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『古事記』の〈和邇吉師〉は人名なのか

大和朝廷の全国統一 三十三話 応神天皇 ⑤

はじめに

『古事記』は712年成立、『日本書紀』は720年成立です。後に成った『日本書紀』の編纂者が、先に成った『古事記』を知らなかったとは、どうしても考えにくい。この前提で話を進めます。

今回は、かなり大胆な考察(妄想とも言います)を展開していますので、そのつもりでお読みください。

ちなみに私の妄想を先に述べると、『古事記』の〈和邇吉師〉は固有名詞ではなく、「和珥氏お抱えの先生」という意味を持つ【属性+称号】として記されたのではないか、というものです。

王仁と和邇吉師


伝王仁墓掲示の千字文


先に奏上された『古事記』では、論語十巻と千字文をもたらした渡来人学者を和邇吉師わにきしと記します。後の『日本書紀』では、和邇吉師という名は登場せず、「王仁わにが来朝して菟道稚郎子うじのわきいらつこの師を務めた」ことが記されます。『日本書紀』は王仁を固有名詞として記したと思うのですが、問題は和邇吉師の方で、単純な固有名詞には見えません。


〈王仁〉という字面だけでは「わに」とは読みづらいのですが、『古事記』の和邇吉師に対応する人物として理解されてきたため、『日本書紀』の王仁も「わに」と読んでいるわけです。

また、『古事記』にある千字文は、梁の周興嗣(6世紀初頭)の作とされるため、応神天皇期との年代的な問題があることが知られています。



まず、後につく「吉師」から考えてみましょう。吉師・吉士という語は、渡来系集団や職能、称号的な意味で使われていて、もともとは朝鮮半島諸国で官位の一つとして用いられていたようですが、大和政権においては、外交・通訳・記録などの専門実務(文官など)を担う者達に与えられた称号とされます。

「和邇吉師」「難波なにわ吉士」「三宅吉士」「壬生みぶ吉志」「調吉士つきのきし」などの名が残り、特に難波吉士は、難波(現在の大阪)を拠点とした氏族で、「難波吉士◯◯」という名で複数人の名が記されています。

さて、「和邇吉師」ですが、これを吉師が渡来系に与えられた称号だから、氏族の和珥氏(和邇氏)が渡来氏族だという説があります。

しかし、和邇吉師の「吉師」を理由に和珥氏を渡来系とみなすなら、応神朝以前から『記紀』に現れ、多数の后妃を輩出し、『新撰姓氏録しんせんしょうじろく』でも皇別こうべつに分類される和珥氏全体の系譜を、どのように説明するのかという問題が生じます。

※  以下、氏族名は和珥氏、『古事記』の表記は和邇吉師と書き分けます。

和珥氏について


少し寄り道して、まず氏族である和珥氏わにうじについて書きます。和珥氏は、応神朝になって突然現れる氏族ではなく、『記紀』の早い段階から見える古い豪族です。奈良盆地北東部を本拠とし、多くの天皇に妃后を出したことで知られています。

和珥氏の祖は、第五代孝昭天皇と尾張氏の娘・世襲足媛よそたらしひめの間に生まれた天足彦国押人命あまたらしおしひとのみことと記されており、その子孫は多くの天皇に妃后を送り出したとされます。平安時代初期に記された『新撰姓氏録』では、「皇別氏族」(天皇から臣籍降下した氏族)に分類されています。

6孝安、7孝霊、9開化、15応神、18反正、21雄略、24仁賢、25武烈、27安閑、29欽明、30敏達の各天皇に妃后を輩出しています(数字は代数)。しかし、娘を入内じゅだいさせ外戚がいせきとして権力を握った蘇我氏や葛城氏、藤原氏などとは違い、和珥氏は政治面であまり表立った活躍は記されていません。そういう意味では、応神天皇の母である神功皇后を輩出した「息長氏おきながうじ」なども和珥氏とよく似た氏族です。

 和珥氏は、現在の奈良県天理市和邇町、櫟本いちのもと町付近を本拠としたおみ姓の有力豪族です。部曲かきべ(豪族に従属する私有民)である丸部わにべ(和邇部)は、摂津、山城、近江、東国は、美濃、尾張、三河、甲斐、伊豆、そして北陸の若狭、越前、加賀。西は丹波、因幡、出雲、播磨、備中、周防、讃岐など広範囲に分布していました。

その後、春日山麓に本拠を移し、和珥氏の本宗は春日氏を称するようになります。そして、小野、柿本かきのもとなどの諸氏が分かれたとされています。これらの中には、遣隋使として知られる小野妹子おののいもこや歌人の柿本人麻呂かきのもとのひとまろなどの有名人もいます。後漢中平年間(184〜189)の紀年銘をもつ鉄刀が出土した東大寺山古墳を含む古墳群は、和珥氏の墓所と考えられています。

一昨年(令和6年)に開催された、なら歴史芸術文化村特別展「ワニ氏の源流を探る 和爾地域周辺の古墳時代」展示
同上 説明書き
〈和珥坂下伝承地〉「わに」という名の初出は、『日本書紀』神武天皇紀に見える「和珥坂下わにのさかもと巨勢祝こせのはふりという者あり」という記述で、討伐された土蜘蛛がいた場所の名として現れます。のちにこのあたりが和珥氏の本拠となります。

 

和珥氏の名の由来についての私見


「わに」という名については、よくワニやサメといった動物名に由来すると言われますが、それがそのまま和珥氏の氏族名の起源であると言い切ることは出来ないと思います。

『日本書紀』に見える和珥坂下という地名や、和爾坐赤坂比古わににますあかさかひこ神社・赤土山古墳といった周辺の地名をあわせて考えると、この名はむしろ、赤土やはにのような土地の色や地質に関わる古い地名から生まれたのではないかと。


私は、「わに」は本来、「」+「」であったのではないかとも想像しています。



古代地名には、地質・色彩・地形を表す語が多く、「丹(に)」は赤土・鉄分を含む土地を指す例が各地に見られます。

さらに言えば、和珥氏が広範囲に持っていた部曲の分布を見ると、丹生・赤土・鉄生産地帯と重なる地域が少なくありません。部曲は氏族の経済基盤を支える私有民であり、その配置は氏族の得意とする産業や祭祀と密接に結びつきます。

そうした経済的・祭祀的な重要性が、后妃を輩出する有力氏族としての地位を支える一因となったと考えると、いろんなことが腑に落ちるなぁ……と、妄想は膨らみます(笑)


余談になりましたが、こうした点を考え合わせて、私は、和珥氏は「ワニ」「サメ」から連想される氏族ではなく、ましてや和邇吉師だから和珥氏=渡来系氏族などという解釈でもないと考えるのです。


菟道稚郎子


『日本書紀』では、和邇吉師ではなく、百済から渡来した「王仁」という名で、応神天皇の皇子である菟道稚郎子うじのわきいらつこの師として経書や典籍を教えたと記されます。

菟道稚郎子は、大鷦鷯尊おおさざきのみことと互いに皇位を譲り合う話が有名で、最後は菟道稚郎子の死によって大鷦鷯尊が仁徳天皇として即位するという筋立てになっていて、儒教的な徳を示す美談として語られます。

この皇位継承の話は後編で再びふれます。今回は和邇吉師の話ですので、菟道稚郎子の母方の系譜に目を向けて考えていきましょう。

菟道稚郎子の母は、宮主矢河枝比売みやぬしやかわえひめ(宮主宅媛)といい、和珥氏の女性です。つまり、菟道稚郎子は母方に和珥氏を持つ皇子でした。そして『日本書紀』では、その菟道稚郎子は王仁を師として学び、応神天皇はこの末子の皇子を可愛がったことが記されます。

愛する息子に、当時の最先端の知識を、一流の先生をつけて学ばせたというわけです。

その一流の先生を、後発の『日本書紀』は王仁という固有名詞で記します。一方、先発の『古事記』は、〈難波吉士〉のように【地名+称号】で表す例にならって、〈和邇吉師〉という表現を用いたのではないか、と私は考えます。つまり『古事記』編纂者は、菟道稚郎子とその母系の和珥氏にかかる人物として、この名を置いたのではないかと思えるのです。

現代風に言えば、「和邇お抱えの先生」のような解釈イメージですかね。

『日本書紀』は王仁という人物を描こうとした。『古事記』は、その人物が誰に属し、どのような役割を担ったかを描こうとした。

そう考えると、両書の違いは単なる異表記ではなく、語りの方向の違いとして見えてきます。 要するに、私の妄想はこうです。

『日本書紀』はこの人物を王仁という名で記した。けれど『古事記』は、あえて和邇吉師と書くことで、菟道稚郎子の母系である和珥氏の気配、そしてその皇子に授けられる最先端の学知という意味を、一つの表記の中に忍ばせたのではないか。

これは証明できる話ではありません。しかし、こう読むと『古事記』と『日本書紀』の語りの違いが見えてくるように思います。

そもそも『古事記』は、皇室や諸豪族の「根源(アイデンティティ)」や「つながり」を文字の音や響きで表現することに長けた書物です。


歌から読む


この考えに至るもう一つの論拠は、『古事記』には、菟道稚郎子の母、宮主矢河枝比売が応神天皇に見初められ、結婚する際に詠まれた歌にあります。

応神天皇が近江へ行幸した際、宇治の木幡で宮主矢河枝比売を見初めたとされます。そのとき宴の席で歌われた歌です。

長いので歌は省きますが、注目したいのは、この歌の中に、角鹿つぬが(敦賀)・佐佐那美道ささなみじ(琵琶湖西岸)・木幡こはた(宇治)、丸迩坂わにのさか(和珥坂)という地名が並ぶことです。

これらは、まさに和珥氏の勢力圏をたどるロードマップとも言える地名なのです。

角鹿(敦賀)の名換えの記事はこちら。


歌が指し示す近江の地


万葉集には、琵琶湖西岸を「ささなみ」と詠む歌があります。その琵琶湖西岸には現在、JR湖西線が走り、小野駅や和邇駅という駅名があります。琵琶湖の湖幅が狭くなり、琵琶湖大橋が架かる一帯は、和珥氏の部曲である和邇部が関わる土地であったと考えられています。そして後世には、和珥氏後裔の小野氏が本拠を置いた場所とされます。小野妹子の墓と伝わる唐臼山古墳(小野妹子神社)、氏神社である小野神社や、古墳群が点在する場所です。

小野妹子神社から琵琶湖大橋、遠くに近江富士(三上山)を望む。
小野神社は、和珥氏の始祖・天足彦国押人命を祀ります。
小野神社でいただいたマップ ※方位は  ➤


この和珥氏に関わる伝承地が日本海―琵琶湖西岸―宇治に点在していることは、古代を考えるうえで、大きなヒントになるように思います。

もっとも、敦賀や近江へ話を広げるとそれはそれだけで一本の記事になってしまうので(後日記事にします)、ここでは名前を挙げるにとどめ、次回の宇治・巨椋池の話につなげたいと思います。

宇治へ


ここまでの話は、ひとつの妄想にすぎないかもしれませんが、もしこの読みが見当違いではないのだとしたら、次に見えてくるのは、その名が響く宇治という土地です。

現在の宇治といえば、お茶、平等院、源氏物語などで知られますが、そもそも「うじ」という地名は菟道稚郎子に由来するという説もあります。

菟道稚郎子が強く結びつけられる「うじ」とは、どのような場所だったのか。

次回は、宇治・巨椋池・難波へとつながる水の流れから、応神天皇と菟道稚郎子の継承譚を読み直してみたいと思います。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


おまけ


宇治平等院表門前の増田茶舗さんで。修学旅行の女子生徒たちが集まってソフトクリーム片手に自撮りしている横で、コソッと一枚。なかなかシュールな光景だったかもしれません(笑)


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