国防について皆で考えてみましょう③ 終戦記念日を前にして
1 なぜ日ロ戦役で日本は勝利し得たのか
日露戦役における日本海海戦の大勝利は、東郷大将を賞賛するあまり敵前大回頭(東郷ターン)などの戦術面、砲術の技能による勝利のように誇張されることが多く、そのイメージが根強く定着してしまっているが、実際には全く違う。戦略上、大平洋艦隊とバルチック艦隊を各個撃破できれば勝算が見込めたことに加え、とりわけ逃げ腰のあまり遠方からの攻撃で不首尾となった旅順口攻撃や黄海海戦での教訓を踏まえた戦術の転換、猛訓練が勝敗を決したのだといえる。また、遠距離通信を可能とした三六式無線電信機(英の技術協力が研究開発の起点)と蓄電器、被甲を薄くして炸薬量を飛躍的に増大させた新型砲弾と伊集院信管、露艦隊を焼き尽くすこととなった下瀬火薬(炸裂の威力が強力で高い焼夷性を誇り、発煙が少ないので照準が容易となった。)などの技術力が果たした役割も大きかった。

しかも帝政末期の露国内は混乱、バルチック艦隊は1万キロ以上に及ぶ航海に伴う疲労、栄養不足による病気や体調不良が蔓延、戦意は著しく低下、弾薬の不足で訓練もままならない状態にあった。船体の汚れも積み重なり、石炭の満載で速力が遅いなど、日本側にとっては数々の好運が重なり辛くも勝利したものだが、代償は甚大だった。見方を変えるならば、大国ロシア側からすれば、日本海海戦や奉天会戦は数ある中の戦闘の一局面でしかなく、敗北によって戦意を喪失して講和に応じたわけではなかった。むしろロシアは依然として継戦の意思と能力を有していたのであり、日本側の国力が限界に達していたというのが偽らざる実情であった。
そもそも戦艦をはじめとするほぼ全ての主力艦、その威力を発揮する砲や弾薬などの大半が英、独、仏、伊、米の先進工業国からの輸入であった上、建艦資金の調達を可能とした国際的信用をはじめ、バルチック艦隊の情報、親露の仏や中立国のスペインなどへの巧妙な外交圧力による同艦隊の足止め(航路、入港又は停泊の妨害、物資提供の制限等)で、日本は艦艇の修理や訓練、休養などの時間を得るなど、日英同盟が軍備、情報、戦略面で決定的役割を果たした。特に英は、伊で建造中のアルゼンチンの装甲巡洋艦2隻を露に先んじて日本が調達できるようアルゼンチンに働きかけを行ったばかりか、同2隻を英海軍軍人により日本に回航するのに加え、露の攻撃に備え戦艦、巡洋艦を護衛につけた。そのお陰で日露開戦直後に露が敷設した機雷により失った戦艦2隻の代役を務めたのだ。
和平実現にも、英主力紙による日本擁護の国際世論の高まりやセオドア・ルーズベルト米大統領(後のフランクリン・ルーズベルトとは従兄の関係)の仲裁によるところが大きかったにもかかわらず、日本国民は戦勝ムードに眩惑され、国の窮状など事実を知らされていないこともあって、講和斡旋は日本政府が米に要請したものであった現実さえも忘却した。その上に、戦争に勝利したのに賠償金がないなどの不利な講和条件に映った原因として米を逆恨みすらした。その挙げ句に、日英同盟の解消や中国大陸での対立を境に米英に対する態度を自ら硬化させていき、米英の不可分を顧みることなく、武力を発動し、崩壊への道へ突き進んでいくのであった。

2 日露戦争後の日本帝国海軍
大正10年、ワシントン軍縮会議で全権代表を託されたのは、日露戦役での日本海海戦で連合艦隊参謀長であった加藤友三郎海相(大将、後に首相)だった。米国案の五・五・三の比率受諾(主力艦対米比6割)に強硬して反対する自軍を抑え、同条約を締結した。加藤友三郎大将の死去とともに、艦隊派(条約反対派)と呼ばれる海軍軍人が、東郷大将を神格化し聖将との尊称であがめて担ぎ出し、権威発揚、軍備拡充の口実として利用、部内闘争により条約派の有能な人たちを予備役に編入させるなどして一掃し、海軍を骨抜きにした。その上で、自分たちが主流を占め、日本海海戦の赫々たる勝利を再び夢見て対米戦備の増強に邁進すべく政治の舞台に台頭し、なりふり構わず軍縮条約からの脱退を主張するようになった。条約反対派の中心人物として当時から知られた存在だったのは、加藤寛治中将だ。加藤は、ワシントン海軍軍縮会議に首席随員で赴いた際、全権である加藤友三郎海相を差し置いて開会早々に、「対米7割は日本防衛のために絶対譲れぬ最低線である。これが獲得できぬ限り、日本は会議を脱退、帰国する」と脅しともとれる声明を行った。すると加藤全権は、加藤随員に対し、「今後、こういうことがあったら、即刻帰国を命じる。軍紀に照らして処分する」と指導したが、加藤随員は、「軍人としての見解の相違」と非礼にも言い返すほど、事態は深刻だったにもかかわらず、海軍はこれを咎めようともしなかった。
実は、連合艦隊という編制が常置されるようになったのも大正12年以降からで、それ以前は戦時体制になって初めて設けられるものだった。このことは、好戦的軍隊に変貌した日本帝国海軍を象徴するものであり、後の対米戦の構図はこのとき既に出来上がりつつあった。しかも、海軍は関東大震災後の財政窮乏に鑑み軍備削減を断行した陸軍を横目に体制の維持どころか、軍縮条約を不平等条約との言いがかりをつけ国民の敵愾心を煽り、軍拡に突き進んだ。近代化といえば聞こえは良いが、中身は戦争を目的とした戦力増強に他ならなかった。その意味では、海軍の没落並びに開戦への火種は、昭和9年にワシントン海軍軍縮条約を廃棄、制限なき建艦競争に突入することを各国に通告し、国際安全保障体制から脱退したときに始まっていた。更には、天皇陛下のお叱りを受けながら、11年の「従来の仮想敵国、米、ソ、中に英国を加える」との国防方針を決定や後の三国同盟につながる日独防共協定の締結を経て、奇しくも零戦の開発と大和・武蔵、初の本格的空母翔鶴・瑞鶴の建造に着工した翌12年は、一連の海軍軍縮条約が失効した時期と一致しており、戦後対米和平派ともてはやされるようになった三羽カラス(米内光政海軍大臣、山本五十六次官、井上成美軍務局長)によって、国の行く末が運命づけられたとみることができる。彼らは立場的にも能力的にも、それこそ命がけの使命感さえあれば尚更のこと、避戦、和平の実現は不可能ではなかったにもかかわらず、新たな国是を求め他国と協調連携して、それに向け政策を軌道修正するなど、建設的で秩序ある言動を採ることは何一つなかった。逆説的にいえば、軍縮条約を遵守履行さえしていれば太平洋における防衛現状(維持)条項と相まって、軍事費は抑制され経済は発展し、戦争に突入する必要もなかったのかもしれない。その点で、海軍軍縮条約の問題は国家全体の重大な問題であったが、海軍の専管事項であるかの如く考え、不介入の態度をとった陸軍にも責任の一端があるともいえなくもない。むしろ海軍は、海軍大国の米英を仮想敵国とすることによって、予算折衝に際し、陸軍を尻目に、「鉄をくれ、予算をくれ」と戦備を拡大してきただけの、いわば張り子の虎の如き見せかけの艦隊としての性質が顕著で、昭和14年8月米内光政海相が大蔵大臣に対し語った、「大体日本海軍は米英を向こうにまわして戦争するようには建造されておりません」との言葉に端的に表れていた。その点で、膨大な国費を投じて巨大な軍備を建造し無敵海軍と大言壮語ながらも、国民の生命財産を守るという重要な役目を果たせず、それも欠陥であると端から分かっていたというのであるから、国力を単に浪費しただけで、降伏に際し国体護持だけしか念頭になかった日本政府と同様に、国民に対する重大な裏切りであった。戦中には、「愚直な陸軍、悧巧な海軍」、「陸軍が粗暴なら、海軍はずるい」、「無知な陸軍、弱い海軍」などの言葉があったというが、実に的を射ていたというものだ。
3 開戦前夜の帝国海軍
日独伊三国同盟調印翌月の昭和15年10月(対米戦開戦の前年)、近藤信竹海軍軍令部次長は、「対米開戦準備は明年4月に完成するから、アメリカの建艦に日米比率が広がらないうちに早く開戦するのが有利」といい、同作戦課の神重徳先任部員は陸軍参謀本部に対し、「翌16年4月には、対米7割5分の戦備が整うので、米英を敵としても南方作戦を断行すべきだ」と申し入れた。この頃連合艦隊司令長官となった山本五十六は、海軍省(海軍大臣)、航空本部などに出向き、「零戦と陸攻各1,000機を、戦争の準備として整備してもらいたい」と度々要求をしつつ、「現状の兵力で戦えといわれるのならば、初期の戦闘に関する限り、相当有利な戦をやれるだろう」との自信を示したことから、和平ムードはぶち壊しになり、開戦に拍車がかかった。現に、同15年翌11月山本長官統裁下で蘭印作戦に関する図演を行った際も、既に対米英戦が前提となっていた。
つまり、対米戦が昭和16年に開始されたことは、この時点で空母を含む航空兵力が米を大きく上回っていたこと、新型空母や大和型戦艦の就役などと密接に関係していた。同16年5月27日の海軍記念日(日露戦争の日本海海戦の日)、海軍省報道課長の平出英夫大佐(在伊大使館付武官の際、伊との軍事協定締結を推進)は、『海戦の精神(世界動乱に処す帝国海軍)』と題するラジオ演説を行い、この中で、「日本は参戦することなしと断言することは誰にもできない。(中略)帝国海軍は艦船五百余隻、(中略)、軽々しく我に挑戦するものあらば、これを一挙に粉砕せんとする態勢にある。(中略)航空兵力は、その数すでに四千機、(中略)独特の必殺戦法をも練りつつある(開戦劈頭の真珠湾奇襲攻撃のこと、とりわけ浅深魚雷による停泊中の艦艇攻撃を指すと思われる。)」と宣言し、まさに「開戦への意気込み」を海軍自らが言い放った。大手新聞各紙がこれを大々的に報じ、戦争に至る空気を醸成した。
翌6月、米は独のソ連侵攻により独の敗北が決定的となり、英の危機は解消されたと判断する一方で、日本に対する警戒心は一層高まり、妥協の必要性がない強硬姿勢で臨むようになった。この時点で、日本としては三国同盟の目的が独の都合によって対ソ同盟から対英同盟、更に対米同盟へと二転三転しており離脱を検討すべきだったが、独の快進撃に惑わされた結果、政府は独の作戦に呼応するかのように海軍が主張する南進を決定した。一方の米は、前年9月の三国同盟調印後、対日戦争を真剣に考慮しはじめた。7月軍令部総長の永野修身大将は、「寧ろ此際、打って出の他なし」と開戦の意思を天皇陛下に上奏した。これに対し、その直後独伊訪問から帰国した山下陸軍中将(後大将)は、「日本は隠忍自重、国力を培養し軍の近代化を図るべきである」と東條陸相に意見具申したが、とき既に遅かった。政府は、戦局が独有利に展開しているとの判断から、米の警告を深刻に受け止めないまま、米英は出て来ないで黙認するとの思惑違いで、不用意にも陸海軍を南部仏印に進駐させた。しかし、米英は日本の外交暗号の解読により表向きとは異なる日本の侵略意図を知り得ており、英蘭は石油禁輸を表明、米は在米日本資産凍結で報復、同様に英、加、豪、ニュージーランド数か国も日本資産を凍結した。しかし、日本は自覚がないまま、武力偏重の外交を更に推し進めたため、米はフィリピン、英はシンガポール(日本は占領後昭南島と改称)という極東における重要な戦略拠点が危機に瀕するとの切迫感が募り、8月米は石油輸出全面禁止で更に厳しい対抗措置で日本に対応を迫った。然るに、日本政府はこれらの対日経済制裁をABCD包囲網だと国民に喧伝し、対外的危機感を煽ったため、国内の対米強硬論に歯止めがきかなくなり、後に引けなくなってしまった。
同7月上旬連合艦隊司令部は、軍令部に対し真珠湾作戦の要望書を提出、軍令部は大量の船舶を徴用し商船は特設空母に、漁船は特設掃海艇に改装する手筈を整えた。連合艦隊司令部は、翌8月いっぱいで中国方面の作戦を打ち切り、約1か月後(9月下旬)臨戦準備完成の予定で、中国に駐留する十二空などを解隊し、零戦と陸攻を中国から内地、台湾、朝鮮へと引き揚げさせた。各艦隊は、母港に帰投させ修理や整備を行い、弾薬などを補給するとともに、大規模な人事異動に着手した。また、軍令部は陸軍参謀本部作戦課に対し、奇襲作戦の腹案を極秘事項として提示、商社などを通じて石油や鉄くず、生ゴム、ボーキサイトなどを緊急で買い付け備蓄を行い、戦時編制を発令した。翌9月6日天皇のご臨席を得て開催した御前会議では、「対米戦争を辞せざる決意の下に概ね十月下旬を目途とし戦争準備を完整する」、「外交交渉により10月上旬頃に至るも、なおわが要求を貫徹しうる見込みなき場合においては、直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」と事実上の開戦を決定した。この際、永野総長は、「飛行機の活用等を加味考量いたしまするに、勝利の成算は我に多しと確信いたします」、作戦成功の要件として、「第一には彼我戦力の実情よりみまして、開戦を速やかに決定しますこと、第二は我より先制すること、第三には作戦地域の気象を考慮することなどが極めて必要でございます」と陳述した。更には、「大阪冬の陣の如き平和を得て翌年の夏には手も足も出ぬような不利なる情勢の下に、再び戦わなければならぬ事態に立至らしめることは執るべきに非ず」とまで饒舌に語り、躊躇いもなく奇襲攻撃による開戦を披露したが、天皇陛下からお叱りを受けた。同9月中旬連合艦隊司令部は、軍令部作戦部長、課長、部員立ち会いのもと目黒の海軍大学校で「布哇(ハワイ)作戦特別図上演習」を秘密裏に行った。翌10月軍令部戦備担任の第二部長(鈴木義尾少将)は、ラジオで、「対米譲歩に限度があり帝国は正に雄飛の機である」と国民に向け、対米戦の決意を表明した。
米英は、戦争を望んでいたわけではなかったが、日本の態度を見るに覚悟を決め、その後の交渉は日米双方とも戦争準備のための時間稼ぎの意味合いが濃くなり和平は顧みられなくなった。こうした状況下で、日本政府はハルノート(日本の外務大臣に相当する国務長官のコーデル・ハルが日本に対案の位置づけで提示した11月26日時点の交渉文書)を最後通牒だったかのような歴史観が一般に定着して久しいが、その趣旨は日本が中国や仏印から全面撤兵(昭和12年7月7日の状態に復元)するとの要求で再交渉を提案するものであり、即時撤兵と明記してあったわけではない。第一に即撤退を開始したとしても数か年は要すると見込まれるものであったし、在米日本資産凍結の解除や最恵国待遇による通商条約再締結等も含まれていた。短期的に成功する見込みはさほどなかったにせよ、妥協点ないし戦争回避の選択肢は僅かながらも残されていたのであって、開戦が完全に不可避となったわけではなかった。しかも、ルーズベルト大統領の同意の上で提示はされていたが、仮に日本が提案を拒絶しても、大統領は宣戦布告を勧告することを前提にしておらず、宣戦布告を要請する米議会にも事前に説明されたものでもなかった。このため、日本側は中国国民党政府との停戦合意で信頼醸成を図りながら、米に対しては三国同盟からの脱退をちらつかせ、一時的にでも譲歩の姿勢を示しつつ、条件の緩和を引き出すなど、柔軟さを合わせ持ち我慢強く交渉を続けていたならば、これ以上の侵略をしないとの交換条件付きになろうが、先の大戦は生起しなかったとみることができる。戦後、草鹿龍之介元中将も、「少なくとも平和に対する真剣味と熱意において、いま一段の謙譲と努力があれば(日米開戦は)避けることができたのではないかと考えられる」と率直に認めたとおりであった。
内閣総理大臣直轄の総力戦研究所(所長は飯村穣陸軍中将)では、「開戦後、緒戦の勝利は見込まれるが、その後の推移は長期戦必至であり、その負担に青国(日本)の国力は耐えられない。戦争終末期にはソ連の参戦もあり敗北は避けられない。故に(対米)戦争は不可能」との結論だった。陸軍省戦争経済研究班(陸軍省主計課別班)も、「対英米戦の場合、経済戦力の比は20対1程度と判断するが、開戦後2年間は貯備戦力によって抗戦可能、それ以後は我が経済戦力は耐えがたい」と判断していた。いずれの場合も日米の国力差を概ね正確に把握していただけでなく、実際の戦局推移もほぼ合致するもので、どれも「日本必敗」の結論に変わりなかった。だが、開戦ありきの海軍はこうした陸軍の説明に対し、「対米戦準備の最中に、このような数値を発表することは士気に影響が出る」と猛反発した。更に軍務局第2課長として対英米強硬論・開戦推進に深く関わった石川信吾大佐が、「戦争必至の大局観をもって戦争決意を行い、対策を立てよ、戦争すれば局面は好転することを分からせるんだ」と部下に強引に命じ、開戦三年目から船舶量が増加に転ずるような見積もりを作らせるなどして、海軍は国力を偽り、不利な情勢にも勝算があるかのような都合の良い数字を引っ張り出してくるようになった。そもそも、陸軍は物理的にいっても太平洋を主戦場とする対米戦を主役の海軍抜きでは勝手に始められず、いったん開戦準備となれば大量の動員と多方面に展開を必要とし、期間や予算の関係で中止や撤収も容易ではないので、事なかれ主義かのような海軍の不誠実で曖昧な態度が平和的解決の最後の望みを閉ざしたといえ、決意がなく確たる戦略もなき開戦は否応なく秒読みの段階に突入したのであった。海軍上層部は、山本長官が主張する米主力艦隊を撃滅するという真珠湾奇襲作戦によって対米戦の成算を見出したと勘違いしたといえるのであり、早急に開戦に踏み切りたいというのが本音だった。公然と「三国同盟締結反対」、「対米英戦不可」を主張し、戦争に至らしめないよう最善の努力をした者は全くといってよいほど認められず、開戦に至るまでの経緯を通覧すると、真相はむしろ米内光政海相をはじめとする海軍関係者による主張に基づく戦後の通説(海軍は戦争に反対だった等捏造した偽りの歴史)とは真逆であった。つまり、外交と併行して戦争準備を進めた陸軍とは異なり、海軍は外交とは無関係に予め開戦時機を見定め、対米戦準備を着々と整えていたようにしか観えない。しかも、勝算が全くない戦争に陸軍や国民を引き込んだ責任を痛感し、勇戦奮闘するのかと思いきや、まるで違ったのだった。
現に、終戦時海軍トップの軍令部総長であった豊田副武元大将は、雑誌『文藝春秋(昭和30年)』が企画した提督座談会の席上、「私は当時中央の枢機に参与しておらなかったから知らないけれど」と前提条件を付しながらも、「ある一部の者は、それほどまでに負けるとは思っていなかった。アメリカ国民がいつまでも旺盛な戦意を継続するか判らん(と考えた)。グアーンと一つ、出鼻を挫いてやれば、案外うまくいくんじゃないか、といったような甘っちょろい、希望的観測が、一部の人になかったといえないんじゃないか。そういう疑念を私は持っておる。そうすると、海軍は戦争反対だったと、一概に言い切れないものがある」と語ったことがその証左である。その点において、正に真珠湾攻撃のだまし討ち(※)が、先の大戦の直接的引き金となったのであって、日米開戦に至るまでの道程は戦後さしたる批判もなく不問にされ、海軍に重大な責任があった。
4 国防とは
戦争を知らない私たちは、今や語り部のほとんどを喪い、その実相を過去の記録から追体験で学ぶしか手立てがないが、現実感は完全に失われてしまっている。あの時代の指導者も、なぜ常識で勝てないと分かりそうなものなのに、自ら戦争という道を選んだのか、どうしてあのような惨めな結果になったのか、その全容を明らかにしていない。また、先の大戦が日本にとって何を意味したのかという歴史的な問いにも正面から応えようとしていない。自存自衛のためという開戦理由も、戦力差が拡大せず勝ち目が少しでも残されてるうちに戦争をするための都合良いこじつけであった可能性も否定できず、アジアの解放などは付け足しでしかない。真に海軍がジリ貧論で対米英戦を主張するに至ったとおり南方の資源(仏印・タイの米、蘭印の石油とボーキサイト、シンガポールの錫とボーキサイト、海南島の鉄など)を手に入れることだけが目的であったならば、対米英戦の他に外交を含め採るべき道があり、少なくとも米英を殊更に刺激するだけで利点の少ない、日独伊三国同盟の締結を避けるか、後にでも対米交渉を有利に進めるために解消を示唆するなどすべきだった。むしろ、強硬な日本の態度は米英にとってはむしろ挑発的でさえだったのであり、要は、何を何から何によって守るのかの認識さえも曖昧で、今どきの政治家と同様に国防の基礎もまるで理解していなかった。
また、日本にとって日清戦争以来の無敗神話が禍いした。海軍は総力戦、長期消耗戦となるはずの対米戦を、大勝利した日露戦争の日本海海戦と同列ないし延長線上の艦隊決戦と捉え、真珠湾作戦のように一撃を加え大損害を与えさえすれば、日露戦争と同様に敵が妥協し講和できると漫然と考えていた。だが、日本海海戦は船速が遅い水上艦艇による砲戦のみの海戦で、それも数ある戦闘の一つに過ぎないことが理解できておらず、戦争の大局観、近代戦の実相認識を欠いていた。旧態依然の軍備や制度疲労も、一部の先駆者が指摘してはいたが、変革が試みられることもなかった。とりわけ、海洋国家であり資源小国である日本にとって海上交通の保護、沿岸・港湾の防備に海軍力が果たす役割がより重要だったが、戦術面では艦隊決戦を主眼として敵艦隊を外洋に求め、あるいは誘出して邀撃することを使命と捉えており、軍備、戦力組成の面からも船団護衛の兵力を欠くなど、守勢的要素が欠落した異質で、好戦的な軍隊だった。かかる状況においても、海軍士官の頭の中を支配したのは砲戦による艦隊決戦だけであり、その戦争観たるや軍事対決(物質的破壊)を真正面から挑み続け屈服させるという古典的なものだった上に、国力で劣り戦備にも欠く日本海軍は、そのような決戦なるものを一回限りで勝敗を決しなくてはならないとしか考えなかった(短期決戦思想)。いわば、「戦争=戦闘」という視野狭窄的な考え方が根底にあり、戦闘こそが戦争の勝敗を決めるとしながら、「ロクな戦争(戦闘)をしなかった」との高木惣吉海軍少将の言葉どおり、皮肉にも戦争に重大な転機をもたらす戦略的意味がある軍事的勝利を挙げることはただの一度もなかった。資源的に恵まれず、総合的国力で大きく劣る日本軍に勝ち目などがあるわけもなく、米軍の本格的反攻後は海上交通の確保もままならず資源は底をつき、戦争が長期化すれば、レーダーやVT信管などに象徴される技術革新などで戦闘の様相も大きく変化し、劣勢に追い込まれるのは必然といえた。旧海軍は、緒戦こそ一時的に米太平洋艦隊に対して優位に立ったが、それで米が妥協や屈服をするわけなどなく、山本長官が描いた短期決戦による早期講和など後世の夢物語に過ぎなかった。そもそも中国大陸で都市を次々に陥落しても、戦争を終結できなかったのと同じ状況になることぐらいは少なくとも容易に想像できたはずであり、限定的戦争、戦闘に歯止めをかけられるということ自体が単なる幻想に過ぎないことが全く理解できていなかった。
なぜそのように至ったのかは、一つ明確なことがある。陸軍では、『明治卅七八年日露戦史』の編纂に際しては、軍にとって不都合あるいは不名誉な事柄、部隊や個人の失策については真相を暴露するべきではないと厳しく禁じ、事実は漠然とした記述で覆い隠し潤飾するよう指示をしたため、火力の不足、弾薬の欠乏などの組織的課題は勿論のこと、軍人として最小限の教訓さえも無に帰された。そうでなくとも、故人の名誉を重んじるあまり忖度してしまうのが日本人の常であり、責任の追及どころか、原因の追究は勿論のこと、対策の検討など、批判的研究を行うことさえも許されなかった。海軍では、この点に加え、『極秘 明治三十七八年海戦史』は、『軍機 海戦要務令』などとともに、機密取り扱い区分が高く指定されていたため、厳重な規則のもとで特定の士官だけが閲覧が許可されるという扱いを受け組織的に活用されずに終わり、歴史を大局的に捉える好機を失ってしまった。つまり、昭和の旧陸海軍は日露戦争の後、第一次大戦を含め、これらに係る政治、外交、経済、科学技術、情報、報道、軍備など、国力と戦争との関わりを総合的に検証、研究すべきだったのであり、軍人の政治指導にはもとより限界があったのである。『戦史叢書』も全く同じと言え、屈折した歴史的流れの中で編纂された経緯があり、割り引いて受け止めなくてはならない。というのも、戦後20~30年も経ってから、それも当時その場にいなかった実務者が、関係者からの聞き取りや提出された資料をもとに記述したものであり、終戦直後から出版され続け、自衛隊高級幹部や政治家に上り詰めた元海軍高官らの書籍群や発言による影響を排除できるはずもなかったからだ。また戦後、戦争指導の責任追及と同時に原因追究を他国による審判(極東軍事裁判、東京裁判ともいう)に委ね、日本人自らが行わなかったことも同じであり、GHQは日本独自に裁判を行うことを認め具体的構想もあったのだから、やりたくなかったとの心情が漏れ伝わる聖断は、辛くて忌まわしい過去を一刻も忘れ去りたい、責任を曖昧にする日本人らしい特質によるものだろうが、これによって日本が真に平和的民主主義国家として生まれ変わる好機を半ば恒久的に失ってしまったのであり、罪深いといえよう。
世界史的観点で概観すると、第一次大戦後の1928年(昭和3年)、国際紛争を平和的に解決する手段として締約国相互で戦争の放棄を行い、平和的手段により紛争を解決することを目指しパリ不戦条約が締結された。この時代、国際連盟は提唱国だった米の参加を欠き、連盟規約に集団安全保障を明文化したものの、強制手段としては経済制裁しか有していなかったため、紛争の未然防止は、このパリ不戦条約と先述した軍縮条約に大きな期待が掛けられていた。だが、こうした平和の枠組みに挑戦する無謀で危険な国が国際舞台に出現した。それが大日本帝国だった。しかも、当時日本は第一次世界大戦の戦勝国の一員として国際秩序を維持するため、他国の模範となるべき重大な責任ある常任理事国の立場にあったにもかかわらず、旧陸軍は西欧諸国をしり目に中国大陸で満州事変を引き起こした。日本政府は一時的な武力衝突であり、自衛のための武力行使と正当性を演出するため、戦争を事変と言い換え国民の目を偽った。中国国民党政府の要請に基づき、紛争調査委員会(リットン調査団)が設置され、報告書により自衛が目的と主張する日本軍の行動や満洲国建国の自発性が否認されると、松岡洋右全権が、感情露に「さらば連盟よ。連盟との連携は是れ以上は不可能」と退場し、その後日本政府は連盟からの脱退を通告した。新聞各紙が、「名誉ある脱退」と威勢の良い言葉で書き立て、当時の日本人にとってはさぞ痛快だったかもしれないが、その実は常任理事国という重責を無責任にも放棄し、国際紛争を平和的に解決するための他国との対話、協議する場、機会を公然と投げ捨てたような蛮行と世界の眼には映った。青年の主張でもあるまいに老獪さにも欠けもはや無能に近いとはこのことであり、外交的孤立の途に自らを追い込み自滅し、自ら戦争という道を選択せざるを得なくした元凶といえた。しかも、後の三国同盟締結に際し、同一人物によって同じ過ちが繰り返されたのだから始末に負えない。旧海軍はというと、戦艦・空母の建造を制限するワシントン海軍軍縮会議から脱退を強硬に主張するに留まらず、巡洋艦・駆逐艦・潜水艦の建造を制限するロンドン海軍軍縮条約からも脱退し軍拡に突き進み、米英との軍事的対立を徒に先鋭化させ、ついには(米英から武力攻撃を受けたわけでもないのに)自存自衛を旗印に武力を発動するに至り、政府は戦争に国民を駆り立てていったのである。
そもそも、日本は日清日露戦役の2年を超えて戦争をしたことなどなく、国運を賭した戦争は1905年日本海海戦以来30年以上も経験しておらず、今と同じ平和ボケが蔓延した状況であった。天皇陛下にたった1か月で終わらせると約束した日華事変(日中戦争)は日米開戦時既に4年以上が経過、国力を相当に消耗していた上に解決の糸口さえ何も見い出せないにもかかわらず、思い上がった日本は国力10倍超(実松譲大佐による石油、鉄、アルミなどの戦略物資による比較では開戦時78倍)の米に加え、英蘭豪を相手に宣戦し、場合によってはソ連とも戦うとしたのだ。あのヒトラーでさえ、真珠湾攻撃の4日後に米に宣戦布告しながらも、日本が本気でこれに挑むなどとは思ってもみなく、(米の参戦に恐れおののいたからか)驚きや狼狽を隠せなかったというのだから、いかに無謀な戦争を始めたのかが分かるというものである。日本の指導者は、中国が日本側の要求や主張を受け入れる可能性が無く、戦争の終結は事実上不可能で、軍事力では何も解決しない現実に直面しながらも、更に屈服不可能な米英を相手に力尽くで戦争を始めたが、開戦の決定は愚かにも独の勝利による英降伏という楽観的で他力本願的な想定に基づいていた。更に海軍の主張を鵜吞みにし、豪を英連邦から脱落させるなどすれば、米の戦意は喪失し講和の機会が訪れるとの日本政府の情勢判断は甘く、実現性が極めて乏しい希望的観測、救いがたい願望だったといえた。戦争終結のための具体的構想なり、見通しを何一つ持っていなかった点は、日清・日露戦役の際の日本政府、当時の指導者と決定的な違いがあった。しかも、本音では、開戦当初から米と早期に講和がしたいとの思惑があり、後に現実にもこれに期待せざるを得なくなっていた日本は、独降伏の前月、硫黄島の戦いを経て沖縄戦開始直後の昭和20年4月ルーズベルト大統領の死去が和平を実現する最後の機会ともいえた。だが、武道での対戦における礼儀作法でもあるまいに首相自らが哀悼の意を表明するだけの有様で、おおよそ国際感覚がずれていたか、和平に取り組む真剣さに欠け、必死さが足りなかった。
加藤友三郎海軍大臣(後首相)は、ワシントン海軍軍縮会議での条約締結後、海軍省宛に伝言を口述し、堀悌吉中佐(当時)に次のように筆記をさせた。「国防は軍人の専有物にあらず。戦争もまた軍人にてなし得べきものにあらず。国家総動員してこれにあたらざれば目的を達しがたし。・・・平たくいえば、金がなければ戦争ができぬということなり。・・・日本と戦争の起こるprobability(可能性)のあるのは米国のみなり。仮に軍備は米国に拮抗するの力ありと仮定するも、日露戦争のときのごとき少額の金では戦争はできず。しからばその金はどこよりこれを得べしやというに、米国以外に日本の外債に応じ得る国は見当たらず。しかしてその米国が敵であるとすれば、この途は塞がるるが故に・・・結論として日米戦争は不可能ということになる。国防は国力に相応ずる武力を備うると同時に、国力を涵養し、一方外交手段により戦争を避くることが、目下の時勢において国防の本義なりと信ず。すなわち国防は軍人の専有物にあらずとの結論に達す」と。これほどまでに国防の本質を実に見事に現した言文はない。この加藤友三郎大将による口述伝書は、敗戦の日まで海軍省の金庫に保管され、日の目を見ることはなかった。それ自体が、昭和の日本帝国海軍を最も象徴する出来事だった。
今また日本は、先進国中未曽有の借金を抱える中、防衛費を倍増して国力が遥かに上回る隣国の中国やロシアに力で対抗しようとしているが、果たして唯一の選択肢、歩むべき正しい道と言えるのであろうか。「安全保障のジレンマ」という言葉がある。国が、自国の防衛のために軍備増強や同盟強化をするほど、相手国には脅威と映り、相互不信が高まり軍拡競争は進み、却って地域の安全や安定が損なわれしまう状況を指し示すものだが、意図しない偶発的な緊張や紛争リスクを高めてしまう恐れはないと果たして言い切れるのであろうか。
後記 此度の記事は、終戦記念日(敗戦日)を目前に、拙稿「日本帝国海軍とは 何だったのか」①②、「ゼロ戦「無敵神話」の光と影」等のエッセンスを再構成し要約して改めて表現し直したものです。エビデンスですとか、詳細な考察は、そちらをご高覧頂けましたら、幸甚です。
※ 弱者の戦法である奇襲による先制攻撃は、日露戦争では、1907年のハー
グ第3条約(開戦に関する条約)制定以前であったので大きな問題とはならなかったが、対英米戦のときは明らかな国際法違反であった。いわゆる宣戦布告に伴う最後通牒であるかのように言われている「帝国政府ノ対米通牒覚書(対米覚書)」は、外務省の手抜かりによる手交の遅れに原因があるのではなく、仮に米がワシントン駐日大使(野村吉三郎海軍大将)から通告を受け、(6時間も遅い時差がある)ハワイに伝達するに十分な時間的猶予をもって伝えたとしても、内容そのものが最後通牒の要件を欠いた文書だった。
「これ以上の交渉継続は無益であり、妥結に至らない」という日米交渉の打ち切りを通告したに過ぎなかった。それでもなお、手の内を明かさないで戦果をより確実なものとすべく、内容は何度も書き換えされ、その度に記述は曖昧さを増しただけでなく、海軍軍令部は手交時間をギリギリまで遅らせるよう外務省に圧力を加え続けた。そもそも、日本政府には宣戦布告の権限はなかった。大日本帝国憲法(明治憲法)の規定で、宣戦布告と講和の権限は、天皇にあったからだ。つまり、事実上の米英の宣戦布告は、天皇が日本国民に向け発した開戦の詔勅(米国及英国ニ対スル宣戦ノ詔書)であったのであり、真珠湾攻撃など実際の戦闘開始から実に7.5時間も経過していた後だったのだ。
山本五十六から真珠湾作戦の立案を命じられた大西瀧次郎少将(当時)は、米国民を本気にさせるような布哇(ハワイ)への攻撃は止めるべき、(当時米の植民地であった)フィリピンへの攻撃に止めては、どうかとまで具体的に進言していた。歴史は、正にそのとおりの経過を辿った。仮に、大西の考えどおりにしていれば、大統領に米議会から対日宣戦布告の権限を与えられることがなく、日米開戦に至らなかった可能性もあった。
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