塵と十字架(6)
第二章 灰の記憶
一 《塵》チカゲ
全てが動き出した。
昨日の朝の事だ。五年越しの彼の望みが、願いが、或いは野望の全てが昨日動き出した。
男の目が眼鏡の分厚いレンズ越しに僅かに歪められる。その微かな動きのみが男の表情の変化であった。神経質そうな指先が南米産の葉巻をつまむ。
老成した政治家のような覇気のないその表情。疲れ切ったようにも見える。しかしじっくり見れば髪も肌も、彼がまだ三十そこそこの若さである事を示している。ただ、疲れているだけ。
男は大きくふぅ、と息を吐いた。ああ、疲れ切ったのは事実だ。老けもしよう。核以後この五年間、彼には自由だとか余暇だとか、そんなものは一切なかったのだから。
彼の名はアラカキ。
あの終末の時──幾つもの核爆弾で霞ヶ関は無論の事、日本全土が消えてしまったあの日。当然、指導力を発揮する政治家も行政組織も共に滅びてしまったその時、たまたま両国に居た為生き残った彼は、浴びた灰を払う間もなく活動を開始した。外務大臣の第三秘書の、更に助手という身分であったが、政治に関わる者としてこの事態を見過ごすわけにはいかなかったのだ。しかしニッポンの、いや《塵》の窮状を国際機関に訴えても顧みられず、ならばと《塵》内で人々に団結を呼びかけてもより辛辣に無視されただけ。
それでもこの国を立て直さなければならない。純粋にそう思ったのだ。こうなったら長期戦の構えである。彼は資金源を確保し、外国よりの知識を受け入れ、更に影響力増大の為中国にまで手を伸ばした。
ゆっくりと、紫煙をくゆらす。
あと必要なもの。世の為に、何よりアラカキ自身が求めたのが精神的支柱──彼にとってのそれは終末期ニッポンが誇る英雄《赤き死》であった。
あの赤い髪、そして彼女の操る真紅の戦闘機。二〇三三年の国会議事堂テロが昨日の事のように思い出される。彼は目の前で見た。《赤き死》イズミが外国人テロリストを撃退したあの活躍。目を閉じれば、今も鮮やかにあの赤の軌跡が。
尤もその件以来、有名になりすぎた彼女は元来の特殊部隊としての活動からは外されたようだった。アメリカ戦線に専念するまでの間、自衛隊の広告塔のような存在として国内外至る所で政治家であるアラカキとも顔を合わせるようになっていた。
その彼女はもう居ない。しかしその名は彼の中で今も残っている。それは《塵》の人々にとっても同じ筈だ。
さて……。ずっと俯いていたアラカキの視線が転じる。
昨日の朝、一斉に街に流れた《赤き死》の映像。僅か二秒。しかも肝心の音声メッセージは切れていた。だが、反応は良好。彼女は旧ニッポンの英雄だ。尤も今はこうやって広告塔に利用するくらいしかないのだが。それがもどかしい。
「もうすぐだ」
彼の視線は窓の外へ。この廃墟ビルの隣りに聳える鉄塔に向けられる。あと数日だ。もうすぐ完成する。そうだ、こいつが完成したら赤に塗ろう。
五年かかった。ここからニッポンは復興する。あれは世界に向けての電波塔であると同時に、攻撃拠点ともなる要塞だ。
しかも……。
アラカキの口元に初めて笑みが浮かんだ。《赤き死》の映像を流した正にその翌日の事だ。彼の手に重要な駒が転がり込んできたのは。これ以上の存在はない。彼は手ずから怪我の手当てをし、その人物は今は隣りの部屋で眠っている。染めたての光沢を放つ赤い髪に触れた時は、愉悦に体が震えたものだ。
葉巻の煙を吐き出し、彼は立ち上がる。ここからニッポンは再生する。それが彼にとっての戦いだ。
※
夢を見ていたような気がしたが、何も覚えてはいなかった。
瞼がだるい。身体が重い。
──ここは?
一切の明かりのない暗闇。それでも徐々に目が慣れてくると、ここが崩れかけたビルに手を入れた建物の中の狭い一室であると分かる。耳を澄ましても物音ひとつしない。誰も居ない。何の気配もない。
横になっていたソファーから身を起こした途端、全身に激痛が走った。
「ああ、そうだ……」チカゲは呟いた。
中国の放送局に行って、それからあの外人……メイといったか。あいつに襲われて。カールグスタフを至近距離で撃たれたのを覚えている。
あれからどうなった?
ここは、どこなんだ?
どのくらい眠ってた?
立ち上がった瞬間、膝が崩れた。全く力が入らない。痛みとは別のだるさだ。もしかしたら一週間くらいずっと意識を失っていたのかもしれない。
誰かが助けてくれたのか? 傷はきちんと手当てされており、清潔な衣服を着せられている。
「そうだ、ビーストは……」
ようやく闇に慣れた目で扉の方へと進む。しかし向こうから鍵が掛けられているらしく、それは開かない。
「誰か……」
掠れる声で叫んでも、扉の向こうはしん……としたまま。何の反応もない。
孤独感と恐怖心に身体が竦む。ぞっとした。
落ち着け。激しく首を振る。ここは牢獄なんかじゃない。
それならばと、彼は今度は窓の方へと向かった。遮光性のカーテンを勢い良く開ける。
瞬間、チカゲは絶句した。
彼の居る階のその高さにではない。硝子越しの目の前に巨大な鉄塔が聳えていたせいでもない。
「イズミ……?」
目を疑った。そこに姉が居る!
窓に映った赤い髪、白い肌。驚いたように彼を見詰め返す。姉より随分髪が短く、少しだけ背が高い。あちこちに擦り傷や打撲の跡、それから絆創膏が貼られている。それは窓硝子に映った彼自身の姿であった。
絶望には慣れている。チカゲは窓から目を逸らせた。
それにしても、と己の髪をつまむ。何だ、これは。誰がやった。
「……悪趣味だな」
何者かの手によって染められたのは明らかだ。一体何の為に? 胸糞悪ぃと呟いて、遮光カーテンを閉める。もう一度ソファーに横になった。体が疲れて、痛くてたまらなかった。闇に落ちるように眠りが襲う。
次に目覚めたのは、音だった。鍵穴をカチャカチャ鳴らすその音にチカゲは飛び起きた。見詰める彼の前で軋みを上げて、扉は開く。
咄嗟の事で反応が遅れた。元より隠れる場所もない。その場に身を起こしたままのチカゲの顔面を、懐中電灯の鋭い光が照らす。
「誰……?」
眩しくて目を開けられない。相手の影すら見えない状態だが、気配と足音で分かる。これはイズミじゃない。オキでもなければビーストでもない。もっと体格の良い年配の男だ。チカゲの様子を伺っている様子。殺意は感じられないが、敵意は肌に突き刺さる。
「誰だ?」
今度ははっきりと口にした。意外と強いその口調に、相手は足を止める。光が揺らいだ。懐中電灯が床に置かれたようだ。男の姿が浮かび上がる。見上げんばかりの巨漢。白衣を身に纏っているのか、巨体が更に膨張して見えて、とんでもない威圧感を受ける。チカゲには理解できない言語を一言、呟いてから男は突然彼に襲いかかった。
「どこに……ドコに居るのさ!」裏返った声。片言の日本語。細い肩をつかんで激しく揺する。傷が痛み、チカゲは呻いた。「オマエと居たのは知ってるさ。アレは今、ドコに行ったんだ」
「な、何の事だ……。放せよっ!」
強引に腕を払う。男の興奮のあまり懐中電灯を蹴り壊した。光が弾け、再びの暗闇が部屋を覆う。
──メイの事? それともビースト?
どちらかの事を言っているのは明らかだ。まさかオキやナオをこれ程血眼になって探しはしないだろう。どっちだ? そもそもこいつは何者なのだ。混乱に拍車が掛かり、無気力が立ち込める。もうどうだっていいという気分になった。
「奴は死んだよ!」腹立ち紛れにそう叫んだ瞬間、こめかみを思い切り殴られた。床に叩き付けられ、昏倒する。
再びの暗闇。意識の消失。
次に目覚めた時は、窓の外も闇だった。見下ろす《塵》の街のあちこちに篝火のような明かりが見える。
「痛ぇな……」
チカゲはその場に蹲った。身体中、とりわけ頭がガンガン痛む。また知らない間に手当てしてあり、窓に映る己の姿は包帯と湿布だらけだ。
扉には案の定、鍵が。人の気配もない。今度は声を上げて人を呼ぶ事もしなかった。白衣の男に感付かれても事だ。監禁されているのだと、ようやくチカゲも気付いたのだ。
しかし、だ。
施設に居る時からこういう事態には慣れている。あの頃は本格逃亡さえ考えなければ、僅かな間部屋から抜け出す事くらいわけもなかった。今回だって。まずは扉の鍵穴を調べてから、彼は首を振った。こちら側に捩子が見えない以上、外す事は出来まい。
それならば、と今度は窓へ。細く開けると窓枠を超えた。縁に足をかけて、外側から硝子戸を閉める。外の音や風の暴れる気配で、扉の向こうに悟られないように。
ビルの上層階──二十階程の高さであろうか。下から吹き抜ける強風に飛ばされそうになりながらも、僅かな幅の庇の上に爪先を移動させながら、次の部屋、また次の部屋へと。窓から覗くがどの部屋にも人の気配はない。この階(フロアー)は今は完全に無人のようだった。
とりわけ暗い一室を見付けて、チカゲは窓硝子を割った。音を立てないように室内に滑り込む。後は暗い非常階段を見付けて、誰にも見付からないようにビルから出るだけだ。やけにマリファナの匂いが充満しているビルである。まるで傷口に染み入るようだ。
こんな所、早く出てしまおう。あれから何時間──或いは何日経ったのか。
ビーストの事が気になっていた。間近で爆撃を喰らって、大怪我をしていた。顔色も真っ白で、手当てしなければ死んでしまう……。それにさっきの男は何者だ。物凄い剣幕だった。奴(ビースト)を探しているなら、一体何の目的で?
外に飛び出した瞬間、吹き付ける冷たい風にチカゲは身を竦ませた。空には灰が舞う。雪のように見えなくもない。吐く息は白く、身体は凍える。街には音もない。
振り返ると、所々鉄骨剥き出しの巨大なビルが聳えていた。その隣りには建設中の大きな鉄塔が。幅の広い道路には車が行き交い、土煙が舞い上がる。場所で言うとここは旧国技館付近になるだろうか。地理的には《塵》の中心部に当たる位置だ。痛む身体を引きずるようにして、チカゲはとにかくビルから離れる。車と人が溢れ返っていて、その中に紛れ込むのは簡単だった。どこへ逃げるという当てもないが、足は自然と国境へ向かった。道路沿いに、距離にしてほんの数キロ。しかし辿り着いた時には空は白み始めていた。
前回とは状態も違う。ろくに動けない上に完全に丸腰だ。向こう側の警備兵に見付からないよう、激戦の跡を見て回る。しかし、そこは何の変哲もないただの荒地。激しい撃ち合いがあったなど感じさせないくらい、静かで整然としていた。ビーストも居ない。勿論メイの死体もない。万一を考えて探したが、友人の亡骸もどこにもなかった。
凍えて、いつの間にか指先が白くなってきた。
「……ビースト、あの馬鹿が」
血塗れのその姿を思い出す。ビーストは僕を庇ってくれたんだ。死体もないという事は……。どこかへ逃げた? それとも何者かに連れて行かれた? 死体を片付けられたという事も考えられる。いずれにしろ、手掛かり一つない。
夜が明ける頃にはチカゲはとぼとぼと街に戻って行った。探す当てもなければ、行く場所もない。傷は痛むし、心細くて仕方がない。
そういう時、向かう先はやはりここだった。
廃墟同然のビルの半地下。イズミとチカゲの家だ。何もない上にオキのせいで死体安置所になっているから、進んで来るような所ではないのだが仕方ない。とりあえずここで眠って、それから後はどうしようか……何も考えられなかった。
しかしビルの前まで来た時、何かを見付けてチカゲの足は止まった。路肩に寄せて車が停まっている。見る影もなく側面がへしゃげ、ミラーも取れたみすぼらしいジープにはも覚えがあった。助手席前に取り付けられた大きな銃。荷台には棺桶。変わり果てた姿だがRATTであるのは間違いなかった。
カンカンカン、と音をさせているのは言うまでもなく彼の友人だ。金槌でもって鉄板の歪みを直そうと無駄な努力をしている様子が見て取れる。
チカゲは足を止めた。
こりゃマズイな……。そう思ったのだ。愛車(RATT)を大破させた言い訳を考えてみるが、どれもしっくりこない。
作業に夢中でこちらに気付いていないオキのその顔。相当怒っているに違いない。元々感情を表に出さない男だ。無表情なだけに余計怖い。
見付からないうちに立ち去ろう。そっと後ろを向いた時だ。
「死体は全部移動させた。チカゲ、部屋に入れ」
周囲をどんよりと暗く染める低い声。顔だけで振り向くとオキがこちらを睨んでいた。軽く溜め息をついて、言われるままに部屋に入ったチカゲは直ぐに後悔する事になるのだが。
「どんな運転をしたんだ」
「無線機も取りやがって」
「エンジン部も改造して」
「おまけにこの銃は何だ」
「俺の車で戦争する気か」
小さな声でくどくどと。いつ終わるかしれない小言が始まったのだ。陰気な男だ。これだったら一喝された方が幾分ましだ。
「……疲れてんだよ」
そもそも無茶な運転をしてRATTを大破させたのはビーストである。僕じゃないと言いたかったが、火に油を注ぐ結果になりかねない。黙っていよう。無線機を取っ払い、銃を付け、改造を施したのは確かに自分なのだから。
「……それで?」
一頻り小言がすんでオキが無言を取り戻したのは、一時間後の事であった。ああ、家中に転がっていた死体が本当に無くなっている。どこへ運んだんだろう。でもまだ死臭は残ってるな。吐きそうになる……なんてぼんやり考えていたチカゲは、当然ながら友人の話など聞いてはいなかった。
「それで?」ようやく本題に入った。「それで、ビーストはどこに居る?」
チカゲの顔を見てオキも目を伏せて首を振った。俺は何も知らない。ガンショップ強盗が二件あって、中国境界で騒ぎが起きたと聞いて見に行ったが、何もなかった。RATTとあんたが転がってただけだ。
「強盗が二件?」
ああ、もう一件はメイの仕業か。
「そもそも病院から突然居なくなったのはどいつだ。死体を回収して出て行こうとしたら車もない。勿論、棺桶もだ。俺は死体を背負ってここまで歩いて戻った。体重僅か三十八キロの男だが、死体を持った事があるか? あれは重い。実際の体重以上に重いんだ」
愚痴が再開しそうだ。チカゲは慌てた。死体をおぶって歩く黒ずくめの男。ああ、想像したくもない。
「ビーストだけじゃない。もう一人……女も一緒だ。ナオって名の中国のキャスターだ」
ビーストが攫ってきたという件は省いて説明する。オキは馬鹿にしたようにこちらをちらりと見た。
「ム所帰りで何も知らないんだな。その女は有名だ。官房長官の愛人だ」
官房長官? ああ、この前言ってた《塵》のボスか。
「ム所じゃねぇよ。薬物更生施設」
空しい言い訳はさて置いて、チカゲは首を捻る。ややこしい事になっているのかもしれない。ビーストはその女と一緒なのか。もしかしたら中国側に逃げたのかも。そうだとしたら、探し出すのは非常に困難になるだろう。
「もういい。あんたは何も考えるな」
どういう意味だと言うチカゲの方を見ないようにして、オキは立ち上がる。腕を引っ張ってRATTに乗せると黙って車を走らせる。様子がおかしい。
「オキ? どこへ……?」
唯一の友人だ。信頼している。しかし彼の行動は、何より顔を歪めたその表情には不審を覚えた。
「おい、オキ。車を止めろ!」
叫ぶチカゲを無視するように、車はますますスピードを上げる。
「いいな、あんたは何も考えるな」もう一度同じ事を言う。「全部官房長官に任せればいいんだ」
車が停まったのは鉄塔の横。最初のビルの前だった。中から銃を持った男達が飛び出して来る。車から引きずり出されて、チカゲはようやく友人の裏切りを確信した。
「オキ、お前……?」
黒ずくめの男は俯いたまま、決してこちらを見ようとしなかった。
背中に銃口を突き付けられ連れて行かれたのは、先程閉じ込められていた階だ。逆らう事も、逃げ出す事も出来ない。
迎えたのは灰色のスーツに身を包んだ一人の男。苛立ちをぶつける術もなく、チカゲはそいつを睨み据える。この間現れた白衣の巨漢ではない。それよりずっと細くて小さい。背を丸め、口の中で何かぼそぼそ喋っている。
「聞こえねぇよ。何言ってんだよ」
こいつが官房長官──無政府状態のこの《塵》で、敢えてその地位を名乗る男か? まさか、この覇気のない男が?
兵士達はそんな彼に慣れているらしく、黙ってチカゲから手を放して一歩下がった。それでも銃口は彼を捕らえている。
「また傷口が開いてしまう。座りなさい」
ようやく聞き取れたのはそんな言葉だった。メイにやられた傷を、また白衣の男に殴られた所を手当てしてくれたのはこの男だったのか。だからと言って信用する気にはなれないが。しかしチカゲは勧められるままに椅子に腰掛けた。どうでも良いという気持ちになったのだ。信じていた友人に、これじゃ売り渡されたも同然だ。
ようやく話が見えてきた。どうせこの男が《赤き死》の弟である自分を欲しがったのだろう。この髪を見れば瞭然だ。イズミの身代わりでもさせて、この街(ダスト)をどうにかするつもりなのだろう。
「さすが彼女の弟だ。頭のいい子だ」
子と言われ、頭にきた。姉を馴れ馴れしく彼女と呼ぶのも気に喰わない。しかし黙っている。自分から喋ってなどやるものか。
おとこはアラカキと名乗った。やはりな、と思う。娑婆(シャバ)に出てから時間は僅か。しかしその名は何度か聞いた。《塵》の有力者というのは確かなのだろう。しばらくするとその話し方にも慣れてきたのか、男が何を言っているのか徐々に聞き取れるようになってきた。
「《赤き死》の事ならばわたしは何でも知っているよ」
へぇ、そうかよ。でもビーストのが余程詳しいぜ。何せイズミのストーカー……。
二〇一三年生まれ。SAT(特殊急襲部隊)隊員として活動するも、二〇三一年自衛隊へ入隊。二〇三三年国会議事堂テロにて活躍。後に空軍特殊作戦軍団SOCとしてアメリカ戦線に従軍。以後アメリカ戦線においては敵機を日平均三十機落とす赤き死の風として……。
ぼそぼそと、まるで何かを読み上げるように続ける。力ないチカゲの目が遠くを泳ぐ。その双眸が見開かれ、信じられないというように震えたのはアラカキの次の言葉だった。
「二〇三五年、現地日系人と婚姻。その翌日……」
「え、何……?」
婚姻だって? 誰が? イズミが? 何言ってんだ、まさか!
「知らないのか?」アラカキがこちらを見る。「確かに軍部にも極秘にしていたようだが、しかし翌……」
後は何も聞こえなかった。
何だ、それは。どういう事だ。イズミ、僕は何も知らない。僕に何も言わずに? 誰と? 僕の知らない人? 何故? イズミ!
ひどく混乱していた。
「許せない……」
それは手酷い裏切りに思えたのだ。
何となく……思い当たる節がある。そう、あのヒイラギだ。イズミには似合わないと思ったのだ。その男が彼女に与えた物なのか? そいつが姉を変えてしまったのか?
許せない。許せない……。
全身が震え、止め処なく涙が溢れた。目の前にニイガキが居ようが、驚いたように自分を見つめようが関係なかった。どうしようもなくて、チカゲはただ泣きじゃくる。どうして良いか分からない。聞きたいイズミはもう居ない。
戦闘能力がどうとか、銃器に関する知識が豊富だとか……。そんな事は何にもならない。姉が居なければ何も出来ない。所詮自分は弱い人間なのだと。もうどうでもいいんだ……そう思った。
その夜、チカゲは自宅に戻った。見張りにオキと、それから銃を持った男が何名か付いて来たがもう気にしない事にした。
ヒイラギの前に立つ。もう八年も前になるか。姉の為に土を掘ってこれを植えたのは。核が落ちて、これが炭になった時は泣いた。緑が再生している事に気付いて喜んだのはついこの間の事だ。
「馬鹿みてぇだ……」
手にしたナイフを突き立てる。このヒイラギが大切な姉を奪ったような気がして。枝を払い、芽を落とした。こんなもの、この手で殺してやる。
ナイフを振り回しながら、チカゲは声を上げた。嗚咽というより絶叫に近い。
絶対に生き抜くと約束した。だからこんな酷い状態になりながらも僕は生き延びた。
「イズミ、助けに来るって言ったのに……」
死んだの?
本当に死んだの?
例えどんなに離れていても、彼女が喜べば僕の心も暖かくなる。彼女が死ねば僕の心に何かが走る。少なくとも虫の知らせくらいは感じられるだろう。そう思っていた。
僕達の絆はそんな薄いものじゃない筈なのに。
抱き締められた温もりは今もこの胸に……。
ズタズタに切り裂かれたヒイラギが、まるで十字架に見えた。
