エムスリーが拓く「健康のOS」:ホワイトジャックが“寿命をKPI化”する世界
【連載】境界線を溶かす巨人たち:ドメイン再定義が奪い去る「摩擦」と「余白」のゆくえ【第4回】
■はじめに
深夜、ふと枕元のスマートフォンに目をやる。
暗闇の中でぼんやりと光る画面には、スマートウォッチが算出した「昨夜の睡眠スコア」が並んでいる。深い眠りが何分、心拍数の変動がどう推移したか。私の身体が発したはずの微細な信号は、いつのまにか解析され、評価可能なデータへと変換されている。
かつての健康とは、極めて主観的な「手触り」であった。
朝起きた時の、肺の奥まで空気が入るような感覚。あるいは、歩く時の足の裏に伝わる確かな重み。そこには数値化できない「生の充足感」という余白があった。だが今、私たちの肉体は少しずつ、プラットフォーム上のダッシュボードで「読む」べき対象へと変わりつつある。
その変化の最前線にいるのが、エムスリー(M3)である。
日本の医師の約9割以上が登録するポータル「m3.com」を基盤に持つこの巨人は、今、その圧倒的なネットワークを武器に、私たちの健康行動を「制御可能な変数」として扱おうとしている。彼らが掲げる「ホワイト・ジャック・プロジェクト」という名のドメイン再定義は、医療を「治療」から「管理」へと、その境界線を溶かし始めているのだ。
■1. 疾病の発症後から、発症前の「上流」へ
エムスリーが今、推し進めているのは、製薬会社と医師を結ぶ「情報の流通支援」という従来の牙城を越えた、より「川上」の領域への進出である。
2022年7月に発足した「ホワイト・ジャック・プロジェクト」において、彼らは明確な目標を掲げた。「健康で楽しく長生きする人を一人でも増やし、不必要な医療コストを1円でも減らす」。
一見すると、誰もが称賛すべき、副作用のない救済に見える。しかし、マーケティングの視点でこれを捉え直せば、それは「病気になってから治す(下流)」という予測不能なイベントを待つのではなく、「病気にならないように管理する(上流)」という、肉体のバリューチェーン全体を垂直統合しようとする試みである。
健診データや生活習慣データを統合し、一人ひとりの健康寿命を最大化させる。エムスリーは、私たちの肉体という名のブラックボックスに光を当て、それを「予測可能な演算対象」へと変えようとしているのだ。
■2. 「運命」が「予測ミスのバグ」に変わる時
「ホワイト・ジャック」という名は、手塚治虫が生んだ無免許の天才外科医ブラック・ジャックへのアンチテーゼ、あるいは進化形としての命名だという。ブラック・ジャックが不治の病に抗う「治療」の神様であったのに対し、エムスリーの「ホワイト」は、病そのものを未然に消去する「予測」の体現者であろうとしている。
この「摩擦の消去」がもたらす影響は、単なる利便性に留まらない。かつて私たちが「不運な運命」として受け入れてきた病は、エムスリーのOS上では、データ不足による「予測ミスのバグ」へと定義し直される可能性がある。
だが、意思決定の重心が「本人」から「スコア」へと移り変わるとき、私たちの生活から何かが削ぎ落とされていく。
たとえば、健診で「要精密」という通知を受け取った翌日から、食事が「楽しみ」ではなく、数値を改善するための「調整」へと変質する。あるいは、休日。スマートウォッチから届く「今日は歩数が足りません」という通知が、だらだらと過ごす権利を奪い、ささやかな罪悪感を植え付ける。
「データに従って生きることが正解」となったとき、私たちは自らの肉体のオーナーであり続けられるのだろうか。エムスリーが溶かしたのは、ITと医療の境界線だけではない。私たちの身体という不確かな聖域を、プラットフォームの管理対象へと組み込んでしまったのだ。
■3. 最適化が剥ぎ取る、人生の「偶然」
身体が管理され、寿命がKPIとなる。その先にあるのは、かつての私たちが想像もできなかったほどのリスクのない長寿の風景かもしれない。だが、この「副作用のない最適化」は、人生から「偶然」という名の色どりを剥ぎ取っていく。
エムスリーのプロジェクトが目指すのは、「病気にならない/しない天才」をシステムとして生み出すことだ。将来の疾患リスクを可視化するツールは、私たちに「正しく生きる」ための強力な動機付けを与える。
しかし、可視化されたリスクに怯え、数値を改善することに汲々とする人生に、一体どれほどの「生の手触り」が残るのだろうか。「長く生きる」ことが「良く生きる」ことを自動的に保証するわけではない。
病という摩擦、あるいは衰えという不確実性を通じて、私たちは自らの生の有限性を感じ、その一瞬を愛おしんできた。だが、すべてが予測され、メンテナンスされる肉体の中に、果たして意志の入り込む余地は残されているのだろうか。
私たちは、エムスリーという「身体のOS」の指示通りに動く、一つのアカウントへと静かに解体されてはいないか。その代償として、私たちは「自分で見つける発見」や「無駄な時間の愛おしさ」を差し出しているのではないだろうか。
■4. 結び:便利という名の、トロイの木馬の終着点
エムスリーのホワイトジャック戦略が成功すれば、多くの人が救われ、社会コストも抑制されるだろう。それは、合理性の極致である。
しかし、その合理性が極まったとき、私たちは「生きている実感」という名の、何物にも代えがたい「摩擦」までもを失っていることに気づくはずだ。
あなたのビジネスも、顧客の悩みを解決し、より良く「生かす」ことを目指しているはずだ。
だが、その解決が、顧客から「自分で迷い、選び、自らの身体と向き合うための余白」を奪っていないか。
エムスリーが作り上げた、一点の曇りもないホワイトなダッシュボードの向こう側で、私たちは今、自分の「運命」という最後の聖域を、システムへと委ねつつある。
その快適な管理に身を預けきったとき、私たちの心臓を動かしているのは自分の意志なのか、それともプラットフォームの演算結果なのか。
その答えは、いかなる健康スコアの中にも、決して表示されない。
【根拠情報】
・エムスリー:予防医療の分野への取り組み「ホワイト・ジャック・プロジェクト」を開始(PDF) https://corporate.m3.com/assets.ctfassets.net/1pwj74siywcy/63AwFZDUlP2u1ghq0IFpDQ/b191d5e6ac0c839494206edae3a2a000/20220727_Public_J.pdf
・エムスリー:ホワイト・ジャック・プロジェクト コンセプトページ https://m3comlp.m3.com/lp/white-jack-project/concept
【マーケティングコラム第152回】
#ビジネス #マーケティングコラム #金森マーケティング事務所 #エムスリー #医療DX #健康寿命 #経営戦略 #過剰最適 #ホワイトジャック
■マーケティングコラムのマガジンはこちら
自己紹介
noteお仕事依頼・お問い合わせフオーム
いいなと思ったら応援しよう!
ありがとうございます!
これからも頑張ります。