犯罪と精神医学(8): 狂気それとも愛?〜"妖婦"阿部定の精神鑑定書を精神科医が解説〜
皆様、こんにちは!
鹿冶梟介(かやほうすけ)です。
あまり人気がありませんが、小生の趣味で細々と続けているシリーズ「犯罪と精神医学」も今回で8回目... ...。
前回は附属池田小事件の犯人「宅間守」の精神鑑定について解説いたしましたが、正直言ってそこまで「スキ」はつきませんでした... ...。
しかし、この結果は"むべなるかな”という思いがありまして、そもそも「犯罪」に関わるネタって、たとえ興味はあったとしても周囲に「犯罪の話って好きだわ~♡」とは言わないですよね。
好き嫌いが分かれる上、公然と「スキ」と言えないネタである故、当然の帰結ではございますが、精神医学を語るうえでとても重要なテーマなので、小生は本シリーズを書き続けたいと思いますよ!(←ニーズは無いかもしれませんが)
さて、ポピュラーではないことがバレてしまった本シリーズですが、今回ご紹介するのは、昭和初期に世間を震撼させた猟奇殺人事件の犯人「阿部定(あべさだ)」の精神鑑定について解説いたします。
ご存知の方も多と思うこの事件は、単なる殺人・死体損壊というありきたりな事件ではございません。
… …ということで、心臓の弱い方、エログロ系話が苦手な方は今回の記事は読まない方がよいと思います。
(引き返すなら今のうちです)
... ...ということで、ここらかは自己責任というスタンスでご高覧ください☺️
【阿部定事件とは】
1936年(昭和11年)に起こった猟奇殺人事件。
当時29歳であった元芸者、阿部定(あべさだ)が愛人関係にあった料理屋の店主・石田吉蔵(いしだきちぞう)を殺害し、その性器を切断して持ち去った事件。
センセーショナルなこの事件は日本社会を震撼させ、後の文学・映画などにも影響を及ぼした。
↓映画「愛のコリーダ」は阿部定事件を題材とした映画です。
【阿部定の生い立ち】
精神鑑定書を紐解く前に、まずは妖婦・阿部定の生い立ちを見てみましょう。
1905年(明治38年)、東京都神田区(現千代田区)にて出生。
出生時は仮死状態であった。
同胞8人の四女。父親の重吉は畳屋「相模屋」の主で、阿部定は比較的裕福な環境で育つ。
母親カツの乳の出が悪かったため、1歳になるまでは近所の家で育てられる。
ちなみに阿部定は4歳まで口が聞けなかった。
末子ということもあり、両親とくに母親から溺愛されて育つ。
幼少の頃から美しく、母親は稽古事の際には毎回新しい着物を着せ、大人のように髪を結わせていた。
神田小学校に進学するも学業は振るわず、成績表には乙や丙が多く、甲は少なかった。
実家の「相模屋」には多い時で十人以上の職人が出入りしていたが、幼少の頃から職人たちより性的なことを聞かされ、自身も十歳ごろから春画等に興味を抱き、性的には早熟であった。
15歳の夏、学生に姦淫されてから、がらりと性格が変わる。
それまで付き合いのなかった不良グループ「紫団」と浅草で遊び暮らすようになる。
16歳で芝区三田の某家に女中奉公に出されるが、着物、帯、指輪を"拝借"したため解雇される。
その後近所の男、某新聞記者などと関係を結ぶ。
18歳になると芸妓として働くも長続きせず、横浜、富山などの芸妓屋を転々とする。
21歳からは大阪で娼妓(売春婦)となり、その後、名古屋、神戸などで働くが、その間、客の財布の中身を盗むなど警察に捕まるも起訴猶予となる。
29歳時に母親が死去したため東京に戻り高等淫売をする内に、妾として様々な男に寄生するようになる。
【阿部定事件の詳細】
【阿部定事件とは】では事件の概要を説明いたしましたが、その詳細を記載したいと思います。
再度の警告ではありますが、かなりエロ・グロな描写もあると思いますので、苦手な方はこのパートはすっ飛ばしてご高覧下さいな。
1936年2月1日、鰻料理店「吉田屋」で女中として働き始めた阿部定は、たった10日で店の主人・石田吉蔵と肉体関係を持つようになる。
石田は妻にばれないよう逢瀬を重ねていたが、やがて発覚し、4月22日、愛人の阿部定とともに出奔。二人は渋谷や玉川などの待合を転々とするようになる。
宿泊先で二人は濃厚な情交を幾度となく繰り返すが、その行為はサディスティックなもので、阿部が石田の陰茎にナイフを突きつけながら首を絞め続ける、いわゆる「窒息プレイ」に耽っていた。
阿部定、石田いずれも性欲旺盛にて、阿部定曰く... ...
「絶えず興奮してゐて殆ど続け様に情交して1回済めば1時間寝て了ふが、(中略)交接の回数は日によって違ふが一日五、六回」
1936年5月16日、オルガズムの最中、阿部定は石田の首を腰ひもで縛りながら2時間性交を繰り返した。
石田の顔面にはうっ血がみられ、首の痛みも訴えたため、慌てた阿部定は薬局でカルモチンを購入し、石田に合計30錠を服用させた。
情交の合間、石田は阿部定にこう語った。
「俺が眠る間、俺の首のまわりに腰紐を置いて、もう一度それで絞めてくれ。おまえが俺を絞め殺し始めるんなら、痛いから今度は止めてはいけない」
5月18日午前2時、石田が眠っている間、阿部定は彼の首を腰紐で2回締め付け殺害する。
さらに阿部は包丁で石田の陰茎・睾丸を切断し、雑誌の表紙に包み逮捕されるまでの3日間持ち歩いていた。
また、傷口からしたたる血でシーツに「定吉二人キリ」と書き、左大腿部には「定吉二人」と記し、石田の左腕には包丁で「定」と刻んだ。
阿部定は宿の人に「(石田は)具合が悪いので午後までおこさないで」と伝え、8時に宿を後にした。
翌5月19日午後4時、品川駅前の宿屋にて阿部定は逮捕された。
【阿部定の精神鑑定】
(正確を期すため、鑑定書については当時の記載の一部をそのまま抜粋いたしました)
身体的現症
血液および脊髄液における所見は血液ワッセルマン反応は弱陽性。
脳脊髄液は無色透明、初圧12.0糎(センチメートル)、総蛋白量35瓱(ミリグラム)、細胞数約3個、ゴルドソル氏反応はややタンパク量多し。
精神的現在証
姿勢尋常、立居振舞等も尋常、従順、表情運動尋常、談話流暢にして質問に対し明確に答へ、指南力は時、場所、周囲に関し何も正確にして意識明瞭。
領取も良く、注意も普通、記名力は優秀。
性格については周囲は「虚栄心が強い」「見栄っ張り」「嘘つき」「熱しやすく冷めやすい」「寂しがりや」「貞操観念に乏しい」などと評価。
診断および考察
生来性の変質性格異常が環境要因によって著しく助長せられ、精神的身体的にヒステリー性特徴を呈し、且つ性的過敏症(淫乱症)を示せるものにして、その本来の性格異常の程度は本人が幼少期を通じ性的早熟以外著しき背徳性、又は反社会的特徴を示さざりし点等より見て甚しくは高度ならず、中等度あるいは比較的軽度なりし。
性欲異常に於いては、少なくとも犯行時までの性生活においてはその量的に異常に強烈になることと性的興奮極期の異常に長く且つ深きこと以外に、質的に病的となすべきほどの倒錯を認めず。
犯行当時の被告人の状態に就いては、殺害当時のこともそれ以降のことも追想明確にして且つ当時殊に殺害後の挙動も極めて冷静。
殺害の動機は被害者を独占せんとする熱烈なる性的欲求に基づくと雖も、殺害自体に性的快楽を求めたる快楽性殺人にはあらず。
事件から一週間前に亘る極端なる性的耽溺の生活による道徳感情の麻痺、身体的疲労、連日の飲酒と当日の軽度の酩酊、性的焦燥などが本人の性的過敏、道徳感情の不全、浅慮、衝動性、無分別等の性格的欠陥を背景としてその実行を極めて容易ならしめたるものと推せらる。
鑑定
生来性変質性性格異常と性的過敏の基礎の上に飲酒その他の因子がその実行を容易ならしめたるも、殺害は狭義の性欲倒錯症によるものにあらず、純然たる病的衝動行為にもあらず、殺人当時に精神異常を認めず、従って当時心神喪失・心神耗弱の状態にあらず。
【判決】
東京刑事地方裁判所は殺人及び死体損壊罪にて懲役6年(求刑10年)の判決を下しました。
余談になりますが、1982年に「東海の阿部定」と呼ばれる事件があり、この事件の判決は殺人と死体損壊で懲役7年に処されたそうです(43歳のスナックホステスが愛人の31歳のマネージャーを絞殺、局部を切断して自宅に持ち帰り、サランラップに包んで冷凍庫に保管していた事件)。
【阿部定のその後】
服役中の阿部定の態度は真面目で、いわゆる模範囚となっていたそうですが、殺害した石田の一周忌を迎えるころには癇癪を起し、看守の頭にバケツの水をかけるなど問題行動を起こしたそうです。
また、服役中にファンレターや結婚の申し込みの手紙が1万通寄せられたと言われております。
おそらく日本最古のハイブリストフィリア(犯罪者の追っかけ現象)だったのかもしれません。
阿部定は懲役6年(休憩10年)の判決を下されますが、「皇紀紀元2600年」の恩赦により刑期が二分の一となり、1941年(36歳)に出所します。
出所後は「吉井昌子」という偽名を与えられ、勤務先の赤坂の料亭で知り合ったサラリーマン男性と事実婚しアパートで暮らしていましたが、1945年(40歳)に東京大空襲で被災すると茨城県に疎開。
その後、埼玉県に川口市へ居を移します。
戦後の1947年になると、阿部定をモデルとした「お定本」とよばれるカスリ本(エロ・グロを扱った本)が次々と出版されましたが、名誉棄損になるとして阿部定は東京地裁で訴訟を起こします。
しかし、このことをきっかけに夫は自分の妻が阿部定と知り失踪したそうです... ...。
夫が自分の元を去ったことでヤケクソになったのか、以降、阿部定は堂々と本名を名乗り、劇団「阿部定劇」の座長となって地方で全国を巡業します。
1954年(49歳)には台東区の現・東上野にある大衆割烹「星菊水」では、自ら「お定でございます」と宴席でもてなすなど"見世物"となっていました。
1958年(53歳)、上野の国際通りにバー「クイーン」を開店しますが、従業員に金を道に解されて半年で閉店、1967年(62歳)には台東区竜泉に「若竹」という"おにぎり屋"をはじめるが、客はほとんどこなかったそうです。
1971年(65歳)、勤務先のホテル「勝山ホテル」から失踪。
置き手紙ににはこう書いてあったそうです。
「ショセン私は駄目な女です」
その後の阿部定の消息は不明となります... ...。
↓小生が書いたハイブリストフィリアに関する記事です!
【鹿冶の考察】
今回の記事、いかがだったでしょうか?
鑑定書のところは少し分かりにくいので、もう一度結論を述べると...、
"阿部定は性的倒錯ではなく、ましてや精神疾患でもなく責任能力あり"
という鑑定結果となり、6年の懲役刑となりますが恩赦によりたった3年で釈放されました。
世間を震撼させた阿部定ですが、精神医学的には"正常者"だったわけです。
<阿部定事件の時代背景>
「阿部定事件」は、二・二六事件の2か月後という非常に緊迫した社会情勢下で起こった事件であり、結果として軍国主義という病から国民の注意をそらしたという点で、昭和初期の世相を語るうえで重要な出来事と言えます。
当時の時代背景として、それまでタブーとされてきた「性」の問題が、マスメディアを通じて次第にオープンなものとなりつつありました。
少し大げさかもしれませんが、阿部定事件というセンセーショナルな出来事が、近代日本における「性の解放」のきっかけの一つとなったとも言えるでしょう。
逆に言えば、このように保守的だった時代において自らの性癖を公にされ、生涯にわたってマスメディアに追いかけ回されたことは、懲役刑以上の苦痛であったのではないでしょうか。
<阿部定は何故猟奇殺人を行ったのか?>
愛人を殺し、その局部を切断して持ち歩く...、というなんとも悍ましい事件ですが、それにしてもなぜ阿部定はこのような猟奇殺人を起こしたのでしょうか?
取り調べで阿部定は愛人・石田を殺害した理由として、以下のように供述しております。
「石田が生きて居ればお内儀さん(奥さん)の所へ帰るので、唯(ただ)帰したくないといふ気持ちで後の事等全然考へる事なく殺した」
そして愛人とは言え死体を気味悪く思わなかったと聞かれると... ...、
「親が子の死体を抱き寝するのと同じ様な気持ちで温めてやりたい様な気持ちで抱き寝した」
... ...と答えております。
最後に石田の局部を切断して携帯していた点については、以下のように説明しております。
「体や首を持って逃げる訳には行かないので一番思ひ出の多い所を切り取って行ったのです」
以上のことを踏まえると、阿部定の猟奇は加虐性欲(サディズム)や死体性愛(ネクロフィリア)などの性的倒錯に基づいて猟奇殺人をおこなったのではなく、強烈な独占欲と狂気じみた盲愛による非道であったことが分かります。
<阿部定の都市伝説>
阿部定の戸籍は死亡届が出されていない為、現在も残されたままだそうです。
1970年には住民票が職権削除されており、「以下余白」となっており、最後の住雨所は台東区竜泉2丁目...、おにぎり屋「若竹」のあった場所となっております。
従って、阿部定の消息は”生死不明"となっております。
彼女がどのように人生を終えたのかは分かりませんが、阿部定にまつわる都市伝説の中で興味深いものがあります。
愛人・石田が永代供養されている久遠寺には彼の命日に、送り主不明の花束が毎年届けられていたそうです。
そして、この花束の送り主は他ならぬ阿部定であった... ...という言説です。
ちなみにこの花束は1987年を境に途絶えます。
阿部定が生まれたのは1905年(明治38年)。
阿部定の80数年に及ぶ波瀾万丈の人生は、歪ながらも一途な「愛」を感じます。
【まとめ】
・昭和初期に起こった猟奇殺人事件「阿部定事件」について精神医学的に解説いたしました。
・当時の精神鑑定の結果、阿部定は精神異常者ではないという結論に至ったそうです。
・事件後の阿部定の人生はまさに波乱万丈であり、周囲からは好奇と嫌悪の眼差しを向けられていました。
・阿部定がこのような猟奇殺人を行ったのは、おそらく「一途な愛」故だったと小生は思います。
・愛されるのは良いですが、切断されるのはさすがにノーサンキューですね(痛そう)😖
【参考文献】
1.日本の精神鑑定, 吉益 脩夫 ほか, みすず書房, 1973
2.阿部定事件: wikipedia
【こちらもおすすめ】
いいなと思ったら応援しよう!
記事作成のために、書籍や論文を購入しております。
これからもより良い記事を執筆するために、サポート頂ければ幸いです☺️