バーンアウトを防ぎ個人ではなく組織で当たる――『幸福な王子』から学ぶ自己犠牲と持続可能性
オスカー・ワイルドの『幸福な王子』はよく出来ています。自己犠牲が美しく描かれている。けれど、ツバメがいないと幸福な王子は何も出来ないため、ツバメの犠牲は避けるのは難しいでしょう。王子が宝石をあげてしまい目が見えなくなってから、ツバメは様子を知らせて目の代わりもしています。王子に巻き込まれ、王子の思想に殉じたといえるかもしれません。
自己犠牲は用が済んだら(金目のものがなくなったら)、幸福な王子もツバメも捨てられています。この描写は、社会の冷酷さという一面を、忘れずに書いた点が優れていると思うのです。
ツバメを巻き込んだことは賛成出来ません。けれど、誰かの目を気にして貧しい人に宝石をあげたのではなく、他人や社会の評価は気にしていない点は強いと思います。
宮沢賢治もそうだけど、理想を大事に自己犠牲出来る人は、挫折してくれればまだしも、志を貫くと短命で終わります。キリスト教なら弟子たちが継承してローマ帝国で国教になるなど、バトンを繋いでいますね。『幸福な王子』に戻ると、理想の実現には時間がかかるし、宝石を配ると使って終わりのはずで、宝石を配らなくても幸福に暮らせる状態にした方が望ましいでしょう。王子は像になるまで苦しむ人がいることを知らなかった設定だから、気がついた後も、どう解決していいのか分からなかったのかもしれません。
『幸福な王子』とオスカー・ワイルドは、自己犠牲や他人の痛みへの無関心や鈍感さを指摘しただけでなく、物語は神話的な救済があるけど、作中で「用済みはゴミ」という現実を描き、自己犠牲だけで突っ走ることは長く続けられないことも教えてくれる気がするのです。利害が衝突すると、例えばキング牧師のように指導者から犠牲が出るかもしれないけれど、それでも理想を貫くには個人の犠牲ではなく、組織が無いと続きませんね。
本書には、こういう優しさを持った王子がいてくれたらいいね、という、著者の夢が託されたのかもしれません。フィクションは解釈の自由度があるから、少年時代に読んだ時は文字通り読んだから、社会の冷たさに憤りを感じました。現在は、王子の税源は宝石、行動出来る人材はツバメだけだから、宝石の利子を増やして、ツバメも休暇をとれるような仕組みにすると、安定して長期間社会問題に取り組めるなあと考えたりします。
ただ、そう改変すると、『株式会社王子とツバメ』とかになってしまい、元のお話とは別物ですね。子どもも読むことが出来るし、大人の鑑賞にも耐える、ほろ苦い一編です。
いもとようこさんの絵で育ったので、気になります。
文庫ごとに表紙の方向性が異なりますね。他にもあります。どの訳や装丁がお好きですか?
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