短編小説 赤とんぼはパンの匂いを知らない (虹色創作部)
泥で汚れた軍手を外して空を見上げた。
秋の高い空が、夕暮れのピンク色に染まり始めている。
稲刈りの終わった田んぼが、静かにその景色の一部になろうとしている、
赤とんぼが一匹、目の前を静かに横切って行った。
小さい頃の夕焼け空はもっとオレンジ色だった気がする。今は、この季節でも日中は汗ばむくらい暑かったり湿気があったりするからなのか。
ばあちゃんと、家の縁側で見た赤とんぼ。飛び方が面白くて、俺はずっとそれを見ていたのを覚えている。
「尚人ー!けぇるべ!」
軽トラを回してきた兄さんが俺に声をかける。
「あぁ、ありがと兄さん」
少しだけ長靴の泥を落として助手席に乗り込む。運転席には米は乗っていないのに、刈り立ての稲と米の香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
「いやぁ、この季節が来ると本番って感じと今年も終わりだ!って感じがするな。疲れたべ尚人。初めての稲刈りの季節」
「いや、パン屋でこき使われていた時より自然な感じがするよ」
「あっはっは、そうかそうか、でもな尚人、別に俺がいるんだから、お前は好きなことやってもいいんだぞ」
兄さんは窓を開けてタバコをふかしながらそんなことを言う。胸の奥にしまってある重い石箱の蓋がズレるような気持ちがする。
「……いや、もう好きなこととかないし。手伝わせてもらえて嬉しいよ」
「そうか?まぁばーちゃんも天国で喜んでるべな、尚人が帰ってきて。お前のこと可愛がってたもんなぁ」
ばあちゃん。その言葉がまた俺の心に刺さる。
「はは、兄さんのことだって同じくらい好きだったって」
「はぁ?そんなことねーべ、いつもなおちゃんなおちゃん言ってな。まぁ俺は野球忙しかったから家にいなかったしな」
兄さんが灰皿でタバコを消す。
米の匂いと混ざったその香りが、俺を現実と見失った理想の間を漂わせるような気がする。
ばあちゃん。
俺もばあちゃんが本当に好きだった。
窓の外を見ると、また赤とんぼが飛んでいるのが見えた。
あの秋の日の、幼い俺とばあちゃんの笑顔が頭をよぎる。
うちは、米農家だ。
だけど小学生だった俺はある日、テレビで見たパン職人の手さばきに心を鷲掴みにされてしまった。
粉が、その手でまとまった生地になり、柔らかに膨らみ、それを華麗な手さばきで分割され、様々なパンへと次々形作られていく......その様子は、まるで魔法使いの技のように見えた。
米があるのにと渋る母さんにわがままを言って、材料と最低限の道具を揃えてもらった。
俺のワクワクは限界を超えてたくらいだ。
1番安かったレシピ本も買ってもらって、それをよくよく読んで、見よう見まねであんぱんを作った。
台所は粉だらけになったし、出来上がったパンも、なんだか本の写真より小さいし固い。
たけど、初めて俺の手で俺の前に現れたあんぱん。それは俺にとって、一番の宝物のようだった。魔法使いの弟子になった気分だった。
その日家には、ばあちゃんしか居なかった。ばあちゃんがパンを食べるのなんて見たこと無かったけど、俺は焼きたてのそれを、とにかく誰かに食べて欲しくてばあちゃんの元へ持って行った。
「ばあちゃん!見て!俺、パン焼いたんだよ!あんぱん!」
「あらまぁ、なおちゃんが焼いたん?」
縁側で読書をしていたばあちゃんは、本に紐のしおりを挟んで静かに閉じ、老眼鏡を少し下げて俺の方を見た。
「そうだよ!この前テレビでやってたでしょパン屋さんのこと。俺もやりたくて頑張った、ねえ食べて食べて!」
「パンを食べるなんて久しぶりだべ。じゃあいただくよ」
ばあちゃんが、あんぱんを半分に割る。フワッと中から湯気が立ち上がった。それを一口、かじる。
「ほんとに焼きたて。なおちゃん、パン屋さんの才能があるさ。将来パン屋さんになったらいいべよ」
「おいしい?おいしい?」
「うん、とってもうめぇさ。心まで暖かくなるべ」
ばあちゃんは笑顔を浮かべる。俺はとっても嬉しくなって、その隣で自分もあんぱんをかじった。
固い。とてもじゃないけどとってもうめえなんて言えないクオリティだ。温まった心が一気に冷たくなる。
俺はばあちゃんが俺を思って嘘をついたんだ、と思ってばあちゃんの顔を見た。そして驚いた。
ばあちゃんの顔に、嘘はなかった。ばあちゃんは本当に、この固いあんぱんを美味しいと思って食べてくれている、そこに言葉はなくてもその顔を見て、俺はなんだか泣きそうなくらいな気持ちになってしまった。
夕焼けが縁側に差し込んできていた。
どこからか、赤とんぼが飛んできた。
「赤とんぼだ」
「そうだねぇ」
赤とんぼは俺のあんぱんに興味なんかひとつも示さない。だけど、ばあちゃんの笑顔と固いあんぱんと赤とんぼ。その景色が、俺の胸の中に永遠の写真みたいに焼き付いたんだ。
俺は、もっと美味いパンを作りたい。ばあちゃんの笑顔を見てたら、そんな風に自然におもっていた。
高校を出て、迷わずパンの専門学校へ進んだ。
相変わらず両親は渋っていたけど、幸い、兄さんが農家を継いでくれていたし、兄さんが俺の夢を応援してくれていたから、なんとか折れてくれた。
直ぐにでもパンの世界に入りたかったから、1年コース。
都内で一人暮らしを始めて、朝から晩まである授業が終わったら、居酒屋のキッチンでバイトをした。
実習で出来るパンを、1人では到底食べきれないのでバイト先によく持って行った。みんな喜んで食べてくれたけど、本当はばあちゃんに食べさせたいなと思っていた。
専門学校を卒業して、有名店に入社することが出来た。
そんな時、ばあちゃんの訃報が届いた。
あまりにも、辛かった。
ばあちゃんに、俺が納得のいくパンを食べさせられずに、ばあちゃんは逝ってしまった。
しばらくは悲しみにくれたけど、それでも俺は、ばあちゃんのためにも一流のパン職人になる、再びそう決意を固めた。
――現実は、厳しかった。
朝は3時半に出社。計量から一日が始まる。
新入社員の仕事なんて、計量、計量、計量、洗い物、商品の梱包、計量、分割、洗い物、計量。下っ端、雑用。全部雑用だ。
お昼の休憩は1時間。ご飯をできるだけ早く食べて残りは仮眠に回す。仕事が終わるのは21時なら早い方だ。
厨房は戦場だ。ホイロの熱、オーブンの熱と、先輩の怒号が行き交う。洗い場にいるとたまに本当に物も飛んでくる。
一日中、立ち、走り回り、次の作業の気配を伺う。
正直、とんでもない。こんな仕事があっていいのか。
けれど俺は、パンが好きだった。それでも毎日パンに触れられるだけで全てを信じられるようだった。
同じ時期に入社したやつが、1人、また1人といなくなる中、冬になる頃には俺は少し仕込みを手伝わせて貰えるようになっていた。
そのままだったら、良かったのに。
店は、新店舗を構えた。俺はそっちの要員へ回された。新店舗は、冷凍した生地を解凍して焼くだけ。
けれど有名店の新店舗、しかもその店舗が入った建物自体も話題性に溢れていて、客はひっきりなしだった。
終わらない仕事、かかる責任、それなのに手の上を滑っていく技術。
俺は疲れて果てているのに、ベッドに横になっても心臓がバクバクと脈打ち、眠れなくなっていた。
何があった訳でもないのに、涙が止まらない。
これはまずい、おかしい。頭の奥で声がする。
でも明日も行かないと。一刻も早く寝ないと。
俺は寝酒を煽るようになった。
そんな毎日を繰り返すうちに、とうとう酒でも眠れなくなった。
重い気持ち引きずりながら、心療内科のドアを押す。
「あー、よくありますよね、夢だけ見てその現実に追いつかないこと」
精神科医に馬鹿にされても、もうどうでもいい。反論する気すら起きない。眠れる薬を処方してくれ、それだけの気持ちだった。
処方された薬で眠れるようにはなった。しかし今度は眠りすぎる。
どうしても睡魔に勝てない。
俺は仕事でもミスを沢山するようになった。
......限界だ。
原因は明らかに働きすぎなのに、そのために薬を飲み、ミスをする。なんのために生きているのか分からない。
俺は、全てを諦めて、迷惑はかけないようにきちんと店を辞めた。
最後の挨拶をしに行った日、シェフは苦笑いをしていた。
「......パンの道を諦めないでどこかでやりなよ」
どの口が。いや、シェフだってオーナーの方針に乗っているだけだ。
俺は曖昧な返事をして、今までお世話になったお礼の言葉を形だけ述べた。
母は心配をして、俺にとりあえず実家に戻る提案をしてきた。
行くあてもない。しばらくパンを作れる気もしない。
俺はその提案に乗るしかなかった。
その日、母さんはパートへ、兄さんと父さんは米の出荷へ農協に行っていた。
静まり返った家の中に、俺だけが残されていた。
線香の香りがして、ばぁちゃんの仏壇に目を向けた。
ばあちゃん。俺これからどうしたらいいんだろう。
「尚人のパンはうめぇべ」
ばあちゃんの笑顔が頭をよぎる。
......焼く、か。
パン屋の厨房にはとてもじゃないが戻れない。
あんな日々をもう送りたくない。
だけど、今この瞬間、ばあちゃんに供えるためのパンを焼くなら。
それくらいの事は、今の俺にもできるはずだ。
震える手で、実家に戻ってきた時に部屋にそのままに置きっぱなしにしていたパンの道具の袋を開ける。
店の配合を書いたメモ帳も取り出す。粉があちこちについて、油が滲んでいる。熱心に走り回っていた俺の姿が見えるようだ。
静かな台所に立つ。
今日は涼しい。少し水温を上げよう。湿度はあるから、気持ちだけ水を少なめに。
粉を計り、ボウルにふるいいれる。左右にリズミカルに揺らす粉ふるいから、サラサラと途切れることなく粉がボウルに入っていく。
砂糖を入れて、スキムミルクを入れる。
ドライイーストと塩は0.1g単位で精密にはかって、お互いを近づけないようにしていれる。
手で軽く混ぜて、水をいれる。ベタベタと生地がまとわりついて、粉とベタベタに分かれる。水を入れる。粉だったものがベタベタに変わる。負けずに混ぜる。水を入れる。全部がベタベタになるから、全部がまとまるように、願いを込めるように混ぜる。
だんだんと、ボウルと手にベタベタとまとわりついていたそれが、ひとつの塊になり始める。
手のひらで潰すように、体重をかけて捏ねる。
弾力と冷たさを感じる。
最初はボツボツとしていた表面が、だんだんと滑らかになり始める。
ボウルから出して、台に叩きつける。
生地が台にぶつかるビタンという音と、その重みでなった台のドンという音が響き渡る。
叩きつける、向こうにたたむ、その側面を掴んでもう一度叩きつける。
だんだんと表面が滑らかに光沢を持ち始め柔らかな美しい姿に変わっていく。
手捏ねの音自体、久々だな。
俺の頭の中に、専門時代の友達が、必死に生地を捏ねる顔と、店のデカイ業務用のミキサーが生地を捏ねあげている様子が同時に浮かぶ。
生地の一部を伸ばして破れずに向こうが透けるようになったらOKだ。
綺麗な生地がこねあがった。ボウルに入れて、濡れ布巾をかけて一次発酵させる。
その様子は、本当に大切にされている生き物の様だった。
洗い物をサッと済ませる。粉まみれにしていた小学生時代のことを思い出す。手際が良くなったものだ。
一次発酵が終わった。布巾を開けてみると、倍くらいに、先程の引きしまった様子から姿を変え、見るからに柔らかくふるふると膨らんでいる。
人差し指に粉をつけ、その柔らかに膨らんだ真ん中に指を沈める。引き抜く。よし、戻ってこない。きちんと発酵している証拠だ。
台に取り出して、ぱんぱんと叩いてガスを抜く。
柔らかで暖かな肌触り。何度これに触れてきたことか。
計量器で計りながら分割する。スケッパーを迷いなく入れて生地を切る。流石に1度でグラムを当てられるくらい、俺の動きは精密になっていた。
あんこを包む。慣れたものだ、たくさん詰めてもパン生地を汚さずにできる。
天板に並べた、9個のあんぱん。
歪さの欠片もなく、静かに並んでいる。
2次発酵をして、その姿はさらに膨らみ完成系に近づいた。
溶き卵をハケで優しく塗る。けしの実がなかったので、黒ごまを振った。
200度12分。焼くまでにこんなに時間がかかっても、パンの焼成時間自体は、高温、短時間だ。
段々と香ばしい匂いが、オーブンから漂ってくる。
オーブンの前で延々とパンを焼き続けた日々が頭をよぎる。
ただのいい匂いだと思える人が、羨ましい。
焼きあがったあんぱんは、売り物の出来栄えだった。当たり前だ、売り物を作っていたんだ、俺は。
完璧な姿でオーブンから姿を現したのに、俺が複雑な視線を向けたせいで、あんぱんたちはぎこちなくそこに佇んでいるような気がした。
焼きたてのパンを、小さな皿に乗せて、仏壇へ供えた。
線香もあげて、リンをチーンと鳴らして、手を合わせる。
「ばあちゃん、出来たよ」
遺影のばあちゃんは、静かに微笑んでいた。
あんぱんをひとつ持って、縁側へ座る。
空が、夕方へと変わろうとしていた。
ばあちゃんがしてたみたいに、あんぱんを2つに割った。
あの日と同じように、湯気が立つ。
だけどあの日と違うのは、そこにたくさんのあんが詰まっていて、生地がふわふわだということ。
ひと口かじる。......美味い。何故か残念に思ってしまうほど、美味い。
いっそこのパンがカチカチだったら......いや、それでも同じ気持ちなのかもしれない。
赤とんぼが、いつの間にか目の前を飛んでいた。
......お前は、俺のパンになんか興味無いくせに。
俺は、ふわふわのあんぱんの残りを、一度に口に詰め込んで、咀嚼して飲み込んだ。
涙が1粒だけ縁側に落ちて染み込んでいった。
少し滲む視界で、夕暮れに飛ぶ赤とんぼを見ていた。
冷えた秋の風が俺の肌をなぞったけど、俺が思い出したのは、ばあちゃんの温かい微笑みだった。
赤とんぼ×切ないというテーマが普遍的すぎてもう1つ思いついちゃったので書きました笑
ギリギリにすみません!
ありがとうございました✨️✨
こちらは転校する友達の話です。よろしければご覧ください✨️
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