吃音の僕とひきこもりの兄…改めて家族について
僕の家族は、父、母、兄、僕だ。
父は編集やカメラマンの仕事をしていた。
けっこう有名なアーティストさんのライブビデオを作っていた。
ライブビデオがメインだけど、映画やCMだったり、インドに3ヶ月行って作品を撮ったり、本当に忙しく働いてた人だ。
子供の頃の僕は、父に「また来てねー!また遊んでねー」と、バイバイしていたそうだ。
僕が小5の頃、父はフリーになって、自宅で編集をしていたので、遊べるようになった。
サッカーの練習や試合を観に来てくれた。
大人になってからは2人で映画を観に行くようになった。
それに、父の仕事を手伝って、ライブの時の機材運びや、映像カメラマンに「次の曲、舞台裏です」と伝えたり。
普段の生活では、なかなか体験できない事ができた。
母は兄がお腹にいる時に、父が芸能関係の仕事で波があったりするだろうから、私が安定した収入を稼がないと!と思い、書道教室をやれる資格を取った。
僕が3歳くらいの時、家で書道教室を始めた気がする。
今もまだ現役で教室を続けている。
生徒は75人以上いるのかな。
僕が子供の頃は、自動販売機とコインランドリーの経営をしていて、それから銀行の利息を見て毎月、利息のいい銀行にうつし、それを繰り返して1500万にした。
そしてそれを元に、一軒家を建てた。
一軒家も、1階をテナントにして、自動販売機を2台置いて、何もしなくても毎月18万入るようにした。
そして書道教室もやって、塾をやった事もあって、すごく商売上手だった。
今は投資もしている。
祖父は、変わっていて、厳しくて物静かな人だった。
巨人が嫌いで、ビールと枝豆を食べながら「巨人負けろ負けろ!」と言いながら巨人戦を観ていた。
「枝豆食べていい?」と聞くと「いいよ!」と言ってくれたので食べていたら、また茹でてくれた。
枝豆をおかわりして、2人で巨人が負けるように応援していた。
海では『この縄より越えて泳いではいけません』となっている所を無視して、遠くまで行き、ライフセーバーさんにスピーカーで「麦わら帽子の人ー!ダメです!戻ってきて下さい!」と怒られていた。
毎年恒例だった。
祖父は日本に初めての演劇の学校を作った人。
TBSの副社長をするか、演劇の学校を作るかの2択だったらしい。
お葬式には芸能人も来ていた。
祖母も厳しい人で、19歳から働いていてずっと日本舞踊の世界で生きてきた。
家に稽古場があり、年に1回は大きな劇場で発表会をしていた。
発表前に挨拶をしに行った時、白塗りして男役でピリッとした空気だったので、僕はビクっとなった。『プロだ!本物だ!』と思った。
僕のことを「もしあなたがクロアチア人なら〇〇ビッチね」と2年間、変なあだ名で呼んでいた。
それから細木数子先生が好きで「あなたは辛抱を知らないの。我慢と辛抱は違うの。我慢はしなくていい!でも辛抱はしなさい」という話を、僕は1時間、我慢して聞いた。
祖父も祖母もお金持ちで、100万の豪華客船の旅行が好きで、年に2、3回行っていた。
僕と兄について他の記事にも書いているが改めて書こう。
僕は小学3年生から吃音になった。
兄が不登校になり、母が「学校に行きなさい!」と、かなりヒステリックに怒鳴り、無理やり起こして、引っ張ったりした。
「行きたくないーー!」と叫び続ける兄。
その攻防が8ヶ月くらい続いた頃に僕は、「い、い、今から」と、国語の音読の授業中だけ、言葉がつっかかるようになった。
兄は登校拒否から7年くらいひきこもりになったけれど、その後、大検に合格して放送大学に行き、卒業もした。
そして派遣社員で頑張り、正社員になり結婚もした。
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僕は24歳くらいまで吃音に悩まされたけど、美容師になりたくて本気で吃音改善に取り組んだ。
全力で、かなりの努力をして、吃音がなんと改善した。
吃音をこの方法で治しました
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そして介護士に転職したが、そこで能力を認められて、さらに吃音改善の努力をして、本当にスラスラ話せるようになった。
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兄のひきこもりも、吃音も本当に大変だった。
だけど、努力と、あとは運やタイミングなどもあると思うけど、良くなるものなんだ!と実感した。
無理だと決めつけるのではなく、どういう自分になりたいか、どういう風に生きたいか、きちんと考える事が大事だと思う。
吃音をカミングアウトした時の反応
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吃音者でもひきこもりでも諦めたら、前に進めない。
ひきこもりの兄は、こうして就職した!!
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なんとかなる。
なんとかしてきた。
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物書きを仕事にしたくて頑張ってきました!1度諦めた夢です。しかしnoteと出逢えて表現場所が出来て嬉しいんです!有料記事を無くしていきたいのでチップの応援お願い致します🙇♂️