小春ちゃんは、本を薦めるのが少し苦手 #2
小さな書店併設カフェ「かーでぃ書店」には、今日も何かを探す人がやってきます。本を通して、誰かの気持ちが少しだけ動く。これは、そんなやさしい物語です。
登場人物
小春:高校生アルバイト。やさしくて少し天然。
木村誠:店長。寡黙で誠実。本とコーヒーが好き。
前の話
第二話 桜の夜に、わからない言葉をほどく
三月の終わりが近づき、駅前通りの桜はちょうど満開を迎えていた。昼間は春らしいやわらかさのあった風も、日が落ちると少しだけ冷たくなる。
かーでぃ書店の窓から見える夜桜は、昼よりも静かで、どこか考えごとに向いているように見えた。
閉店まで、あと三十分ほど。
店内にはいつものように、ページをめくる小さな音と、カウンターの向こうで店長がコーヒー器具を片づける気配だけがあった。
小春は新刊の棚を整えながら、ふと窓の外を見た。路面電車がひとつ、花びらの横をすべるように通り過ぎていく。

そのとき、入口のベルが鳴った。
入ってきたのは、スーツ姿の男性だった。四十代くらいだろうか。黒いビジネスバッグを肩に掛け、少し疲れた顔をしている。
ただ、疲れているというより、何かを考え込みすぎた顔、と言ったほうが近いかもしれない。
「いらっしゃいませ」
小春が声をかけると、男性は少しためらってから口を開いた。
「あの……コンピュータネットワーク関係の棚はどちらですか?」
小春は手慣れたガイドで男性を案内する。
「こちらの棚になります。お探し物あれば、お手伝いしましょうか?」
小春はお客様が探されている本を一緒になって探すのが好きだ。一緒に見つけたときのお客様の笑顔が忘れられない。
男は棚に並べられた本を、指差ししながら真剣な眼差しで探している。
指差しも棚の下の方に映り、男の顔にも少し諦めの色合いがにじんでくる。
「えっと……ZScalerっていうネットワークセキュリティの本なんだけど…さすがにないかな。。?」
小春は一瞬だけ目をぱちりとさせた。店の棚には技術書もあるけれど、さすがに製品名で探しに来るお客さんはそれほど多くない。
「Zscaler、ですか」(たしか、SASEの……)
「はい。会社で導入する話が出ていて……」
男性はそこで言葉を切り、困ったように笑った。
「いや、正確には、もうほとんど決まってるんですけどね。ただ、打ち合わせでベンダーさんの話を聞いていても、正直、さっぱりで……」
小春は「少々お待ちください」と言って、隣の技術書の棚へ視線を向けた。
Zscaler。SASE。ゼロトラスト。ネットワーク。頭の中で棚の位置をたどりながら、男性が少ししゃべりはじめた。

「うちは中堅の製造業で、私は情シスなんです。で、今までわりと昔ながらのネットワークでやってきたんですが、去年のアサヒさんやアスクルさんのランサム被害から、ここにきてSASEだ、ZTNAだ、SSEだって話が一気に出てきて……」
小春はうなずきながら聞く。知らない単語が一つではなく、いくつも続けて出てくると、それだけで息苦しくなることがある。
「ベンダーさんは丁寧に説明してくれてるんだと思うんです。でも、単語は聞こえるのに、頭の中でつながらないんです。SWGとかCASBとかZTNAとか言われても、結局それが何のためにあるのか、どこにどう効いてくるのかが、うまく入ってこなくて」
「……なるほど」
「わかったふりで進めるのも違うし、だからといって、何を聞けばいいかもよくわからない。適当に任せて進めて、あとで困るのも怖いんですよね」
その言葉に、小春は小さく目を伏せた。
“何を聞けばいいかわからない”というのは、たぶん、かなり切実な状態だ。
棚の近くまで来ていた店長が、さりげなく会話に入った。
「製品の本を読む前に、SASEそのものを整理したほうがよさそうですね」
男性は店長を見た。
「やっぱり、そうですか」
「製品やソリューションの説明は、どうしても“できること”から入りますから。でも、“なぜそれが必要なのか”がわからないままだと、聞いていても全部ばらばらに見えやすいんです」
男性は、ああ、と小さく息をついた。それは、納得したというより、自分の中のもやもやに名前をつけてもらったときの反応に近かった。
小春は棚から一冊を抜き取り、両手で持って戻った。
「でしたら、こちらはどうでしょう」
差し出した表紙には、こう書かれている。
『SASEがわからなかったので本を書いてみた』

男性はタイトルを見て、少しだけ表情をゆるめた。
「……なんだか、今の自分にぴったりですね」
「はい。すごく詳しい製品解説というより、SASEってそもそも何なのか、どうして必要とされているのか、そういうところから整理しやすい本です」
小春はそう言ってから、少しだけ言葉を選ぶ。
「ベンダーさんとの会話についていくためにも、一度土台から見たほうが楽になるかもしれません」
男性は本を手に取って、数ページめくった。
難しい本を前にしたときの固さではなく、これなら読めるかもしれないと感じた人の手つきだった。
「そうなんですよね……。
たぶん今の自分に必要なのって、”なにをどうする”って話より、その前の前提条件がわかってないんだと思います」
店長が静かに続ける。
「全部を一度で理解しなくても、全体像が見えるだけで、会話の聞こえ方は変わりますから」
店の外では、夜風に吹かれた桜の花びらが、ガラス越しにふわりと舞っていた。満開なのに、もう少しずつ散り始めている。
完成しているように見えるものも、近くで見るとずっと動いているのだと、小春はふと思った。
男性は本を閉じて、しっかりとうなずいた。
「これ、お願いします」
「ありがとうございます」
レジで会計をしながら、小春は心の中でそっと願った。この一冊が、この人にとって“全部わかる本”でなくてもいい。せめて、次の打ち合わせで置いていかれないための、小さな一歩になりますように、と。
それから二週間ほど経った、夕方だった。
入口のベルが鳴り、見覚えのあるスーツ姿が店に入ってきた。
あのときの男性だった。
「あ」
思わず声をこぼした小春に、男性は今度ははっきり笑ってみせた。
「この前は、ありがとうございました」
「いえ……その後、いかがでしたか?」
「助かりました。SASEのこと、全部わかったとはさすがに言えないですけど」
男性はそう言って、少し照れたように頭をかいた。

「でも、前よりずっとベンダーさんの話が聞けるようになりました。ああ、この話はアクセス制御の話なんだな、とか、これはクラウド利用を見据えた話なんだな、とか。何がわからないのかが、自分でもわかるようになったんです」
それは、とても大きな変化のように小春には思えた。
「昨日の打ち合わせで、初めてちゃんと質問もできました。うちの会社の運用だと、どこを気にしたほうがいいのか、自分なりに考えながら話せて」
カウンターの奥で、店長が小さくうなずく。
「それは、よかったですね」
「はい。おかげさまで、無事に導入も始まりそうです。Zscaler、やっと“知らない単語”じゃなくなってきました」
店の外では、満開だった桜が少しずつ葉桜へ向かい始めていた。
春はいつのまにか進んでいく。
小春はやわらかく微笑んだ。
「それなら、よかったです」
男性は一礼して、今度は前より軽い足取りで店を出ていった。
ベルの音が静かに鳴り、扉が閉まる。
小春はその背中を見送りながら、本というのは答えを渡すものではなく、わからないことをほどくための糸口なのかもしれない、と思った。
夜の店内には、コーヒーの残り香と、春の気配がまだ少しだけ残っていた。
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