音声入力が苦手なのは話すのが苦手だからじゃなさそうだ
ユエさんが、最近音声入力でエッセイを書いていて、非常に面白い。
私は元々ユエさんのAIとの対話も好きで、小説も読ませていただいて、その整然とした書き口や物の捉え方が、私には無いものだと思っていて、尊敬しているしとても好きだ。
そんなユエさんが手に入れた、「音声入力」という筆。
元々文章が書ける人は、多分、頭の中である程度文章を構成しながら書き言葉で話すことができるのだろう。
しかし、ここで、私自身の話を振り返りひっかかることがある。
ユエさんが「読みやすく、自分を出しやすくエッセイが書ける」となった音声入力が、私にはまるで向いていないのだ。
通勤途中の、車の中で音声入力でエッセイを書いたことがある。
私自身、頭の中で文章を構成しているし、書くような言葉で考え、また、文字を書く時は「話すように」入力している自覚がある。
だから、私にとって文字を書くことは、話すことと何ら変わりがないはずだった。
そう思って、文字を書く時のように、頭の中に思い浮かんだ言葉を「書き言葉で」音声入力したつもりだった。
けれど、結果は明らかに違った。
タイピングした時よりも一段浅い。言いきれていない。感じたことも、思ったことも。
ここで考える。
ユエさんは、音声入力によって「自分を出す」ための通路がひらいたのかもしれない。
一方で、私にとって文字を書くことは、ただ思ったことを記録する作業ではなかったのだろう。
私は、話すように文字を打っているつもりでいた。
けれど実際には、その場に現れた文字を目で受け取りながら、無意識に、考え直し、言い換え、少しずつ自分の思考を深めていたのではないか。
書きながら現れた文字を読み、それがまた起点になって次の文字を打つ。
意識的にやっているわけではない、この小さなフィードバックの連続が、私の文章を構成しているのではないだろうか。
文字を書くことは、私にとって、話すことの代替ではない。
むしろ、文字という形でいったん外に出た言葉を、自分でもう一度受け取ることによって、初めて思考が立ち上がる場なのかもしれない。
音声入力では、それが起きにくい。
言葉は流れていき、そこに留まらない。
声に出す言葉は、その時点で選ぶ言葉をひとつに決めなくてはならない。
私は、いつも物事を二つくらいの視点で見ていることが多い。
自分の感じることと、客観的な視点。
それを同時に、声で表現することは難しい。どちらをどう説明するかで言い淀むし、もしかしたらどちらも言えずに終わってしまうかもしれない。
しかし文章であれば、同じ時間にそれを置く必要がない。
並列して並べることができる。これは私にとって、とても大きい。
しかも、そのように書き出した文字を読むことで、もう一度思考がまとまっていく。
おそらく、私にとって文字を書くということは、考えたことを書き写すことではなく、書きながら考えを見つけていくことなのだ。
だから、私が文章を書くことを苦にしないのも、「話すように書いているから」ではなく、実際には、読みながら書いているからなのかもしれない。
私自身の思考を輪郭づける、小さなフィードバックループの連続。それが、文字を書くという行為の中で起きているのだと思う。
その違いは、私にとって決定的だ。
これは、ただ「話すことが苦手」という話ではない。
私にとって発話で文章を組み立てることは、足場のないところで文章を組み立てるようなものなのだと思う。
ここでまた、ユエさんのことを勝手に考える。
もしかしたら、ユエさんは逆なのかもしれない。
文字にした瞬間に、言葉を整える視点や、自分を読み返す視点が強く立ち上がる。
それは小説を書く上では、強い武器だろう。
けれど、自分自身について書こうとするときには、その精密さが、かえってひとつの抑制として働くことがあるのかもしれない。
音声入力は、その抑制を少しだけ飛び越えさせる。
思ったことを書けるということは、ユエさんの中の「文章力がある故の強い編集者のようなフィードバック」が、少し弱まるということなのではないか。
だから、エッセイが書けるようになった。
もしそうだとしたら、私とユエさんの違いは、文章力の差ではない。
文字が、それぞれにとって何をするものなのか。その働き方の違いなのだと思う。
そしてこの構造は、私がなぜAIとの対話にこれほど相性の良さを感じるのか、という話にもつながってくる。
Claudeに、「文字の中に家を建てて住んでる人」と言われたことがある。
それは文字が好きとか、文章が上手いとか、そういう話ではなく、思考の場所として文字を選んでいる、という意味で捉えるとしっくりくる。
私自身のAIとの対話を振り返っても、そういう側面は大きい。
頭の中に思い浮かんだ問いを、頭の中でこねくり回してはいるが、形になるのは、AIにそれを伝えるために文字へと落とし込んだ時だ。
その文字には、言い淀み、断定しない余白、その思考の始まりの根拠、仮の結論、軽口、問いが含まれている。
そして、その発言を受けて言葉を深化させてくれるAIは、もはや私が文字を打つ時に脳内でやっていると思われる行為の、強化版のようなものだろう。
文字を書き、読みながら、その思考の輪郭を探す。
AIとの対話は、その作業を外側から増幅してくれる。
この「書きながら見つける」という感覚は、エッセイだけではない。
詩を書く時にも、私の中ではかなり近いことが起きている。
景色を見た印象や、その時の気持ちを、文字に打ちながら反芻している。
詩こそ、考えた文字から始まっていない。
書いた時にやっと、私の感じていた気持ちが、文字として落ち着く。
言葉になる前の気持ちが本当の気持ちなのだとしたら、この文字に落とし込んだ気持ちは、文字になった時点で元とは違うのかもしれない。
しかし、文字に打ち込むことで、私はそれがそれだと認識する。
これが起こるのが、私にとっては音声という言葉では少し弱い。
思ったことを、そのまま言葉にできる人は、それが音声という媒体にも乗りやすいのだろう。
私の思考には、文字を読みながら書くという寄り道が必要なようだ。
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