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「日本帝国海軍とは 何だったのか」②

第二部
1 開戦の空気を醸し出し戦争を不可避にした海軍

 戦争を知らない私たちは、今や語り部のほとんどを喪い、その実相を過去の記録から追体験で学ぶしか手立てがないが、現実感は完全に失われてしまっている。あの時代の指導者も、なぜ常識で勝てないと分かりそうなものなのに、自ら戦争という道を選んだのか、どうしてあのような惨めな結果になったのか、その全容を明らかにしていない。また、先の大戦が日本にとって何を意味したのかという歴史的な問いにも正面から応えようともしていない。自存自衛のためという開戦理由も、戦力差が拡大せず勝ち目が少しでも残されてるうちに戦争をするための都合良いこじつけであった可能性も否定できず、アジアの解放などは付け足しでしかない。真に南方の資源(仏印・タイの米、蘭印の石油とボーキサイト、シンガポールの錫とボーキサイト、海南島の鉄など)を手に入れることだけが目的であったならば、対米英戦の他に外交を含め採るべき道があり、戦後松岡洋右元外相が、「同盟締結によって国を誤った」と懺悔したとおり、少なくとも米英を殊更に刺激するだけで利点の少ない、日独伊三国同盟の締結を避けるか、後にでも対米交渉を有利に進めるために解消を示唆するなどすべきであった。むしろ、強硬な日本の態度は米英にとってはむしろ挑発的でさえであったのであり、要は、何を何から何によって守るのかの認識さえも曖昧で、国防の基礎も理解していなかった。前出の吉田俊雄 氏も、「もと海軍にいて、戦争中ずっと軍令部の末席に座っていたのに、『これだ』という答えが、まだ出せずにいる」、「決めつけるのは簡単でも、本質を突きとめるのは容易ではない」と記した。
 一方で、戦争責任が暴走した軍部、それも陸軍にだけあったとの見方も的外れである。部数や販路の拡大、視聴者の獲得など絶好の商機と捉えた当時の新聞、ラジオがヒトラー、ムッソリーニを礼賛しつつ、強硬路線に突っ走る軍部の顔色を窺いながら、協調又は支持、あるいは催促するかのように、「バスに乗り遅れるな」、「早く三国同盟を結ばないと戦争が終わってしまう」などと声高に世論を主戦論で煽ったことは、隠しようもない事実である。その末に、今度はマスコミ自身が軍国主義ないし国粋主義を愛国心と錯覚した世論に巻き込まれ、国民の大半が望んでいなかった戦争に政府、軍部はもとより政治家や官僚、財界、知識人、国民自身さえをも突き動かす原動力となっていった側面が強く、子供向けの漫画雑誌や映画などの娯楽も戦時一色となった。日本から遠く離れた前線で、お国のためと奮戦した下士官兵の大半は、その犠牲者でさえあったのであり、ましてやその遺族に何の咎があろうものか。対米英強硬路論を形成し、日本を戦争に駆り立て、戦果を誇張し、終わりなき戦争に引き込んだマスコミは、戦後一転して米に協力することで許しを請い関係者は戦犯を免れ、責任の曖昧さと反省の不透明さを残したままである。今では過去を意識的に批判し、威勢よく攻撃することで正義を主張しているように見えるが、本来報道とは権力の暴走を牽制しつつ、国民の平和的生存を図るものでなくてはならない。一方の米は、万が一の対日戦を想定しつつも、独が打倒されれば日本は屈服する公算が大きく、経済封鎖で戦わずして降参すると楽観視していた。サミュエル・モリソン教授の言葉を引用すれば、「アメリカ(国防省)は日本政府内にはアメリカを憤慨し、かつ、団結させて戦争に導くような無制限の侵略行為を回避するに十分な政治的才覚があるものと(勝手に)想像していた」のであり、結果的には米政府の油断ないし誤算、見込み違いが日本の緒戦の戦果に貢献し、後戻りのできない全面戦争を引き起こしたといえなくもなかった。
 帝国海軍が、策を弄してついに長年の悲願であった対米保有艦船比7割5分を達成した昭和16年4月軍令部内では、「もうやるべきだ。負けはせぬ」との勇ましい発言を随所で耳にするようになっていた。遡ること前15年10月の段階で、近藤信竹軍令部次長も、「対米開戦準備は明年4月に完成するから、アメリカの建艦に日米比率が広がらないうちに早く開戦するのが有利だ」といい、同作戦課の神重徳先任部員は陸軍参謀本部に対し、「翌16年4月には、対米7割5分の戦備が整うので、米英を敵としても南方作戦を断行すべきだ。でなければ、部内統制上も都合よろしからず」と申し入れていた。なぜなら、昭和15年米はエセックス型空母3隻を、翌16年には更に8隻の建造を決定しており、これらが竣工すると米に対抗することはもはや不可能になることは誰の目にも明らかだったからで、海軍上層部の焦燥感は尋常ではなかった。この頃連合艦隊司令長官となっていた山本五十六は、海軍省(海軍大臣)、航空本部などに出向き、「零戦と陸攻各1,000機を、戦争の準備として整備してもらいたい」と度々要求しつつ、「現状の兵力で戦えといわれるのならば、初期の戦闘に関する限り、相当有利な戦をやれるだろう」との自信を示したことから、避戦ムードがぶち壊しになり、開戦に拍車がかかった。現に、同15年11月に山本長官統裁下で蘭印作戦に関する図演が行われた際も、既に対米英戦が前提となっていた。つまり、対米戦が昭和16年に開始されたことは、この時点で空母を含む航空兵力が米を大きく上回っていたこと、新型空母や大和型戦艦の就役などと決して無関係ではなかった。同16年5月27日の海軍記念日(日露戦争の日本海海戦の日)、海軍省報道課長の平出英夫大佐(在伊大使館付武官の際、伊との軍事協定締結を推進)は、『海戦の精神(世界動乱に処す帝国海軍)』と題するラジオ演説を行い、この中で、「日本は参戦することなしと断言することは誰にもできない。(中略)帝国海軍は艦船五百余隻、(中略)、軽々しく我に挑戦するものあらば、これを一挙に粉砕せんとする態勢にある。(中略)航空兵力は、その数すでに四千機、(中略)独特の必殺戦法をも練りつつある(開戦劈頭の真珠湾奇襲攻撃のことを指すと思われる。)」と宣言し、まさに「開戦への意気込み」を海軍自らが言い放った(※1)。大手新聞各紙がこれを大々的に報じ、戦争に至る空気を醸成した。唯一これを掲載をせず抵抗を示したかにみえた朝日も、軍令部部員に呼び出され恫喝され、翌17年7月から真珠湾作戦の特殊潜航艇の乗組員をモデルとした小説『海軍』を掲載した。ちなみに、平出大佐(後に少将、戦後は公職追放)は、ミッドウェー海戦での敗戦の際も、「東大平洋への新作戦展開について」と題するラジオ演説を行い、虚偽の戦果や被害を発表し国民を欺いて戦意を煽り、講和機運を醸成する好機を一掃したのであった。同日ルーズベルト大統領は、「無制限国家非常事態」を宣言し、準戦時体制に移行した。戦後、平出大佐と海兵同期で当時軍令部作戦課長であった富岡定俊大佐(後少将)が、先のラジオ演説は自分の策であると自慢げに語ったが、その後彼ら海軍国防政策委員会が強行に主張する開戦のシナリオ(「現情勢下ニ於テ帝国海軍ノ執ルベキ態度(16年6月)」)のとおり、「(米英蘭が石油供給を禁じたる場合)猶予なく武力行使を決意するを要す」、「(政府及陸軍に対し)戦争決意の方向に誘導するを要す」かの如き次第で、事態が急速に進展していく。その中心は第一委員会といい、15年11月海軍省軍務・兵備局及び軍令部課長以上で構成された組織で、海軍省軍務局第二課長となった石川信吾大佐が中心となった。三国同盟によって転換した国策に基づく海軍国防策を活発に遂行することを目的として、陸軍とも連携し、開戦を主導した。このシナリオは、同15年7月に大本営政府連絡会議(※2)において策定された「情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要領」に基づき作成したものであった。海軍は、この時点で既に対英戦に同意、「戦米英分離は不能との認識のもと、南方戦経過途中に対米戦になっても、「戦備ニ遺憾サエナケレバ、コレニ対処シ得ル成算アリ」との自信を示していた。これは対米戦への決意表明と政府、陸軍が受け止めても無理はないもので、三国同盟締結の2か月後のことであった。このようにして、「対仏、泰施策要領(昭和16年1月)」、「南方施策促進ニ関スル件(同16年6月)」、「帝国国策遂行要項(同16年9月)」など、日米開戦に至る重要な国策は、海軍の原案に基づき作成されたものばかりとなっていった。この点に関し、吉田俊雄 氏は、「大佐クラスの40台半ばの秀才たちが、とりわけ富岡定俊作戦課長は最強硬論者で同課作戦班長の神重徳中佐(後大佐)に引きずられる傾向にあり、開戦強硬派の陸軍参謀本部作戦課長の服部卓四郎大佐たちと手を携え、石川信吾大佐と協力しつつ、開戦への作業を進めたのであり、これを許すことになった原因の一端は、永野総長が61歳で年を取り過ぎ、部下の先頭に立って難局を切り開くだけの気力、体力に乏しかったことにあった」と記したが、それだけでは説明が足りず、納得するに十分ではない。
 同16年6月、米は独のソ連侵攻により独敗北が決定的となり、英の危機は解消されたと判断する一方で、日本に対する警戒心は一層高まり、妥協の必要性がない強硬姿勢で臨むようになった。この時点で、日本としては三国同盟の目的が独の都合によって対ソ同盟から対英同盟、更に対米同盟へと二転三転しており離脱を検討すべきであったが、独の快進撃に惑わされた結果、政府は独の作戦に呼応するかのように海軍が主張する南進を決定した。一方米政府は、三国同盟調印後、対日戦争を真剣に考慮しはじめた。このとき、海軍大臣及川古志郎大将は東條英機陸軍大臣に対し、「海軍は対英米戦には自信あり」と発言、「世界戦争は10年の問題だ。この間に支那事変は吹っ飛ぶ。この間に北(ソ連)をやるのが宜しい」との陸軍の主張に協力的とも受けとれる見解を述べ、早々に対米決戦の決意を固めていた軍令部は米英蘭に対する同時作戦計画の立案を開始した。翌7月、同年4月軍令部総長に就任した永野修身大将は、石川信吾大佐ら第一委員会による主張、すなわち「海軍がタイ・仏印に南進しなければ、陸軍は北進し対ソ戦となり、米英とも開戦となるが、その際は独が勝って戦争が早期に終わり南方の資源は手に入らない」というでっち上げの作り話を鵜呑みにし、「寧ろ此際、打って出の他なし」と開戦の意思を天皇陛下に上奏した(※3)。これに対し、その直後独伊訪問から帰国した山下陸軍中将(後大将)は、「日本は隠忍自重、国力を培養し、軍の近代化を図るべきである」と東條陸相に意見具申したものの、とき既に遅かった。政府は、戦局が独有利に展開しているとの判断から、米による警告を深刻に受け止めないまま、米英は出てこないで黙認するとの思惑違いで、不用意にも陸海軍を南部仏印に進駐させたのであった。米英は、日本の外交暗号の解読により表向きとは異なる日本の侵略意図を知り得ており、英蘭は石油禁輸を表明、米は在米日本資産凍結で報復、同様に英、加、豪、ニュージーランド数か国も日本資産を凍結した。然るに、日本政府は自覚がないまま、武力偏重外交を更に推し進めたことから、米はフィリピン、英はシンガポール(後に昭南島と改称)という極東における重要な戦略拠点が危機に瀕するとの切迫感が募り、8月米は石油輸出全面禁止という更に厳しい対抗措置で日本に対応を迫った。日本はこれらの対日経済制裁をABCD包囲網と国民に喧伝し、対外的危機感を煽ったことから、対米強硬論に歯止めがきかなくなってしまった。
 同7月上旬
連合艦隊司令部は、軍令部に対し真珠湾作戦の要望書を提出、軍令部は臨戦準備完成に向け、昨年11月の出師準備第一着作業の発令に引き続き第二着作業を発動、大量の船舶を徴用し商船は特設空母に、漁船は特設掃海艇に改装する手筈を整えた。連合艦隊司令部は、翌8月いっぱいで中国方面の作戦を打ち切り、約1か月後(9月下旬)臨戦準備完成の予定で、急速練成を実施するべく、中国に駐留する十二空などを解隊し、零戦と陸攻を中国から内地、台湾、朝鮮へと引き揚げさせた(それ故、重慶への爆撃は、その直前最も激しく行われた。)。各艦隊は、母港に帰投させ修理や整備を行い、弾薬などを補給するとともに、大規模な人事異動(不定期)に着手した。また、海軍軍令部は陸軍参謀本部作戦課に対し、奇襲作戦の腹案を極秘事項として提示、商社などを通じ石油や鉄くず(石油は約77%、鉄鋼の約70%を米に依存していた。)、生ゴム、ボーキサイトなどを緊急で買い付け、備蓄を行った。翌9月海軍は、ついに戦時編制を発令、天皇のご臨席を得て開催された御前会議では、「対米戦争を辞せざる決意の下に概ね十月下旬を目途とし戦争準備を完整する」、「外交交渉により、10月上旬頃に至るも、なおわが要求を貫徹しうる見込みなき場合においては、直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」と事実上の開戦を決定した。この際、永野総長は、「飛行機の活用等を加味考量いたしまするに、勝利の成算は我に多しと確信いたします」、作戦成功の要件として、「第一には彼我戦力の実情よりみまして、開戦を速やかに決定しますこと、第二は我より先制すること、第三には作戦地域の気象を考慮することなどが極めて必要でございます」と陳述した。更には、「大阪冬の陣の如き平和を得て翌年の夏には手も足も出ぬような不利なる情勢の下に、再び戦わなければならぬ事態に立至らしめることは執るべきに非ず」とまで饒舌に語り、躊躇いもなく平然と主戦論を披露したが、天皇陛下からお叱りを受けた。米英も、戦争を望んでいたわけではなかったが、日本の態度を見るに覚悟を決め、その後の交渉は日米双方とも戦争準備のための時間稼ぎの意味合いが濃くなり、和平は顧みられなくなった。  
 
山本長官は、対米英戦を既定路線として真珠湾攻撃の実施を決心し、同9月中旬連合艦隊司令部は、軍令部作戦部長、課長、部員立ち会いのもと目黒の海軍大学校で「布哇(ハワイ)作戦特別図上演習」を秘密裏に行った。軍令部は、連合艦隊司令部から「成功の算あり」との報告を受けたが、山本長官の希望どおり空母全力を同作戦に使わせるか否かの課題が残った。同9月末からは11月15日完成目途として各航空戦隊ごとに九州の飛行場(出水、笠ノ原、鹿児島、富高、佐伯、大分、大村)や空母を割り当て、標的艦やブイを使用した雷撃、爆撃の洋上での飛行訓練を開始し、真珠湾で使用する浅深魚雷の実用化にも拍車がかかった。翌10月初めにもなると、新型空母(翔鶴、瑞鶴)を戦列に加え、新たな航空戦隊を編制し真珠湾作戦への参加を指示するとともに、鹿児島湾を真珠湾に見立てた雷撃訓練を行った。同10月下旬には、伊潜水艦に特殊潜航艇を搭載する工事を呉で極秘に施し、米英に軍備を整える暇を与えぬよう急ぎ開戦に備えた。このとき、志賀淑雄元少佐は佐伯基地で源田實機動部隊司令部航空参謀からハワイ奇襲作戦について12月8日と決められたと告げられたことを昭和31年4月雑誌『丸』の記事で明らかにしたとおり、軍令部がハワイ作戦を正式に採用していたのは同10月19日のことであった。この直前の同10月中旬、荻外荘での五相会議の際、日米開戦か和平かを決める重大な岐路にあって、及川海相は、「総理から交渉継続を述べてもらえれば海軍は全幅総理を支援する」と泥をかぶる覚悟に欠けた姑息な腹芸をみせ、陸軍を刺激しないよう表面だけを取り繕った。そして、「対米戦争では成算がない」、「対米戦争は回避すべきだ」との本音を表立って言わないことで、後に「海軍は戦う自信はあった」とでもいうつもりであったのか、狡猾にも戦争を始める前から責任を回避しようとした。決断を押しつけられた近衛首相は、「海軍が総理一任といっても、兵力量のことなど、自分にはわからぬ。今度の戦争は海軍の戦争である。それを総理一任とは卑怯だ」と憤慨し反論したものの、辞職に追い詰められた(※4)。この際、及川海相は、「海軍がわざわざそんなこと(開戦反対)を言わないでも、総理も陸軍も海軍の考えは分かっているではないか」と発言したように、海軍上層部は面子や建前に拘り、悪者になり国民の批判の矢面に立たされるのを嫌った。いったんは開戦を決意したとはいえ、近衛首相や陸軍関係者の胸中は国家存亡を賭けた重大事であり、海軍が反対してくれさえすれば戦争を回避できるのではないかという気持ちで一杯ではなかっただろうか。「近衛総理も、海軍の発言に期待していた。しかし、悧巧な海軍は愚直な陸軍を抑えてくれなかった。ここにわが国の不幸の真因があった」、「日本に少なくとも英国のチャーチルぐらいの戦争のことをよく分かった政治家が、戦争に関し、陸海軍を抑えるだけの見識をもった政治家がいてくれたならばと、常に思っている」とは当時内閣総理大臣直轄の総力戦研究所の所長であった飯村穣元陸軍中将の言葉である。当時侍従武官長であった蓮沼蕃陸軍大将も、親補されたばかりの後任の嶋田繁太郎海軍大臣に対し、「及川前海相の態度が明確を欠きました。6月には陸海軍ともに戦争回避に一致していたのに、海軍省某課長(石川信吾大佐のこと)の反対で、にわかに変わってしまい。7月の御前会議(南武仏印進駐の決定)及び9月の御前会議(戦争準備の完整と要求撤回できぬ場合、開戦を決意)となった。この事態に導いたのは海軍だと陛下は考えておられます」と、陛下の御心痛恐戄に耐えないと語っていた。戦後及川海相の後任となった嶋田繁太郎大将自身は、「私は戦争中の海軍大臣としての責任は痛感しておるが、開戦には責任はないのだよ。申し継ぎが終わった後、金庫から出てきた書類で、開戦は既に決定していたからね」との本音を語った。
 仮に、開戦の是非の決定は政府によるものだったにせよ、前任の及川大将は海相の立場にあり政治判断が問われていたわけであったし、それ以前に永野総長が戦えるか否かの軍事的判断を明確に意思表示すべきであった。しかし、海軍は、戦争ができないとでもいおうものなら、艦隊の士気が低下するどころか、権威が失墜し存在意義さえも問われかねないと世論の猛反発を恐れた。陸軍からは予算、鉄、石油は必要ないといわれかねないとの懸念や、陸海軍を統合し海軍を陸軍の傘下におこうとする謀略をもしかねないとの危惧が明言を遠ざけた(※5)。ただ、実際のところは、ただでさえ陸軍と比べ具体的戦果がなく昇進が遅れがちとの不満があったから、建前では戦備充実の遅れを訴えつつ、国家存亡の危機感を煽り腹の底では昇進や退役後の身の振り方を考えていたのか、政界に強い影響力を持ち有力な天下り先である財閥企業の受注急減を憂慮していたのかもしれず、国益よりも自分たちの利益を優先していたのではないかとの疑念は拭えない。「陸軍はいつも国民の間に肩を並べ、国民生活と接触するが、海軍はいつも海上にあって国民と疎遠になりがちであった」と吉田俊雄 氏が指摘したとおり、少なくとも彼らは、国民の生活を顧みることがなかったことだけは確かであろう。この後に首相となったのが、かの東條英機陸軍大将であり、俗に開戦を決した張本人であるかのようにいわれることが多いが、天皇陛下のお言葉に忠実であり陸軍を抑えることができる人物と期待され、組閣の際に陛下から9月の御前会議の決定による開戦決意を再検討するよう命を受け(白紙還元の御諚という。)、10月下旬としていた開戦時期を、「一日でもいいから、長く外交をやらせることはできないか」などと延期してまで日米交渉の打開(戦争回避)に尽力した一面もあった。戦後東京裁判では、「ハワイへの攻撃は東條の指示」などとして処刑されたが、道義的責任を含めても、この結審は明らかな誤り、ペテンである。東條の名誉回復が本書の目的とするところではないものの、東條が首相兼陸軍大臣であっても、当時まだ参謀総長の職を兼務していなかった事実だけをもってしても開戦を止める権限も立場にもなかった(※6)。問題は、なぜそのような不可解な審判になったのかであり、その点については後述する。
 東條内閣成立直後の10月22日、開戦準備に余念がない海軍は、ハワイのホノルルに向け横浜を出港した大洋丸に、乗員を装った軍令部参謀以下3名の士官を乗船させ、真珠湾攻撃の際に機動部隊が航行する予定の航路を通らせ、気象、洋上の状況、燃料補給の可否、商船との遭遇状況などの事前調査を行った。開戦直前の12月2日(当初予定は11月24日であった。)にも、海軍は米を欺くため、日本郵船の龍田丸を第二次引き揚げ船としてロサンゼルスに向かわせるべく横浜を出港させ、新聞各紙がこれを仰々しく報じたが、開戦と同時に反転して日本に引き返すことは海軍省の指示で事前に決められていた。開戦前日の12月7日宇垣纏連合艦隊参謀長は、『戦藻録』に、「開戦の経過手段は、大体まず吾人を以てすれば満点に近しと許し得る」と記した。興味深いことに、開戦日時は米太平洋艦隊の在泊公算が高い日曜日、月齢も下弦の月、払暁の奇襲となるよう海軍側にとって全て都合が良い反面、同時にマレー半島(コタバル沖)に進攻する陸軍は、23時過ぎであったこと、陸軍参謀本部が永田町三宅坂から市ヶ谷台に移転したのは開戦後の12月15日であった。この点に加え、陸軍式の御服を着用されることが多いことで知られる天皇陛下が、開戦当日は海軍式の御服をお召しになっていたことといい、12月8日は連合艦隊が10月に行った布哇作戦特別図上演習の開戦日と同じであったのは、単なる偶然ではあるまい。開戦間際の10月の会議では、依然として悲観的な見通しにもかかわらず、及川海相(海兵31期)は軟弱と思われたくないのか、海軍兵学校の先輩で主戦派の永野総長(28期)に気兼ねしたのか、「米国は何時立って先制の利を占むるやも知れず。そうなれば日本の作戦は根本的に破れ勝味は無くなる。この際、海軍大臣一人が戦争に反対したために、時機を失したとなっては申し訳ない」と発言し、開戦を積極的に推し進める軍令部を後押しした(※7)。遡ること前年9月三国同盟締結の際も、及川海相は、「日米会戦にはならぬというので同意した」という前歴があった。こうした経緯があり中澤佑元海軍中将は、「日本海軍を滅ぼしたのは及川です」と語ったのだろう。近衛内閣解散に伴い開戦直前に東條内閣で及川海相の後任となった嶋田大将(32期)も、杉山元陸軍参謀総長から、「海軍が鉄をもらえば、(戦争を)決意しますか」と問われてうなずき、海軍は陸軍との間で鉄を多くもらうなど政治的取引を裏で成立させ、開戦を積極的に支持したと見る向きもある。現に昭和16年11月1日大本営政府連絡会議において、鋼材など戦略物資の配分が行われた際、東條首相からの提案で陸軍が80~90万トンであったのに対し、海軍は110万トンと優先して割り当てられ、陸軍航空機を製造する中島の工場を海軍機の製造に協力させることも同時に決定されたのであった。この事実からも、そうした真相が推察できるというものであろう。
 戦後、草鹿龍之介元海軍中将の「陸軍を抑えることのできなかった為政者の無力によるところ大であった」との言葉にみられるように、海軍関係者は開戦には反対していたと何とかして主張したい傾向が顕著に認められる。高木惣吉元少将さえも、「海軍内部から見た当時の雰囲気を素描したに過ぎず」とか、「識者の間にもなお疑問が残されている」と前置きしながらも、「戦争の直接、間接の原因となった三国軍事同盟や支那事変の拡大、仏印進駐などに対して、対米英戦を誘発することに反対していた海軍(?)が、首脳部の更迭や時の経過につれて態度が軟化し、開戦への強力な抑制力にはならなかった」と結論づけた。しかし、終戦時海軍トップである軍令部総長の職にあった豊田副武元大将は、雑誌『文藝春秋(昭和30年)』が企画した提督座談会の席上、「私は当時中央の枢機に参与しておらなかったから知らないけれど」と前提条件を付しながらも、「ある一部の者は、それほどまでに負けるとは思っていなかった。アメリカ国民がいつまでも旺盛な戦意を継続するか判らん(と考えた。)。グアーンと一つ、出鼻を挫いてやれば、案外うまくいくんじゃないか、といったような甘っちょろい、希望的観測が、一部の人になかったといえないんじゃないか。そういう疑念を私は持っておる。そうすると、海軍は戦争反対だったと、一概に言い切れないものがある」と語ったことが概ね事実と思われる。この度の考証でも、公然と「三国同盟締結反対」、「対米英戦不可」を主張し、戦争に至らしめないよう最善の努力をした者は全くといってよいほど認められず、開戦に至るまでの経緯を通覧すると、真相はむしろ海軍関係者の主張に基づく戦後の通説とは真逆である。つまり、外交と併行して戦争準備を進めていた陸軍とは異なり、海軍は外交とは無関係に予め開戦時機を見定め、対米戦準備を着々と整えていたようにしかみえない。しかも、勝算がない戦争に陸軍や国民を引き込んだ責任を痛感し勇戦奮闘するのかと思いきや、まるで違ったのであった。また海軍の総意が、必ずしも対米英戦を望んでいたのでもなければ、陸軍とて避戦で一致団結していたわけでもない。現に昭和16年9月ワシントン駐在の横山一郎海軍武官(当時中佐、終戦時少将)は、軍令部宛に、「交渉の成功を絶対的必要とするに於いては、対支駐兵は思い切り速くに妥協を計り、資源消耗を最小限とするを可とすべく、此の場合においても米より我が方の欲する国防資源は油等以外には取得し得ざる算大なり。もし駐兵問題につき我が方の譲歩不可能とすれば交渉は早晩打ち切り機会の到来を予期せざるべからず(しないわけにいかない)と認む」と打電したが、翌10月軍令部戦備担任の第二部長(鈴木義尾少将)は、「対米譲歩に限度があり帝国は正に雄飛の機である」とラジオで国民に向け対米戦の決意を表明した。こうした点からも、海軍内の実状を窺い知ることができよう。陸軍参謀本部も、「即時対米交渉を断念。十二月初頭に戦争発起。今後の対米交渉は偽装外交とす」と主張したものの、陸軍省は、「一面外交、一面戦争準備」と異なる見解を示した。そもそも、陸軍は物理的にいっても太平洋を主戦場とする対米戦を主役の海軍抜きでは勝手に始められず、いったん開戦準備となれば大量の動員と多方面に展開を必要とし、期間や予算の関係で中止や撤収も容易ではないので、事なかれ主義かのような海軍の不誠実で曖昧な態度が平和的解決の最後の道を閉ざしたといえ、決意がなく確たる戦略もなき開戦は否応なく秒読みの段階に突入した。こうした状況下で、日本政府はハルノート(日本の外務大臣に相当する国務長官のコーデル・ハルが日本に対案の位置づけで提示した11月26日時点の交渉文書)を最後通牒であるかのように受け止めたとの歴史観が一般に定着して久しい。しかし、東條元首相が東京裁判で、「(内容は)書き直しの提案であった」との認識を述べたように、その趣旨は日本が中国や仏印から全面撤兵(昭和12年7月7日の状態に復元)するとの要求で再交渉を提案するものであり、過去の交渉経緯を無視するなど大国故の横暴な態度、交渉が決裂して戦争になること、日本に先に手出しをさせることを念頭に作成された可能性も否めないが、即時撤兵と明記してあったわけでもない。第一に即撤退を開始したとしても数か年は要すると見込まれるものであったし、在米日本資産凍結の解除や最恵国待遇による通商条約再締結なども含まれいた。短期的に成功する見込みはさほどないものの、妥協点ないし戦争回避の選択肢は僅かながらも残されていたのであって、開戦が完全に不可避となったわけではなかった。しかも、ルーズベルト大統領の同意の上で提示されていたが、仮に日本がこの提案を拒絶しても、大統領は宣戦布告を勧告することを前提にしておらず、宣戦布告を要請する米議会にも事前に説明されたものでもなかった。このため、日本側は中国国民党との停戦合意で信頼醸成を図りながら、米に三国同盟からの脱退をちらつかせ、一時的にでも譲歩の姿勢を示しつつ、条件の緩和を引き出すなど、柔軟さを合わせ持って我慢強く交渉を続けていたならば、これ以上の侵略をしないとの交換条件付きにはなろうが、先の大戦は生起しなかったとみることもできよう。この点については、草鹿龍之介元中将も、「少なくとも平和に対する真剣味と熱意において、いま一段の謙譲と努力があれば(日米開戦は)避けることができたのではないかと考えられる」と率直に認めたとおりであった。
 
むしろ不可思議なのは、遡ること同16年8月17日時点で、ルーズベルト大統領が野村吉三郎(元海軍大将)駐米大使(※8)に対し、「外交文書でも覚書でもない。ただ話そうとすることを書いたものである(対日警告文という。必要とあらば、いつでも最後通牒として利用できた。)」と予め断った上で、「もし日本政府が武力ないし武力の威嚇によって、隣国を軍事的に支配しようとする政策又は計画に従い、今後何らかの手段をとったならば、米国政府は米国及び米国民の正当な権利を保護し、アメリカの安全を保証するために必要となるいっさいの手段を直ちに採らざるを得ない。米国政府は以上のような事情を、ここに改めて日本政府に申入れる必要を感ずるものである」と語った際、この声明が事実上の最後通牒と受け止めてもおかしくない性質、要件を備えていたにもかかわらず(現にルーズベルトらは、チャーチルらに対し最後通牒と実質的に同じだと語っていた。)、日本政府、大本営陸海軍部が特段の反応を示さなかったことであり、ハルノートを開戦の理由に利用した感が強い。というのも、ハルノートが手交された11月26日南雲機動部隊はハワイ真珠湾に向け択捉島の単冠湾から出撃、これに先立つこと同月18日前後には特殊潜航艇を搭載した潜水艦が内地を出港していたからである。遡ること5日軍令部は連合艦隊司令部に対し大海令第一号を発令、これに伴い機密連合艦隊命令作第一号が関係指揮官宛に配付され、13日には各艦隊の司令長官、参謀長、先任参謀を岩国航空隊に参集させ、真珠湾攻撃の説明と打ち合わせが行われた。これと前後して、真珠湾攻撃に参加した下士官搭乗員の手記並びに存命する搭乗員の証言によれば、11月12日ごろには海軍が料亭を借り上げ、趣旨の説明がないまま壮行会を催し、出港直前の同月23日には真珠湾攻撃による開戦を各員に伝えていたのであった。実は東條内閣と陸海軍大本営が、「戦争発起ハ12月初頭トスル」として開戦を決意したのはハル・ノートが交付される以前の11月5日の御前会議であって、「同日大本営陸軍部(陸軍参謀本部)は南方作戦計画を確定し、15日には外務省が暗号機の処分の順序と方法を米などの在外日本公館に宛て訓令を達した状況にあった。つまり、日本が交渉断絶を悟られぬよう何食わぬ顔で、笑顔を交えながら友好的な態度を示しても、「それ(11月29日の交渉期限のこと)以降は、事態は自動的に進展することになる」などという外務省と野村大使との間の外交電は全て筒抜けになっていた(※9)。米政府の方針も、「交渉の時間の余裕をかせぐ意味で米が日米会談を斡旋するなど譲歩することを可」としても、「攻勢に出るなり、後退するなりの決断は日本に任せる」というものであったから、相互不信が募る中、首脳会談の実現は望むべくもなかった。ハル・ノート交付の翌27日には、日本への決定的態度を示さず半信半疑であったルーズベルト大統領も、フィリピンなど現地指揮官に対し、「最終的警戒命令」を発出することには同意したのであった。30日天皇陛下出席のもと行われた重臣会議で、東條首相は、「もし我方が経済断交のままで推移せんか、究極の結果はジリ貧あるのみ」と発言したとされるが、これは海軍がかねてより主張していた趣旨と全く同じであった。これに呼応するかのように陸軍出身の鈴木貞一企画院総裁が、「戦争を開始するのは国内政治の問題である。(戦争をしないものなら、政府も軍部も立場が危うい。)」と述べたことは、開戦の真相を窺い知る重要な発言といえるものであり、こうして交渉の途が絶たれ機動部隊は呼び戻されることはなくなった。かかる情勢下において米大統領による12月6日付天皇宛の親書は英断であり、平和的解決というはかない望みが残されていたかもしれない。ルーズベルトはハル長官に対し、「大至急、グルー(ジョセフ・C・グルー駐日米大使のこと。)に送れ」、「灰色暗号で良いと思う。傍受されても構わない」と指示し、これを米国務省が発表し新聞でも報じられ、野村・来栖両駐米大使も本国に報告したものの、結果としてグルー駐日大使に届くのが大幅に遅れ、開戦は食い止められなかった。しかし、米が本気で日本がこれに応ずると考えていたとも思えず、後に日本が戦争をアジアの植民地解放のためのものと主張したのと同様に、米が最後の最後まで平和を維持することに最大限努力した、「戦争は好まない。巻き込まれたかったわけではないが、現実に巻き込まれた」とする証を、後世に残すという米政府のしたたかな計算があったことは確かであろう。
 
作家 五味川純平氏は、「軍人の頭脳は極く少数の例外を除いて、政治的に貧困であった。国策決定に際しては、野望と幻想(大東亜新秩序)を優先させ、精密な国力判断を軽視したのである」と指摘した。そのとおり、対米比7割を維持などと机上の軍備比、単純な図式だけで国防を観念的(抽象的)に論じ、対米英比6割でいかに勝つかなどとゲームであるかのようにして背後にある現実の国力の差を踏まえなかったことが大きな誤りであったといえなくもない。しかし、昭和15年5月に海軍軍令部が行った戦争図演では、「戦争を開戦二か年以内に終結しなくてはならない」、「海上交通防衛作戦に充当する兵力に不備がある」ことなどは明白になっており、開戦時要職にあった人々の脳裏には刻み込まれていたはずであった。また、首相直轄の総力戦研究所では、「開戦後、緒戦の勝利は見込まれるが、その後の推移は長期戦必至であり、その負担に青国(日本)の国力は耐えられない。戦争終末期にはソ連の参戦もあり敗北は避けられない。故に(対米)戦争は不可能」との結論であったし、陸軍省戦争経済研究班(陸軍省主計課別班)も、「対英米戦の場合、経済戦力の比は20対1程度と判断するが、開戦後2年間は貯備戦力によって抗戦可能、それ以後は我が経済戦力は耐えがたい」と判断していた。いずれの場合も日米の国力差は概ね正確に把握していただけでなく、実際の戦局推移もほぼ合致するもので、どれも「日本必敗」の結論に変わりなかった。しかし、開戦ありきの海軍はこうした陸軍の説明に対し、「対米戦準備の最中に、このような数値を発表することは士気に影響が出る」と猛反発した。更に石川信吾大佐が、「戦争必至の大局観をもって戦争決意を行い、対策を立てよ、戦争すれば局面は好転することを分からせるんだ」と強引に部下に命じ、開戦三年目から船舶量が増加に転ずるような見積もりを作らせるなどして、海軍は国力を偽り不利な情勢にも勝算があるかのような都合の良い数字を引っ張り出してくるようになった。こうした点は、先般の中央省庁の統計不正問題などと全く無関係であると言い切れない。海軍上層部は、山本長官が主張する米主力艦隊を撃滅するという真珠湾奇襲作戦によって対米戦の成算を見出したと勘違いしたといえるのであり、早急に開戦に踏み切りたいというのが本音であったといえるであろう。少し見方を変えれば、戦わずして膝を屈し和平を懇願するようなことは、みすみす敵の軍門に降るようなものであり、大和魂が泣くから受け入れられないとの誤ったプライドが一連の言動に影響したとも考えられる。同11月1日大本営政府連絡会議の席上、永野総長は、「目下は開戦やむをえずとなしつつあり。(中略)敵主力がやって来る場合には一挙に雌雄を決する。われに成功の算多し。然れども戦の終結とはならず長期戦となるべし。始めより長期戦となれば、二年間は相当やれる」、嶋田海相は、「開戦の場合、初期の作戦、邀撃作戦に自信あり。三年目には戦力維持に不安あり。(中略)リスクを冒して戦争を決意するやむをえず」といい、東條首相兼陸相兼内相は、「海軍に信頼し、自信ありということならば、陸軍はこれに頼る。3年になると不安ありと発言した。これに対し、武藤章陸軍軍務局長兼調査部長(中将、東京裁判で絞首刑)は、「3年後のリスクは物に即したるリスクなり。要は国力にあり。結局外交上の成功なき臥薪嘗胆となる。戦争をやれば、希望なきリスクなり。結末は国際情勢の推移を待つの外なし」と開戦に否定的な考えを示し、開戦後も戦争の早期終結を主張し東條と対立した。塚田政参謀次長(中将、殉職により大将進級)も、「3年後は戦略的現況は悪くなる。3年後には作戦の手はなくなる」と同様の考えを示し、戦局は陸軍が開戦前から憂慮していたとおりとなったが、こうした常識論者は卑怯者扱いされた。同月下旬、政府と重臣との会議において、政府の無謀な開戦決意に対して、若槻禮次郞元首相は国力不足を理由に、「勝算なき戦争を開始して2600年の歴史を賭ける気持ちは解らない」と諫言、その直後天皇陛下との懇談においても、戦争が日本の自存自衛のためやむを得ないとすれば敗戦が予見できる場合でも、国を焦土としても立たねばなりませんが、ただ理想を描いて国策を進めること、例えば大東亜共栄圏の確立とか、東亜の安定勢力とかの理想に囚われての戦いなら危険千万でありますので、これは(陛下の)お考えを願わねばならないと存じます」と毅然とした態度で断固開戦反対の立場を貫いた(※10)。重臣会議の席上、岡田啓介元首相(海軍大将、海兵15期)も、「終始一貫日米戦争は不可。ジリ貧よりも敗北の方が犠牲大なり」と発言したが、米内光政元首相(海軍大将、29期)に至っては、「ジリ貧を避けんとしてドカ貧にならないように十分のご注意を願いたいと思います」と明確に反対をせず、あたかも開戦に同意したかのような含みのある発言をするなど、海軍が戦争を避けるべく必死に努力したという痕跡は明確に認められず、『(忍びがたく)開戦やむをえず』との空気に至った。驚くべきは、戦後東京裁判で米内が、一転して「当初から、この戦争は成算なきものと感じて、反対であった」と平然語ったことである。ちなみに、嶋田海相は、会議の最後に東條首相が開戦を決意しつつ、外交上の手を打つとの方針を決定後、開戦に関し、「十分納得し得る大義名分を立てることが必要」と開戦の決定が後戻りせぬよう念押しするかのように発言し、「1 米の長期にわたる援蒋による敵性行為」、「2 じ後米政府の採れる態度」、「3 米の執れる経済封鎖は武器を用いざる戦争の行為なり」の3点を立て続けに付け加えるほど、熱の入れようも尋常ではなく、用意周到であった。前出の五味川純平氏は、「国力が無いことをさえ開戦の必要の理由とした」、「苦悩はしても、軍人の思考の行方は、結局、戦争による国難の打開であった。軍事を指導する政治が存在しなかったからである」と指摘したが、これにもう少し付け加えるならば、海軍は日露戦争の日本海海戦の先例が頭にあり、戦争の勝敗は戦力差だけでは決まらない、今なら米に勝ち目があるとでも本気で考えていたといえる。しかし、戦闘の一局面に限って見ればそのとおりであったが、戦局の見通しは、「海上交通を確保出来れば」との大前提があり、そのこと以上に国力差、外交を含めた戦略の優劣でも此度の戦争に到底勝ち目などあろうはずもなく、全くもって不合理な開戦の決定であった。

2 特攻と和平工作の裏側

 戦争終盤、艦隊なき海軍はついに万策尽き、窮地に立たされ正気を失った。軍事的合理性を無視し精神力(大和魂)に偏重した、非科学的で不条理な戦術である特攻に活路を求める暴挙に出た。その最たるものが、沖縄での地上戦を行う陸軍とは直接関わりなく強行した大和による水上特攻であった(「殴り込み戦法」と称した。)。実はこれに先だって行われた九州沖航空戦における特攻作戦で航空兵力の大半を消耗しており、米軍の沖縄上陸に対し少数機による特攻を中心とした奇襲攻撃しか手立てがなくなっていたことも狂気の沙汰に及んだ背景にあった。無為に沖縄に突入させた艦艇を海上護衛に割いたり、特攻に投じる零戦を大和の掩護に使用できたならばと思わずにいられないが、軍事手段が作戦目的と化す異常さで正常な議論はできなくなっており、自決に追い込む行為に等しかった。大和の長官室で開かれた艦隊幹部の極秘研究会では、「無為に死ねというか!」、「連合艦隊司令部は穴から出てきて、陣頭に立って肉声で号令せよ!」などの怒声が飛び交った。こうした激烈な議論は帝国海軍はじまって以来、最初にして最後であったというが、具体性を欠き、できもしない作戦など、到底プロの軍人によるものとはいえず愚の骨頂という他ない。これに対し、沖縄守備隊の陸軍司令官牛島満中将は、「連合艦隊が沖縄に出撃、軍と運命を共にせんとするは感激に絶えず。しかれども、沖縄周辺の敵海空軍の状況は之を許さずと判断されるるにつき、出撃を中止せられたし」とする旨の返電を行った。端的にいうならば、豊田副武連合艦隊司令長官の訓示電報に、「帝国海軍海上部隊の栄光を後毘(子孫、後世の人の意味)に伝える」とあるとおり、海軍並びに連合艦隊(艦艇部隊)という組織の面子さえ立てば後はどうなろうとよいという心情、戦艦に寄せる郷愁であったのではあるまいか(※11)。仮に大和の出撃をもう1日遅らせ4月8日にしていれば、11日までの4日間、沖縄周辺は雨天で航空機が飛行できず、沖縄に無事にたどり着けた可能性もあったが、出撃、突入の時期まで厳格に指定されていたため、叶わなかった。こうした場合、旧軍は物的戦力の差を精神力で補い得るかの如く、命令に、「天佑神助を確信し」などの美辞麗句を付し神頼みしたり、「必勝不敗の信念を堅持し」などの勇ましい言葉を添え士気を鼓舞したり、文書量で劣勢を糊塗したりなどしたが、今にして冷静にみればエリート参謀による机上の作文、言葉遊び以外の何物でもない。欧米軍が、運の善し悪しが結果を大きく左右しないよう、より確実な方法や合理的な手段を追求したのとは明らかな差があった。また彼らも実戦では訓練以上に、大和魂に劣らぬ果敢さ(メリケン魂)を発揮するため、果たしてどれだけの効果が期待し得たというのであろうか。ミッドウェー海戦で海軍空母4隻を一挙に葬り去った米艦上爆撃機SDBドーントレスは、戦後日本では米パイロットの技能とともに依然として評価されないままであるが、マリアナ沖海戦でも片道攻撃を承知で突入を敢行、約80機が燃料切れによる不時着水又は着艦時の大破に遭い、戦闘後急行した駆逐艦などが一部救出したものの、パイロット16名、乗員33名が死亡した。Dauntless:「勇敢な」、「怯まない」という意味の名称どおりの活躍を果たした史実を紹介する者は旧軍関係者も含め皆無である。一方で海軍関係者が、戦果を誇張する特攻という捨て身の体当たり攻撃は、米軍にとって重大な脅威となったことも事実である。しかし、英本土防空戦伝来の地上管制による防空戦闘(GCI:Ground-controlled intercept、要撃管制のこと)を艦隊防空でも採用、発展させていたことに加え、英が独Uボートに対する水雷攻撃の有効な方法を見出すための研究の末、実用化したオペレーションズ・リサーチの手法を導入し、特攻機からの攻撃を回避する戦術を生み出した。米は、またもや同盟国の英に危機を救われたのであった。
 ここまでくると、海軍は一度でいいから勝ちたいという意地、特攻も国という抽象的概念を護るための献身的な姿勢だけであって(陸軍が主張した本土決戦も大同小異だが)、軍隊の存在意義である、国民一人ひとりの身の安全のために戦っているのではなかったように思われてならない。また総力戦となった近代戦にあって、艦長のみならず司令官までもが沈み往く艦と運命を共にして海中に没する不文律、慣行はもとより、潜水艦司令を麾下とはいえ、単独行動であり通信もできない一艦に乗り込ませることなども全く無意味で、敵軍が利しただけで逆効果であった(※12)これは貴重な人的戦力を失うという短期的な側面だけではなく、教訓が後に活かされないという点で国家にとって大きな損失となった。唯一の救いは、大和艦長の有賀幸作大佐(副長能村次郎大佐との説もある。)の配慮で、乗艦後間もない補充兵や数日前に乗艦訓練で乗り込んだ少尉候補生など、戦後の復興を担う若者に対して、瀬戸内に在泊する艦艇への転乗手続きがとられたことえある。国土が焼け野原、焦土と化しても、日本の指導者は特攻の過大戦果に惑わされ、和平の好機を作為するという一撃講和の夢を見続け、終戦を先送りにした。国民の生命を守る道を最優先に考える時期にとうに達していたが、あえて非国民の汚名を着ても戦争終結を一刻でも早めようとする愛国の士、命も名もいらぬとして国民に奉仕する真の指導者は誰一人現れなかった。同盟国を失い、たった一国、世界の孤児となっても、連合国軍側から講和の手が差し伸べられるのを呑気にも待っていたのか、世界中の国々を相手に3か月以上もまやかしの戦争を続けたが、自らを滅亡させたのも同然であった。遅くとも独の降伏が時間の問題となった昭和20年4月頃には、ソ満国境、樺太や千島で何が起きるか予測がつかないことではなかったはずである(※13)降伏を決断できず遅きに失したことで沖縄戦に引き続き原爆投下どころかソ連の参戦をも招き、被害を際限なく拡大させ、戦後もシベリヤ抑留、中国日本人孤児、北方領土の問題など国民は悲劇の途を歩まざるを得なかった。戦争は始めることよりも終わらせることの方がはるかに難しいといわれるが、日本の指導者はいかにしたら戦争を終結させられるのかを考えるよりも、むしろ続けることの方が易しかったから事態を早期に終息できなかったのではないかとさえ思える。日本政府は、厚顔無恥にも日露戦争やノモンハン事件で痛めつけたソ連を相手に、それも事実上の宣戦布告と受け止められかねない、関特演(関東軍特種演習の略称。対ソ戦を企図したものであったが、南進政策の決定により中止)での動員を経てもなお、敵の善意や好意に頼り和平工作の仲介を期待するという信じがたい愚行を働いた。しかし、その和平ですら当初は、対米戦に総力を集中するための中国との戦争終結を構想したものであったし、たとえ連合国側との交渉機会が訪れても和平条件は日本政府にとって絶望的なもので決裂は必定であっただろう。そもそも米の武器貸与法により英に次ぎ突出した援助を受けていたソ連が、昭和17年1月の連合国共同宣言(後に国際連合の基礎となった。)に示された、「独、日、伊と各国が単独で休戦又は講和しない」との取り決めに反し、日本側の都合に応じるわけなどない。日本が、ポツダム宣言の受託を連合国に通告し戦闘停止と武装解除を行い終戦と訴えても、連合国との降伏文書(休戦協定)に調印するまでの間はソ連が不当な侵略行為を止める保証などないのであって、ベルリンと同様、婦女暴行、殺人、更にはシベリア抑留など悪辣無比な戦争犯罪はその後数か年にも及んだ。
 昭和20年4月ソ連が日ソ中立条約の破棄を日本に通告した際も、日本政府はこの期に及んでも同条約の有効性を疑うことすらなく、同条約には破棄に関する規定はないとの理由からソ連側の通告は同条約を延長しない主旨のものと都合良く解釈し、従って同条約は依然有効とみなした。こうして友好関係の継続に望みをかけたのであり、お人好し過ぎるにも程がある。戦後日本人の多くは、敗戦責任に関する真相の隠ぺいや冷戦下の影響も加わって、ソ連の対日参戦について一方的に中立条約を反故にした卑劣な背信行為であると信じ込まされた感があるように思われるが、実情はかなり違っていたことが分かる。これ以前にも、スターリンは昭和19年11月革命記念日の演説で、日本を「侵略国家」と名指しで批判していたのだから、ソ連に中立態度を維持させることさえも困難と見るのは至極当然のことであったし、駐ソ連日本大使もこれを本国政府に伝え、翌20年5月には戦車、大砲、航空機、トラックなどの機材を載せた貨車200台を見たとも報告していた。2012年8月15日に放映されたNHKスペシャル「終戦 なぜ早く決められなかったのか」の番組による取材で、欧州の日本武官が政府に宛て、ソ連の対日参戦に関する機密電報を発信していた事実が英で新たに発見された機密文書の存在で明らかにされた。しかしながら、独の敗戦など、日本にとって悲観的な情報であったり、指導者当人らにとって不都合な報告、意見具申の類いは陸海軍ともに直視をせずことごとく握りつぶされるか、無視された。結果、この間ソ連に対しては無警戒、無策となり足下を見透かされ、却って後の被害を拡大させたのであって、政府、軍部の大過は決して看過できるものではない。当時その動向を注意深く傍受していた米海軍情報課は、ソ連と日本が、「猛犬マスチフ(番犬や闘犬として飼われる大型犬)と小犬スパニエル(飼い主に忠実な家庭犬)」の関係になった」と嘲笑ってさえいたのである。
 遡ること昭和17年冬独軍が、スターリングラードの攻防において、「冬将軍」の時期が到来し、ソ連による反攻を受け敗色濃厚となる中、中島知久平は、軍当局者を訪ねては、「独が敗ければ欧州戦線は終わり、ソ連は後顧の憂いがなくなって手が空いてくる。そうなると、ソ連は日露戦争の恨みを叩いて、かつピョートル大帝以来の野望を再び遂げるため、満州に兵を出し、日本を叩いて、かつての権益の回復を図るであろう。大東亜戦争で手一杯の日本は、強敵がさらに加わり、五カ国を相手に戦わねばならぬことになるから、全戦局が著しく弱くなり、勝算が立たなくなる。(中略)この際、シベリアを攻撃して、独を援ける必要があり、かくすることが最良の策であると確信できる」と進言した。また、東條首相兼陸軍大臣に対しては、「ソ連は欲のためには、義理も人情も省みないばかりか、条約を破ることなど屁とも思わぬ常習犯国なのだ。もし、いま絶好の機会に思い切って出兵しなければ、独が敗けるばかりか、やがては我が国がソ連から攻められて苦戦に陥り、万事休することになるのは明らかだ。国が滅びると分っても、信義守らなくてはならぬというのは、国民の不幸を無視するバカげた義理立てである」と力説するも、東條首相は、「そういうことは、日ソ中立条約があるからできない」という趣旨の発言を繰り返すばかりだったという(渡部一英『日本の飛行機王 中島知久平』からの引用)。結果は、知久平が危惧したとおりとなったのであり、指導者の誰か一人でも知久平の言葉にもう少し耳を傾け常識的に判断できていれば、最悪の結果は免れたかもしれなかった。それにしても、ポツダム宣言を前にして依然としてソ連による和平仲介を期待していたからなのか、「ただ黙殺するだけである。われわれは断固、戦争完遂に邁進するだけである」とした威勢のよい首相談話はソ連の対日参戦と更なる原爆投下を招いただけで明らかに大きな過ちであり、日華事変での「国民政府をとせず」との感情顕わな声明の再現であって、紛争解決に対する日本の真意を疑わしめ自ら和平の道を遠ざけるもの、いわば自殺行為に等しいものであった。なおポツダム宣言は、昭和20年7月米国務長官となったジェームズ・フランシス・バーンズが草案を改訂したもので、彼はトルーマン大統領に原爆の使用を強硬に進言したことでも知られるが、降伏文書への署名調印は天皇自ら行うよう主張していたものの、英政府の修正意見によってその代理者に変更された。仮に、バーンズの主張どおりとなっていれば、終戦は更に遠のいていた可能性もあった。もし同20年8月の終戦が数か月でも遅れていたら、連合国の計画どおり日本本土は独の如く分割占領され、日本国民は分断し、戦後の平和も再建復興さえも遠のいてしまったかもしれない。日露戦争時のようにまともな判断ができる指導者がいて、多くの日本人が自決し、B-29による本土空襲の脅威が現実となったサイパン陥落か、遅くともフィリピン同胞の尊き犠牲に鑑み、講和に最大限の努力を傾注していたならば、沖縄、広島、長崎、千島、満州における悲劇は免れただろうことだけは想像に難くない。果ては、日本の指導者に敗戦後のことも念頭にあったのかさえ甚だ疑問である。家屋の焼失や厳しい食糧事情はもとより、大陸からの引き揚げ者の数、これに要する期間などを考えれば、稲の作付けなどが開始される以前の暖かくなる春先に降伏して、餓死・凍死・病死など、戦争により生じる被害を出来うる限り局限すべきであったからである。
 日本の指導者は、中国が日本側の要求や主張を受け入れる可能性が無く、戦争の終結は事実上不可能で、軍事力では何も解決しない現実に直面しながらも、更に屈服不可能な米英を相手に力尽くで戦争を始めた。開戦の決定は無責任にも独の勝利による英降伏という楽観的かつ他力本願的な想定に基づいていた。更に豪を英連邦から脱落させるなどすれば、米の戦意は喪失し講和の機会が訪れるとの情勢判断は甘く、実現性が極めて乏しい希望的観測、救いがたい願望であったといえた。戦争終結のための具体的構想なり、見通しを何一つ持っていなかった点は、日清・日露戦役の際の日本政府、当時の指導者とは決定的違いがあった。もとより本音では、開戦当初から米と早期に講和がしたいとの思惑があり、後に現実にもこれに期待せざるを得なくなった日本は、独降伏の前月、硫黄島の戦いを経て沖縄戦開始直後の昭和20年4月ルーズベルト大統領の死去が和平を実現する最後の機会ともいえた。然るに、武道での対戦における礼儀作法でもあるまいに首相自らが哀悼の意を表明する有様で、おおよそ国際感覚がずれていたか、和平に取り組む真剣さに欠け必死さが足りなかった。というのも、この頃を境にして米の対ソ戦略は武器貸与法の援助を打ち切る発表を行うなど、反共に大きく転換しつつあったことに加え、対日戦に英・ソの参戦を望まないスチムソン陸軍長官が、翌5~6月戦略情報局(OSS:Office of Strategic Services)のスイス・ベルン支局長の職にあったアレン・ウェルシュ・ダレスを通じ、在スイスの海軍武官及び補佐官(藤村義朗中佐のこと。朝日新聞特派員笠信太郎氏の協力もあった。)に対する和平提案を模索する動き(工作)があったからである。特に同20年2月のヤルタ会談で、米が対日参戦の代償としてソ連に樺太、千島の引き渡しを約束していたこと、ルーズベルト死去の1週間前にはソ連が中立条約の破棄を通告してきたのだから、尚更であった。当和平交渉について、当時外電などで直接見聞した高木惣吉少将らによれば、その内容とは、天皇制は存置させる、内南洋の委任統治領も現状維持で認めるという提案とともに、「対日戦が7月下旬までに終わらなければ、ソ連が対日戦争に参戦することを示唆し、ルーズベルト大統領がこれに同意したこと、米軍部は大規模の空襲、工業、輸送、都市の破壊後、本土上陸、無条件降伏を狙っており、その時期は7、8月と判断される」などの忠告も含まれていた。それにもかかわらず、米内光政海相、豊田副武軍令部総長らは、ダレスなる人物が誰なのかも調べようともせず、「こんな大きな問題を中佐ぐらいに言うのはおかしい」として真剣に受け止めず、むしろ謀略ぐらいにしか考えず警戒した(後にアレン・ウェルシュ・ダレスはCIA長官となり冷戦外交に多大な影響を及ぼし、実兄のジョン・フォスター・ダレスは米国務長官となった。)。そればかりか、こともあろうにソ連による米の和平仲介に期待を賭け続けていたため、同時期に米OSS長官によるバチカンを通じた和平工作とともに、これら千載一遇の好機を幻に終わらせてしまったことは慚愧に堪えない。いうまでもないが、軍隊では階級が物を言い、下位の者の意見は軽視されやすいものの、上位の者の考え方が常に正しいとは限らない。終戦直後、藤村義朗元中佐が米内光政海相宅を訪れた際、米内は、「長期にわたる在欧海軍首脳部の和平準備とダレス機関に対する和平折衝を成功に導きえなかったのは、一に米内の責任であり、まことに申し訳ない」と陳謝したが、後の祭りである。米内・井上成美両名が評価されている終戦工作においても、米内海相の「言葉は不適当と思うが、原子爆弾やソ連の参戦は、ある意味では天佑であると思う。国内情勢だけの理由で戦争をやめるといい出さないですむ」とのもっともらしく聞こえる発言、特攻を止めるべきだとの意見に対し、終戦のため避けられない過程として黙認した井上次官の姿勢、これらは良くも悪くも海軍を象徴するものであり、まるで他人事のような無責任さを感じなくもない。昭和19年7月現役に復帰し海相になる直前に、米内は、「戦争は敗けだ。確実に敗けだ。誰が出てきてもどうにもならぬ。老人は昼寝でもするより外はあるまい」と周囲に語っていながら、就任の際、「海軍は米国に決戦を目途に張り切っています」と天皇陛下に言上するなど、豹変ぶりも甚だしかった。井上も、高木惣吉元少将との戦後の懇談において、「終戦を持ち出す時機を誤ると、国賊扱いにされるのがオチと考えた」と語ったが、それが本音であった。これらの点に関し、前出の中澤佑元中将は、「『サイレント・ネービー(沈黙の海軍)』をモットーとし必要以外には極力発言を慎み、他人の行動、行為を制約することのない様にすることを、あたかも美徳であるかの如く思っていた。しかし、この風習が嵩じて当然発言すべき場合においても沈黙したり、大事なとき正々堂々と所見を述べなかった場合がなきにしもあらず、この点、甚だ残念である」と述べたが、彼は軍令部作戦課長、その後同部長の要職を度々投げ出し辞任するなど、その代表格だった。
山本五十六と海兵同期で海軍大臣であった嶋田繁太郎大将は、後に東条英機首相に迎合し過ぎるとして、「東條の副官」、「東條の男妾」などと世間で嘲られたが、優れた学習能力を如何なく発揮したのは、戦後極東国際軍事裁判(東京裁判)における自己弁護で戦犯(死刑)を免れたことであった。海軍は、後に海軍反省会(軍令部、第二復員省OBが極秘裏に組織した学習グループ)がその事実を認めたように、模範解答など裁判資料の作成、口裏合わせの工作など組織防衛に徹し、東條をはじめとする陸軍関係者に全責任を負わせた。米が戦中、終戦直後における日本海軍の対米貢献度を評価し、その後も大きく期待していたことから、海軍側が恩を売った面もあったかもしれないが、陸軍との日日戦争には勝利したともいえる。その一方で、海軍は捕虜虐待などのB・C級戦犯にあっては、命令書など証拠の焼却や隠滅は勿論のこと、偽証を強要するなどで口封じを行った。こうした知能犯の如き振る舞いで、問題を組織から切り離して、責任を中下級士官、下士官兵の個人に押しつけた。記録がないから被告の弁護で無実を証明しようがないのも同然で、現在の公文書にまつわる本質的問題の原点がここにあり、次世代への責任を放棄したかのような下劣な行為という他ない。このあたり、不法不当の思いで同じ裁判に臨んだにしても、陸軍の今村均大将や岡田中将とは身の処し方に雲泥の相違がある(※14)。前出の富岡定俊元少将も、「たしかに海軍はずるいところがあった」と認めつつ、「いやなことはみんな避けて、あえて討議の対象にしようとしないし、それに選択の範囲も狭かったし、あえてドロをかぶる人もいなかった」と回想したが、開戦の経緯を踏まえれば彼自身がそうした一人であった。その彼が、作戦部長職を投げ出した前任の中澤を「日本海軍の提督でもっとも有能かつ潔癖な人物」と評したのだから、笑止千万とはこのことである。しかも、海軍だけが終戦の20年11月1日、海軍が解体される直前に日本が財政破綻にある中、退官手当を上乗せするため、中澤佑少将をはじめとして少なくとも10名超の将官をどさくさ紛れで昇進させたのであるから、やりたい放題というか、あざとい(ポツダム進級という。)。驚くべきことに、このとき米内海相など海軍関係者の最大の関心は、復員者の就職援護へと移っていた。就職の斡旋や職業訓練などを行う事業に当時の金額にして15億円の巨費を投じることを閣議決定したが、占領軍がこれを承認することなく、企みはご破算となった。正に、「海軍ありて国家あるを知らず」との言葉が相応しい言語道断な横暴さではなかろうか。戦犯としてフィリピンのマニラで軍事裁判にかけられ、絞首刑となった山下奉文陸軍大将は、刑死の直前、「我々は優勢な米軍を封ずる手段として、若い国民の肉弾をぶっつける事を命じた。この事だけでも我々の罪は万死に値する」と語ったこととは、人間性もさることながら、武人として根本的に違いがある。死刑執行や自決で自らの命と引き替えに責任を償い、遺書で詫びるなどした数多の陸軍将軍、海軍提督は大西瀧次郎海軍中将の他には見当たらないが、このような結末に彼らはどのような思いを抱いたであろうか。

3 国防とは

 歴史の針を少し戻すことにするが、日本は日清日露戦役の2年を超えて戦争をしたことなどなく、国運を賭した戦争は1905(明治38)年の日本海海戦以来30年以上も誰も経験しておらず、平和ボケが蔓延した状況であった。天皇陛下にたった1か月で終わらせると約束した日華事変は日米開戦時既に4年以上が経過(※15)、国力を相当に消耗していた上に解決の糸口さえ何も見い出せないにもかかわらず、思い上がった日本は国力10倍超(実松譲元大佐による石油、鉄、アルミなどの戦略物資による比較では開戦時78倍)の米に加え英蘭豪を相手に宣戦し、場合によってはソ連とも戦うとした。あのヒトラーでさえ、真珠湾攻撃の4日後に米に宣戦布告しながらも、日本が本気でこれに挑むなどとは思ってもみなく米の参戦に恐れを抱いたからなのか、驚きや狼狽を隠せなかったというのだから、いかに無謀な戦争を始めたのかが分かるというものである。山本長官自身も、日米開戦直前の昭和16年10月嶋田海相に宛てた書簡の中で、「そもそも支那作戦四年、疲弊の余を受けて米英支同時作戦に加ふるに対露をも考慮に入れ、欧州戦線の数倍の地域に亘り持久作戦を以て自立自衛十数年の久しきに堪えむと企図するところに非常に無理ある次第」との心境を綴りながらも、「大局により考慮すれば、日米英衝突は避けられるものならば之を避け、此際、隠忍自戒、臥薪嘗胆すべきは勿論なるも、夫れにも非常の勇気と力を要し、今日の事態に迄追い込まれたる日本が果たして左様に転機し得べきか。申すも畏き事ながら唯残されたるは尊き聖断(開戦)の一途のみと恐懼する次第に御座候」との所信を述べていた。凡庸な私には分からないだけなのか、理性的には到底納得し難い突飛な考え方で、国際的に孤立した国家故の卑屈な被害妄想であるとか、山本長官特有の博打感覚を感得できなくもない。遡ること大正10年、ワシントン軍縮会議で全権代表を託された加藤友三郎海相(大将、後に首相)が、主力艦対米比6割を強硬に反対する自軍を抑え、自らが推進した八八艦隊計画(国家予算が15億円の時代、建設費13億円、維持費6億円)を放棄し、条約の採決で各国から、「アドミラル・ステイツマン」と絶賛された政治手腕、大局的見識や真勇を昭和の日本海軍に求めるのは無理であった(※16)。なぜなら、加藤友三郎大将の死去とともに、艦隊派(条約反対派)と呼ばれる海軍軍人が、東郷大将を神格化し聖将という尊称であがめて担ぎ出し、権威発揚、軍備拡充の口実として利用、部内闘争により条約派の有能な人たちを予備役に編入させるなどして一掃し、海軍を骨抜きにしたからであった。その上で、自らが主流を占め、日本海海戦の赫々たる勝利を再び夢見て対米戦備の増強に邁進すべく政治の舞台に台頭し、なりふり構わず軍縮条約からの脱退を主張するようになった。条約反対派(艦隊派)の中心人物として当時から知られた存在だった加藤寛治中将は、ワシントン海軍軍縮会議に首席随員で赴いた際、全権である加藤友三郎海相を差し置いて開会早々に、「対米7割は日本防衛のために絶対譲れぬ最低線である。これが獲得できぬ限り、日本は会議を脱退、帰国する」との脅しともとれる声明を行った。すると加藤全権は、加藤中将に対し、「今後、こういうことがあったら、即刻帰国を命じる。軍紀に照らして処分する」と指導したが、加藤中将が、「軍人としての見解の相違」と非礼にも言い返すほど、事態は深刻であったにもかかわらず、海軍はこれを咎めようともしなかった。実は、連合艦隊という編制が常置されるようになったのも大正12年以降からで、それ以前は戦時体制になって初めて設けられるものであった。このことは、好戦的軍隊に変貌した日本帝国海軍を象徴するものであって、後の対米戦の構図はこのとき既に出来上がりつつあった。しかも、海軍は関東大震災後の財政窮乏を機に軍備削減を断行した陸軍を横目に体制の維持どころか、軍縮条約を不平等条約との言いがかりをつけ逆手にとり、全力で軍拡に突き進んだ。近代化といえば聞こえは良いが、中身は戦争を目的とした戦力増強に他ならなかった。その意味では、海軍の没落並びに開戦への火種は、「それでは部内が収まらない」として、昭和9年にワシントン海軍軍縮条約を廃棄、制限なき建艦競争に突入することを各国に通告し、国際安全保障体制から脱退したときに始まっていたといえる。更には、天皇陛下のお叱りを受けながら、11年の仮想敵国に英国を加えるとの国防方針の改定や後の三国同盟につながる日独防共協定の締結を経て、奇しくも零戦の開発と大和・武蔵、初の本格的空母翔鶴・瑞鶴の建造に着工した翌12年は、一連の海軍軍縮条約が失効した時期と一致しており、戦後対米和平派ともてはやされるようになった三羽カラス(米内光政海軍大臣、山本五十六次官、井上成美軍務局長)によって、国の行く末が運命づけられたとみることができる。彼らは立場的にも能力的にも、それこそ命がけの使命感さえあれば尚更のこと、避戦、和平の実現は不可能ではなかったにもかかわらず、新たな国是を求め他国と協調連携して、それに向け政策を軌道修正するなど、建設的で秩序ある言動を採ることは何一つなかった。逆説的にいえば、軍縮条約を遵守履行さえしていれば太平洋における防衛現状(維持)条項と相まって、軍事費は抑制され経済は発展し、戦争に突入することもなかったかもしれない。その点で、海軍軍縮条約の問題は国家全体の重大な問題であったが、海軍の専管事項であるかの如く考え、不介入の態度をとった陸軍にも責任の一端があるともいえなくもない。むしろ海軍は、海軍大国の米英を仮想敵国とすることによって、予算折衝に際し陸軍を尻目に、「鉄をくれ、予算をくれ」と戦備を拡大してきた、いわば見せかけの艦隊としての性質が顕著で、昭和14年8月に米内海相が、大蔵大臣に対し語った、「大体日本海軍は米英を向こうにまわして戦争するようには建造されておりません(独伊の海軍に至っては問題になりません。)」との言葉に端的に表れていた。その点で強大な軍備を建設しながら、重要な役目を果たせず、それも欠陥であると分かっていたのであるから、国力の単なる浪費であった。かろうじて生き残った最古の空母鳳翔と最新の空母葛城は、復員の輸送が最後の任務となった。
 同時に日本政府は、国策を転換すべき肝要な時期に、「国家総動員法」を成立させ戦時体制を敷き、食料品などの生活物資の不足に伴い配給制とし、灯火管制や夜間外出禁止令など日常生活に制約を課した。日常生活が戦時下で影響を受ける点は、米国も同様であったが、日本では政府が言論を弾圧し、服装、趣味、思想までも隣組で監視、統制するようになり、権力の暴走に歯止めが利かなくなった。その果てに、元陸軍大臣が文部大臣に就任するなど、軍が教科書をはじめとし学校教育に関与を強め、大本営の設置に伴い政治が自らの役割(軍との係わり)を放棄したことによって正常な社会状態に後戻りできなくなった。日本は、国家予算の7割近くを軍事費に投じ財政が破綻、未曾有の経済不況という壊滅的シナリオに転がり始め、政府は分村移民という名の国策の下、窮乏する農民を半ば強制的に中国へ送出、勢力拡大をめぐり米英との対立は深まっていった。当時日本が、中国国民政府に要求したものは国益というよりも財閥などの支配層が政治家、役人、軍人をして主張する権益を羅列した、成り上がり者の傲慢なたかりのようなものであった。その上に、戦闘による犠牲が積み重なるに従い要求が更に肥大化していったのであり、いうなれば持たざる国の野心、欧米列強に対する挑戦であって、日本が譲歩する以外に和平実現の見込みはなかった。特に昭和8年満州事変に係る国際連盟総会での審議の際に松岡洋右全権が、「さらば連盟よ。連盟との連携は是れ以上は不可能」と退場し、その後日本政府が脱退を通告したことが、これらを象徴する出来事であった。新聞が「名誉ある脱退」と威勢の良い言葉で書き立て、当時の日本人にとってはさぞ痛快だったかもしれないが、その実は常任理事国という重責を無責任にも放棄し、他国との対話、協議する場、機会を公然と投げ捨てたような蛮行であった。青年の主張でもあるまいに老獪さにも欠けもはや無能に近いとはこのことであり、外交的孤立の途に自らを追い込んだ末に自滅した元凶といえた。しかも、後の三国同盟締結に際し、同一人物によって同じ過ちが繰り返されたのだから始末に負えない(※17)。万が一にでも平和への途が残されていたとするならば、それは天皇陛下の名において権限なく国外で武力衝突を繰り返す軍部、これを容認する政府を、断固たる聖断により処断する他なかったのであり、究極的には憲法改正によって国の在り方を根本的に改めるべきであっただろうが、改憲は天皇大権の一つであり、できない相談であった。かくて先の大戦では、軍国主義の日本は大いなる民主主義国家群の総力を前に敗れたともいえ、戦争を回避すると同時に国民の貧困を救う方法としては、日中戦争終結と軍の撤退、軍備縮小による経済のてこ入れしかなかったのはいうまでもない。今また国際連合の常任理事国入りを希求する日本が、主張が通らないからとの事由で水産資源に係る国際機関から脱退したり、唯一の被ばく国でありながら、核廃絶に向けた国際条約の取り組みに不参加を表明する姿は、他国の人々の眼にどのように映るのであろうか。
 繰り返しになるが、華北での陸軍と中国国民党との武力衝突(北支事変)を、海軍が上海事件をきっかけにして海軍陸戦隊を派兵、都市爆撃を強行したことで戦禍が華中・華南に拡大し、共産党軍や他国軍を巻き込んで結末のない日中間の全面戦争に突入させてしまった歴史の汚点を取り繕うことはできない。上海事件では、米内海相が陸軍の反対意見を押しのけ海軍陸戦隊の派兵を決定(※18)和平交渉の打ち切りと陸軍の派兵を末次信正内務大臣(予備役海軍大将、海兵27期)とともに強行に主張し、近衛首相をして、「国民政府を対手とせず(東亜新秩序建設に邁進する。)」との実質的な宣戦布告の表明とも受け取れる声明に至らしめ、渡洋爆撃に踏み切った。これに引き続き、井上成美支那方面艦隊参謀長が立案し強行した重慶爆撃が、国民党中国をして対日抗戦と国共統一に向かわせしめ、米英の反日感情は急激に悪化し開戦に向かう導火線の火種となったのであり、良識派又は穏健派の提督だとか反戦大将とかもてはやされる和平論者とは違う全く別の顔を覗かせる。海軍が上海への派兵で陸軍を戦争に引きずり込んだとの思いで、「北支で事を構えようとする奴(関東軍)が強盗なら、海軍は巾着切り(スリ)ではないか」と揶揄したのは、当時参謀本部作戦部長で不拡大方針を主張していた石原莞爾(当時少将、後中将)の言葉である。勿論、米内海相の発言の真意は別にあったかもしれないし、日華事変への拡大は決して一人や二人の責任ではなかったと思われる。しかし、この時点で陸軍は少なくとも戦線の拡大に伴う余力ないし長期消耗戦を戦う戦備に欠いており、独トラウトマン工作に見られるように事変の早期解決を模索していたのは紛れもない事実であった。「絶対に蒋(蒋介石)と和平すべし」、「国民政府をして面子を保って講和に移行するよう差し向ける必要がある」などと主張する多田駿陸軍参謀本部次長らの動きを、米内海相が政府と異なる主張として痛烈に批判、「和平か内閣崩壊か」の二者択一を迫り、陸軍の和平主張を強引に撤回させたことから、後に大本営陸海軍部が講和を口にすることがはばかれるような空気を醸成してしまったことは痛恨の極みであった。特に先の大戦はその端を日華事変に発しており、和平実現は対米英戦争勃発の抑止を意味していたから尚更であり、しかも日本は中国に軍事顧問団を派遣するなど、独が長期にわたって軍事援助を行っていたことにも気付かないでいた。この後海軍は、揚子江、中国沿岸を封鎖しつつ、昭和14年2月海南島の占領に引き続き、仏印のスプラトリー諸島(新南群島と称した。)を併合するなど現在の共産党中国のように南シナ海へ次々と勢力を拡大し、天津の英仏の租界を封鎖したり、インドシナ、タイへの南方進出を窺う勢いに米英との対立が決定的となったのであり、こうした一連の史実を客観的に覆すことはできない。特に海南島の占領は、五相会議で米内海相自らが、「将来の対英米戦に備えるため」と主張したことに基づくものであった。一方で米内海相は、グルー米駐日大使に対し、「日本海軍に関する限り米国と戦争する気は全くありません」と口にしながら、三国同盟の締結を経て、以降海軍はかつてワシントン海軍軍縮条約で禁じられていたマリアナ、パラオ、マーシャル諸島などの南洋諸島の基地整備に着手するとともに、これらを防衛する第四、第五艦隊を新設したのであった。かくて、華北での陸軍による武力衝突(北支事変)を、海軍が日中全面戦争(日華事変)に拡大させたことが元で米英が対日姿勢を硬化させる中、昭和14年2月折しも日米関係改善に尽力し、病気療養により退任した斎藤博前駐米大使が死去した。米下院では議長による哀悼演説が行われ、ルーズベルト大統領は遺骨を米巡洋艦により送り届けるよう命じる一方で、日本侵攻を想定した航路検討のための調査目的もあった。米巡洋艦が横浜に入港する前日には、ルーズベルト大統領が国内向け演説で、「欧州の三つの国(オーストリア、チェコ、ポーランド)とアフリカ一つ(エチオピア)の国民は、その独立国家としての存在を欧州の二つの国(独伊)に抹殺させられるのを、自分の目で確かめることになった。更に一つ、極東の独立国の広大な領土(中国)は、隣国(日本)によって占領せられた。これまで以上の侵略行為が更に征服者によって企図されていると強調する報告は真実ではないことを信じたいが、世界は事態の成り行きを良い方向に導いてゆくための理性的な方法が見出されない限り、現在の情勢が大局的に終わること必定という瞬間に向かって動いている」などと日独伊と対決する意思を表明した。然るに海軍は、日華事変を解決せんとして石油などの資源獲得を声高に叫び、「今や蘭印(オランダ領東インド諸島、現インドネシア)占領は絶好の機会である」と南進を主導するに留まらず、更にはジリ貧論で対米英戦を主張するに至った。ついには、現代北朝鮮の如き瀬戸際戦略による度重なる挑発(パネイ号事件等)の末に強行した、真珠湾攻撃のだまし討ちが先の大戦の直接的引き金となったのであって、日米開戦に至るまでの道程は戦後さしたる批判もなく不問にされた海軍に重大な責任があった。終戦直後マッカーサーが、「日本の指導者らの訴因を、真珠湾攻撃の卑劣な行為(宣戦布告前の殺人)に限定することを主張していた」とされていることからも分かるように、東京裁判でもこれらの点を訴追しようとしたのは当然であった。高木惣吉元少将も、「もし裁判の管轄が日本側にあったとしたならば、嶋田などは東條と並んで極刑が相当」であったといい、「永野、嶋田は、国民裁判にかけるくらいの大罪を犯している」と断じた。GHQも日本が独自に裁判を行うことを認めており、具体的構想もあったのだから、やりたくなかったとの心情が漏れ伝わる聖断は、恩義を大事にするという至って日本人らしいものといえたが、これによって日本が真の平和主義国家として生まれ変わる好機を半ば恒久的に失ってしまったのだといえる。いうなれば、戦後戦争指導の責任追及と同時に原因追究を他国による審判に委ね、日本人自らが行わなかった無責任さは、再び国家に大難がふりかかったとき、先の大戦と同様に不見識な指導者が国の舵取りを誤り、戦争の惨禍を繰り返しかねない恐れを内包しているのも同じなのではないかと懸念されるのである。戦後石原莞爾元陸軍中将は、「大東亜戦争は海軍が始めて海軍で負けた」と評したが、その陸軍は終戦直後省部首脳会議を開き天皇制護持のため開戦責任のみならず、一切の悪役を引き受けることを決定した陸軍将官で戦後弁解した者がいないのも、これに起因していると考えられ、皮肉にも真の実力集団である陸軍の評判を悪くして潰し、海軍出身者を中心に自分たちにとって都合の良い従順な日本政府に復帰させることを目的とした、米の占領政策にも合致するものでもあった。昭和天皇はというと、御自身の戦争責任についてほとんど語ることはなく(※19)、昭和27(1952)年サンフランシスコ講和条約発効の年、翌28年の東京裁判が結審した際も、退位の問題が取りざたされたことはあったが、政府も国民も戦後混乱期の希望、経済復興の象徴としてのお働きに感謝こそすれ、責任とることを強く望まなかった。
 「日本軍には『作戦研究』はあったが、『戦争研究』がなかった」とは富岡定俊元海軍少将の言葉であるが、もう少し正確にいうならば、海軍には戦争研究がないが故に近代戦、総力戦など戦争の本質をまるで理解していない上に、戦略の研究さえもなかったことは戦闘経過が証明しており、戦術の研究のみであった。ごく簡潔に表現すれば、戦争を軍隊だけでどうにかなると本気で考えていた。総じて、昭和の旧陸海軍は日露戦争の後、第一次大戦を含め、これらに係る政治、外交、経済、科学技術、情報、報道、軍備など、国力と戦争との関わりを総合的に検証、研究すべきであったのであり、軍人の政治指導にはもとより限界があった。しかも、陸軍では、『明治卅七八年日露戦史』の編纂に際しては、軍にとって不都合ないし不名誉な事柄、部隊や個人の失策については真相を暴露するべきではないと厳しく禁じ、事実は漠然とした記述で覆い隠し潤飾するよう指示をしたため、火力の不足、弾薬の欠乏などの組織的課題は勿論のこと、軍人として最小限の教訓さえも無に帰された。そうでなくとも、故人の名誉を重んじるあまり忖度してしまうのが日本人の常であり、責任の追及どころか、原因の追究は勿論のこと、対策の検討など、批判的研究を行うことさえも許されなかった。海軍では、この点に加え、『極秘 明治三十七八年海戦史』は、『軍機 海戦要務令』などとともに、機密取り扱い区分が高く指定されていたため(軍機、軍極秘、極秘、秘、部内限の順)、厳重な規則のもとで特定の士官だけが閲覧が許可されるという扱いを受け組織的に活用されずに終わり、歴史を大局的に捉える好機を失ってしまった。『軍機 海戦要務令』の作成に当たった秋山眞之中佐は、「とかくわが海軍の通弊として、万事秘密主義が流行し、(これが)ために大いに知識の普遍を妨碍している」、「有益な技術上の知識が、敵国人に漏れるのを恐れるよりは、むしろその知識が味方全般に普及応用されないのを憂えている」と嘆いたほどで、実際は貸し出しを渋り、メモさえもとらせなかった。これらの歴史から謙虚かつ真摯に学んでいたならば、国力を無視した建艦競争や米英との戦争突入などは考えなかったのではないだろうか。「国防は国力に相応ずる武力を備えると同時に国力を涵養し、一方外交手段により戦争を避くることが目下の時勢において国防の本義なりと信ず」との加藤友三郎海軍大将の言葉どおり、国力に立脚しない不相応に大きいだけの軍備は満足に機能するはずもなく、国民の生活を困窮に追いやりかねない。口述の聞き取りによる走り書きとは言え、国防の本質をこれほどまでに的確に捉えたものはなく、昭和の日本海軍は肝に銘ずるべき言葉であった。しかし、この電報文は機密文書として戦争終結まで海軍省の金庫の奥深くにしまい込まれ、封印されたままとなり人目につくことはなかった。それ自体が歴史(過去の失敗)から学ばない国、日本を象徴するエピソードであり、先の大戦の記憶が薄れてしまった中、今なお国防が政府、自衛隊頼みになってはいないかと憂慮されるのである。

4 歴史に学ばない日本

 かのサミュエル・モリソン教授は、「日本国民の従順性と自分で考えないで指導者に喜んで万事任せる依存性は、日本人を殊更に憎悪喧伝に感染しやすくさせた」と指摘したが、現代の日本国民も全く同じではないかとの不安がよぎる。例えば、米主導によるイラク戦争を支持し派兵を行った英が、じ後に政府自らが検証を行ったのとは異なり、日本では依然として研究者やジャーナリストによる議論も国民の関心も及ばないのが現状であり、民主主義国家に生まれ変わったとされながらも、大戦前と本質的に何も変わっていないように感じられる。更には、いざというとき果たして米が日本を守ってくれるのかとの心配が常に日本国民の意識の根底にあり、ときとして同盟関係の信頼を失いかねないとの政治的思惑から、米への譲歩もやむを得ないと情緒的に判断して国民が知らぬままに国益を損ねてしまったり、かつての三国同盟の際、独に過度に期待、依存するあまり外交の自主性を失い国際社会での孤立を招いてしまったように、今また米との一体行動を盲目的にとってしまいかねないことへの危うさを国民はどれだけ認識しているのであろうか。そうした歴史的文脈において、遡ること昭和13年5月蒋介石が日本軍による侵攻への報復として、米マーチン爆撃機2機を出撃をさせ、2日間にわたって九州(熊本、宮崎、福岡)上空に侵入させ、「日本労働者諸君に告ぐ」と題した反戦ビラ(野蛮で凶暴な日本軍を敵として認めるが、中日両国は不可分な関係にあり日本国民を敵視しないとの内容)を散布したことの真意を日本政府は理解をしようともせず、警察、軍にビラを回収させ国民に事実を隠蔽したこと、更にいえば共産党は日本にとって将来の脅威となるとの蒋介石の警告にも真剣に耳を貸そうともしなかったことを含め、ここに最大の過ちがあったともいえる。今も変わらぬ中央省庁の隠ぺいや改ざん問題などとともに、報道の自由度ランキングや民主主義指数が先進国の中で最も低い日本の国情、ひいては警戒心の無さなど、国民性と重なることへの不安を完全に拭い去ることはできない。しかも、かつて蒋介石が日本政府に警告したとおり、中国国民政府が打撃を受けるに従い中国共産党軍は勢力を拡大していったが、戦後日本は中国への贖罪意識からなのか、警戒心が希薄となり共産党の本質、実体を見誤り巨額の資金援助や技術協力を惜しまず行ったために、お人好しにも人民解放軍(共産党の軍隊)の近代化を手助けしてしまった。現在の共産党中国による様々な脅威は日本自らが招いたといえ、このように物事を情緒的ないし観念的に捉え、厳しい現実を直視又は客観視しないで自分の期待や願望と混同し信じ込んでしまう国民性は、今なお多くの日本人に認められるところではないだろうか。その一方で日本の降伏に際し蒋介石が、「徳をもって怨みに報いる」との声明を発し天皇制存続を支持したばかりでなく、中華民国を九州に進駐(占領)させるとのソ連の提案に、日本を弱体化すべきではないとしてこれを拒否、同時にソ連軍派兵に反対したことに加え、その後に国共内戦に敗れた蒋介石国民政府がかつて日本領であった台湾で再起したこと、日本との国交回復後、金門島を巡る共産党中国との戦闘において根本博元陸軍中将ら旧軍人から成る軍事顧問団(白団)が教育訓練、作戦指導などで貢献し国民党が勝利し台湾を死守したことは、再び国交の断絶に至る経緯などとともに、日本人として知っておくべき歴史の一幕であろう。更に中国との戦争後も、日本は米英豪蘭と戦争するに際しても、開戦の目的の一つにアジアの植民地開放があるというのであれば、沖縄の防衛に総力を傾注するためにも、戦後の日比両国の関係も考慮しつつ、放棄して自衛に任せるとの賢明な選択肢があったはずであった。フィリピンの場合は、日米開戦前に米議会が終戦となる1945(昭和20)年に完全な独立を法律で保障していたことから、当初から反日感情が強く、ゲリラも多く存在していたし、非常に多くの島嶼から成る群島国家であり、死守しようにも戦力が大幅に低下した日本軍の手に負えるようなものではなかった。しかも、実際には理想としたものと現実の差はあまりにも大きく、ごく一部の地域を除けば、官民を問わず日本側の利益のみが追求されて、現地の人々の人権や権益が著しく無視されていたことは疑う余地のないものであった。戦争終盤フィリピン防衛のため第14方面軍司令官に親補された、前出の山下奉文陸軍大将はフィリピンの国民を戦闘被害から救う唯一の策として、首都マニラの無防備(非武装)都市宣言を行おうとしたが、市街戦による死守を主張する海軍と陸軍参謀本部の反対を受け叶わず、10万人超の市民が犠牲となりマニラは廃墟となった。この中には、戦後大統領となったエルピディオ・キリノ氏の妻子が含まれていたが、戦後日本との国交回復前、反日感情が根強く残る中、彼は大統領として、「子や国民に、われわれの友となる日本人への憎悪の念を残さないため」として、民間人や捕虜に対する殺人や虐待の罪で問われ、死刑や有期刑を宣告され服役中であったBC級戦犯の兵士100名超を議会承認を必要としない大統領の特赦で釈放し、日本へ帰国させたのであった。それにしても、他国なら当然教科書などに載せるであろうはずのこれらの事柄、史実の数々が埋もれており、日本人特有の先人に対する気遣いなのか、それとも都合が悪いとの考えからなのか、真摯に歴史から学ぼうとする姿勢は全く窺われない。
 今でも旧軍関係者などの著作物の影響を受け、日本人の多くが当時の日本は米英に追い込まれ戦争に踏み切らざるを得なかったと思い込んでいるふしがあるが、そのように言い切れるほどのものではない。紛れもなく日本人自らが戦争を選択した一面があり、植民地獲得のための侵略ではなかったかと指弾されても弁解の余地はない。少なくとも御用新聞や保守系の論者、近年の歴史修正主義者やネット右翼がアジア諸国は日本が戦ってくれて感謝しているなどと主張するかの如き後世に誇れるような大義ある戦ではない。中国との武力衝突を、戦争と呼ばず、事変と偽ったのも、何も両国が宣戦布告をしなかったからだけではない。パリ不戦条約に署名、調印した直後の日本が、国際的非難を回避するための方便であった点、中国側が米の中立法を意識して援助を受け続けるため戦争状態に至ったことを認めたくなかった面が見過ごされており、実質的には武力行使による征服と変わらなかった。また、昭和15年6月に「友好和親条約」を締結したタイにおいても対米戦に伴い陸軍地上部隊が進駐を行おうとした際、タイがこれを拒否したため、飛行場上空などを威嚇飛行した後、交戦に至ったため、タイが停戦を求め態度を変化させ、やむを得ず同盟に応じたのであって、事実上武力進駐といえる状況であったこともあまり知られていない。けだし、近隣諸国との無用な軋轢となっている歴史問題も同じではないだろうか。かつて東京裁判といえば、保守系の論者を中心に法律上の欠陥をあげつらい、公正に裁かれなかったとばかり、声高に「勝者の裁きだ」と被害者意識を殊更に強調する向きが認められたが、一方で中国をはじめとするアジア諸国に甚大な被害を与えた史実に変わりはない。たしかに死刑が妥当だったかなどの点には疑問は残るが、先の大戦を正当化する理由とならず、戦争をはじめたことはもとより戦争犯罪者としての責任は免れられるものではないという核心部分が意図的なのか、殊更に軽視されている。同様に靖国参拝問題も、当初は政教分離の関係で議論があったはずのものが、今や中国や韓国に屈しない外交姿勢を象徴するかの如き国内問題に変質してしまっていることに気付かないでいるばかりか、本来は国の内外を含め、戦没者全体の追悼をいかに行うべきかという本質的問題が完全に見失われている。靖国参拝の報道なり、隣国の批判的報道に対する国内の反応が対外的には誤ったメッセージを与えかねず、日本は先の大戦の責任を回避し正当化しようとしているなどと、右傾化の疑念を生じさせる危険性が生じていること、もはや国内問題では済まされないことが理解されていない。戦後の長きにわたり官民ともに協力して構築してきた日本という国、日本人の肯定的イメージが損なわれるような事象や出来事が近年起きているような気がしてならない。戦後フランスと(西)ドイツは、50年以上の歳月をかけて対話と交流を重ね、2008年にドイツ・フランス共通歴史教科書を刊行するに至った。以来、両国国民の意識調査では、双方が信頼できる国のナンバーワンであり続けている。歴史的系譜を自ら検証し、学び継承するというこの取り組みによって史実の誤認が消滅、敵対的な歴史観が後退した成果と考えられている。かくて、われわれ日本人も主体性をもって歴史に正面から向き合い、過去の記憶に真摯に耳を傾け、過ちを問い直すことではじめて他国の人々からの信頼を得て、共存繁栄への未来の扉が開かれるのではなかろうか。 (第三部に続く)

■注釈及び補足説明

(※1)  戦後、開戦当初軍令部第三部長兼報道部長であった前田稔元中将は、昭和16年4、5月頃から戦争気分は支配的となった。第三部(情報部)には慎重論はなかった。永野総長は、(昭和16年4月の)就任当初から『戦争不可避』と考えていた」と振り返り、開戦直前に作戦部長に着任したばかりであった福留繁元中将も、「既に部内の課長会議は概ね対米開戦論に踏み切っていた」と語り、井上成美元大将は、「対米慎重論や不戦論者に対しては、あたかも武士の風上に置けない臆病者か卑怯者のような扱いであった」と語った。このとき、既に山本長官自身も対米開戦を決意していたと見え、小沢治三郎元中将(後に最後の連合艦隊司令長官に就任)に対して真珠湾奇襲攻撃の構想を打ち明け、当時参謀長であった伊藤整一少将を軍令部次長の要職に就けるなどの根回しを行っていた。
(※2) 大本営政府連絡会議とは、天皇の統帥事項を掌る大本営(陸軍参謀本部・海軍軍令部)と政府とが戦争指導の適正を期するよう日華事変から設置されたもの。これには首相、陸海軍大臣、外務大臣及び陸海軍各総長の他、必要な場合、その他の大臣、あるいは陸海軍次長も出席し得ることになっていた。この会議に天皇陛下が出席なされた場合、御前会議と称し、戦争末期には最高戦争指導会議と改称された。
(※3) 五味川純平『御前会議』によれば、昭和16年7月21日、大本営政府連絡会議の席上、永野総長は、「米に対しては今は戦勝の算あるも、時を追うて此の公算は少なくなる。(中略)時を経ると共に不利になるということを承知せられたし。フィリピンを占領すれば海軍は戦争をやりやすくなる。南洋の防備は大丈夫、相当やれると思う」と述べた。その直後、永野総長は天皇陛下から、「伏見(宮)総長(永野の前任)は英米と戦争することを避くるように言いしも、お前は変わったか」とのご下問があり、永野は、「主義は変わりませんが、物が無くなり逐次貧しくなるので、どうせいかぬなら、早い方が良いと思います」とか、翌8月末には天皇陛下からの更なる追及に対して、日本海海戦のごとき大勝はもちろん、勝ちうるや否やもおぼつかなし」奉答した。更に9月の連絡会議では、「今なれば戦勝のチャンスあることを確信するも、この機は時と共に無くなるを恐れる。(中略)開戦時期を我方で定め、先制を占むる他なしこれによって勇往邁進する以外に手が無い」と公然と主戦論を展開し、翌月の会議でも、「もはやディスカッションする時ではない。早くやってもらいたい」という持論を繰り返し主張するなど、開戦を主導した。
(※4) 近衛首相は手記に、「乾坤一擲とか、国運を賭してとかいう者があり、松岡外相もしばしば口にしたが、自分はいつも不愉快に感じた。乾坤一擲とか国運を賭してとかは、壮快は壮快だが、前途の見通しのつかぬ戦争などを始めることは、個人の場合と違い、いやしくも二千六百年無瑕の国体を思うなら、しかく軽々しくできることではない。たとえ因循といわれ、姑息と評されても、自分にはそういうことはできぬ。いかに遠回りしても、安全第一で100パーセント安全でなければ、戦争など避けねばならぬと固く信じている」と信念を突き通すかのような気概を記す一方、「戦争には自信がない。自信がある人がおやりなさい」と諦めの心境ともとれる言葉を綴った。
(※5) 当時及川古志郎海相は、「無敵艦隊と呼号していた海軍が、アメリカとは戦ができないから(陸軍に予算などを)譲歩しろと、今さらいえない。弱腰の非難を海軍が一手に引き受けるのはたまらんじゃないか。外部にも内部にも海軍は立場を失ってしまう」との心境を語っていた。また、山本長官も、近衛首相からの対米戦の見込みについて問いかけられた際、戦いが本分である軍人として戦えないとは言い難いのか、「是非やれといわれれば、はじめ半年や一年の間は、随分暴れて御覧に入れる。しかしながら、二年、三年となれば全く確信は持てない。・・・・」と捉えどころのない意見を述べた。仮に、戦えないと言っても、その場合は、別の人物と交代させられるだけで事態は改善しないと考えたのかもしれないが、こうした曖昧な態度が、近衛首相の判断を混乱させ、開戦を防ぎ得なかったとして、戦後批判が高まったこともあった。戦後、井上成美は、「実戦部隊の最高責任者である連合艦隊司令長官が、対米戦に自信がないというのであれば、職を賭して反対すべきであったと思う。国家が亡ぶかどうかの最大の問題だ。滅私奉公のこそこのときだ」との趣旨の発言を繰り返した。また、及川海相に対しても、「海軍は戦えぬといってくれないか(海軍として首相を助けて戦争回避、交渉継続の意思をはっきり表明してくれないか)と、陸軍より言われしことあり。陸海軍相争うも、全陸海軍を失うより可なり。なぜ男らしく処置せざりしや。如何にも残念なり」と、戦えないと分かっていたはずの海軍が真勇を欠き、必敗すると言い切れなかった責任について直接当人を咎めた。
(※6) 東條英機ら6名の将軍と文官1名が、A級戦犯(平和に対する罪)により有罪判決を受け、絞首刑は昭和23年12月23日(皇太子明仁親王。現在の上皇陛下の誕生日)に執行された。また、A級戦犯に指定されながら、不起訴により釈放とされた中には、海軍の豊田副武軍令部総長の他に、緒方竹虎氏(元朝日新聞主筆・副社長、政界進出後国務大臣等)、元総理大臣岸信介氏、元三菱社長郷古潔氏、児玉誉士夫氏、笹川良一氏、正力松太郎氏(元読売新聞社主)ら戦後の名だたる有力者が多数含まれており、戦後一転して親米路線を支える側となった。なお、嶋田繁太郎元海相は終身刑、永野修身元軍令部総長は公判中に病死した。終戦時海相に返り咲いた米内光政大将は、戦後GHQ関係者に賓客扱いされるような懇意な間柄にあり、ダグラス・マッカーサー連合国軍最高司令官の秘書官ボナー・フェラーズ准将から、天皇擁護のため東條らに全責任を負わせるとの提案があった際、賛同の意を示した。東京裁判においても、満州事変、支那事変、日米開戦を主導した責任者として陸軍将軍と文官の名前を次々と挙げる偽証にも近い証言を行った。
(※7) 後年、元帥となりながらも既に軍令部総長の職を辞した永野修身海軍大将(海兵28期)であったが、マリアナ沖海戦直前の昭和19年6月頃、「嶋田(海相兼軍令部総長、海兵32期)を辞めさせるというようなことは、自分が必要とあれば口を切るべきだ。部内の若い衆が誰々が大臣に宜しい等ということは許すべきではない」と周囲に豪語し、制止していたことがよく示しているように、たった一人の元帥、現役の最長老というプライドが高く傲慢であり、同時に海軍内の力関係がよく分かる。現に嶋田大将の件は、岡田啓介海軍大将(海兵15期)が東條首相に嶋田大臣の交代を直接談判したケースを除けば、 米内光政大将などは、同月末の海軍現役予備大将会の席上で、『あれ(嶋田)では駄目だな』と周囲にささやくだけで、誰一人として嶋田大臣に不信任を突きつけることはなかった。
(※8) 野村吉三郎元海軍大将は、ワシントン軍縮会議の随員として参加(当時大佐)するなど、海外での勤務経験は豊富だった。しかし、この際も、加藤友三郎全権が持参した計画を米側との非公式な会合の場での質問でまんまと引き出されるなど、交渉事には不向きであったと見られる。大使には他に適格者を充てるべきだったかもしれないが、海軍が米との交渉に端から期待していなかったためとも考えられる。
(※9) 真珠湾攻撃当日の日本外交電を暗号解読した電報2通は、ハル国務長官のもとに届けられ、会議に同席していたノックス海軍長官とともに、ジョージ・マーシャル陸軍参謀総長、ハロルド・スターク海軍作戦部長の知るところとなった。そこで、両軍制服組トップの二人は、「日本は本日(7日)、東部標準時(ワシントン)の午後13時(ハワイ時間午前7時30分)に最後通牒に該当するものを提示せんとしている。更に、また彼らは直ちに暗号機を破棄するよう命令を受けている。まさにこの時刻が果たして如何なる意義を有するものであるか分からないが、しかしこれに応じ得るように警戒を現にせよ」との内容の電報を即座に発したが、ハワイに届いたのは攻撃を受けた後のことであった。
(※10) 遡ること10月の重臣会議においても、若槻元首相は、「日米戦争を主唱する論として、いわゆるジリ貧論をしばしば訊くが、これほど危険な話はない。果たして戦争したならば、いかがなことになるのか、よほどの検討を要する」、「外交交渉の目途がなくなったからといって、直ちに開戦というがごときはいかがなものだろうか。国運を賭しての問題であるから、もう少し、政治的な考慮があっても良いのではないか」などとも発言していた。かような若槻に対し、陸軍参謀本部戦争班は、「若槻、平沼連の老衰者には、皇国永遠の生命を託する能わず。吾人は孫子の代まで、戦い抜かんのみ」との「機密戦争日誌」に記していた。
(※11) 大和及び第二水雷戦隊がとりまとめた「戦闘詳報」 は、「制空権を持たない艦艇がいかに脆弱であるかは、既にマレー沖海戦以来、幾度かの戦闘において実証されてきたところである。完全な制空権を確保し得ない場合といえども、突入までは強力な直衛機をつけ、勢力の保存を期すべきである」と作戦の不備を厳しく指摘し、「いかに九死に一生の作戦といえども、目的完遂の道程においては最も合理的かつ自主的に行動しうるように、 綿密な計画のもと、極力成算ある作戦を実施すべきである。戦局逼迫のため焦慮の念にかられ、また単に思いつきからする作戦は、精鋭部隊(艦船)をみすみす犬死にさせるに過ぎない」と軍令部を痛烈に批判する内容となった。作戦前、連合艦隊司令部参謀長の草鹿龍之介少将は、大和を掩護する駆逐艦隊司令、艦長が猛反対する中、総指揮官の伊藤整一中将に対し、「要するに死んでもらいたい。いずれ一億総特攻ということになるのであるから、その模範となるよう立派に死んでもらいたい」と発言、伊藤中将は、「そうか、それならわかった」と納得したとか、無言だったとかされる。伊藤中将の前席は軍令部次長であり、第二部長の黒島少将が特攻兵器を案出してくることに対し、「そんな凄惨な戦いをする前に、戦いをやめねばならぬ」と言ったとも伝えられるが、立場が変わって今更できないとは言えなかったのだろう。伊藤中将は有賀艦長、大和などと共に戦死を遂げた。大和による水上特攻は、及川古志郎軍令部総長が、天皇から、「飛行機だけか、海軍に艦はないのか(言外に沖縄は救えないのか)」とご下問があった際に、「海軍の全兵力使用を致す」と奉答してしまったのが元であり、連合艦隊司令部先任参謀の神重徳大佐(第一次ソロモン海戦時の三川艦隊参謀)が、「陛下から、航空部隊だけの総攻撃かというご下問があった」などと言って回り主導したとされる。遡ること昭和19年6月下旬、神大佐(当時海軍省教育局一課長)はサイパン島の奪回を関係者に説いて回った際、岡田啓介大将との面談において、「大和、武蔵を残しても使い道はありましぇん。サイパンに突っ込んで沿岸砲台にするほか、宝の持ち腐れです」、「軍令部は意気地がありましぇん。是が非でもサイパンを取り返すと決心しないでいて、ヤレ飛行機が足らんの、油がどうのと泣き言ばかり並べ、なっちゃいましぇんよ。飛行機が足りなければ陸軍の戦闘機に加勢してもらえばいい。陸軍機は脚が短いから遠くへは使えませんが、沿岸近くなら十分、大和、武蔵の傘になります。伊豆七島に沿って陸軍機を出してもらい、遠い方は海軍の基地航空隊と母艦機で傘をさすとすれば、サイパン突入まで空中掩護ぐらいできないことはありましぇん。陸軍だって真剣に頼めば分かる。ワシなら十分説きつけてみせる。そん代わり、海軍はこれでおしまいですが、大和、武蔵の全砲火で米軍の橋頭堡を後ろから叩きあげてごらんなさい。一遍は上陸敵軍を海に追い込めます。少なくとも6か月は進攻をくい止められると思う」などと語り、軍令部作戦部長であった中澤佑少将に対しては、「私を戦艦山城の艦長にしてください。私は山城を指揮し、サイパンに進出、海上より陸戦を授け米軍を撃破します」とか、「私を戦艦伊勢の艦長にして下さい。5,000人の陸兵を載せて逆上陸して、戦局を挽回してご覧に入れます」と強訴したという。後に連合艦隊参謀兼ねて南方軍司令部・海軍総隊司令部の参謀となって沖縄での海上特攻などを主導するようになること予感させるものが既にこのときあった。終戦直後の9月14日神大佐は用務のため、霞ヶ浦から千歳へ向かう途中、搭乗機(練習機白菊)が、三沢北東15kmの海上に不時着、米駆逐艦に救助され皆が生還したものの、ただ一人行方不明となったが、兵学校では水泳指導官であったこと、事故直前まで普段と変わった様子がないことなどから、事故死又は自殺とするには都合よく過ぎ、遺体発見の事実も確認されていない。戦後軍人の中には戸籍を捨てたり、改姓するなどして生き延びた者も少なくなく、情報や防疫関係者などは偽の戸籍や身分証、当面の資金などが与えられていたケースもあり、生存の可能性も十分に考えられる。その内の一人に、特攻兵器桜花の発案者とされる大田正一大尉がいる。秦郁彦氏の調査によれば、昭和20年9月5日付で海軍722航空隊から本籍地山口県熊毛郡室津村長宛に出された通報文には、「死亡の場所 茨城県鹿島郡高松村神ノ池基地当方洋上」、「死亡の事由 昭和20年8月18日12時30分零式練習戦闘機(722-56号)を操縦、神ノ池基地を離陸し、基地当方洋上に於て試飛行中海面に墜落、機体と共に海中に没入せり。爾後極力捜索を遂げたるも遂に発見するに至らず、四囲の状況によりして生存の見込全くなきものと認め、死亡せしものと認定す」とあり、昭和31年11月20付の呉地方復員部が作成した内地死没者名簿には、「航空殉職」とされ、「戸籍抹消」とあったという。しかし、実際は無戸籍のため、本名を偽って横山道雄などの別人を装い、定職に就くこともできず各地を転々とし生き延びた。1994年12月7日京都市内の病院にてガンにより死亡した。
(※12) ミッドウェー海戦では、空母赤城が回航不能と判断され、山本長官自ら、「オレが全、責任を負う」として魚雷により自沈処分したが、艦長青木大佐は退艦し一命をとりとめた。しかし、帰国後自沈させた責任を問われ、嶋田繁太郎海軍大臣は現職を解き予備役に編入後、即日召集し海南島の警備府付という懲罰人事に処した。同様に第三次ソロモン海戦で自沈処分となった、戦艦比叡の西田正雄大佐も予備役編入後、即日召集される非情な処分が科された。この際、山本長官は、「戦艦比叡を1隻失うことより西田を失うことの方が、海軍にとっては痛手である」と猛反発したともされるが、海軍は艦と運命を共にしなかった艦長を激戦地や閑職へ次々と送り込んだ。
(※13) 昭和20(1945)年8月9日、満州国において対日参戦を開始したソ連軍は、8月18日、千島の占守島、幌筵島、8月28日に択捉島、9月1日に国後島という順に各島を占領していった(ともに9月2日の説がある。)。9月2日の日本の降伏文書調印後、同月4日に水晶島(歯舞群島の一島、群島の占領は、降伏文書調印の3~5日後)を、5日に色丹島を占領した。なお、同年8月18日、占守島にソ連軍が上陸した際、第五四戦隊北千島派遣隊の隼3機と北東航空隊北千島派遣隊(片岡基地)の九七式艦上攻撃機4機が、ソ連艦艇や敵飛行場を攻撃したのが、最後の組織的抵抗となった。
(※14) 今村均大将は、戦犯となり巣鴨拘置所に収容されたが、「自分だけ東京に居れない」と、部下が収容されている豪州刑務所に入所するよう妻を通じGHQに働きかけ服役をした。帰国後は、回想録を出版(印税は戦犯刑死の遺族、戦死者のために使われた。)した他は、かつての部下を訪ねるだけで、自宅の離れに建てた(謹慎)小屋に自らを幽閉し、表舞台に出なかった。岡田資中将は、名古屋空襲を行った際、撃墜され捕虜となったB-29搭乗員の処分をめぐり、B級戦犯として投獄され、軍事裁判(横浜法廷)に掛けられたが、「米軍による民間人を狙った無差別爆撃は国際法違反」であり、「搭乗員は戦犯で捕虜ではない」などと、米の戦争責任を問うと同時に、部下の命を守るため、「すべての責任は自分にある。自分だけを死刑に処せ」と終始主張し続け、絞首刑による死刑が執行された。
(※15) 日米開戦時陸軍参謀総長であった杉山元大将(後元帥)は、「南方作戦は3か月で片付ける」と天皇陛下に奏上した。すると陛下は、「支那事変は1か月で片付けると言ったのに、4年かかっているではないか」とたしなめたが、杉山大将は、「支那は奥地が開けていて、予定どおり作戦がうまくいかないのです」と釈明をした。すると、陛下は、「支那の奥地が広いというのなら、大平洋はもっと広いではないか」と戒めの言葉を重ねて告げたのであった。
(※16) 加藤友三郎元帥は、日露戦争では島村速雄の後任として聯合艦隊参謀長に就任、日本海海戦では東郷長官とともに三笠艦橋で指揮を執った。軍縮会議終了後、加藤元帥は海軍次官に宛て次の内容を電報で送った。「国防は軍人の専有物にあらず、戦争もまた軍人のみにてなしうべきものにあらず。国家総動員してこれにあたらざれば、目的を達しがたし。平たくいえば、金がなければ戦争ができぬということなり。大戦後、日本と戦争の起こる可能性があるは米国のみなり。仮に軍備は米国に拮抗するの力ありと仮定するも、日露戦争のときのごとき少額の金では戦争はできず、しからばその金はどこよりこれを得べしやというに、米国以外に日本の外債に応じ得る国は見当たらず。しかしてその米国が敵であるとすれば、この途は塞がるるが故に結論として日米戦争は不可能ということになる。国防は国力に相応ずる武力を備うると同時に、国力を涵養し、一方外交手段により戦争を避くることが、目下の時勢において国防の本義なりと信ず。(以下略)」奇しくも、大正13年関東大震災がもたらした財政破綻の危機を救ったのは、この外債であった。
(※17) 昭和16年4月、松岡外相は英チャーチル首相から書簡を受け取った。それには、日本に忠告する次のような内容が書かれていた。「独の英国侵入は不可能と考えられるが、米国の対英援助を独は阻止し得られるか。三国同盟締結は米国の戦争参加を減少せしめたか(ヒトラーは、「枢軸強化のみが米国の参戦を阻止し得る」と主張し、日本はこれを信じた。)。米英二カ国の海軍力をどう見るか。米海軍の実力は如何。英空軍は、1941(昭和16)年末ないし42(翌17)年には独に対し優勢を保持し得る。1941年末における鉄鋼生産量は米7,500万トン、英1,250万トン、計8,750万トンに対し、日本は700万トンに過ぎない。そして最後に、日英関係の改善は考えられないか」とのメッセージが添えられていた。しかし、松岡外相も外務省も、陸海軍も相手にしなかった。つまり、この時点で戦争を回避しようとすれば、できないはずはなかった。この直後に軍令部総長に任命されたのが永野修身大将であった。
(※18) 米内光政海相は、このとき財政難を理由に派兵の増加に消極的な蔵相を怒鳴りつけ、「不拡大主義は消滅した。南京くらいまで攻略して様子を見てはどうか。日支問題は中支に移った。陸軍兵力の使用法も考え直す必要はないか。日支全面戦争となったうえは当然ではない か」などと発言した。
(※19) 公式の謝罪ではないものの、昭和50(1975)年初訪米の際、ジェラルド・R・フォード大統領主催の晩餐会でのこと、「私が深く悲しみとする、あの不幸な戦争の直後、貴国が我が国の再建のために、温かい好意と援助の手をさし延べられたことに対し、貴国民に直接感謝の言葉を申し述べる」とのお言葉を述べられたが、そこには「不幸な戦争」を起こした主語はなく、援助に対する感謝を述べたものものであったものの、現地では謝罪と受け止める者も少なくなかった。これは外務省の助言とともに、宮内庁と内閣が作成したものがベースとなっていると推察される。といのも、その後の記者会見において、記者からの「『私が深く悲しみとする、あの不幸な戦争戦争』というご発言ありましたが、このことは、陛下が、開戦を含めて、戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか。おうかがいいたします」との質問に対して、陛下のお答えは、「そういう言葉の文については、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよく分かりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます」というものであったからである。


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