見出し画像

大和朝廷を飛躍へ導いた天皇


大和朝廷の全国統一 第三十五話 応神天皇⑦― 大和朝廷を飛躍へ導いた天皇

ヘッダー画像:応神天皇陵

プロローグ


大和朝廷には、国家として大きく飛躍する転換点がいくつかあります。その中でも、最も劇的な変化が起きたのが応神朝だった――私はそう考えています。
小さな商いから始まった企業が、やがて地域を越え、世界へ広がっていくように、国家もまた、ある段階で大きく成長することがあります。応神朝は、大和朝廷にとってまさにその局面だったのではないでしょうか。

応神天皇といえば、後世には八幡大神として広く信仰されます。しかし、今回考えてみたいのは、神としての応神天皇ではありません。奈良盆地に生まれた大和朝廷が、どのようにして列島規模へと成長していったのか。その流れの中で、応神天皇がどのような役割を果たしたのか、ということです。

このシリーズで私は、古墳、河内という土地、渡来人、宇治や巨椋池など、さまざまな視点から応神朝を見てきました。今回はそれらをいったん束ねて、応神朝とは何だったのか、そして応神天皇とは何者だったのかを、少し大きな視野から考えてみたいと思います。

大和朝廷を「任天堂」でたとえてみる

大和朝廷の成長は、三段階に分けて考えるとわかりやすいと思います。

神武天皇――源流を開く創業期
崇神天皇――国家の骨格を整える基盤期
応神天皇――新しい回路を得て飛躍する成長期

少し大胆な比喩かもしれませんが、大和朝廷の成長過程は、任天堂という会社の歩みにどこか似ているように思えます。

もちろん、古代国家と現代企業をそのまま同列に語ることはできません。けれども、京都の小さな花札商として始まった任天堂が、会社としての基盤を整え、やがて世界的企業へと飛躍していったように、大和朝廷にもまた、小さな基盤から出発し、組織を整え、さらに一段大きく成長する過程があったように見えるのです。


任天堂は、1889年に京都の花札商として出発しました。その後、事業を広げながら会社としての基盤を整え、試行錯誤を経て「遊び」という本業へ軸足を定めます。そして1980年代、「ゲーム&ウオッチ」や「ファミリーコンピュータ」のヒットによって世界的企業へと飛躍しました。私には、この成長の流れが大和朝廷の歩みと、どこか重なって見えるのです。



神武天皇: 大和盆地に「源流」を開いた創業期

神武天皇の時代は、奈良盆地南部に根を下ろした創業期でした。まだ限られた地域の勢力ではあっても、この段階で政治的・宗教的な源流が築かれたことが、その後の発展の前提になったと考えられます。

神武天皇が畝傍山うねびやま(手前)の麓で建国。遠くに見えるのは二上山。(飛鳥・甘樫丘で撮影)


崇神天皇: 国家としての「流れを整えた」基盤確立期


崇神天皇の時代は、疫病や反乱が記されますが、苦難を乗り越え奈良盆地をまとめ上げ、祭祀と政治を結びつけることで、政権が組織としての骨格を備えていく時代でした。いわば、大和朝廷が「国家」としての形を整えていく段階です。

三輪山の南麓に宮をおいたのが崇神天皇


応神天皇: 新しい回路を手に入れ、その流れを「大河へ育てた」飛躍期


そして応神天皇の時代、その流れは奈良盆地の外へと大きく広がります。ここで重要なのは、単に版図が広がったということではありません。大和朝廷を支える交通と交易の主軸そのものが、大きく組み替えられていったことです。応神朝とは、大和朝廷が新しい回路を手に入れ、一段上の新しい段階へ進んでいく時代だったのです。

応神天皇軽島豊明宮は、奈良県橿原市大軽町辺りと推定されます。畝傍山の目と鼻の先。(植山古墳公園から撮影)


大軽春日神社に碑が建っています。
宇治の行宮あんぐう桐原日桁宮きりはらひげたのみや伝承地  宇治上神社
淀川の行宮、難波大隅宮なにわおおすみのみや伝承地 大隅神社

それまでの大和を支えた北の道

もっとも、この発展は河内への進出で突然始まったわけではありません。

これまで見てきたように、大和は以前から、琵琶湖を経て日本海側へ通じる北のルートによって外部世界と結ばれていたと考えています。

​敦賀へ抜ける道、琵琶湖水運、そして前回詳しくお話しした宇治・巨椋池へつながる流れは、大和にとって重要な交通と交易の基盤でした。


奈良盆地北端に位置する平城山丘陵のすぐ北側を流れる木津川を下り、巨椋池へ。
かつてあった巨椋池から宇治川(瀬田川)を遡上し、琵琶湖へ。
瀬田の唐橋
琵琶湖を北上
琵琶湖北端 海津大崎へ到着。
知内川。 遠くに見える山を越えれば敦賀。私は、琵琶湖―敦賀間は、知内川を遡上→途中陸行→疋田川を下るルートかなと想像しています。
敦賀湾

内陸にある奈良盆地の勢力にとって、海へ直接出ることのできない不利を補うには、こうした水の道が欠かせません。北へ開くルートは、大和が外の世界とつながるための、いわば生命線だったのでしょう。

応神朝では、もともと存在していた北向きの回路を押さえながら、そのうえに新たな主軸を加えたことにこそ、大きな意味があると思います。

応神朝で本格化する河内・瀬戸内ルート

応神朝の新しさは、その従来の北のルートに加えて、河内・難波を経て瀬戸内海へ開く流れが本格化したところにありました。

奈良盆地の勢力にとって河内は単なる隣接地ではありません。そこは大和川を通じて外部世界と結ばれ、直接海へ通じる窓口であり、大陸・朝鮮半島との交流を受け止める前面基地でもありました。さらに湿地の開発によって広大な耕地を確保できる土地でもあり、人口と生産力を支える新しい基盤となり得る場所でした。

この河内・難波ルートが本格化したとき、大和朝廷の性格は大きく変わります。北へ向かう従来の交易路だけでなく、瀬戸内海を通じてより広い世界へ開く国家へと変わっていく。巨大古墳の築造や広域的な土木事業、渡来系の技術や知識の受容が一気に前景化するのも、こうした交通・物流の主軸転換と無関係ではないでしょう。

つまり応神朝とは、北のルートの上に立ちながら、河内・瀬戸内ルートを新たな成長軸として打ち出した時代だったのです。

従来、大和朝廷(あるいは政権を担う豪族)の影響が及んでいた北ルート周辺地域に加えて、瀬戸内地域や北部九州との接続水域も、しだいに大和朝廷の政治的・交通的な圏内に組み込まれていった、と見ることができると私は考えています。


難波津の候補地の一つ。難波堀江の5世紀の想像図。大阪歴史博物館展示パネル
明石海峡  兵庫県神戸市垂水区
牛窓  岡山県瀬戸内市
鞆の浦  広島県福山市
来島海峡大橋  愛媛県今治市
関門海峡  福岡県北九州市

応神天皇の位置づけ

奈良時代、淡海三船おうみのみふね(天武天皇の系譜を引く奈良時代の文人)によって一括選定された初期天皇の漢風諡号かんぷうしごうの中で、「神」の字を贈られた天皇は、神武天皇・崇神天皇・応神天皇の三人のみ(+神功皇后)です。いずれも大和朝廷の成立・発展における重要な転換点を担った人物であり、応神天皇もまた、その一人として特別な位置に置かれていたことがうかがえます。私は、この淡海三船による「神」という諡号の付与は、本質をよく表していると思います。

応神天皇の時代に見えてくるのは、奈良盆地という内陸の拠点から、大阪平野という海に開かれた地域へ重心を移していく動きです。そこへ渡来系の技術や知識、人材が流れ込み、土木・農業・工芸・記録といった面で社会の生産力は大きく押し上げられていった。巨大古墳の築造や広域的な社会基盤の整備が可能になったのも、こうした条件が重なったからでしょう。

政権の重心を河内・瀬戸内海方向へ移し、その新しい流れを国家の主軸として育てていったところに、応神朝の歴史的な大きさがありました。

応神天皇とは、自ら一人で何もかもを成し遂げる英雄というより、すでにある流れを踏まえたうえで、新しい回路を国家の成長軸として育てた天皇だった。そういう意味で、応神天皇は大和朝廷を飛躍へ導いた天皇だったのだと思います。

河内進出という歴史的意義

私はこれまで、応神朝をめぐる「河内王朝」論や「王朝交代」論には疑問を呈してきました。古墳を見ても、河内という土地を見ても、渡来人の記事を見ても、そこに見えるのは断絶ではありません。

むしろ見えてくるのは、大和に生まれた流れが、新たに河内・瀬戸内海方向へ重心を移し、大きく成長していく姿です。

変わったのは皇統そのものではなく、政権を支える基盤の主軸でした。北のルートが消えたのではない。そのうえに、河内・難波・瀬戸内海へ通じるルートがより強く前景化し、国家の中心を引き寄せていったのです。

応神朝とは、まさにその主軸転換が大きく進んだ時代でした。大和朝廷は、この時期に、北の水の道に加えて、河内・難波を通じて瀬戸内海へ開く回路を国家の主軸としていったのだと私は考えています。


結び――応神天皇とは何者だったのか

神武天皇が源流を開き、崇神天皇が流れを整え、応神天皇がその流れを大河へ育てた。

以前、「ローマは一日にして成らず」というタイトルで記事を書き、その中でイノベーター理論になぞらえて考えたこともありました。どんな新しい製品やサービスも、ある日突然、市場を席巻するわけではありません。小さな始まりがあり、それが徐々に受け入れられ、多くの人々を巻き込みながら大きく育っていくものがあります。


国家もまた、一朝一夕に生まれるものではありません。
どこかから人々がやって来て、「今日からここに国を建てます」と宣言して国ができるわけではないでしょう。しかも大和には、それ以前から人々が暮らし、多くの遺跡や集落が存在しています。

もし外部勢力が武力で征服したのであれば、それを示す大規模な戦乱や破壊の痕跡が、奈良盆地のどこかに残っていてもよいはずですが、少なくとも現在の考古学資料からは、そのような状況は見えてきません。また、祭祀など武力以外の要因で大和を制圧したのであれば、大和から始まった前方後円墳の墓制の理由を説明出来ません。

私には、大和朝廷は一人の英雄が一代で築いた国家ではなく、長い時間をかけて流れを大きくしていった「川」のような存在に思えるのです。


応神天皇は、王朝を取り替えた王ではなく、大和朝廷を飛躍の段階へ押し上げた天皇だったと言うべきです。

大和に生まれた流れが、それまでの琵琶湖・日本海ルートを受け継ぎながら、新たに河内・瀬戸内ルートを主軸化し、列島規模へと飛躍していく時代でした。その転換の中心に立っていたのが、応神天皇だったのだと思います。

次回は、補論として、世間一般に知られている側面、「神としての応神天皇」を見ておきたいと思います。なぜ全国各地に八幡大神として応神天皇が祀られているのかについて書きます。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


おまけ

応神天皇陵から車で5~6分、かすや藤井寺本店に行ってきました。かすうどんの「かす」って、「あぶらかす」なんだそうです、知ってましたか?  私は、そもそもあぶらかすが何かを知りません😅

大阪に住んでいて、あちこちで店は見かけるんですけど、初めて食べました。 「なるほど、こういう味か」と妙に納得。そう言えば、「あほや」というたこ焼き屋もあるよね。「ぼけや」はあるんやろか‎🤔  このネタ、大阪の人しかわからんか💦



いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集