「人権」の押し付け
川崎市長選に出て、惜しくも落選した宮部龍彦さんは、
「SDGs、男女共同参画の理念押し付けやめます」
と訴えていた。
その訴えは正しい。
でも、それならばいっそ、
「人権という理念の押し付けやめます」
と言えばいいのに、と思っていた。
昨日も、Xでこんなポストを見た。
多くの日本国民は知らないと思いますが、川口を中心に暴れまくっているクルド人が実は「偽装難民」だということを、入管は2005年に多くの証拠を集めて突き止めました。しかし自民党と日弁連が「人権侵害」だと全力で揉み消しました。その結果どうなった?
多くの日本国民は知らないと思いますが、川口を中心に暴れまくっているクルド人が実は「偽装難民」だということを、入管は2005年に多くの証拠を集めて突き止めました。しかし自民党と日弁連が「人権侵害」だと全力で揉み消しました。その結果どうなった?無免許で日本人が轢き殺されたり、小学生がレイ… https://t.co/hpox2OVNFF pic.twitter.com/Zoewt1cZfs
— 髙橋𝕏羚@闇を暴く人。 (@Parsonalsecret) November 1, 2025
「人権侵害」という一言で、法治機能が麻痺してしまう。
これも、人権の押し付けの実害だ。
宮部龍彦さんは、「意味不明な「同和事業」やめます」とも訴えていた。
エセ同和も、だいたいいつも「人権」の理念を押し付けてくる。「人権教育」だとか。
でも、宮部さんほどの人でも、「人権やめます」までは、なかなか言えない。
*
でも、結局、人権というのも、共同幻想だ。
それは、たとえば「性欲」とか「食欲」のように、実在するものではない。
方便のために作られた人工概念だ。
「神」のようなものだ。
私は、素朴実在論者で、実在しないものを実在すると言うことには反対する。
でも、「神」を信じる、という態度は認める。
同様に、「人権」という、実在しないものを信じる態度も、認めはする。
それは、人類の共同倫理を高めるのに貢献しているかもしれないから。
だけど、無条件というわけではない。
「人権」は、人工概念だけど、自然にまったく根拠がないわけではない。
それは、「神」と同様に、人間心理の中に、根拠がある。
「人権」という概念は、同じ生き物に対する同情心や共感能力を根拠にしている。
人間は、一面では弱肉強食の動物だが、同種に対する「優しさ」を持つことにも、昔から多くの哲学者が注目してきた。
だが、「人権」は、人類史の中で新しい概念だ。
すべての人間は「人権」を持つ、という「宣言」は、近代国家の権力と同時に発生した、と、昔、学校で習った。
近代国家の権力は、あまりに強大なので、それに対応して、すべての国民がそれに侵害されないように、「人権」というものがあることにした、と。
そして、国家権力に、「人権」を守らせるよう、タガをはめた。
あるいは、「人権」を守らせることによって、国家権力という「暴力装置」を正当化した。
でも、それまでも、人間の同情心や共感はあった。
それまではどうしていたのか。
今なら「人権侵害だ!」というところで、たぶん昔は、「憐れみを!」「慈悲を!」と言ったのだろう。
そういえば、かつてはボロクソ言われていた綱吉の生類憐れみの令も、今では「人権宣言」的な意味で評価されているらしい。
かつての「神仏」の概念は、人々の同情心や共感力を呼び起こし、必要以上に同種に対して残酷になることを制止する、今では考えられないような力を発揮したのだろう。
神仏が信じられなくなった近代では、「人権」によって、権力に包括的に「憐れみ」を呼び起こさなければならなくなった。
今日、「人権」が必要であるのは、とくに弱者や少数者を保護するためだと理解されていると思う。
民主主義は、多数の専制となるので、憲法で人権尊重を掲げて、弱者・少数者を守らなければならない、とされる。
そういえば昔、ジョン・ロールズの「正義論」という難しい本を読んだが、あれも、人々の同情心が当然認めるであろうことから出発して、少数者や弱者を社会的に保護するリベラリズム理論を構築しようとするものだった。
だが、その議論は、なんというか、「神」の実在を証明しようとする、中世の神学論に近いように感じた。
*
雑談のようになってきたが、私が言いたいのは、「人権」の概念が、人間の自然の情を離れて、振り回されるべきではないということだ。
「神」という概念も、多くの人々を救ってきたが、多くの人々を苦しめもした。
中世の坊主たちは、東西を問わず、「神仏」の概念を精緻化することによって、「神仏」の代弁者のごとく振る舞い始め、抑圧者にもなった。
「人権」という概念だって、同じことが起こり始めていると私は思う。
弱者や少数者を保護すべきだ、ということに、普通の人間なら反対しない。
自分もまた、いつ弱者や少数者に転落するかもしれない、と思うからでもある。
だけど、腹立たしいのは、「人権」を振りかざす連中が、自分たちは普通人よりも多く同情心や憐れみを持つ人間であり、お前たちはそういう人間的装備を欠いた「差別者」「レイシスト」だと見下すことだ。
あたかも「神」の権威をかさに傲慢化した中世の坊主のようなのだ。
言っておくが、人間的装備、同情心や共感力の「量」は、お前も俺も、同じである。
いくら本を読み、理論を知ったからといって、その自然の装備が変わるわけではない。
「神」も「人権」も、その信仰が美しいあいだはいいが、信仰が形骸化し、社会権力を得るための手段化し、美辞麗句が腐敗や不正の隠れ蓑になると、社会の害悪と化す。
「人権」も、その意味で、かつての「神仏」と同じ道をたどっているのかもしれない。
腐敗と不正を正す「宗教改革」みたいなことが、ここでも必要なのではないか。
どうすればいいか、よくわからんけども。
<参考>
