6歳で海を渡った少女津田梅子に聞く🎤「女性が学ぶということ」🌙千夜一夜物語第147夜
ナレーション――日本初の女子留学生が生まれた時代
津田梅子が生まれたのは、1864年、江戸幕府が終わりを迎えようとしていた時代である。
その4年後の1868年、明治政府が誕生した。
新しい政府は、日本を欧米諸国に並ぶ近代国家にしようと、政治、産業、軍事、法律、教育など、あらゆる制度の改革を進めた。
しかし、当時の日本と欧米諸国との間には、科学技術や産業だけでなく、教育の面でも大きな差があった。
そこで明治政府は、欧米の制度や文化を直接学ぶため、1871年に岩倉使節団をアメリカやヨーロッパへ派遣した。
使節団には政府の要人だけでなく、将来の日本を担う留学生も同行した。
その中には、5人の女子留学生がいた。
当時の日本では、女性が高等教育を受ける機会はほとんどなかった。
女性に求められていたのは、家庭を守り、夫を支え、子どもを育てることだった。
そのような時代に、少女たちを海外へ送り出し、長期間勉強させようという計画は、極めて異例だった。
5人の女子留学生の中で、最も幼かったのが満6歳の津田梅子である。
梅子の父、津田仙は、西洋の農業や文化に関心を持つ開明的な人物だった。
女子留学生募集の話を知った父は、梅子を応募させた。
もちろん、6歳の梅子が自分の意思だけで留学を決めたわけではない。
まだ親元で甘えていても不思議ではない少女が、家族と離れ、言葉も文化も分からないアメリカへ向かうことになったのである。
梅子はアメリカで、チャールズ・ランマン夫妻の家庭に預けられた。
そこで英語、音楽、文学、歴史、自然科学などを学び、約11年間を過ごした。
生活のすべてが英語になり、梅子は次第に日本語を忘れていった。
1882年、17歳で日本へ帰国したとき、梅子は外見こそ日本人だったが、言葉や生活習慣、ものの考え方は、アメリカの影響を強く受けていた。
ところが、帰国した日本で梅子を待っていたのは、留学で身につけた能力を十分に生かせる社会ではなかった。
男性の留学生には、政府や大学、企業などで活躍する道が用意されていた。
しかし、女性には同じような道がほとんどなかった。
梅子は華族女学校などで英語を教えたが、日本の女子教育に強い疑問を抱くようになる。
女性に知識を教えても、その知識を社会で使う機会がなければ、教育は形だけのものになってしまう。
梅子は後に再びアメリカへ渡り、ブリンマー大学で生物学などを学んだ。
そして1900年、女性が自立するための本格的な教育を実現するため、女子英学塾を設立した。
それが、現在の津田塾大学へとつながっている。
それでは、津田梅子本人に話を聞いてみよう。
インタビュー――6歳で海を渡った少女
津田梅子
はじめまして。津田梅子と申します。
1864年に江戸で生まれ、1871年、満6歳のときに日本初の女子留学生の一人としてアメリカへ渡りました。
アメリカでは約11年間生活し、帰国後は英語教師として働きました。
その後、日本の女性が十分な教育を受け、その力を社会で生かせるようにしたいと考え、1900年に女子英学塾を設立しました。
私が目指したのは、単に英語を話せる女性を育てることではありません。
自分で考え、自分の人生を選び、社会の中で力を発揮できる女性を育てることでした。
聞き手
6歳で親元を離れ、アメリカへ渡ったそうですね。怖くはなかったのですか。
津田梅子
怖くなかったと言えば、嘘になるでしょう。
ただ、6歳の私は、留学がどれほど大変なことなのか、十分には理解していなかったと思います。
船に乗ることも、外国へ行くことも、どこか大きな冒険のように感じていたのかもしれません。
しかし、船が日本を離れ、家族の姿が見えなくなったとき、自分が簡単には帰れない場所へ向かっていることを感じました。
聞き手
当時は飛行機も電話もありません。家族とは簡単に連絡できませんね。
津田梅子
はい。
今なら海外にいても、家族の顔を見ながら話すことができます。
しかし、当時は手紙だけです。
しかも、手紙が届くまでには長い時間がかかりました。
6歳の少女にとって、家族と離れることは、外国語を学ぶこと以上に大きな試練だったと思います。
聞き手
アメリカでの生活はいかがでしたか。
津田梅子
最初は、何を言われているのか分かりませんでした。
食事も服装も習慣も、日本とは違います。
けれども、子どもは環境に慣れるのが早いものです。
やがて英語で話し、英語で考え、アメリカの学校で学ぶ生活が自然になりました。
逆に、日本語のほうを忘れてしまいました。
聞き手
日本へ帰国したときは、故郷へ戻ったという安心感があったのではありませんか。
津田梅子
もちろん、日本へ帰れたことはうれしかったです。
しかし同時に、私は日本を見て大きな戸惑いを感じました。
自分が生まれた国なのに、言葉も習慣も十分には分からない。
周囲から見れば私は日本人ですが、私自身は、日本社会に戻ってきた外国人のような気持ちでした。
聞き手
いわゆる、帰国子女の悩みですね。
津田梅子
現代風に言えば、そうなるのでしょう。
ただし、当時は相談できる帰国子女が、ほとんどいませんでした。
前例も、参考書も、インターネットもありません。
自分がどこに属しているのか、手探りで考えるしかなかったのです。
聞き手
帰国した日本を見て、特に驚いたことは何ですか。
津田梅子
女性が学んだ知識や能力を生かせる場所が、ほとんどなかったことです。
私は政府の命令で留学し、長い時間をかけて勉強してきました。
ですから帰国すれば、その経験を日本のために使えると思っていました。
しかし、男性の留学生と女性の留学生では、帰国後に与えられる機会が大きく違っていました。
男性は政府の役人や大学の教師になり、国の制度づくりに関わることができました。
女性には、そのような道がほとんど用意されていませんでした。
聞き手
国は女性を留学させたものの、帰国後の仕事までは考えていなかったのでしょうか。
津田梅子
残念ながら、そのように感じました。
言ってみれば、海外から最新の機械を輸入したのに、使う場所を用意していなかったようなものです。
聞き手
かなり皮肉ですね。
津田梅子
私は皮肉を言いたかったわけではありません。
ただ、女性を教育するなら、その力を発揮できる社会もつくらなければならないと考えたのです。
聞き手
当時の女子教育には、どのような問題があったのでしょうか。
津田梅子
女性の教育そのものが否定されていたわけではありません。
しかし、その目的は、立派な妻や母になるためという考えに偏っていました。
もちろん、家庭を支えることや子どもを育てることは大切です。
けれども、女性の人生がそれだけに限られてよいのでしょうか。
女性にも才能があり、志があり、自分で選びたい人生があります。
教育とは、人を決められた型にはめることではなく、その人が持つ力を引き出すことだと私は考えました。
聞き手
そこで、女性のための学校をつくろうと思ったのですか。
津田梅子
はい。
私は教師として働きながら、女性に本当に必要な教育とは何かを考え続けました。
知識を暗記するだけでは足りません。
英語を学ぶだけでも足りません。
自分の頭で考え、自分の意見を持ち、それを言葉にして伝える力が必要です。
経済的にも精神的にも、女性が自立するための教育が必要でした。
聞き手
1900年に女子英学塾を設立されました。学校をつくるのは大変だったのではありませんか。
津田梅子
大変でした。
十分な資金があったわけではありません。
立派な校舎が用意されていたわけでもありません。
最初の学生も多くはありませんでした。
しかし、少人数だからこそ、一人ひとりを丁寧に教えることができました。
私は、大きな学校をつくることよりも、本当に力のある女性を育てることを重視しました。
聞き手
英語教育に力を入れたのは、なぜでしょうか。
津田梅子
英語は、単なる外国語ではありませんでした。
英語を通して、日本の外にある思想や学問、文化に触れることができます。
世界には、日本とは異なる考え方や生き方があると知ることができます。
外の世界を知れば、日本社会を客観的に見ることもできます。
ただし、英語が話せれば国際人になれるわけではありません。
大切なのは、英語を使って何を学び、何を考え、何を社会に返すかです。
聞き手
現代では、多くの女性が大学へ進学し、さまざまな仕事に就いています。今の日本を見たら、どう思われますか。
津田梅子
私の時代と比べれば、大きく前進したと思います。
女性が学び、働き、社会のさまざまな分野で活躍しています。
しかし、制度が整えば、それですべて解決するわけではありません。
学ぶ機会があっても、自分には無理だと思って挑戦しなければ、その機会を生かすことはできません。
また、教育を受けた人が、その知識を自分だけのために使うのではなく、社会のために生かすことも大切です。
聞き手
最後に、学ぶことに迷っている現代の女性や若者へ、言葉をお願いします。
津田梅子
学ぶことは、試験に合格するためだけのものではありません。
学ぶことで、自分が置かれている状況を理解し、別の生き方があることに気づくことができます。
そして、自分の人生を自分で選ぶ力を持つことができます。
すぐに結果が出なくても構いません。
私が女子英学塾を設立したのは、アメリカから帰国して18年後のことでした。
疑問を持ち続け、学び続け、小さな行動を積み重ねた先に、学校が生まれたのです。
教育は、すぐに花を咲かせる仕事ではありません。
けれども、一人の女性が学べば、その知識や勇気は、次の世代へと受け継がれていきます。
6歳の少女が日本に残したもの
津田梅子は、幼い頃から将来の夢を明確に持ち、自分の意思で海外へ渡ったわけではない。
父の決断と、明治政府の政策によって、6歳でアメリカへ送られた少女だった。
しかし梅子は、与えられた留学経験を、自分一人の成功のためだけには使わなかった。
帰国後に感じた違和感を見過ごさず、なぜ日本の女性には学んだ力を生かす場所がないのかと問い続けた。
そして、その問いに対する答えを、学校という形で残した。
津田梅子が日本へ持ち帰ったものは、英語や西洋の知識だけではない。
それは、女性も自分で考え、自分の人生を選び、社会を変えることができるという思想だった。
6歳で海を渡った少女は、やがて多くの女性が未来へ渡るための橋をつくったのである。
