先行する奈良盆地の佐紀盾列古墳群も、近くを流れる佐保川が、水上輸送に使われたり、治水、灌漑、耕地開発とも深く関わったと考えられます。
渡来人と巨大工事
前回まで見てきたように、五世紀には淀川流域で難波堀江や茨田堤という国家的大土木工事が進められていました。
『日本書紀』仁徳天皇紀には、「新羅人を茨田堤築造の役に使った」ことが記されています。また『古事記』には、「渡来した秦の民を使い、茨田堤と茨田屯倉を作り、難波堀江を掘った」とあります。
渡来人はしばしば「技術を伝えた人々」として語られますが、実際に『記紀』に記される内容は、渡来した人々を労働力として使役していたというように読めます。
『記紀』は政治的に編まれた文書だ、と言われます。たしかに国史として編纂されたものですから、それは当然です。
ただ、対外関係に触れる箇所になると、その「政治的」という言葉が、記事の中身に踏み込まないための便利な言い換えになっているような気がします。「渡来人は技術を伝えた」という、通説だけが独り歩きし、五世紀の国家がどのような労働力で動いていたのか、肝心なところを見失ってしまうのではないかと危惧するのです。
もちろん、渡来人が技術をもたらした側面を否定するわけではありませんし、工事をすべてこの時期に渡来してきた人々にさせたということではないです。各地から集められた人々も、運河を掘り、堤を築き、古墳を築造していたのでしょう。
ですが、『記紀』を読むかぎり、彼らは“技術者”としてだけではなく、“動員された人々”としても描かれていることは、もっと知られてよいのではないでしょうか。
古墳と渡来人
この時期の河内や大和を歩いていると、私には一つ気になることがあります。渡来人の伝承が残る地域の近くに、大規模な古墳が築かれる例が少なくないということです。
百舌鳥古墳群の周辺には陶邑があります。古市古墳群の周辺も、渡来人が早い時期から定着した地域です。
巨大古墳を築くには、その背後に技術を持つ人々と、それを支える膨大な労働力を組織する仕組みが必要だったはずです。
そして、その人々は、現場の近くで暮らし、働いていたはずなのです。
現代で言えば「職住近接」です。
労働集約型の仕事は、時代は違っても、時間と生産性は密接に関わることに変わりはありません。歩くことしか移動手段のない時代です。毎日遠方から現場に通わせるより、工事現場の近くに人々が暮らしていたと考える方が自然でしょう。ですから、巨大工事の周辺には、人々が生活する拠点が必要だったと言えます。
二つの古墳群の謎
これは皆さん意外に思われるかもしれませんが、実は百舌鳥と古市に築かれた巨大古墳は、文献史料とは成立順が異なる可能性があります。百舌鳥では仁徳天皇陵より、次の履中天皇の陵のほうが早いのです。
また、応神天皇陵と仁徳天皇陵は、同じ時期に築造が進められていた可能性があります。
百舌鳥古墳群と古市古墳群は、直線距離にしてわずか十数キロしか離れていない場所です。そこで二つの巨大な工事現場が同時に動いていた、というわけです。



※宮内庁が管理する古墳ですので、発掘調査が行われたわけではなく、出土する埴輪から推定されたものです。
これらの築造を主導したのは土師氏だと説明されます。しかし、私には、それだけでは説明が足りないように思えます。
今に例えて言えば、設計を行う設計事務所の役目や、石棺工事などの専門職を担ったのが土師氏だったとしても、実際に土を運び・盛る工事を行った建設会社とその労働者は違っただろうということです。
もし土師氏がそのすべてを担ったとしたら、巨大古墳群を同時期に二ヶ所以上で築造できる、とんでもない人数の集団だったことになります。工事の規模や実際の労働の流れを考えると、それは現実的ではありません。
古墳を一基、一カ所だけで見ているとわからないことも、こうして並べて見ると、一般的に説明されていることだけでは説明のつかない、新しい疑問がわいてきますね。
私の仮説
私は、百舌鳥と古市という二つの巨大古墳群の背後には、それぞれの労働力集団が存在し、「働き手が別々だった」という仮説をたてました。
もちろん、それらを直接示す史料はありません。
しかし、『記紀』の記述、渡来人集落、職住近接、そして考古学的成果を一つの流れとして眺めてみると、ある姿が浮かび上がってくるのです。
では、その巨大な労働力をまとめていたのは誰だったのでしょうか。
おわりに
「何が史実か」という正解探しを急ぐよりも、まず一つの流れとして応神・仁徳天皇紀を読もうと考えてきました。
ここまで、河内。渡来人。北と西のルート。宇治。難波堀江。茨田堤。そして、百舌鳥と古市。
一見別々に見えるこれらを、一つの川の流れとして眺めてみると、浮かび上がってくるものがありまする。
一つの記事にすると長くなりすぎるので、今回は一旦ここで終わり、次回、二つの古墳群の背後にいた勢力について書きます。
(続けて私のnote記事を読んでくださっている方なら、何となく答えはわかるかも知れませんが)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
おまけ
堺市へ行ったので、ご飯が美味しいと有名な「銀シャリen」さんへ。

混んでいて、相席だったので、料理の写真は撮らなかったです。
我が家では、ガス火で、羽釜で、ご飯炊いているんですね。うちの方が・・とは言いませんが、もちろん美味しかったのですが、違いはあまりわかりませんでした🤣
おしらせ
飛鳥・藤原の宮都が正式に世界遺産登録されました🎊🎊
飛鳥・藤原の宮都世界遺産登録記念シリーズ第三弾。女帝と言われる持統天皇の半生を描く小説『渡す人―藤原の宮都―』は、Tales noteで連載することにしました。全15話中、現在第四章まで公開しています(8月1日現在)。無料ですので、ぜひお読みいただければと思います。自分で言うのもなんですが、少しは文章も上達してきたかな☺️
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第一弾『飛鳥の風の人』もよろしくお願いします。
