ブリテンに失礼だった日本 「戦争レクイエム」と皇紀2600年奉祝「落選」曲をめぐって
昨日は、まあ終戦記念日ということで、ベンジャミン・ブリテンの「戦争レクイエム」を一日聴いていました。
我ながらインテリっぽい終戦記念日の過ごし方で、満足である。
今の人にとっては知りませんが、ブリテン(1913ー1976)は、我々の世代にとってバリバリ「現代」の作曲家でした。
1970年代、私が中学生の頃、ブリテンはすでに音楽の教科書に載っていましたが、まだ生きていた。
教科書に載っているような作曲家では、ブリテンの他に、ショスタコーヴィチもハチャトゥリアンも生きていて、「新曲」を発表していました。
「戦争レクイエム」だって、1962年の発表で、日本初演は1965年。ビートルズと同じ時代の曲なのです。
そして、私が成人するまでに、ショスタコーヴィチもブリテンもハチャトゥリアンも、次々と亡くなってしまいました。
(ショスタコ1975年68歳没、ブリテン1976年53歳没、ハチャトゥリアン1978年74歳没)
でも、ブリテンは、ショスタコーヴィチなんかと比べても、日本人にとって、「やや遠い」感じの人ではなかろうか。
その理由の一つは、彼の代表作に歌曲やオペラが多いことでしょう。
外国語による歌曲一般が苦手な人にあまり聴かれない。これは、日本人以外にとってもそうだと思います。
だから、オーケストラ曲の「青少年のための管弦楽入門」と、せいぜい「4つの海の間奏曲」、後は「戦争レクイエム」くらいしか聴かれず・・という状況が続いているように思えます。
エラソーに言っていますが、私にしてもその程度なので、これはいかん、と思い、死ぬまでにもう少しブリテンを聴いておこうと思って、この夏は、時間が空いたらYouTube中心にブリテンの曲を聴いてます。
ブリテンの「政治的な曲」
それで、だんだんわかってきたのは、ブリテンの曲は二つに分かれるということ。
政治的な曲と、非政治的な曲です。
ブリテンは天才だから、どんな曲を聴いても、音楽的には楽しめる。
でも、「政治的な曲」には、彼の左翼的な反戦思想と、平和主義の信念が、強烈に刻印されています。その代表が「戦争レクイエム」です。
そして、そこには、彼が同性愛者だったという事情も、微妙にからんでいます。
ブリテンは、ごく初期の頃から、「政治的な曲」も「非政治的な曲」も書いています。
1960年くらいまでは、「青少年のための管弦楽入門」のような「非政治的」な曲が人気だったのですが、その後は、「政治的」な曲が、より注目されているように思います。
「戦争レクイエム」をふくめ、政治的な主張をふくむ曲を聴く場合は、やはり聴く側の思想を問われるところがあるんですね。
誤解なきよう言っておけば、政治的な主張をふくむといっても、彼が安っぽいプロパガンダ音楽を書いたということではありません。
彼は、もっと個人的な道徳観をそれらの曲に込めましたーーそれだけに、読解が難しく、そこも、ブリテンがなんとなく敬遠される理由かもしれません。
「戦争レクイエム」にしても、そこに「戦争反対!」というわかりやすいプラカード的なプロテストを期待して聴くと、おそらく失望するでしょう。
近衛秀麿に拒否されたブリテン
ブリテンの「政治的な曲」の系譜の一つは、日本に大いにかかわります。
有名な話ですが、日本は「皇紀2600年」(1940年)の記念に、各国の有名作曲家に奉祝曲を書くよう、呼びかけました。
ドイツのリヒャルト・シュトラウスや、フランスのジャック・イベールらと共に、イギリスのブリテンも応募したのですが、曲が不適切だとして日本に「却下」されました。
それが、「戦争レクイエム」の原型のひとつともされる、「シンフォニア・ダ・レクイエム」です。
この曲が日本政府に却下された経緯については、日本語のwikiでも英語のwikiでも言及されていますが、ニュアンスがかなり違います。英語版のほうが詳しいですね。
皇紀2600年の奉祝曲として「レクイエム」を送るなんて、無神経か、日本に対する侮辱だろう、却下されて当然、と考えられがちですが、そう単純ではない。
まず、もし日本政府の募集が1年遅れていたら、ブリテンが応募しなかったのはほぼ確実です。
反ファシズムで絶対平和主義者のブリテンは、1940年に日独伊三国同盟が結ばれた後では、応募する気になれなかったでしょう。
ブリテンが応募の決意をした1939年は、そのギリギリ直前でした。
そして、「レクイエム」を日本に送ったのも、別に日本への嫌味ではない。
・応募の意思を日本に伝えてからの日本の応答が遅かった
・そのため作曲時間が限られてしまった
・そのため、たまたま(親の追悼を念頭に)作曲中だったレクイエムで応募せざるを得なかった
・その点は日本政府に伝えて確認をとっていた、
ーーというのが、英語版のWikiによると、ブリテン側の言い分のようです。
ブリテンは、1940年に来日して自作を振る気満々だったようですが、以下のように、日本から公式に拒絶されます。
1939年に北米へ旅立っていたブリテンは、1940年秋、ボストンの日本領事館に召喚され、祝典の主催者だった近衛秀麿子爵からの長文の手紙を読み上げられた。子爵は、当時の首相であった近衛文麿公の弟であった。
ブリテンがのちに述べたところでは、この手紙の中で近衛秀麿子爵は、「友好国を侮辱し、キリスト教が明らかに受け入れられないところにキリスト教の作品を提供し、作品が陰鬱である」云々と、ブリテンを非難していた。
手紙のこの部分には、「作曲家は我々の意図を大きく誤解したのではないかと懸念している…(この曲は)旋律パターンとリズムの両方において憂鬱な雰囲気を帯びており、我が国の国家的儀式のような場で演奏するには不適切である」と記されている。
詩人で同じく亡命生活を送っていたW・H・オーデンの助けを借り、ブリテンは「可能な限り威厳のある」書面で返答し、自分がキリスト教徒でありキリスト教国出身であるため、キリスト教作品を提供することは驚くべきことではないと述べた。
彼は、シンフォニアが陰鬱な雰囲気を醸し出しているとの主張や侮辱の意図を否定し、契約の受領が遅れたため、期限内に祝賀曲を作曲することは不可能になったと述べた。
ブリテンはこの手紙を英国領事館に提出し、領事館はそれを承認して東京に転送した。ブリテンは、これがこの件に関する最後の連絡だったと記している。
真珠湾攻撃後、英国と日本の関係は断絶した。作品は却下されたが、日本側は委嘱料の返還を求めなかった。その代わりに、近衛子爵はブリテンの楽譜が祝賀曲として提出されるには遅すぎたと発表した。
(前記、英語版wiki)


近衛秀麿はもちろん、戦前の音楽界の大ボスで、「日本のオーケストラの父」でした。
その近衛秀麿に拒絶されたブリテンは、さぞ日本に悪印象を持っただろうと思いますが、さすが平和主義者で、根にもつような発言はしていないようです。
まあ、思った額以上の「委嘱料」を受け取ったからでもあったでしょうが。
「シンフォニア・ダ・レクイエム」に、日本への侮辱の意図がなかったとしても、それに「反戦」の思いを込めたことは、すでに1940年時点でブリテンが述べています。
「皇紀2600年」を、戦意高揚の機会としたかった日本政府は、そのブリテンの「反戦」の思いを、実は正確に読み取って、それゆえ拒否したとも考えられます。
でも、ブリテンと日本とのかかわりの、こういう事情は、音楽の時間に習った記憶がないですね。
「シンフォニア・ダ・レクイエム」は力のこもった傑作であり、数多い「皇紀2600年奉祝曲」の中で、おそらく現役で聴かれている唯一の曲ではないでしょうか。
失礼を重ねる日本人
ブリテンは戦後、1956年に初来日し、「シンフォニア・ダ・レクイエム」を、自らの指揮で日本初演します。
その時に日本の作曲家や音楽関係者とも交流したのですが、それが「シラけまくった」と、ネットの情報では書かれています。
どうも、「天才」が来るかと思ったら、ブリテンがあまりに普通の人だったからシラけた、ということらしい。
来日当時、ブリトゥンと日本の作曲家たちのあいだに会合がもたれたが、これがどうも失望であったらしい。外山雄三氏の「ブリトゥンとの一時間」(音楽芸術)によると、『ブリトゥン氏があまりに(その作曲態度から考えても)穏健な紳士であったこと』もその理由の一つであったという。たしかにパーティでもブリトゥンは芸術家らしい気取りや衒気を全くひけらさなかった。静かにパーティの華やかな波にのり、また波のようにいつしか静かに去っていった。芸術家的な風貌とかポーズを作曲家の属性に求めがちなぼくらには、天然パーマにちぢれている栗色の髪、くせのある尖った鼻、少年のような瞳をもつ、ありきたりのイギリス人に英国紳士の平凡なタイプを見出すのが落ちである。通俗的な意味では、彼は芸術家タイプではない。といって、ひじょうに人間的な親しみをもてる人柄でもない。
(チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ 2014/4/20)
ブリテンが普通の人だったからシラけた、というのも失礼な話。
上記ブログによれば、この時、音楽評論家の三浦淳史が、ブリテンが同性愛者であることを知ってか知らずか、
「なぜその歳になっても結婚してないんですか」
といった質問をブリテンにしたらしく、まあ失礼にも程がある。
日本はブリテンに失礼しっぱなしなのですが、この初来日時か、あるいは別の時に、日本が正式にブリテンに謝罪したという記録は見られません。
でも、ブリテンは、日本への恨み節を一切、言っていません。少なくとも記録には残っていない。
むしろ、来日時に知った雅楽などの日本の音楽を賞賛し、その後、自分の音楽にも取り入れました。
というふうに、ブリテンがあくまで紳士的だったから、ますます、日本はブリテンに悪いことをした、悪いことをしっぱなしだ、と引っかかっている人は、いるのではないでしょうか。
70年ぶりの「解決」
ネットで、「シンフォニア・ダ・レクイエム」についての情報を集めていると、
「日本、委嘱から70年を経てブリテンの楽譜を受理(Japan to Accept Britten Score, 70 Years after its Commission)」
という2010年の記事を見つけました。
上記のとおり、ブリテンが日本から「受け取り拒否」を通告されたのは、1940年のボストン日本領事館でした。
そのボストンで2010年、ブリテンの弟子でもあったイギリス人指揮者ベンジャミン・ザンダーが、在ボストン日本総領事の辻優(つじ・まさる)に、「シンフォニア・ダ・レクイエム」の楽譜を寄贈する、という「儀式」をやったらしい。
それをもって、70年ぶりに、日本政府がブリテンの作品を受け入れた、と意味づけたかったようです。
でも、こういうことも、日本で報じられなかったのではないでしょうか。私は初めて知りました。
その記事には、ゼンダーが、辻優・ボストン総領事に送った書簡が引用されています。
ゼンダーの認識では、70年前の「(この曲の)演奏拒否は日本にとって不利な状況をもたらし、今日に至るまで外交上の厄介事として残ってい」たのです。
この曲が紹介されるたびに、日本に「拒絶」されたエピソードを知り、人々は日本に何かイヤーな感じを持つ。
ゼンダーの手紙は、準公文書みたいなものなので、ここでほぼ全文を翻訳引用しておきます。
辻殿へ
アシスタントのハンセンさんを通してメッセージを拝見しました。新しい友人として、深い敬意と愛情を込めてお返事を申し上げます。
ブリテンの作品に関する物語がようやく解明できたようです。
東京駐在の英国領事はベンジャミン・ブリテンに対し、日本領事館は楽譜を受け取り、委嘱料も支払ったものの、作品が今回の機会にふさわしくないと判断し、受諾も演奏も辞退すると伝えたようです。委嘱委員会は「建国2600年を祝賀するものではない」とし、「純粋にキリスト教的な宗教音楽である」と述べました。
もちろん、日本の反応は至極当然のことでした。彼らは、自国の重要な記念日を祝うため、著名な西洋の作曲家に作品の提出を依頼していたのです。作品が喜びに満ち、高揚感を与えるものになることは当然期待できます。また、キリスト教国ではない国のために作曲したにもかかわらず、キリスト教的な題名を用いたブリテンの行為は、無神経な行為でした。
しかし、ブリテンは当時26歳で、熱烈な戦争反対者であり、良心的兵役拒否者でもありました。招待の趣旨を無視し、ヨーロッパで勃発したばかりの戦争への恐怖とアメリカへの亡命を強いる思いを、心の底から歌い上げたのも、おそらく驚くべきことではないでしょう。
残念なことに、この傑作の演奏拒否は日本にとって不利な状況をもたらし、今日に至るまで外交上の厄介事として残っています。なぜなら、この作品について書かれたり演奏されたりするたびに、書籍やプログラムノートに必ずこのことが記されているからです。
この件についてはこのままにしておくこともできますが、コンサートで、あの時代以降の世界の変遷について少しお話しする機会があれば幸いです。若い世代は一般的に過去について無知だと思います。私たちの役割は、演奏する音楽が作曲された時代とどのように関連しているかを指摘するだけでなく、先人たちの行動に対して健全で開かれた態度を育むための指針を示すことにあると感じています。
もしお許しいただければ、コンサートでお話ししたいことは以下の通りです。
1940年、ベンジャミン・ブリテンは日本政府から建国2600年を記念する曲の作曲を委嘱されました。
26歳であらゆる戦争に熱烈に反対していたブリテンが、祝祭的で祝賀的な作品を求める声を無視し、ヨーロッパで既に行われていた大虐殺に対する激しい憤りと悲しみを表現した作品を作曲したのは、おそらく当然のことと言えるでしょう。さらに、各楽章にキリスト教的な題名を付けたことで、非キリスト教国ではこの作品が受け入れられないことを彼は理解していたに違いありません。
予想通り、日本政府は英国領事館を通じてブリテンに、この作品は「我が国建国2600年を祝福するものではない」という理由で不適切であると通告しました。また、各楽章にラテン語のミサ典礼文から引用した題名を用いていたため、日本国民の反感を買うことになるだろうとも述べました。
1年後、日本は連合国と戦争状態となり、この状況が引き起こした緊張は今日まで解消されていません。
私たちは今夜、この問題を解決しようとしています。
現代の視点から見ると、「シンフォニア・ダ・レクイエム」は不朽の名作であり、ブリテンの最高傑作であるだけでなく、感動的な平和への訴えであり、現代のすべての日本人が熱心に取り組んでいる理念でもあることがわかります。
ボストンに暮らす私たちにとって、現日本総領事の辻氏が深い感受性と文化的、そして道徳的見識をお持ちであることは、大変幸運なことです。辻氏は今夜もご出席です。
演奏終了後、両国の友好の象徴として、そしてついに両国民の間に叡智と理解が広まったことへの認識として、楽譜のコピーを受領される予定です。
ブリテンの作品には、深い苦悩が感じられます。第一楽章の抗議と悲嘆、第二楽章の暴力と狂気、そしてフィナーレにおける慰めと平和への深い嘆願。「涙」「審判の日」「永遠の平和への願い」といったタイトルは、もはやキリスト教的な意味合いだけでなく、世界中の人々が共有できる、絶望、哀れみ、そして救済への希望という普遍的な概念として捉えられています。
ブリテンの作曲作品に対するとともに、70年後に日本の尊敬すべき外交官がその楽譜を受け取ってくださったことに、深く感銘を受けております。
ありがとうございます。
敬具
ベンジャミン・ゼンダー
(The Boston Music Intelligencer 2010/3/10)
戦後80年の今年は、皇紀2685年、つまり、日本がブリテンの曲を拒否してから85年目でもあります。
まあ、とにかく日本人は、ブリテンへの失礼の罪滅ぼしに、もっとどんどんブリテンを聴こう!
(本当は、「戦争レクイエム」と同性愛、ブリテンとショスタコーヴィチの交友の意味、なんかを書きたかったんだけど、全然そこまで行かんかった・・)
Benjamin Britten : Sinfonia da Requiem, Op 20
1 Lacrymosa
2 Dies irae
3 Requiem aeternam
BBC Symphony Orchestra Thomas Adès, conductor
Live recording. London, Proms 2013
<参考>
<参考動画>
「戦争レクイエム」のYouTube動画では、これがいちばん視聴回数を稼いでいるようです。「戦争レクイエム」は、同性愛者のブリテンが、同性愛者の詩人オーデンの影響下で、同性愛パートナーだったテノールのピーター・ピアーズ出演を前提に書いた曲でした。ここで指揮しているマリン・オールソップも同性愛者。
Benjamin Britten's War Requiem | Full Concert in HD(2014)
初演から間もない頃のブリテンの自作自演映像。テノールはもちろんピーター・ピアーズ。今は指揮者1人で演奏されることが多いが、初演当初は、この映像でわかるとおり、ブリテン自身の判断で指揮者は2人いた。メレディス・デイヴィスが壇上でオーケストラとコーラス、並びにソプラノを指揮し、ブリテン自身は、室内オーケストラと二人の男性ソリストを指揮している。メレディス・デイヴィスの代わりに、ゲオルグ・ショルティや、カルロ・マリア・ジュリーニの名も上がっていたという。
Benjamin Britten conducts War Requiem - Live Television Broadcast(1964)
私が「政治的な曲」の系譜でいちばん好きなのは、この「ヴァイオリン協奏曲」。スペイン内戦時に「反戦」の思いを込めて書かれた曲ですが、そんなことを知らなくても、この演奏は素晴らしい。
Janine Jansen - Britten - Violin Concerto, Op 15(2013)
ショスタコーヴィチとブリテンは、言葉が通じないにもかかわらず、非常に親しかった。このことも、日本であまり論じられないのではないでしょうか。「体制に違和感を感じているのに、体制側だと思われる」孤独を共有していたと言われます。ショスタコーヴィチが、「戦争レクイエム」への応答として、ブリテンに献呈したのが「交響曲14番(死者の歌)」でした。戦争についての二人の音楽による「対話」と、死に対する感じ方の違いが興味深い。
ショスタコーヴィチ:交響曲 第14番 作品135 (《死者の歌》) II- マラゲーニャ(インバル 2010)
