小春ちゃんは、本を薦めるのが少し苦手 #4
小さな書店併設カフェ「かーでぃ書店」には、今日も何かを探す人がやってきます。本を通して、誰かの気持ちが少しだけ動く。これは、そんなやさしい物語です。
登場人物
小春:高校生アルバイト。やさしくて少し天然。
木村誠:店長。寡黙で誠実。本とコーヒーが好き。
前の話
第四話 それだけのことなのに、思っていたよりずっとよかった
雨上がりの夕方だった。
駅前大通りにはまだ薄く水の跡が残っていて、路面電車が通るたび、レールのあたりが鈍く光った。仕事帰りの佐藤さんは、少しだけ肩を落としたまま歩いていた。別に大きな失敗をしたわけではない。ただ、やることが多く、人に気を遣うことも多くて、気づけば一週間ずっと息をつめていたような気がした。
まっすぐ帰ってもよかった。けれどその日は、なんとなく家に着いてしまうのが惜しかった。
そこでふと思い出したのが、駅前の小さな書店併設カフェ「かーでぃ書店」だった。
木の扉を開けると、やわらかなベルの音が鳴る。コーヒーの香りと、本の紙の匂いが静かに混ざっていて、それだけで少し呼吸がしやすくなる気がした。窓際の席には一人で本を読んでいる客がいて、奥では店長がハンドドリップでコーヒーを淹れている。いつも通り、落ち着いた空気だった。
佐藤さんは何か目的があるわけでもなく、棚の前に立った。実用書の背表紙を目で追っても、内容は頭に入ってこない。ただ、そこに並ぶ文字をぼんやり眺めていた。
「佐藤さん、こんばんは」

やわらかな声に振り向くと、小春ちゃんが白いエプロン姿で立っていた。制服の上からつけたそのエプロンが、店の雰囲気によく似合っている。
「こんばんは」
「今日は、何かお探しですか?」
「いや……探してるっていうほどでもないんだけど」
そう言ってから、佐藤さんは少し笑った。
「なんか最近、休んだ気がしなくてさ。休みの日も家で動画見て終わるし、別にそれが嫌ってわけでもないんだけど、なんというか……切り替わらないんだよね」
小春ちゃんは、すぐには何も言わなかった。相手の言葉を急がせない、その間の取り方が彼女らしかった。
「切り替わらない、ですか」
「うん。忙しいのは忙しいんだけど、たぶんそれだけじゃなくて。上手く休めてないんだと思う」
「それ、ちょっとわかる気がします」
「小春ちゃんも?」
「はい。何もしない時間って、意外と難しいですから」
その言い方が妙にしっくりきて、佐藤さんは思わず苦笑した。何もしないはずの休日に、気づけばスマホを見て、時間を埋めて、結局疲れたまま月曜日を迎える。まさにそんな感じだった。
小春ちゃんは少しだけ考えるように視線を落とし、それから近くの棚へ向かった。数冊の本が並ぶ一角から、一冊をそっと抜き出して戻ってくる。
「こういうのは、どうでしょう」
差し出された表紙には、『大自然の中心でコーヒーをいただく』とあった。

「コーヒーの本?」
「コーヒーも出てきますけど、それだけじゃなくて……外で椅子に座って、のんびり過ごす楽しみ方の本です」
「外で椅子に?」
「はい。チェアリング、って言うらしいです」
「へえ……」
佐藤さんは本を受け取り、パラパラとページをめくった。難しい道具の話がぎっしり載っているわけでも、気合いの入ったアウトドア本という感じでもない。風の音とか、外で飲む一杯とか、少しだけ遠回りして座る時間とか。そんな言葉が、やさしい温度で並んでいた。
「……外で、座るだけ?」
「はい」
「ずいぶん思い切った趣味だな」
「でも、思い切ってないところがいいのかもしれません」
「なるほど」
佐藤さんは小さく笑った。
たしかに、それなら自分にもできるかもしれない。山に登るとか、何かを極めるとか、そういう話なら今の自分には少し重い。でも、椅子を持って外で座るだけなら、気負わなくてよさそうだった。
「これ、佐藤さんに合いそうな気がします」
「俺に?」
「はい。ちゃんと休みたい人に、向いてる本かなって」
その言葉に、少しだけ胸の奥がほどけた。
会計を済ませ、本を片手に店を出るころには、雨上がりの空気が少しひんやりしていた。路面電車の音が遠くで鳴る。佐藤さんは表紙を見下ろしながら、まあ試してみるか、と思った。
次の休日、佐藤さんは半信半疑のままアウトドア用のチェアを買い、コンビニでコーヒーを一本買って、川辺へ向かった。
最初は落ち着かなかった。外で一人で、何をするわけでもなく、ただアウトドア用のチェアを広げてるだけなんて、何をしている人なんだろうと自分でも少し思った。けれど、チェアを開いて腰を下ろし、川の流れを眺めながらコーヒーを一口飲んだ瞬間、不思議と肩の力が抜けた。
風が吹く。
空が広い。
コーヒーが、やけにうまい。

それだけのことなのに、思っていたよりずっとよかった。
スマホを見なくても、退屈しない。何をするわけでもないのに、妙に満たされる。ただ座っているだけなのに、頭の中にたまっていた細かなざわつきが、少しずつ遠くへ流れていく。
「……ああ、これか」
誰に言うでもなく、佐藤さんはつぶやいた。
その日以来、佐藤さんはたまにチェアを持って出かけるようになった。遠くまで行かなくてもいい。近くの川辺でも、公園でも、空が見えればそれで十分だった。外で飲むコーヒーは、店で飲む一杯とも、家で飲む一杯とも違う味がした。
次第に荷物が増えていった。はじめはお気に入りのカップでコーヒーを飲みたいと思い、カップを探した。
つぎにコーヒーを自分で淹れてみたいと思いコーヒーミルを買い、外でお湯を沸かすためにアルコールストーブも買った。
お気に入りの道具で、お気に入りのコーヒーを、まったりと楽しむ。
いつのまにやら、毎週末、チェアリングを楽しむようになっていた。
数か月後。
職場のデスクで少し疲れた顔をしている恵さんを見つけた。書類の整理を終えたばかりなのか、椅子に座ったまま小さく息をついている。表情はいつも通り穏やかだけれど、少しだけ疲れがにじんで見えた。
「めぐちゃん、だいじょうぶ?」
「あ、佐藤さん。はい、だいじょうぶです」
「その“だいじょうぶ”は、たぶんちょっと怪しいやつだな」
「バレました?」
恵さんは困ったように笑った。その笑い方を見て、佐藤さんは少し前の自分を思い出す。別に倒れるほどではない。でも、ちゃんと休めていない。そんな顔だった。
「なあ、めぐちゃん」
「はい?」
「外で座ったことある?」
「……外で、座る?」
「そう。椅子持って、ぼーっとするだけ」
「なんですかそれ」
「いや、俺も最初そう思ったんだけどさ」
佐藤さんは笑いながら続けた。
「意外といいよ。風あるし、空広いし、コーヒーもうまい」
「趣味のすすめ方が雑ですね」
「たしかに雑か。でも、アウトドアでめちゃくちゃ癒されるよ」

それから少しだけ間を置いて、やわらかく言った。
「チェアリングっていうんだけど、前に本屋で教えてもらったんだ。ちゃんと休むのが下手な人に向いてるって」
そう言ったとき、佐藤さんは自分が誰かに何かをすすめる側になっていることに気づいた。
「チェア…リング?」
あの日、ぼんやり本棚を眺めていた自分からは想像もしていなかった流れだった。でも、あの一冊がなければ、たぶん今の自分はいなかった。
疲れたときに、ちゃんと休める方法があること。それを知っているだけで、人は少しやさしくなれるのかもしれない。
佐藤さんはそんなことを思いながら、窓の向こうに広がる空を見た。今度の休日は晴れてほしい。そんなことを考える自分が、少しだけ誇らしかった。
「ふーん……チェアリングかぁ。今週末、行ってみようかな。」
次の話
かーでぃ書店
チェアリング日和 ~はじめての外時間~
恵さん視点の4コマ漫画「チェアリング日和」もよろしくお願いします🙌
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