塵と十字架(13)【完】
終章
《塵》に灰が舞う。空に暗雲が垂れ込めていた。
赤い十字架のような塔の上で、彼女は叫ぶ。
──ハート、と。
「私の声を聞いて! 今度は私がアンタを助けるわ」
吹き荒ぶ突風の中、イズミの高い声が響く。狼の耳がピクリと動いた。
──はあと?
目の前の、人形のような容姿の女が頷いた。
「はあと……」
もう一度、今度ははっきり声に出す。
「そうだ……」ぶるぶると首を振る。獣の唸り声が微かに言葉を形造った。決して明瞭ではないが、単語をゆっくりと、懸命に。「オレの名は心臓(ハート)……」
人間にとって一番大切な器官の名前。でも……。クッと笑いが漏れる。狼エキスの効いた獣化体を見下ろす。それは、オレにはもう無いものだ。
ビースト……否、ハートの目が力なく瞬く。段々目が霞んできた。目の前の影を見詰める。
「チカゲ……?」
否、この声はイズミか? 待て、イズミは死んだ筈だ。死、という単語に、彼の腕はそれを強く抱えた。
「何を……?」
目の前の人物が眉を顰める。その整った顔が大きく歪んだのは、ハートが抱える毛布が風に捲れたから。大切に、とても大切そうに抱えていたのは、人間の蒼白な体だった。女の死体──いつからこの状態なのだろう。いくら気を遣って手入れしても、時間というものには逆らえない。それは今にも青白く崩れてしまいそう。
数日前だ。滅多に人の来ない塔上部の制御ルームに彼はその死体を隠していた。先程突然三人が踏み込んで来たので、慌てて死体(ナオ)を抱えて逃げ出したのだ。銃弾が掠めたが、大した傷は負わなかった。
階段に蹲る自分が他の獣人と比べてあまりにおかしいと感じたのだろう。だからイズミはこちらに歩み寄ってきたのだ。
見ないでくれと顔を隠した。姿は全く違う筈。しかしあの日、国会議事堂で自分を救った男だと分かったのだろう。彼女はこの名を呼んでくれた。それは、彼にとって……奇跡の言葉に聞こえた。
俯いている為、イズミからはハートの顔は見えない筈だ。元より表情など分からない獣化体。それでも笑っているように見えなくもない。
「何……?」
イズミがゆっくりと近付いて来る。ナオを取られたくなくて、彼は更に腕に力を込めた。
「肝心な人は……助けられなかったんだ」
彼女を生き返らせて欲しかった。自分のように──そう、例えどんな姿になっても構わなかった。ドクター・カーンならそれが出来る。テロで死んだ自分を、あの男は曲がりなりにも蘇らせてくれたじゃないか。
奴(ドクター)を殺してやりたかった。そもそもこんな事になったのは、全てあいつのせいじゃないか。
中国から《塵》に戻って、彼はドクターの側をうろついていた。相反する二つの感情。殺意、それから微かな願い。その狭間を行きつ戻りつして、結局何の行動も起こせなかったのだ。
チカゲの元にも帰れない。懐かしい施設も今や死体が転がるただの廃墟と化していた。こんな姿じゃ、行く所なんてどこにもない。
いつまで経っても人間の姿に戻れないのだから。いつかこうなるとは思っていた。その時、意識があったら悲劇だと……ずっと思っていた。獣化する度に罪悪感もなく人を殺してきた──だから、これは報いなのか?
「チカゲ……イズミ?」どっちでも良い。「オレを……殺してくれ」
霞む視界の向こうで、その影は笑った。高い声──ああ、イズミだ。心臓の目には彼女は強くて、とても美しく映った。
「頼むからオレを殺して……」
彼女の手には、見た事もない銃が握り締められている。言われるがままに銃口が彼を指し、それから真上に跳ね上がった。
「殺す? 冗談じゃない。断るわ」彼女の叫びに呼応するかのように空に稲妻が走った。「チカゲは……あの子なら言う事を聞いてくれるかもしれない。でも私はそうはいかないわ。殺したりしない。言ったでしょ」
必ず助けるって。
叫んで彼女は引金を引いた。稲光に合わせて、塔先端を穿つように。
「何やって……?」
雷の轟音の度にハートは身を縮める。音と光はほぼ同時だ。
何度目かの射撃が遂に鉄塔の先端部、細い金属の棒を切断した。こちらに向かって落ちてくるそれに、眩い光が纏い付く。獣人の体が痙攣した。
イズミが何か叫んだような気がしたが、凄まじい轟音の中、ハートの耳には届かなかった。
※
《塵》中の人間が目撃する。
雷の中、空の一点が花火みたいに光って黒焦げの小さな何かが落ちてきた。周囲数キロを衝撃波と高熱が襲い、そこに居た者は核の恐怖を思い出して硬直する。
RATTもその余波を喰らって横転した。廃ビルの壁に激突し、乗っていた人間は車外に放り出される。瓦礫から這い出したチカゲは天を見上げた。
聳え立つ真紅の塔──そこに雷が落ちたのだ。地面にはビリビリと電気が走り、近くの建物は次々と炎に覆われる。
「イズミ? ビースト……?」
あそこに居るかもしれない。やっと会えた姉と、捜していた友人が、もしかしたらあの塔に。チカゲの足は火を噴く塔に吸い寄せられていった。後ろからオキが何か叫ぶ声。恐らく制止の声だったのだろうが、彼の耳には届かなかった。凄まじい風圧の抵抗を受けながら、それでも這うように進む。
煙を上げる電波塔近くまで来てチカゲは一瞬、足を止める。それから駆け寄った。黒い塊が地面に転がっていたのだ。上階から吹き飛ばされたように見えた。数百メートルはあろう高さだ。通常であれば落下中に風の抵抗を受けて五体がバラバラになってもおかしくない。それなのに、その人物は微かに声を上げて身を捩ったのだ。
「お、おい、しっかりしろ」
その呻き声が友人のビーストのものだと気付いて、チカゲは彼を抱え上げる。煤で汚れているが、見慣れた顔。少年に見える人工生命体の姿だ。その唇が震えた。
「ご、ごめん……イズミ……」
はっとしたようにチカゲは上空を見上げる。
「イズミ……? ビースト、イズミと一緒だったのか?」
「チカ……。オレの名……前、イズミが……」
しかし、ビーストはそのまま意識を失った。
何処に居る? 早く僕の所へ来て。
この雷鳴の中、しかし彼女の事だ。いつものようにけろりとした顔で降りて来るに違いない。そうだ、何があっても絶対に彼女は僕の元へ戻って来る。そう信じられた。だから、彼は待ち続ける。
しかし、いつまで待っても姉は姿を現さなかった。
※ ※ ※
夢の中の出来事のよう。
彼女と居た三日間。そう、最後のあの日はクリスマスだったっけ。しかしヒイラギは赤い実を付けない。イズミも戻っては来ない。
それから幾日かが過ぎた。
姉と二人で住んでいた家。あのヒイラギの前から、チカゲは動こうとしなかった。
「イズミ……」
ここに居れば必ず姉が来てくれる。そう信じたから。焼け焦げた木。まるで十字架のように見える。
「早く帰ってきて、イズミ……。五年も待ったんだ。もう待てないよ……」
残り三本──煙草(マリファナ)に火を点ける。
こうやっていれば駄目な弟を見兼ねて、必ず彼女は来てくれる。
空は青白く光帯びていた。もうすぐ夜明けの光が差すだろう。
姉が間違いなく死んでいるなら、一体誰の為に僕は生き抜けばいいんだ。この五年間、ずっとそう思っていた。それでも生きてきたのは、あの約束があったから。
──どんな事をしても生き延びなさい。私が必ず助けに行くから。
死んだと認めたら狂ってしまう。だから薬に逃げて、彼女はどこかで生きていると思い込もうとした。でも絶望したくないから、少しずつ諦めていこうと……僕はずるいよ。ちゃんと分かっていた。
二本目の煙草を吸い込む。煙が肺に充満する。そっと息をついて、明け行く空を眺めた。上空では灰が渦を巻いている。
十字架の形をしたヒイラギに手を伸ばす。それが確実に死んでいる事を、もう一度確かめるように。
「痛っ……」
自らがナイフで抉った傷口が指先を刺す。目の覚めるような赤い血が溢れ、指先に宝石のような真紅の球体が。手を振った拍子に、それは零れ落ちた。木に降りかかる。この木(ヒイラギ)が実を付けたらこんなものなのかも。そう思いながら、彼は赤を凝視した。
アラカキは《赤き死》は《塵》の切り札だと言った。
《赤き死》はニッポンを見限ると、そう言った。
為す術ない。チカゲは煙を吐く。
アラカキ殺したのは自分だ。《塵》は一体どうなるのだ。敵だと思おうとした。アラカキは敵だ。《赤き死》を、姉の名を、そして自分を利用しようとした。しかしどうしても割り切れない。救いの神も、征服の悪魔も、共にこの手で殺してしまったような気分。この地に残ったのは無力な人間だけ。
現実問題、灰に塗れたこんな土地に価値なんて一切ない。アラカキのように固執するのはおかしいが、かと言ってイズミのようにあっさり見限れるものか。
チカゲは苦笑した。結局、どうして良いか分からないから、いつまでもここに居るだけなのだ。
最後の一本を踏み潰す。麻薬もなくなったし、姉も居なくなった。
「チッ……」
これからどうすりゃいいんだよ。
ヒイラギの傷口は白い。そこから水分が滲み出ている。生木の部分に、極僅か。葉先の緑が隠れていた。
まだ生きているのか?
チカゲは呆然と焦げた十字架を見詰めた。遂に死んだと思っていたこの木、それでも葉が出て成長し、いつかは赤い実を付けるのだろうか。
「しぶとい奴だな。イズミみたいだ」
彼は笑う。そして庭に背を向けた。瓦礫を押し退けて外へ出る。街には友達が待っている筈だ。
灰色の街には、爪痕のように獣人達の死体が転がっていた。
「チカゲ!」
いち早く彼を見付けてビースト──否、ハートが駆け寄って来る。チカゲにとって見慣れた少年の姿で。
「どっちにしろ、ややこしい名前だな」
聞こえないように言ったつもりが、友人は不快を表した。
「本名が進蔵(シンゾー)って言って……確かにね、恥ずかしかったよ。時代劇みたいでさ。で、通称でハートってしてたんだ。進蔵→心臓→ハートって。コレは結構気に入ってた。いいでしょ?」
「……そうか?」
耳慣れた筈の早口が実に鬱陶しい。そんな友人が、一瞬黙った。
「チカゲ……」声が低くなる。「ナオを埋めさせてくれて、ありがとう」
「あ、ああ……」
抱えていた彼女の死体を、ハートは決して放そうとしなかった。チカゲはヒイラギの根元に、苗を植えた時のような大きな穴を掘り友人をそこへ連れて行ったのだ。ここに埋めれば、決して忘れ去られる事はないと。少なくとも、僕とイズミは覚えている──そう言って。
「ごめんね、チカゲ」
女に土を被せてから、そう言って彼は泣いた。ナオの事を思い、それからイズミの事を考えたのだろう。何時間も一人で泣いているのを、チカゲは慰める術もなくただ見ていただけだ。
「本当にイズミが大好きだったんだ。アラカキのビデオも、ほとんどオレが隠し撮りしたやつ」そう言って彼は薄く笑う。「あの時……あのテロの時、オレ、イズミの為なら死んでもいいって思ってた。なのに、今度はオレのせいでイズミが……」
助かるわけがない。あれだけの雷が落ちた場所に居たのだ。獣人の自分ならともかく、生身の人間である彼女は……。
ハートはそう言って泣いた。チカゲは返事をしなかった。イズミが死んだなんて、絶対に認めるつもりはなかったから。だから友人のように泣く必要もなかったのだ。灰が渦巻く空を、睨むだけ。
今はハートはいつもの調子に戻ってペラペラと喋り続けている。「もぅ、参ったよ。本ッ当にヤだよ。最悪だよ」と繰り返す。
「何でオレが街中の死体、片付けなきゃいけないんだよ。オキが一人でやればいいんだ。どうせ趣味なんだから」
吹き付ける風に身を縮めて、チカゲも黙って頷きを返す。
二人は街中心部に向かって歩を進める。電波塔に近付くにつれて転がる獣人の死体、或いは人間は数を増した。
類を見ない程、莫大なエネルギーを持つ雷が電波塔に落ちたのだ。避雷針など効果を発しなかったようだ。先端部の金属製の梁の部分をイズミが銃で分断し落下する際、それに雷が直撃した。
「無茶しやがる」
獣人の身体に耐え切れない負荷を与えれば、ハートが元に戻るとでも考えたのだろうか。無謀な賭けだ。彼がそのまま死ぬとは思わなかったのだろうか。そして至近距離でその衝撃を受けた自分だって……。
結局イズミの死体は見付からなかったし、メイのそれも分からなかった。街中の獣人は元々攻撃力を重視したあまり、外界からの攻撃には脆く造られていたようだ。大半が衝撃波で息絶え、今あちこちに転がっている。
その死体の真ん中に黒ずくめの男女の姿を見付け、チカゲは軽く手を振って見せる。
「あの光景も何だか怖いよね……」小さな声でハートが呟いた。
街をこのままにしてはおけず、住民総出で死体を一箇所に集めているのだった。あまりの数の多さに、オキですらその表情は暗い。
「どう? 死体フェチ」
ハートの軽口に、葬儀屋は顔を上げ睨み付ける。
「あんた等も手伝え」
黙々と働くマキコも同意見だとばかりに頷く。しかし両手で口を押さえたチカゲには返事をする余裕もない。
「オレは結構平気だけど」
そう言ってハートは、獣人に殺られたらしい人間の死体の衣服を探っている。
「あ、結構分厚い」
「やめろよ!」チカゲが怒鳴る。
死体の所持品の財布を見付けて中から紙幣を抜くものの、ハートは首を振って札を放り投げた。
「駄目だよ。円なんて使えないってば!」
ドルか元でなきゃ、と叫ぶ。あまりの大声に、その場で作業していた者が一斉に振り返った。慌てて財布を背に隠して、ハートは大袈裟に袖を捲る。
「オ、オレも手伝うよ」
人間専門でね、と付け足して彼は新たな死体のポケットに手を突っ込んだ。
「俺も」
獣人の山の中からオキが立ち上がる。ハートが放り出した死体の服を脱がせ、アルコールを染み込ませたタオルで丹念に身体を拭いていく。矢張り獣人より人間が良いに決まってる。その喜悦の表情といったら。
「……この変態ども」
チカゲはその場に座り込んだ。吐き気と共に苛々が込み上げる。自身の上着を探るが、そうだ、煙草(クスリ)はもうないんだっけ。
「ああ……クソッ」
何度も舌打ちを繰り返す。先程はもう麻薬なしでも平気かな、なんて一瞬思ったものだが矢張り無理だ。少なくともこいつ等が側に居る限り。
その時だ。地面に腰を落とすチカゲの上に黒い影が落ちた。
「チカゲ、どう考えている?」
マキコだ。すっくと立って彼を見下ろす。狂態を横目にただ一人、無言で働いていた彼女だが、ずっと何かを考えていたらしい。それともチカゲに言っておく事があるのか。
「考えって?」
この女もどうだ。初めは隊長の弟に敬意を払ってか敬語で喋っていた筈なのに、今や完全に命令口調だ。
「現状を真剣に考えなければならない。アタシ達は国家を失い、国籍もなくした」
「国なんて関係ないじゃん?」
横から口を出すハートをぎろりと睨んで、彼女は続けた。
「主権を持った国家に保護されていた間は、そんな呑気な事も言えよう。だが、今は何だ? 国際機関に難民として認められる事もない。万一、他国の軍が攻めてくれば、或いはこの土地の中で争いが起こればどうなる? 考えているのか、チカゲ? そうなると弱い者から死んでいく。地獄絵図だぞ」
「考えるって……何で僕が?」
この眼帯の女、妙な事を言い出した。
「ニッポン人の主権を回復させる? あんたは僕に国際機関に殴り込めとでも言うのか。それとも何かあれば《塵》の為に武装しろと? イズミじゃあるまいし。冗談じゃねぇよ。ムリ!」
叫んだものだから、胃の奥から込み上げてきた。ウッと呻いてチカゲは道の真ん中に嘔吐する。
「頑張んなよ、チカゲ。オレも手伝うよ」
友人の背を擦りながら、ハートがいい加減な事を言う。ちらりと見たオキは死体に夢中で、こちらの話など聞いてはいない。その姿にほっとして良いのだか、悪いのだか。
もぅ、どうでもいいよ。チカゲが溜め息をつく。分かったよ。国連本部でもどこでも乗り込んでやるさ。イズミだってそうするだろうよ。
見上げた空から、はらはらと雪。
灰ではない。何年ぶりに目にするだろうか。誰かが喚声をあげた。
「寒ぃわけだ」チカゲが呟く。
「ナオに見せたかったな……」ハートの声は掠れていた。「イズミも喜んだろうね」
「さぁな……」
きっと嬉々として弟に雪玉を投げ付けてくるに違いない。その様を思い浮かべて、チカゲは笑みを浮かべた。
街路から音が消える。真っ白な色彩が、灰色の街を埋め尽くす。
塵と十字架・完
