土門拳に聞く🎤写真は、なぜ人間の嘘を許さないのか🌙千夜一夜物語第122夜|日本語版
写真家・土門拳。その名を聞くと、まず浮かぶのは、美しい風景でも、柔らかな記念写真でもない。そこにあるのは、人間の顔を真正面から見つめる、逃げ場のない写真である。土門拳にとって写真とは、単なる記録ではなかった。それは、時代と人間の奥にあるものを、容赦なく写し出す道具だった。
昭和という時代は、戦争、敗戦、貧困、復興、高度経済成長を経験した激しい時代だった。日本は大きく変わった。しかし、どれほど時代が変わっても、人間の顔だけはごまかせない。笑っていても疲れは出る。立派な服を着ていても、不安は目に残る。貧しさの中にも、消えない尊厳がある。**土門拳の写真は、その「隠したつもりの真実」を写してしまう。**だから怖い。だから強い。そして、今も古びない。
今回は、土門拳を現代の編集部に招いた、という設定で話を聞く。テーマは、写真は、なぜ人間の嘘を許さないのかである。
昭和という時代――顔に歴史が刻まれていた
――土門さん、今日はよろしくお願いします。まず、写真を撮ってこられた時代について伺います。
土門拳:私が写真を撮った時代は、平穏な時代ではありませんでした。日本は戦争をし、敗れ、焼け跡から立ち上がり、やがて豊かになっていった。人々は「復興だ」「成長だ」と言いました。しかし、私はその言葉だけを信用しませんでした。私が見ていたのは、顔です。子どもの顔、労働者の顔、被爆者の顔、職人の顔、仏像の顔。新聞の見出しは時代を説明します。しかし、人間の顔は時代を証言する。そこには、政策よりも深く、景気よりも長く残るものがある。人間がどう生き、どう傷つき、どう耐えたか。それは顔に出るのです。
――土門さんの写真には、説明文より強い沈黙があります。
土門拳:写真はしゃべりません。だからこそ、よくしゃべる。本当に強い写真は、大声で主張しない。ただ、そこにある。しかし、見る者は逃げられなくなる。写真の沈黙は、ときに文章より雄弁です。
土門拳、自己紹介
――あらためて、自己紹介をお願いします。
土門拳:土門拳です。明治四十二年、山形県酒田に生まれました。写真家です。ただし、写真を「きれいに撮る仕事」だとは思っていません。私にとって写真とは、現実に食らいつく仕事です。現実が貧しければ、貧しさを見なければならない。現実が痛ましければ、その痛ましさから目をそらしてはいけない。現実が美しければ、その美しさの奥にある厳しさまで見なければならない。
――かなり厳しい写真観ですね。
土門拳:写真は、甘やかすとすぐ飾り物になります。しゃれた構図、きれいな光、上手な影。もちろん、それも大切です。しかし、それだけなら写真は床の間の置物になる。私は、写真を置物にしたくなかった。写真は、人間の現実に突き刺さっていなければならない。
写真は、なぜ人間の嘘を許さないのか
――今日のテーマです。写真は、なぜ人間の嘘を許さないのでしょうか。
土門拳:まず、写真そのものは、いくらでも嘘をつけると言っておきたい。角度で嘘をつける。切り取りで嘘をつける。光で嘘をつける。説明文で嘘をつける。撮らないことでも嘘をつける。だから、「写真だから真実だ」と簡単に言ってはいけない。
――では、なぜ写真に真実を求めるのですか。
土門拳:写真家が逃げなければ、写真は真実に近づくからです。カメラが偉いのではない。レンズが正直なのでもない。**写真家が現実から逃げないとき、写真は人間の嘘を突き破ることがある。**人はカメラの前で取りつくろいます。笑う。胸を張る。弱さを隠す。しかし、完全には隠せない。目の奥に出る。手に出る。姿勢に出る。沈黙に出る。**人間は言葉では嘘をつけるが、存在そのものでは嘘をつききれない。**写真は、そこを写してしまうのです。
――撮られる側だけでなく、撮る側も怖いですね。
土門拳:そうです。写真家もまた、写真に裁かれます。相手をきちんと見ていたか。自分の都合のよい絵にしていないか。貧しさを美談にしていないか。苦しみを材料にしていないか。写真は、被写体だけでなく、撮影者の嘘も写す。
リアリズムとは、現実を都合よく飾らないこと
――土門さんは「リアリズム写真」の代表として語られます。リアリズムとは何でしょうか。
土門拳:リアリズムとは、ただ汚いものを汚く撮ることではありません。貧しいものを貧しく撮ることでもない。それでは表面をなぞっただけです。**リアリズムとは、現実の前で自分に都合のよい物語を作らないことです。**かわいそうだから泣け、という写真は浅い。貧しいから立派だ、という写真も浅い。古いからありがたい、という写真も浅い。写真家は、被写体を自分の感動の道具にしてはいけません。
――感動の道具にしてはいけない。
土門拳:人間は複雑です。悲しいだけの人間はいない。強いだけの人間もいない。美しいだけの仏像もない。現実をきれいにまとめた瞬間、現実は薄くなる。リアリズムとは、現実を都合よく編集しない勇気です。
『ヒロシマ』――傷を美談にしない
――代表作の一つに『ヒロシマ』があります。被爆者を撮ることは、非常に重い行為だったと思います。
土門拳:重いです。そして、軽くしてはいけない。人間の傷を撮るとき、写真家は危険な場所に立ちます。少し間違えば、他人の苦しみを自分の作品にしてしまう。それは許されない。だから、傷を美談にしてはいけないのです。
――被爆者を「かわいそうな人」としてだけ撮ってはいけない、ということですか。
土門拳:その通りです。「平和の象徴」として便利に使ってもいけない。そこには、一人の人間がいる。生活がある。怒りがある。諦めがある。沈黙がある。その人が背負っている時間がある。写真家は、それを見なければならない。**よい写真は、見る者の中で時間を持ち始める。**一瞬を止めているのに、その一瞬から長い時間が流れ出す。そこに、写真の恐ろしさがあります。
『筑豊のこどもたち』――貧しさの中の尊厳
――『筑豊のこどもたち』についても伺います。
土門拳:筑豊には、時代の矛盾がありました。日本は成長へ向かっている。しかし、その足元で厳しい生活をしている人たちがいる。子どもたちは、その矛盾の中にいました。私が意識したのは、かわいそうに撮らないことです。貧しさを撮ると、見る人はすぐに「かわいそう」と言いたがる。しかし、それだけでは足りない。「かわいそう」と言った瞬間、見る側は安全な場所に逃げる。自分は助ける側、相手は助けられる側。そういう構図になる。私はそれが嫌でした。**貧しさの中にも、人間の尊厳はある。**それを見落としてはいけない。
――現代では、貧困を撮ること自体に批判も出るかもしれません。
土門拳:当然です。撮る側は常に問われるべきです。何のために撮るのか。誰のために撮るのか。被写体を踏み台にしていないか。写真家は、シャッターを押すたびに倫理を問われている。
仏像を撮る――石の顔に、人間の祈りを見る
――土門さんは仏像や古寺も多く撮っています。社会的な写真とは別の仕事に見えます。
土門拳:別ではありません。仏像もまた、人間です。木や金属や石でできていても、それを彫った人間がいる。拝んだ人間がいる。救いを求めた人間がいる。恐れ、祈った人間がいる。仏像を撮ることは、人間の祈りを撮ることです。
――美術品としてではなく、人間の歴史として見ていたのですね。
土門拳:美術品として見るだけでは足りません。仏像は標本ではない。長い時間、人間の不安や願いを受け止めてきた存在です。木の割れ目、表情、手の形、目の伏せ方。そこに人間の祈りが残っている。千年前の仏像を撮ることは、千年前の人間と向き合うことです。
スマホ時代に、土門拳なら何を撮るか
――現代では、誰もがスマートフォンで写真を撮ります。この時代をどう見ますか。
土門拳:面白い時代です。誰でも写真が撮れる。これはすばらしいことです。しかし同時に、危うい時代でもあります。写真が軽くなりすぎているのです。撮る。見せる。褒められる。流れる。その繰り返しです。写真が記憶になる前に、反応の材料になっている。現代の写真は、記録よりも承認に近づきすぎている。
――SNS時代の写真ですね。
土門拳:人に見せるために撮る。評価されるために撮る。自分をよく見せるために撮る。そればかりになると、写真は現実から離れていく。写真が現実を見るのではなく、自分を飾る鏡になる。だから、すぐに見せないことです。撮った写真を寝かせる。自分の興奮が冷めてから見る。これは本当に撮る必要があったのか。自分は何を見たのか。相手を利用していないか。そう考える。**シャッターを押す速さより、写真を見直す深さが大切です。**カメラの値段ではありません。問題は目の深さです。写真の本質は、機材ではなく、現実への向き合い方です。
よい写真とは何か
――土門さんにとって、よい写真とは何でしょうか。
土門拳:長く残る写真です。有名になることと、残ることは別です。その時代に受ける写真はたくさんある。しかし、何十年後にも見られる写真は少ない。なぜ残るのか。そこに人間が写っているからです。風景でも、建物でも、仏像でも同じです。そこに人間の時間が写っていれば、写真は残る。逆に、人間が写っていなければ、どれほど上手でも消えていく。**よい写真とは、人間の時間が写っている写真です。**一瞬の中に、過去と未来が感じられること。その人がどう生きてきたか。このあとどう生きるのか。その社会が何を背負っているのか。そこまで想像させる写真。それが強い写真です。
結び――写真は見る者の嘘も許さない
――最後に、現代の写真を撮る人、見る人へメッセージをお願いします。
土門拳:写真を撮る人には、まず見ることを覚えてほしい。撮る前に見る。近づく前に考える。シャッターを押す前に、自分が何をしようとしているのかを問う。**写真は、押す指よりも、見る目で決まります。**そして、見る人には、写真を早く消費しないでほしい。一枚の写真の前で、少し立ち止まる。写っているものだけでなく、写っていないものを考える。なぜこの顔なのか。なぜこの沈黙なのか。なぜこの一瞬が残されたのか。そう考える。写真は、見る者の嘘も許さない。
土門拳の写真を前にすると、私たちは「上手い写真ですね」とだけ言って通り過ぎることができない。そこには、人間がいる。時代がある。傷がある。祈りがある。沈黙がある。そして、見る者の側にも問いが返ってくる。あなたは、この顔をどう見るのか。あなたは、この時代をどう受け止めるのか。あなたは、何を見ないふりしてきたのか。**土門拳の写真は、被写体を写しているようで、実は見る者の心を照らしている。**写真とは、単なる記録ではない。単なる芸術でもない。単なる報道でもない。**写真とは、人間の存在を、言い訳なしに差し出す行為である。**そして土門拳は、その行為に生涯を賭けた写真家だった。
