皆伝 世界史28 1956年-1970年
グローバル・ヒストリーの概念を利用して、宇宙から書いてみます。最終的に先生が目指す世界史は、宇宙から基層の人までを体系的に伝えることのようなんですけど、私が先取りして書いてみます。
■宇宙
銀河系にも太陽系にも大きな動きはありません。ただ、地球に住むホモ・サピエンス・サピエンスが大気圏外に出てきます。
1957年10/4にソ連がスプートニク一号という初の人工衛星を打ち上げました。
1957年11/3には、ソ連が犬を載せたスプートニク二号を打ち上げます。
1968年にソ連が打ち上げて、月に接近した宇宙船「ゾンド5」はミバエや植物、2匹のリクガメを載せていました。リクガメは地球に戻りました。
1969年、米国の打ち上げたアポロ11号が月に到達して、ホモ・サピエンス・サピエンスが月を歩きます。ニール・アームストロング/ Neil Armstrongは月の表面で That's one small step for man, one giant leap for mankind.「これは人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ」と呟きました。
■地球
自然界・生物界では、アラル海が1950年代から干上がり始めます。
人間界のことも書きましょう。
構造図を拡大して観てください。

世界年表を拡大して観てくださいね。

概要を書きます。
前の時代は西側が米国を中心にしてマーシャル・プラン、ココムの経済政策や、アメリカ大陸にOAS、北大西洋にNATO、西アジアにMETO、東南アジアにSEATO、太平洋にANZUS、日本、台湾/中華民国、フィリピンとも軍事同盟を作り上げました。東側がソ連を中心にしてコミンフォルム、コメコン、ワルシャワ条約機構を作って、東西の二大陣営が冷戦構造を作りました。末期には雪解けと言われた共存思考、アジア・アフリカ会議などの非同盟諸国の台頭などがありました。
1956年-1970年のこの時代には、東西陣営の結束にほころびが見えます。フルシチョフのスターリン批判をきっかけにして、ポーランド、ハンガリーで反ソ連の民主化が起こったり、コミンテルンの解散、アルバニア、ルーマニアのソ連離れ、チェコスロヴァキアの民主化潰しに端を発して、仏伊の共産党もソ連から距離を取ります。西側では米国が英仏の侵略を批判したり、フランスがNATOの軍事部門から離脱して、共産中国に近づきます。中ソは互いの社会主義を異端と非難して、軍事衝突します。
またケネディの殺害、フルシチョフや毛沢東の失脚、ド・ゴールの辞任など主要国のリーダーが去りました。
第三勢力はアフリカ諸国の大量独立、非同盟諸国会議で存在感を高めます。アフリカのOAU、ヨーロッパのEC、東南アジアのASEANなどの地域共同体も力を持っていきます。
米ソはキューバ危機後に軍事的限界と、世界の多極化を背景として、部分的核実験禁止条約、ニクソン・ドクトリンによる脱ヴェトナム化など平和共存に移行していきます。1960年代末期から、東西対立はデタント(フランス語。融和、緩和の意味)期に入ります。
基層の人たちは米日でヴェトナム戦争反対のうねりや、日本では日米安保の更新反対、学生の大学自治を求める学生運動、フランスではド・ゴールの長期政権にNONを突きつけて辞任に至らせたパリ五月革命、米国では年長世代の規範に抵抗して、ロック、ヒッピー、男性の長髪などの文化、白人支配にNOを突きつけた公民権運動がありました。
すこし詳しい年表を作ると、こんな感じです。

前の時代と重なるところもあるんですけど、1956年2/25にはフルシチョフによるスターリン批判があって、1956年4/17には、ソ連はコミンフォルムを解散します。「今後、ソ連共産党は主導しない。各国で努力せよ」というメッセージです。
こうしたメッセージを受けて、6月にポーランドでポズナニ暴動が起こります。これはポーランドの第一書記ゴムルカが抑え込みました。10月にはブタペスト暴動/ハンガリー動乱/ハンガリー反ソ暴動が起こりました。これはソ連がワルシャワ条約機構軍を御率いて抑え込みました。同じ共産主義の国の人の血が流されました。ユーゴスラヴィアのチトーとフルシチョフは、暴動の原因をめぐって非難し合います。そして、国交断絶に至ります。
時期は前後するんですけど、1956年7月にチトー、ナセル、ネルーはユーゴスラヴィアのブリオニ島で会談して、東西軍事ブロックを非難しています。後の非同盟諸国会議につながる動きです。
1956年、第二次中東戦争/スエズ戦争-アスワン・ハイダムの建設費を捻出するために、エジプトのナセルがスエズ運河国有化宣言をしました。船から通行税を取るつもりです。これに対して、イスラエル、スエズ運河の株式会社の株を持っている株主の英国、アルジェリア独立運動をエジプトが支援していると勘違いしたフランスが侵攻します。米ソは国連に訴えました。英国もハンガリー反ソ暴動へのソ連介入を批判したんですけど、結局は、英仏イスラエルがエジプトから撤退しました。西欧の列強とイスラエルを追い出したエジプトは中東で発言権が拡大します。
1957年、カナダのパグウォッシュ会議/科学と国際問題に関する会議-1955年のラッセル・アインシュタイン声明を受けて、世界中の名だたる科学者がカナダに集まって会議をしました。そして、核兵器と戦争の廃止を訴えました。フレデリック・ジョリオ=キュリー(ラジウムを発見したキュリー夫妻の娘イレーヌの夫)、湯川秀樹、朝永振一郎などが参加しています。
1957年10/4、ソ連がスプートニク一号を打ち上げたことは書きました。この世界初の人工衛星は、大陸間弾道ミサイル/ICBMの発射実験と同じ意味を持ちます。一度宇宙空間に出て、米国に落ちていくミサイルに、技術を応用できるんです。このことは、米国にスプートニク・ショックをもたらします。米国もICBM、人工衛星の開発に力を入れていくことにしました。
1957年、①ECSC(仏伊、西ドイツ、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク)のグループは、ローマ条約に調印します。この条約が批准されて1958年に
②EEC/European Economic Community/ヨーロッパ経済共同体と
③EURATOM/European Atomic Energy Community /ヨーロッパ原子力共同体を成立させます。
②は、1970年までに経済統合を目指します。その過程で、共同市場、関税同盟(加盟国間の関税の撤廃、非加盟国への共通関税)を成立させます。英国の加盟希望は、フランスが反対したので頓挫(とんざ)しました。 ③は、エネルギー不足を見込んで、原子力の平和利用/原子力発電の共同開発、生活水準の向上を目的とします。
1958年2月、シリアとエジプトが連合して、アラブ連合共和国を成立させます。3月にはイエメンも加わりました。これはソ連寄りの国なので、危惧した英国は、親英国のヨルダン・ハシミテ王国とイラク王国をくっつけて、アラブ連邦を形成させます。けれど、1958年にはイラク革命があって、イラク共和国が誕生したことで、アラブ連邦は崩壊します。さらにイラクは1959年にMETO(本部がバグダード)を離脱しました。METOの残った国はCENTO/中央条約機構(トルコ、英国、イラン、パキスタン)を形成します。さらにイラクからヨルダンへ革命が波及することを恐れた英国は、ヨルダンに軍を派遣して、革命を防止しました。
この頃、ローマ教皇/法王ヨハネス23世が世界平和を訴えています。
1959年、チベット紛争-中国に侵略されたチベットのダライ・ラマ14世がインドに亡命すると、中印対立が生まれました。ソ連はインドを支援します。この時期のカシュミール紛争でもインドをソ連が支援して、パキスタンを米中が支援する構図です。
この時期、フルシチョフは訪米しています。米ソの対決は緩和ムードに入ります。けど、
1960年、米軍の偵察機U2がソ連上空を飛行していて、ソ連が撃墜しました。これでまた険悪ムードに戻ってしまいます。
1960年、フランスから、のけ者にされている英国が対抗して、グループを作ります。それが、EFTA/European Free Trade Association/ 欧州自由貿易連合です。デンマークなどが加盟しています。ヨーロッパのFTAなので、わかりやすい略語です。
1960年、17か国がアフリカで独立しました。国際連合は、「アフリカの年」と指定して、独立を歓迎します。1963年にはアフリカ諸国はOAU/アフリカ統一機構を結成します。1960年には、日本人が大反対する中で、日米新安保、つまり安保条約の更新もありました。
1961年、アムネスティインターナショナルが設立されました。NGO/Non Government Organization/非政府組織です。主に人権擁護、政治犯の釈放、死刑廃止を訴えています。
近世のフッガー家のような大富豪でもなく、アインシュタインのような有名人でもないのに、国家/政府の他にも政治、社会に発言力を持つ新たな団体ができていく時代です。政治的なグローバル化の萌芽と言えます。
1961年、第一回非同盟諸国首脳会議-ユーゴスラヴィアのベオグラードで開催されました。インドのネルー、ユーゴスラヴィアのチトー、エジプトのナセル、スカルノ、ガーナのエンクルマが提唱しました。24カ国が初回の加盟国でした。首脳会議の他に、外相会議などもあります。アジア・アフリカ会議と違って、非同盟諸国会議は1964年カイロ、1970年ザンビアのルサカ、1973年アルジェリアのアルジェと開催は続きます。参加国も増えて、国際政治において存在感を増しています。2019年第17回開催はアゼルバイジャンのバクーでした。この時点で、120カ国以上が加盟しています。第一回を除けば、出題はされないと思います。
この頃から、国際的な経済格差が問題と考えられるようになりました。
南北問題-だいたい南の方にあるアフリカや中南米、アジア諸国が南、欧米と日本が北です。つまり先進国と(開発)途上国(以前は後進国と言ったそうです)の経済格差と、それに伴う摩擦のことです。独立はしたけれど、植民地時代のモノカルチャー経済からの脱却は難しくて、石油や食料や鉱物を安く輸出して、北の工業国から高い工業製品を買うので、南に分類される国は貧困のままということが多かったようです。北では、儲かったお金を福祉充実に回すか税金負担を低減させるかで対立がありました。東欧では儲けで中間層が出現して自由を要求するようになりました。南では貧困に耐えかねて、民族意識や国家意識が出現します。そして、社会主義で格差をなくすとか、OPECのように資源国が連携するとか、開発独裁と腐敗に対する革命があったり、宗教に走って革命を起こしたり、成果を出せない政権に業を煮やして、軍部がクーデタをしたり、先進国からの投資を呼び込んだりと道が分かれます。
こうした南北問題の緩和のために、いろいろな手段が取られています。
国際社会は、主に3つの機関を立ち上げます。
①1960年、国際開発協会が設立されます。先進国と開発途上国の格差、つまり南北問題に"国連開発の十年"というスローガンを掲げて、融資を実施する機関として設立されました。世界銀行を構成するグループの一つで、ワシントンに本部があります。1950年代に世界銀行のユージン・ブラック総裁などが考え始めて、米国の上院議員マイク・モンロニーが主導しました。米国の批准は1960.1アイゼンハワー大統領政権下です。
②1961年、OECD/経済協力開発機構の成立-フランス主導のEEC、英国主導のEFTA、それから米国、日本などが立ち上げた機関で、経済協力と途上国援助を目的としています。マーシャル・プラン受け入れのためのOEEC/Organization for European Economic Cooperation/欧州経済協力機構の発展版と見なす研究者もいるようです。 「先進国クラブ」とも言われて、加盟国は国家のステータス/Statusがあがると見なしています。本部はパリに置かれました。
③1964年、国連貿易開発会議/United Nations Council Trade and Divelope / UNCTADはジュネーブに本部を置いていて、途上国に対して援助よりも貿易をすることで、開発を促して自立させよう、南北問題を解決しようという狙いを持っています。
フェアトレードに近い考えのようですね。上から目線ではなくて、自立を目指す、いいとおもいます。条件が厳しくて、援助する側の国の企業が原料を売って、工事をするという紐付き援助では途上国のためにならないので、投資受入先国/途上国から資材などの調達を義務づけるローカル・コンテント法に則ることが推奨されています。国内法や税金で外国人と差を付けない内国民待遇も推奨されています。例えばインドネシアから日本に輸入される衣料は絹製でないと受け付けないのに、日本人が作る衣料はパキスタンから輸入するものでも素材は何でもいいとか、日本にあるのにヴェトナム人の企業だけは法人税が日本人の企業の二倍。こういうことを禁止して、自国民と同等に扱うことを内国民待遇と言います。
機関ではありませんけど、ODA/政府開発援助という政府間で、有償(円借款/円を貸す)・無償(贈与)の資金協力、技術協力もあります。
日本では無償資金協力と技術協力はJICA(ジャイカ)/日本国際協力機構が担当します。
日本のODAはアジア・太平洋地域向けに関しては、戦時中の賠償金の意味合いを持っています。だから、アジア向けが多いんです。1972年に国交正常化して1978年に開始した日本から中国向けのODAは、中国が既に途上国とは言えなくなった2007年に資金の融資は終了しているんですけど、技術協力は継続しました。財政規模の小さなアフリカなどへ向けたODAは、少額でアフリカの国際連合での一票を日本に好都合な案に入れてくれる、国際的な支持を得られるという思惑があります。これは日本に限らず、多くの国の援助も同様です。さらに財政規模の小さな太平洋の島国は、特に少額で支持を得られると思われています。支持というのは、例えば国連総会で日本の提案に賛成票を投じることや、日本への非難決議に反対したりということですね。財政規模の小さな国でも国連では一票を持つので、財政規模の大きな国一か国に援助するよりも、たくさんの小さな国に援助する方が効果が大きいんです。もちろん戦争で荒廃した国(21世紀初頭なら、アフガニスタンなど)には通常よりも多額の援助がなされることがあります。そういう場合は突然、ある年のODA受入れ上位国になります。独裁政権に対する経済制裁実施から、制裁解除へ移行する期間に、民主的な新政府と親しくしたい各国が突然ODAを増額することもあります。ODAの金額の折れ線グラフなどが出題されたら、戦争、政権交代、国交回復などがあったのかなと思って分析しましょう。
他国と比べて、国民総所得/GNI比に対する日本のODA拠出は低いそうです。日本のODAや融資はペットのリードに似ていて、相手の自由にさせない意味合いで紐付き援助と言われるものが多いんです。使用条件が厳しいということでもあるんですけど、実態は橋脚の資材は日本のA社から調達すること、橋脚の設計業者は日本のB社と契約すること、など、日本の企業が相手国に進出することを助けていることが多くて、相手国の失業問題や技術移転などに寄与しないことも多いようです。これは日本に限らず多くの国が同様のことをしています。だから、自国の政治家の利権と関りのある産業や企業が利用しやすい分野のODAを行うことが多いですね。日本のODAにインフラ整備が多いのはその為です。例えば、パラオの「日本橋」は日本の融資、インドのデリーメトロは日本のODAです。
・南南問題-次の時代ですけど、1980年代くらいから、同じ南のなかでも、経済成長を遂げて、もう途上国とは言えないような国(2020年代では南アフリカ、中国、ブラジルなど)と、まだまだ成長していない後発開発途上国の間の摩擦のことです。
1961年、マラヤ連邦の提唱でタイ、フィリピン、マラヤ連邦の3ヶ国が東南アジア連合/ASAを組織します。
1961.6ウィーン会談。1960年のU2爆撃機撃墜で途絶えていた米ソの予定していた会談を、フルシチョフ、ケネディが実施します。ラオスの中立化(東西どちらにも入らない)では合意しました。ベルリンの今後の扱い、核兵器の削減などでは対立しました。
1961.8ベルリンの壁が建設され始めます。後で詳しく書くんですけど、対立が目に見えるものとして出現したので、冷戦のシンボルの一つになりました。
1962年、キューバ危機-後で詳しく書くんですけど、米国のケネディ、ソ連のフルシチョフの時代に、第三次世界大戦、核戦争の直前まで至った事件です。
この年、西ドイツ・フランス協力条約で、長年の敵対関係が国際法上は解消されます。奇しくも、神聖ローマ帝国の成立から1000年ですね。この条約が出題されることは稀だと思います。
1963年、部分的核実験禁止条約-キューバ危機があって、米英ソは、核兵器をどんどん撃ち合うことにあったら危ない、核兵器の開発を制限しようということで、大気圏内の核実験を禁止します。地下やコンピュータ上の実験は可能ということです。
西側ではフランス、東側では中国が反対します。「さんざん核兵器を作っておいて、完成したら、他の国には作るな?我らはまだ完成の域に達していないから、実験は必要だ」ということのようです。①中ソの対立はさらに深まります。②米ソ二大陣営から距離を置く独自路線の二カ国が、翌年に関係を持ちます。1964年、フランスが中華人民共和国を承認しました。
核兵器の開発と軍縮の歴史
1945.8.6広島へ原爆投下。 8/9長崎へ原爆投下。
1949年、ソ連が原爆実験に成功。
1950年、ストックホルムアピール(核廃絶)平和擁護世界大会委員会(後の世界平和評議会)が開催されました。原子兵器の絶対禁止、原子兵器の禁止を監視する厳重な国際管理の確立、原子爆弾を使用する政府は人類に対する犯罪人として取り扱うなどを採択しました。4億8200万人の署名が集まりました。核兵器廃絶に向けての、初の具体的提起と言われています。
1952年、英国が原子爆弾を独自に開発。米国は技術供与を禁止していました。
1952年11月、米国は水素爆弾の実験に成功。原爆は核分裂、水素爆弾は核融合を利用する兵器です。
1953年8月、ソ連は水素爆弾の実験に成功。ソ連水爆の父と言われたサハロフが主導。
1954年、ビキニ事件/ビキニ環礁被曝事件。第五福竜丸が被爆。
1955年、広島で原水爆禁止世界大会
1957年、ソ米が核兵器のICBM実験に成功。
1957年、科学と国際問題に関する会議、通称は村の名前を取ってパグウォッシュ会議と言います。核兵器と戦争の廃止を訴えました。
1960年、フランスが原爆開発。インドシナ戦争や中東戦争などで、通常兵力の脆弱性に気付いたからのようです。
1961年、国連総会は核兵器使用禁止宣言を採択します。
1962年、キューバ危機
1963年、部分的核実験禁止条約。地下核実験以外を禁止。つまり大気圏内、水中、宇宙空間では禁止ということです。米英ソが締結。1970年代まで地上での実験を必要とした中仏は拒否しました。
1964年、中国が原爆開発。ロプノール付近で実験しました。中国からはソ連へウランの提供、ソ連からは技術の提供が交換条件だったんですけど、中ソ論争で挫折しました。
1967年、トラテロルコ条約/ラテンアメリカ及びカリブ核兵器禁止条約。メキシコ外務省の所在地に由来します。
これ以降、各地域で非核地域条約が結ばれていきます。1985年のラロトンガ条約が有名で、南太平洋の核兵器禁止条約です。
1968年、NPT/Nuclear Non-Proliferation Treaty/核不拡散条約/核拡散防止条約。核を保有しない国への譲渡売買の禁止。保有国を除く国の保有禁止。その代わりに、保有国は、制限、削減することを真摯(しんし)に実行していくことが求められています。2022年にウクライナに侵略したロシアが、核兵器で攻撃するかもしれないという主旨の発言をしていることは、NPTに違反していると研究者は考えています。
1969年-1972年、SALT1/Strategic Arms Limitation Talks.米ソの戦略兵器制限交渉のことで、核兵器搭載のミサイルの数の上限を話し合いました。その結実が、
1972年のSALT1/Strategic Arms Limitation Treaty(戦略核兵器制限協定/条約)でLimit treaty/上限を決定しました。略語はSALTで変わらないんですけど、交渉中はTalksで、条約になるとTreatyになります。
1973年6/22、核戦争の防止に関する米ソ間の協定。ソ連共産党の書記長ブレジネフが訪米して、ワシントン D.C.で、ニクソン大統領と合意して、調印したものです。核戦争を防止する努力をすることを約束しました。デタント(融和.緊張緩和)の一環です。
1972年-1979年、SALT2/Strategic Arms Limitation Talks/第二次戦略兵器制限交渉。ICBMや核弾頭を搭載する爆撃機なども制限する交渉をしました。その結実が、
1979年のSALT2/Strategic Arms Limitation Treaty/第二次戦略兵器制限協定/条約
です。1985年に失効しました。
1981年、欧州中距離核戦力制限交渉
1982年-1991年、START/戦略兵器削減「交渉」/Strategic Arms Reduct Talks、この米ソ交渉の結果が1991年の条約署名です。1994年に発効して、2009年に失効します。
1987年、INF/中距離核戦力全廃条約/Intermediate-Range Nuclear Forces Treatyを米ソが結びました。中距離核戦力というのは、500~5500kmの射程をもつ核弾頭ミサイルのことです。ソ連は財政難の解決のために、アフガニスタン撤兵と共に実施しました。これで冷戦終結に一歩近づいたと言われています。
1991年、戦略兵器削減「条約」START1/ Strategic Arms Reduct Treaty は米ソが調印して、1994年に発効、2009年に失効しました。1991から第二次交渉開始、1993年にSTART2に調印したんですけど、ロシアは批准をしませんでした。
1995年、バンコク条約は東南アジアの核兵器禁止条約です。
1996年、包括的核実験禁止条約/CTBT。あらゆる空間で、爆発を伴う実験を禁止します。オーストラリアが主導して採択しました。英仏ロシアは批准しているんですけど、米国と中華は批准していません。インド、パキスタン、朝鮮は署名もしていません。
1996年、ペリンダバ条約は、アフリカ地域の核兵器禁止条約です。
1998年、インド、パキスタンが核保有宣言を出しました。
2002年、モスクワ条約-米ソが、戦略攻撃能力削減条約に調印します。
2006年、朝鮮が核保有を宣言します。
2009年、米国のオバマ大統領はプラハ演説で、「核なき世界を目指し、具体的な措置を取る」と表明します。ノーベル平和賞も受けました。
2010年、米ロは新戦略兵器削減条約(NEW START)に調印しました。2011年に発効します。米国はオバマ大統領、ロシアはメドベージェフ大統領の時期です。上限を核弾頭配備1550、核ミサイル保有800、核ミサイル配備700に決めました。
2019.8INFが失効しました。米国のトランプ大統領は、「中国がこの条約に参加せずに中距離核戦力を増やしている」という口実で、同盟国の独仏(中国と仲は悪くありません)の反対を押し切って、条約からの離脱を表明しました。8/2に離脱しました。世界規模の核兵器拡大につながる恐れがあると言われています。
2021年1月に核兵器禁止条約が発効しました。保有国と核の傘(日本、ドイツなど)にある国は署名していません。
2021年1月、バイデン米国大統領はロシアと、2021年が期限だった新戦略兵器削減条約(NEW START)の5年延長で合意しました。
1965年、リンドン・ベインズ・ジョンソン大統領の時に、米国が北爆を開始します。北ヴェトナムに爆撃を始めたんです。これをヴェトナム戦争の初めりとする研究者もいます。科学者のラッセル、作家のサルトルなどは、1967年「ヴェトナム戦犯国際裁判」を開いて、米国などに「有罪判決」を下します。
1965年、ルーマニアで第一書記、大統領になったチャウシェスクは、ソ連から離反して、東側として異例な親西欧の独自路線を採ります。
1966年、フランスは軍事協力を拒否して、NATOの軍事部門を脱退しました。
アジア開発銀行が日本の主導で創設されました。アジアと太平洋の経済成長、経済協力をすることで、日米につなぎとめようという機関です。日本人が歴代のトップに就いています。
1967年、ECSCとEURATOM、EECが合併して、EC/ヨーロッパ共同体が発足します。
1967年、ヴェトナム戦争中に、東南アジアの赤化ドミノ理論に基づいて、アメリカは「北ヴェトナムが勝利すれば、東南アジアはドミノのように次々に共産主義の国になってしまう」と思いました。そして共産主義に対抗するように、東南アジア連合に促します。東南アジア連合の三か国はバンコク宣言を発して、シンガポールとインドネシアを加えて、東南アジア諸国連合/ASEANになりました。 本部は、ジャカルタにあります。
1967年、米国のジョンソン大統領と、ソ連のコスイギン首相のグラスボロ会談-中東・ヴェトナム・中国の核兵器を協議しました。グラスボロは米国のニュージャージー州の都市です。ペンシルヴェニア州のフィラデルフィアの近くです。
1968年、核拡散防止条約/NPTが締結されました。
1968年、プラハの春-チェコスロヴァキアの民主化要求です。ソ連のブレジネフはワルシャワ条約機構軍を派兵して抑え込みました。これを非難して、アルバニアはワルシャワ条約機構を脱退します。
1969年、中ソ国境紛争-ネルチンスク条約から北京条約まで、国境の画定はあったんですけど、大きな川にある中洲、島は決めていませんでした。それでウスリー江にある珍宝島/ダマンスキー島をめぐって、武力衝突します。
1969年、米国のアポロ11号が月面に着陸。宇宙政策でソ連に先んじます。
1969年-1972年、SALT1は、米ソの戦略兵器制限交渉のことで、核兵器に搭載するミサイルの数の上限を話し合いました。
たぶん出題されないと思うんですけど、書きます。1960年代には、ウィーン条約が二回あるんですけど、これは外交についての慣習法を国連が成文化したものです。1964年に発効した外交関係に関するウィーン条約や1967年に発効した領事関係に関するウィーン条約では、大使館などへの現地国警察官の立ち入り禁止や課税免除、文書や通信の不可侵(盗聴などの禁止)、刑事事件の容疑者になっても不逮捕特権が与えられました。ただ、本国への送還要請はできます。Persona non grata/望ましくない人物として、「その人を外交官として入国させません」「その人はもう外交官として我が国にいられないので、お帰りいただきたい」ということを受け入れ国が要請できます。
基層の人たちはどうしているかというと、この時期の人たちが湧いたのは、1957年、ハリウッド俳優のグレース・ケリーが、モナコのレーニエ三世と結婚して、モナコ公妃となったことです。
服飾では、1965年-1966年にロンドン発のモッズルックの流行がありました。ロンドンのカーナビーストリートに店を構えるジョン・ステファンが生み出したモダンジャズを愛する者たち/モダンズ//略してモッズは、 胴体部分を絞って裾を広げたジャケットや、花柄のシャツやネクタイ、長髪などのスタイルで、スクーターに乗ってクラブに通うという若い人たちのカルチャーを生み出しました。中年、壮年の世代が作ってきた伝統的な文化/トラディショナルなカルチャーに対して、若い人が発信したい、異議申し立てをしたいという側面もあったようです。その意味では、1960年代末以降の欧米のヒッピーの先駆けと言えます。
1966年には、カルバン、パコ・ラバンヌなどがコスモルックを流行させたり、イブ・サンローランのパンタロンスタイルも流行したようです。ファッションの大衆化、多様化もこの時代で、サイケデリックアートの流行がファッションにも広がったようです。
映画では、1961年「ウェストサイド・ストーリー」が公開されました。「ロミオとジュリエット」を現代のニューヨークに翻案した名作ですね。日本でこの映画を観たジャニー喜多川は芸能事務所設立を決意します。
医学・生理学・生物学の分野では、RNAがDNA・タンパク質間の情報の運び手であるということが発見されました。
物理学・化学の分野では、デーネシュがホログラムを発明します。紙幣の偽造防止などに使用される技術です。
ウィグナーは、素粒子と原子核における対称性の原理を発見しているし、朝永(ともなが)振一郎は、場の量子論を確立するし、ファインマンは、経路積分で量子電磁力学に貢献します。
テクノロジーでは、1957年/1958年にARPA/Advanced Research Projects Agency/高等研究計画局が米国で創設されました。 国防省が軍事利用できる先端技術を研究するために設立した機関です。
1960年、Joseph Carl Robnett Licklider/リックライダーが、タイムシェアリングシステムの概念を発表しました。これはのちに、インターネットの原型と言えるARPANETの設計に影響しました。この人は1962年にAPRAに入ります。
1960年代中盤には、ダグラス・エンゲルバートが、GUI/グラフィック・ユーザー・インターフェイスを備えたコンピュータ、ハイパーテキスト(HTMLで書かれるもの)の実験を成功させます。
1963年、ベル研究所が作った文字規格がISO/IEC646で、国際標準文字規格として制定されました。そのうち、12の文字コードは各国で自由に文字を割り振ればいいとしています。5Cをベル研究所は\(半角バックスラッシュ)として割り振りました。日本は¥としたので、日本製にパソコンでバックスラッシュのキーを押すとコンピュータは「5Cだから\と認識する」ことになります。
1969年、インターネットの原型と言えるARPANETが始動します。ARPAが出資していた研究で、UCLA/カリフォルニア大学のロサンゼルス校、カリフォルニア大学のサンタバーバラ校、スタンフォード大学 、ユタ大学のコンピュータがつなげられました。このデータを小分けして送るというパケット通信によるネットワークは、あとで一般化されます。ARPANETは1990年に終了したそうです。
その後もまとめて書いておきます。
WEBの歴史
1971年、emailを送受信することに成功
1979年、USENET (ネットニュース) 開始
1983年、TCP/IP採用
1984年、アップルがマッキントッシュを発売
この頃、コンピュータウイルスが登場。早いですね。
1984年、村井純が慶應義塾大学と東京工業大学を接続。日本初のインターネット/JUNET
1985年、NSFNet-全国科学財団の学術研究用のネットワーク基盤。インターネットのバックボーンの役割がARPANETから移行します。
OSのインターフェイスマネジャー/windows1.0が発売されます。
1986年、ファイアーウォール開発。
1988年、米国で商用インターネット開始
1989年、商用ネットワークとNSFNetの接続開始
1990年、ティム・バーナーズ・リーがWWW/ワールドワイドウェブ開発。世界初のウェブブラウザ、通信プロトコルのHTTP、アドレスのURL、言語のHTMLを備えていました。これはCERN開発チームの情報共有のために作ったシステムでした。原子核研究のためのヨーロッパ機構というスイス、フランスにまたがる巨大な素粒子研究所の開設準備のために作られた組織の頭文字です。けど、研究所自体が愛称としてCERNと言われています。
1991年8/6、世界初のWEBサイトがティム・バーナーズ・リーによって、公開されました。
ティム・バーナーズ・リーは、ハイパーリンクも発表したそうです。
1993年、Mosaic発表。画像表示が可能になりました。 1994年、Netscapeへ移行します。
1994年、w3c設立。web標準化のルール作りをする機関です。
1995年、Yahoo! 設立-検索の大手です。Internet Explorerも誕生します。
Amazonがサーヴィス開始。最初は書店部門だけでした。
1998年、Google設立。
2001年、Wikipedia誕生。任意参加の百科事典です。
2005年、youtube誕生。
2009年、ビットコイン誕生。
□□カリブ海地域
主に英国から独立していきます。
1962年、トリニダード・トバゴ、ジャマイカが独立します。
以下の地図にある国は、オランダから独立したスリナムを除いて、全て英国から独立します。次の時代に独立する国も書いています。

セントクリストファーネイビスの西にあるプエルト・リコは米領として維持されています。
アンティル諸島のドミニカ国(首都ロゾー.公用語は英語)は、ドミニカ共和国とは違います。イスパニョーラ島の東部にはハイチがあって、西部にはドミニカ共和国(1845年ハイチから独立。首都はサントドミンゴ。公用語はスペイン語)があります。
□キューバ/クーバ
1959年、元弁護士のフィデル・カストロが率いる民兵が、親米のバチスタ政権を打倒します。キューバ革命です。カストロは首相となりました。名目上の大統領はオズワルド・トルチロスなんですけど、後に「社会主義は間違いだ」と言ったので、追放されました。キューバ革命に貢献したアルゼンティン人のチェ・ゲバラは、1959年にキューバの国立銀行の総裁、1961年には初代のキューバ工業大臣にもなりました。けど、チェ・ゲバラは1965年にキューバ国籍を返上すると、コンゴ内乱に介入したり、ボリヴィアでゲリラ戦を展開したり、革命を志す人に協力しました。そしてボリビアで殺されます。
1960年9月キューバは第一ハバナ宣言,1962年2月に第二ハバナ宣言を発表します。ラテンアメリカ諸国の人たちに、〈アメリカ帝国主義〉との闘争、解放を積極的に呼びかけたんです。たしかに米国はモンロー教書、棍棒外交、ドル外交というラテンアメリカに言うことを聞かせる外交を展開してきたし、占領もしました。親米政権が続くように資金援助もして来ました。そんな政府が腐敗していても変わらないのは米国のせいだと思う人がいるのは自然なことです。米国の資本も入って、大企業のオーナー/株主は米国人だったりもします。その下でクーバ人が安い給与を受け取って働いています。
1961年1/3アイゼンハワー大統領の米国は、親米でなくなったキューバと国交断絶をします。これは2016年の米国にオバマ政権が誕生するまで続きます。
1961年1/20ケネディが米国の大統領に就任します。外交のスローガンは、「進歩のための同盟」で、ラテンアメリカ諸国も米国に同調して、キューバ(首都はハバナ)と断交/国交断絶します。ラテンアメリカでキューバと国交を断絶しなかったのは、この時期メキシコだけです。私はその理由を知りません。砂糖を輸入していたとか経済面なのか、米国に抵抗する政治面なのかも知れません。
社会主義を嫌うクーバ人は米国などへ亡命しました。特に南部のマイアミはリトルハバナと言われて、移民・亡命者の拠点となって、出稼ぎ者の故国への送金も多いようです。
1961年4月、米国は、米国へ亡命してきたクーバ人/キューバ人に武器を与えて、革命をおこさせようとしたんですけど、これは失敗します。ピッグス湾事件と言います。
1962年1/31、社会主義、共産主義に対抗する目的で作られたOAS/米州機構は、キューバを除名しました。加盟国から追放したんです。
カストロは社会主義国家建設を宣言して、ソ連に近づきます。キューバは(島なんですけど)アメリカ大陸初の社会主義国です。共産党の一党独裁をして、地主から土地を奪って自作農を増やす農地改革や、米国人の資本が多い製油所を接収して国有化します。親米政権を倒されたので、最大の貿易相手国である米国が怒って、キューバに経済制裁をしてきます。キューバはモノカルチャー経済で、とは言っても収入の柱は二つあって、観光収入と砂糖輸出です。米国が、キューバから砂糖を買わないので困りました。それでキューバは米国の敵であるソ連に近づいたんです。
貿易不振で外貨を獲得できないので、新車も輸入できなくなりました。それで古い車が残るんですけど、外国からやって来るクラシックカー・ファンには魅力ともなるんですね。
1962年、キューバ危機-第三次世界大戦や核戦争勃発が懸念された事件です。米国にとっての裏庭であるカリブ海(キューバ)にソ連が核兵器を設置します。キューバへの核ミサイルの配備には、断固反対するのが米国です。けど、キューバの基地を空爆したら、キューバの後ろ盾になっているソ連は、ドイツのベルリンを攻撃するでしょう。そして「世界大戦になる」と、ケネディは危惧しました。それでミサイル基地の完成をさせないために海上封鎖をします。ソ連からのタンカーなどが、この線を越えたら、米国艦隊は攻撃すると予告したんです。
結局、ソ連の船は引き返しました。
その後の話し合いで、米国はキューバを将来攻撃しない、反政府活動も支援しない、6カ月以内にソ連に近いトルコにある米国のミサイル基地の撤去をすることを条件に、ソ連はキューバのミサイル基地の撤去、今後も核兵器の基地をキューバに設置しないと約束しました。
キューバは、「ソ連はキューバを一方的に見捨てた」と不信を抱きました。
□ドミニカ共和国
1930年からトルヒーヨの独裁です。1959年、キューバから上陸したドミニカ人革命ゲリラ部隊を撃退するんですけど、1960年の米州機構/OAS総会で、トルヒーヨ非難決議が採択されてしまいます。1961年反トルヒーヨの世論が高まるなかで、トルヒーヨは殺されてしまいます。その後、首都の名はトルヒーヨからサント・ドミンゴに戻されました。
選挙によって、左派のドミニカ革命党のファン・ボッシュ政権が誕生するんですけど、すぐにクーデタが起こって、軍政になります。そして反軍政との内戦になりました。米国のジョンソン大統領は右派の軍政が負けて、左派政権が誕生することを避けるために、侵攻してきました。1966年、軍、米国の支持するバラゲール政権が成立します。断続的に1996年まで大統領を務めて、腐敗した政治ながらも、開発独裁で、経済成長に成功します。
基層では、1950年代にダンスミュージックのバチャータが誕生しています。このバチャータは、2000年頃からは米国でもヒットします。
□□ラテンアメリカ

緑色が20世紀に英国から独立した国です。パナマはコロンビアから、スリナムはオランダから独立しました。
独立後はモノカルチャーで、お互いが市場にもならず、経済や政治関係も希薄だったんですけど、世界恐慌期の米国の善隣外交、汎米運動の展開、第三世界の台頭などに刺激を受けて、ラテン・アメリカとしての一体性を意識するようになっていきます。
ブラジルのクビシェッキ大統領が主導して、パン・アメリカン・オペレーションを提唱します。経済開発のスローガンと言えます。
1960年、ラテン・アメリカ自由貿易連合条約が結ばれて、共同市場が設立されました。共同市場はのちに南米共同市場/メルコスールになります。
1963年、中米経済統合銀行が設立されます。中米全体を対象とした融資、将来の経済統合を目指します。
1968年には、カリブ自由貿易連合が設立されて、1970年には、カリブ開発銀行も設立されます。各地域で経済統合が進みます。
1970年代前後から、官僚制権威主義体制とも言われる、権威主義体制による経済開発が進みます。アジアの開発独裁と似ています。
□メキシコ
反政府勢力の弾圧をしています。
1968年、ラテン・アメリカで初のオリンピックが、メキシコシティで開催されました。サッカーの準決勝でハンガリー(優勝します)に敗れた日本は、3位決定戦で、釜本の2ゴールによって地元メキシコを破りました。アジア初のサッカー競技でのメダルを獲得したんです。
□グアテマラ
1960年-1996年は内戦です。政府軍によって、20万人以上のマヤ人が殺されました。
□エル サルバドル
クーデタを繰り返した数十年を経て、1966年の選挙でエルナンデス大統領が誕生します。1969年サッカー戦争-国境問題・貿易摩擦・ホンジュラス内のエルサルバドル移民問題でくすぶっていた両国は、サッカーのワールドカップ予選でサポーターが衝突したり、ホンジュラスにいるエルサルバドル移民への襲撃があって、国交断絶をします。そして戦争へ。結局、両国とも撤兵するんですけど、エルサルバドルはホンジュラスという輸出市場を失って、移民も国内に帰還したので失業者があふれました。
□パナマ
戦後はナショナリズムが高揚するんですけど、とうとう1964年、反米反政府の運動が本格化します。「パナマ運河を返せ!」ということです。
1968年、クーデタとその後の軍政があって、軍出身のトリホス大統領が反政府派を弾圧します。
□コロンビア
1957年、ロハス大統領が辞任して軍政は終わりました。自由党、保守党は国民戦線を結成して、民主主義を堅持します。
ただ、キューバ革命の影響で左派が伸長して、1960年代半ばから内戦になってしまいます。農地改革などを掲げて、FARC/コロンビア革命軍を結成した左派の人たちは、反政府運動をするようになります。このFARCは、2017年に武装解除します。そして、政党になりました。
□エクアドル
軍政と緊縮経済とインフレとクーデタの繰り返し。
□ペルー
農民の決起があって、1968年にはクーデタがあって、ベラスコの主導する軍政へと変わりました。外資の企業を国有化したり、民族主義を激化させたりします。こうした政策を採っているので、とうぜん投資が細っていきました。社会主義を推し進める軍政は、農地改革を実施して、大規模農家を解体して、小作人へ農地分与を行います。
□英国領ギアナ
ガイアナと改称して、1966年に独立します。人口は85万人で、奴隷制廃止以降に英国が送り込んだインド系が51%を占めていて、黒人が43%います。
自由開放政策を採って、ボーキサイト(アルミニウムの原料)、米、砂糖の輸出をするんですけど、経済は低迷しています。21世紀初頭の時点では、世界の最貧国の一つになっています。たぶん、国際競争力がないので、輸出する以上に、安価な輸入品が多く入ってきていて、貿易赤字になっているんだと思います。
□ブラジル
クアドロス大統領が辞任して、副大統領からゴラールが昇格すると、軍部がクーデタを起こすんですけど、これは失敗します。その後、再度クーデタが起こって、カステロ・ブランコ将軍による軍政が敷かれました。
基層では、この時期、ジョアン アルベルトがボサノヴァという音楽を発明しています。
□ウルグアイ
1959年、キューバ革命が波及して、1966年頃から大土地所有の解体を訴える左派のゲリラが活発になっていきました。1967年、ゲリラ掃討のために権力集中が必要になって、1967年に大統領制度を復活させます。
□パラグアイ
独裁がつづくんですけど、移民の拡大で、経済は好調です。
□ボリビア
政権はインフレ対策として、借款、外資導入など、資本主義路線へ転換したので、支持者の労働者は反発します。外資の導入から、対米従属へとなっていきます。キューバ革命の影響で、左派と民兵組織が結合する怖れがあったので、政府は民兵を解体しました。その後、政権は分裂して、1964年には左派を敵とする予防革命的な性格を持つ無血クーデタが起こって、以降は軍政となります。1966年-1967年には、アルゼンティン出身のチェ・ゲバラはゲリラ戦を展開しているんですけど、1967年に囚われて亡くなります。
□アルゼンティン/アルヘンティーナ
軍政とクーデタの繰り返し。1955年にクーデタを受けて亡命したペロンを支持するひとはまだたくさんいて、軍政と内戦になりました。農業は日本頼み、工業は外貨頼みという状態で、モノカルチャーを脱して重工業に転化する産業構造の改革をしようとするんですけど、うまくいきません。1959年、キューバ革命の影響で労働運動が激化して、ゲリラ化します。そして1962年にクーデタ、軍政、民政移管、1966年にクーデタ、内戦になっていきます。
□チリ/チーレ
親を継いで政治家になった息子のホルヘ・アレクサンドリが大統領(1958年-1964年)になっています。
□□カナダ
基層では、1967年にRBフラーが、モントリオール・バイオ・スフィアという、棒銅を組んだ直径76mの球体の籠を、4分の3地上に出した万博用の建築を作りました。万博後は環境学習施設になっています。
□□アメリカ
1957年、アイゼンハワー・ドクトリン-西アジアの防衛に関する新政策で、中東教書とも言われています。共産主義に対抗するために、西アジア諸国への経済と軍事の援助をするということです。
1958年、イラク革命が起こって、親米政権のハーシム家が打倒されます。レバノンでも暴動があって、米国は軍を派遣するんですけど、却って反米感情が悪化しました。
1959年、ICBM、スプートニク打ち上げなどで優位に立っているソ連からの提案で、フルシチョフが訪米します。米国の大統領専用の別荘地、キャンプデービッドで会談をしました。このキャンプデービッドで、フルシチョフ、アイゼンハワーは平和共存を主張します。一人抜け駆けして資本主義国と仲良くするソ連を見て怒ったのが中国です。こうして、中ソ論争の激化を招いてしまいました。次の時代ですけど、1971年には米国が日本に抜け駆けして、中国を訪問するということもあります。
1960年、ロケット技術を調査していた米軍の偵察機U2が、ソ連に撃墜されました。
1960年、日米新安保条約。更新ですね。
1960年9月にキューバは第一ハバナ宣言、1962年2月に第二ハバナ宣言を発表します。ラテン・アメリカにおける〈アメリカ帝国主義〉との闘争を積極的に呼びかけたんです。
1961年1/3、アイゼンハワーは親米でなくなったキューバと国交断絶をします。
1961年1/20、民主党のジョン・F・ケネディが大統領(-1963.11/22)に就任します。スローガンは、「ニューフロンティア」。米国の威信回復と平和志向の二本立てです。ケネディは史上初のカトリックの大統領です。米国ではWASP/ワスプと言われるWhite/白人、Anglo-Saxons/英国系、Protestant/プロテスタントの男性が、権力の主流にいました。それが初めて崩れたんです。因みに初の黒人大統領はオバマです。
ケネディの外交スローガンは、「進歩のための同盟」です。ラテ・アメリカ諸国と同盟をして、社会主義に対抗しようということなので、ラテ・アメリカ諸国を米国に同調させて、キューバと断交させます。
1961.4米国へ亡命したキューバ人に武器を与えて革命を計画したピッグス湾事件は失敗に終わりました。キューバのカストロは社会主義国家建設を宣言して、ソ連に近づきます。
1962年、キューバ危機-第三次世界大戦や核戦争勃発が懸念された事件です。米国はケネディ、ソ連はフルシチョフが最終判断を下しました。米国にとっての裏庭であるカリブ海(キューバ)にソ連が核兵器を設置します。ソ連からなら遠いので、米国に核ミサイルが到達するには時間がかかります。米国はソ連へ報復の核ミサイルを打ち返す時間があるんです。両国とも滅亡しますけどね。そうわかっているので、両国とも核兵器を使えません。けど、キューバからは米国に近いので、発射から5分で着弾します。米国は報復の前に焦土と化してしまうんです。だから、キューバへの核ミサイルの配備には、断固反対するのが米国です。けど、キューバの基地を空爆したら、キューバの後ろ盾になっているソ連は、ドイツのベルリンを攻撃するでしょう。そして「世界大戦になる」と、ケネディは危惧しました。既にいくつかのミサイルは設置されているんですけど、米国は当時は核兵器が持ち込まれているかどうかは確信できなかったようですね。それでミサイル基地の完成をさせないために海上封鎖をします。海上封鎖は戦争の用語なので、実際は「臨検」と言っていました。ソ連からのタンカーなどが、この線を越えたら、米国艦隊は攻撃すると予告したんです。これも心理戦です。もし越えたら核兵器の使用はあるかないかわかりませんけど、世界大戦になるかもしれません。
結局、ソ連の船は引き返しました。
その後の話し合いで、米国はキューバを将来攻撃しない、反政府活動も支援しない、6カ月以内にソ連に近いトルコにある米国のミサイル基地の撤去をすることを条件に、ソ連はキューバのミサイル基地の撤去、今後も核兵器の基地をキューバに設置しないと約束しました。
関心のある人には「決定の本質」(アリソン)という本があります。
これを機に
①ホットラインが設置されました。「フルシチョフは何を考えているんだ?わからん」では困るので、誤解を解けるように、首脳同士が直接話せる電話のことです。21世紀初頭には、だいたいの国でホットラインが開設されていると思います。
②弱腰を批判されたフルシチョフは支持基盤が弱化して、1964年に第一書記を解任されます。
③1963年に米英ソが部分的核実験禁止条約を締結しました。1947年に始まった「世界終末時計」(科学者が、人類の滅亡までの時間を示します)は1960年には7分前を示していたのが、1963年に12分前になりました。滅亡から遠ざかったということです。
④部分的核実験禁止条約によって、核兵器の開発を制限された中国はソ連にさらなる不振を抱いて、中ソ論争が深まります。
⑤フランスも米国に不信を抱いて、中国を承認します。
⑥フランスがNATOの軍事部門を脱退します。
⑦キューバは、「ソ連はキューバを一方的に見捨てた」と不信を抱きます。
1963年11/22ケネディが殺されました。犯人はオズワルドと言われているんですけど、未だに真犯人がいると言う人がいます。ある程度時間が経過すると、調査内容を記した機密文書も公開されることになっています。後世に、それが正しい行政だったのかどうかを判断できるようにするためで、公文書の開示というのは民主主義の基盤になっています。日本の自民党政権の時代に公文書が作られない、廃棄されることが多かったのは、民主主義を劣化させる行為でした。2010年代には安倍の家族が関係していた森友学園の問題で、土地の価格が不当に安くなった疑惑に関して、財務省は公文書を改ざんしたり、公開しても黒塗りの部分があったりしました。国民主権の国家なのに、公僕(主人に仕える下僕)という意識を失ったか、最初からないのかもしれませんね。
米議会は1992年に「JFK暗殺記録収集法」を採択しました。ケネディ殺害事件の関連文書を25年以内に全面公開すると決めたんです。それなのに 2017年になっても未公開の文書がありました。これでは隠していることがあると思われるのは当然です。
副大統領から昇格したリンドン・ベインズ・ジョンソンが大統領(1963年-1965年までのケネディの残した任期、選挙で得た自身の任期1965年-1969年)になります。スローガンは「偉大な社会の建設」です。外交ではヴェトナム戦争の遂行、国内では人種問題の解決です。
1964年、人種差別撤廃を目指した公民権法を成立させます。バスで白人専用席、白人だけの学校というように、人種分離が当然視されていたんです。これが禁止されました。黒人解放は、1960年-1970年代の女性解放運動に影響します。
1964年、公民権法の成立に貢献したキング牧師はノーベル平和賞を受賞しました。
1965年、リンドン・ベインズ・ジョンソン大統領の指示で、北ヴェトナムへの空爆/北爆を開始します。この時期から、戦費の増大で財政赤字、日独などの他国の製造業が強化されて、どんどん質のいい製品が米国に輸入されるので、貿易赤字も拡大していきます。
当時は米国内に長期滞在している外国人を徴兵できる法律がありました。タイなど諸外国は米国と除外規定を結んだので、徴兵されないんです。けど、日本はそうではありませんでした。ヴェトナム戦争へ参戦があり得た日本人が二見寛です。日本外交の失態の一つと研究者に言われています。二見寛は1966年にカナダへ亡命する計画を立てたんですけど、断られました。それで日本へ亡命したんですけど、日本政府は、「脱走兵だから米国へ送還した」んです。自国民さえ守らないのが1960年代の自民党政権の日本です。
本来は、第三国/カナダ経由だから米国への送還義務はないし、米国本土の軍隊徴兵であって在日米軍でもないのに、敢えて日本国内でだけ通じる日米地位協定の趣旨に添って、送還したんです。当然、国内からは「拡大解釈だ」と批判されたし、「米国へのお追従」と非難されました。
1966年、米ソ新文化協定を結びます。内容は出題されません。
1968年4月、キング牧師が殺されます。この日、反ヴェトナム戦争を訴えていたロバート・ケネディは分断や憎しみはこの国に必要ないと演説をしました。そのロバート・ケネディが6月に殺されます。殺された理由はわかっていません。JFケネディの弟で、司法長官、上院議員の経験もあって、大統領選に立候補していました。
1969年、共和党のリチャード・ミルハウス・ニクソンが大統領になります。助言者に伝道者のビリー・グラハム(ジョージ ウォーカー ブッシュを洗礼した人)がいました。
スローガンは内政が「法と秩序」、外政は「脱ヴェトナム化政策」です。ヴェトナム戦争の終結を掲げたんです。ヴェトナムの共産化を防いで、米国人の犠牲も減らす。そのために南ヴェトナムに近代兵器を提供して、米軍は徐々に、とくに陸軍を引き上げるという方針です。けど、失敗しました。相手が攻勢をかけている中での撤退は、内戦激化を引き起こすことは歴史の教えるところです。21世紀初頭のアフガニスタンでも米軍は引き上げに失敗します。
結果として、西側の盟主を気取っていた米国の威信は低下します。
1969年7月、アポロ11号の月着陸船が月面へ到着しました。ニール・アームストロング船長「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍だ」 、バズ・オルドリンも月面を歩きます。マイケル・コリンズは母船に留まりました。交代で月面を歩けないものなんでしょうか。一人だけ船内なんて。
1958年にジョンKガルブレイスが「ゆたかな社会」という本を出していて、物があふれているので、そういう意味では豊かだけれど、売るために大して機能が変わっていないのに新製品を出したり、広告で欲望を煽ったりしていると批判しています。それなのに、医療、道路というような公共財は充実していないので、社会のバランスをとっていこうと訴えています。これはポストモダンの経済を言い当てているし、無駄なものを作って消費するという反環境的な生活への批判にもなっています。
ガルブレイスが指摘するように、ホワイトカラー(非肉体労働)、大衆文化(TV、映画)が広範に普及する時期です。
そんな時期にも、基層の人たちは、1960年代に、日系人も協力した公民権運動をしています。主導者はマルコムXやキング牧師です。奴隷解放宣言、その後の憲法修正で黒人奴隷は解放されたんですけど、州法で差別はされていました。「字が書けない?それなら投票はできないな、帰れ」と言われたり、「ここは白人専用の席だ」「ここは白人の学校だ。黒人が来ていいところではない、わきまえろ」と言われたりしました。
*ゲリマンダーといわれるヒスパニックやアフリカ系の人たちの票を抑制する選挙区割りは21世紀にもある。欧州系の優遇。(白人という表現は既に事実を反映していない。色が白にちかくても人類は有色であるから。)
公民権運動は、こうした差別に反対して、黒人、日系人、ヒスパニック(カリブ系)の人たちすべてが市民として公平な権利を得るための運動です。1960年に、ハーパー・リーが著した小説「アラバマ物語」は、黒人への偏見をありのままに描いて、社会に対して、これでいいのかと告発しています。
1963年8/28は、リンカーン大統領の奴隷解放宣言から100周年です。ワシントンで大行進が行われす。このワシントン大行進で、キング牧師/マーティン・ルーサー・キングは「私には夢がある」という有名な演説をします。
少し、読んでみます。
「私には夢があるんです。いつの日か、この国が立ち上がって、この国の信条を真の意味で実現させることです。それは、私たちはすべての人が平等に作られているということは自明の真実と信じているということです。」
米国の独立宣言にある「すべての人は平等に作られ」が、その信条です。
「私には夢があるんです。いつかジョージア州の赤土の丘の上で、かつての奴隷の子孫たちと、かつての奴隷所有者の子孫が、兄弟のように同じテーブルの席につけるという夢です。」
「私には夢があるんです。私の四人の幼い子供が、いつか肌の色ではなく、どんな人柄なのかということよって判断される国に住めるようになるという夢です。」
「私には夢があるんです。いつか幼い黒人の少年少女たちが、幼い白人の少年少女たちと兄弟姉妹として、手をつなぐことができるようになるという夢です。」
「この信念があれば、私たちは絶望の山から希望の石を切り出すことができるでしょう。」「そして、もしアメリカが偉大な国であれば、これは実現されることになります。」
この公民権運動、とくに黒人差別撤廃運動がようやく1964年に法律として結実したのが、公民権法です。公共の場での白人、黒人や日系人、ヒスパニックなどとの分離が禁止されます。学校やバス、電車などの公共交通機関、公園などですね。
1965年には投票権法も成立して、有権者登録の過程での差別も禁止されます。字が書けなくても投票できるようになります。私は知りませんけど、たぶんそうした延長線上に、投票所には候補者の名前だけではなくて顔写真が貼られていたり、投票用紙に名前を書くのではなくて、当選してほしい人の場所に孔をあける(ミシン目があるようです)ようになっていくんだと思います。
マルコムXは逆に、黒人を分離することで、白人とは付き合わないようにしようという方針の人でした。このマルコムXは1965年に殺されます。
1968年、ワシントンへの「貧者の行進」途中に、キング牧師も殺されます。
この後、黒人側に、暴力で白人に対抗するというブラックパワー運動が台頭します。
関心のある人には「キング牧師とマルコムX」(講談社現代新書.1995年)という本があります。
反戦運動-正義なきヴェトナム戦争への反対に端を発する徴兵される世代の若い人たちは、1960年代から「自然と平和と愛」を訴えます。これはパリ五月革命の、上の世代の権威への抵抗と共に、世界中に拡散します。
都市を離れて自然の中でコミューン/共同体生活をする、男性は髭に長毛という自然な風体、都市文明的で服従の象徴であるスーツに対抗する服としてTシャツにジーンズ、フリーセックス、ドラッグだったり、ロックが象徴的な音楽になったりしました。音楽はドアーズ、ジャニス・ジョップリン、ボブ・ディラン、ビートルズ(英国)などが代表的で、若い人の音楽とされて、♪IMASINE(1971年、ビートルズのメンバーであるジョン・レノンのソロ曲。作詞作曲には妻のオノ・ヨーコも参加)はシンボル的な曲だったようです。
1969年8月のウッドストックライヴは、世界初の野外コンサートと言われています。これ以降、野外ライヴが世界中に拡散していきます。
欧米の伝統的な文化から離れて、禅が象徴的な東洋思想として流行したり、ヨーガが流行したりもしました。東洋思想に触れた人たちの中から、バックパックを背負って世界中を旅するバックパッカーが現れて、シルクロードやネパール、アフガニスタン、仏教国のタイなどへのトレイルが拡散していきます。キリスト教に対しても、変化があって、若い人たちは、ジーザスクライスト スーパスター、イエスをスーパースター扱いしました。
こうしたすべてを「カウンターカルチャー」、つまり伝統的な文化に対抗しうる若い人の「文化」として味わうヒッピーと呼ばれる人たちが世界中に現れました。ヒッピーは1970年代半ばにムーヴメントを終えたが、世界中の若い人の基層になり受け継がれている
ヴェトナム戦争に反対することは、徴兵拒否もするということです。戦争が多い米国で、初代のワシントン将軍/大統領からの伝統として、最高司令官でもある米国大統領には、兵役経験は必須です。兵役経験がないことは大統領選挙で問題になるんです。後の大統領ウィリアム/ビル・クリントンも、英国に留学をしていて、これは徴兵拒否のためではないかという疑惑が持たれました。そのすぐあと1973年に、徴兵制度は停止されて、募兵制/志願制になります。兵士になれば進学、就職で有利になるという制度が作られるので、貧しい家庭出身者は兵士になる人が多いんです。つまり、黒人が多いんです。死ぬ確率の高い仕事に黒人、経済的に貧困な人たちが就くということです。
ヴェトナム反戦は、日本ではべ平連/ベトナムに平和を連合、の運動に影響します。在日米軍の基地からもヴェトナムに出兵する米国人はいます。人を殺したくないし、殺されたくもない、そういう米国人の若い人を逃がす活動をしました。
欧米の人が21世紀初頭でも、痩せるためのヨーガダンス、落ち着くための老子のタオ/道教、禅を取り入れているのは、ここに起因しています。というようなことを探求するのが歴史総合です。皆伝では解答を書いてしまいますけどね。共通テストの歴史総合では、試験中に考えることを本来は求めているんでしょうけど、結局は学校や塾や予備校や皆伝に書いてあることを学んだ結果としての知識が高得点につながると思います。200分かけて、論述をしなさいというのなら思考力、分析力、表現力もはかれそうなんですけど、そうはしないようですからね。
因みに禅は、イスラームの神秘主義、ヒンドゥーのヨーガと同じで、瞑想によって仏(ほとけ)との一体感を得るための修業方法です。仏教の一派、インドの達磨が創始した禅宗から始まります。一体感=仏性を感じる=悟りを啓きやすいということです。例えば、羽生結弦さんの中に入ることによって、「へえ 世界のトッププレーヤーはこうやって演技しているんだ」と実感できれば、日頃の練習にも生かせます、それと同じようなものです。
建築では、1958年、ミース・ファンデルローエの設計で、ニューヨークにシーグラムビルが建てられます。全面均質なファサードで、柱間も均等というものです。
1959年のグッゲンハイム美術館は、フランク・ロイド・ライトの手になる渦巻き状の建築で、天井から採光しいています。モダニズムは直線と平面、アシンメトリーでスタートしたんですけど、フランク・ロイド・ライトは螺旋構造など別の構造も示したんです。
1965年、ルイスカーン設計のソーク生物学研究所(カリフォルニア州)は、白い打ちっぱなしのコンクリート(コンクリートむき出しのことです)が青空に映える建築で、まるでリゾートホテルのようです。
美術では、1960年-1970年代初頭にかけて、マンハッタンのソーホー地区(SOuth of HOuston Street/SOHO )がアーティストの街になっていきます。工場が郊外に移転したことで空き家が増えて、安い賃料で広い部屋があったからです。アンディ・ウォーホルが身近な空き缶などを使って、大衆向けの大量生産のポップアートを開始します。マリリン・モンローを題材にしたアートで人気を得ました。日系人のイサム・ノグチが日本から戻ってきて、IBM本社庭園などを作ったのもこの時期です。イサム・ノグチは李香蘭/山口淑子(よしこ)と結婚していました。
文学では、ビートジェネレーションと呼ばれたギンズバーグ「吠える」、バロウズ「裸のランチ」、ケルアック「路上」などが文学界では異端だったんですけど、ヒッピーに支持されました。
他にこの時期には、ジェローム・D・サリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」、ジャック・ケルアックの「オン・ザ・ロード」、ジョン・アップダイクの「走れウサギ」、ウィリアム・バロウズの「裸のランチ」、詩人 アレン・ギンズバーグの「吠える」、トルーマン・カポーティの「ティファニーで朝食を」が有名です。カポーティの「冷血」はノンフィクション小説のはしりと言われていて、事実を元に小説的要素を加える手法で書きました。
科学では、「沈黙の春」が有名です。1962年にレイチェル・カーソンが著した本で、殺虫剤の生態系への危険性を訴えました。これは世界中でベストセラーになって、世界中で非専門家が環境問題に注目する契機になりました。殺虫剤は益虫も殺してしまうし、蜂が減ると受粉ができなくて花が咲かなくなるし、花が減れば蜜を吸う昆虫は減るし、昆虫が減れば、それを餌にする鳥も減ります。春に鳥が鳴くこともなくなります。沈黙の春です。
□□英国
エジプトとの協定でスエズに駐留していた英国軍はキプロスまで引き上げています。
1956年、ソ連に接近したエジプトに対して、米英はアスワン・ハイダム建設費の援助を拒否しました。これに対して、エジプトのナセル大統領がスエズ運河国有化宣言をします。そうするとイスラエルがエジプトを攻撃、スエズ運河株式会社の株を保有していて、運河の国際管理の既得権も確保したい英国はフランスを誘って侵攻します。、第二次中東戦争/スエズ戦争です。エジプトが降伏する寸前に、米ソが国連に訴えました。結果として、英仏イスラエルが撤退することで解決します。イーデン首相は引責で辞任して、マクミラン保守党内閣へと代わります。
基層では、フランシス ベーコン(あの哲学者ではありません)が、独房を思わせる枠で囲まれた人物などを描いています。母を早くに亡くして、母の下着を身に着けているところを見られて父親から勘当された同性愛者であるフランシス ベーコンの孤独、受け入れられない不自由さ、窮屈さが表されているのではないかと思います。「叫ぶ教皇」シリーズは、同性愛を禁じていたカトリックの象徴です。新聞、写真などに色や線を描き込む作品もあります。フランシス ベーコンの作品がまとまって友人に託されていて、そのバリージュール・コレクションは、自身で生前に管理していたフランシス ベーコンの作品イメージとは違うドローイング、油彩画などを含んでいます。託した理由が破棄なのか、死後の公開なのか、保存なのか、何を望んでいたのかをベーコンは明言しませんでした。
□□イベリア半島
□スペイン
フランコ独裁の時期です。
1959年、戦没者の谷と言われる慰霊施設が完成します。フランコ側も人民政府側も関係なく、内戦中に亡くなった人の遺体が置かれています。フランコ称賛の色合いが濃いので、一部の市民は反感を持ったようです。フランコは死後ここに安置されるので、非戦犯も元戦犯も祀られている靖国神社と同じように、全国民がわだかまりなく訪れる施設がないことが、問題になっています。
□ポルトガル
1932年から、サラザール独裁政権は継続しています。
1960年のアフリカの年以降、ポルトガル植民地でも独立運動が激化します。
1961年アンゴラで独立戦争が始まって、インドもポルトガル領土のゴアを占領して、併合します。
1962年、ギニア・ビサウが独立戦争を始めあす。
1964年には、モザンビイクが独立戦争を始めます。
こんなに戦争ばかりでは当然なんですけど、国家予算の40%を超える戦費で、不況に陥りました。
1968年、サラザールはハンモックから落下して、頭部を強打、意識不明になります。
1970年に意識が回復するんですけど、権力を失ったことを知らずに執務をこなして、この年に死去します。
□□ネーデルラント/オランダ
基層では、画家エッシャーが1960年に「上昇と下降」、1961年に「滝」を発表しまする。この頃はペンローズの三角形やネッカーの立方体を応用した、騙し絵に分類される不可能な建築の絵が多いですね。
□□フランス
1958年、アルジェリア問題に対して、国会は意見が割れているし、権限の弱い大統領では独立措置を与えることもできない状態にありました。アルジェリアではフランス駐留軍とフランス系移民が手を結んで、独立に傾く本国に圧力をかけようと、コルシカを占領します。本国では、軍に顔の利くド・ゴールを首相に任命することで、これを乗り切りました。6ヶ月限定の全権を委任されたド・ゴールは、新しい憲法草案を発表して、国民もそれを支持したので、ド・ゴールは大統領権限を強化した憲法を成立させます。第五共和制の開始です。その後、ドゴールは第五共和制の初代大統領になると、アフリカのフランス植民地のほとんどに(1958.10月にフランス連合を改変した)フランス共同体のなかでの独立を認めます。ギニアは拒否して1958年に単独で独立します。他はフランス共同体を認めたので、1960年にアフリカの年と言われる、17か国の独立に至るんです。アルジェリアの独立には国内に反対勢力がいたので時間はかかったんですけど、1962年、エヴィアン協定でアルジェリアの独立を容認します。
1960年にフランスは原子力爆弾の実験に成功しています。ただ、まだ実験を繰り返さないと実戦で使えない段階だったようです。
1962年のキューバ危機をきっかけにして、米英ソが1963年、部分的核実験禁止条約を結ぶんですけど、西側ではフランスが反対しました。東側では大陸中国が反対します。
「米英ソはさんざん核兵器を作っておいて、完成したら、他の奴には作るな?我らはまだ完成の域に達していないから、実験は必要だ」という感じです。この結果、中ソ論争はさらに深まって、米ソ二大陣営から距離を置く独自路線の二カ国が、翌年に関係を持ちます。つまり、1964年、フランスが中華人民共和国を正式な国家として承認します。台湾の中華民国を国家と見なさなくなって、国交断絶をしたということです。
1966年、フランスは軍事協力を拒否して、NATOの軍事部門を脱退します。
基層の人たちは、1968年にパリ五月革命を起こします。単に五月革命とも言うんですけど、フランスで起こったと思い出しやすいので、パリと付けています。ゼネスト/ゼネラルストライキ/労働者による全国的なストライキ、大学における学生の自治運動、米国のヒッピー文化の影響でフリーセックス、自由恋愛など、様々な立場の人が参加した反政府活動です。さすがに第二次世界大戦の英雄が68歳で大統領になって、1968年には78歳になっているので、若い人からすると、「いいかげんに退いてくれ」とも思うのかもしれません。
結局、直後の選挙で与党が勝利したので、この運動は政治的な力は持ちえなかったんですけど、老壮世代の政治・文化に対する若い世代の異議申し立てという側面は、先進各国の青年層に影響を与えました。アメリカでのロック、ドラッグ、ヒッピーも相互に影響しているし、日本の学生運動にも影響を与えました。
似た事例に、2010年代のアラブの春などの反政府闘争、2011年のオキュパイ・ウォール・ストリートから派生した香港の雨傘運動、台湾のひまわり運動、日本のシールズなどがあります。
1969年、相続税や贈与税の減免など、支持者である富裕層向けの政策を非難されたド・ゴールは退任します。そして、1970年に死去します。
そのあとは首相だったポンピドゥーが大統領に就きます(-1974年)。
基層の人は、思想の分野でも盛んです。
レヴィ=ストロースは「構造主義」が有名です。全体の中の相互関連で分析するという考えです。例えば、話していることが正確に聴き取れなくても、文脈でわかることは結構あります。構造全体があって、その中の一音一音の差異/役割によって、構成要素も存在することができるという考えが構造主義です。
サッカー、ブラインドサッカー、ラグビー、タッチラグビーは区別できますね。世の中からラグビーがなくなると、現実世界の似たもの、例えばタッチラグビーは、その名前を失ってしまいます。そして、ハンドサッカーというような名前になってしまいます。
ラグビーという構造全体がなくなると、ラグビーの中の七人制ラグビー、タッチラグビーという差異もなくなるし、構成要素であるタッチラグビーも存在できなくなってしまうんです。
ラカンは、幼児は身体感覚が断片的だと考えていて、それなのに幼児が自我を統合することができるのは、自分の外にある鏡を観るからと考えました。
それから、自分の内部には母と一体化したい(男児の場合かな?)という欲望があるそうなんですけど、母は父と一体化したいという方へ向かっています。それで、幼児は自我を変化させて、いい子を演じるようになると考えました。これも家族という構造内の関係性のようです。
ジャック・デリダは、イデア・現実、主観と客観、男女のような二項対立では、前項が優位にあると考えました。前項は普通、基準を表していて、無徴だそうです。例えば、男流詩人と言いません、つまり徴(しるし)を付けません。けど、後項があってこそ、そのカウンターパートとして、前項が生まれると考えました。女性がいないと男性なんて言うグループ分けも必要ありませんもんね。
「脱構築」は、簡単に言うと、二項対立の構造を再解釈することかな。
フーコーは、西洋の近代市民社会も、義務教育、工場、軍隊、家庭などの規格化によって、構造化されてできていると考えました。見える規範、見えない規範、いろいろありますね。
舞台では、パリのオペラ座に現代舞踏部門が設置されるのがこの頃です。フィリップ・ ドゥクフレはサーカスとダンスの融合に成功したし、太陽劇団は、道具方、役者の区別がない平等な劇団で、劇場の外に出るオープンシアターが有名です。日本の街演劇もこの系譜にあるのかもしれないと先生は言っていました。公園のテント劇、野外劇場とは違います。
□□イタリア
イタリア共産党はトリアッティが主導して、チェコスロヴァキアの民主化運動/プラハの春が武力で抑え込まれた後、ソ連から離反します。フランスやスペインの共産党と一緒に、ユーロコミュニズムを推し進めていきます。ソ連から自主独立して、共産主義と西欧的な自由民主主義(反独裁)の融合を目指す考えです。
□□中欧(ドイツ、オーストリア、ハンガリー、チェコスロヴァキア)
□ドイツ
1947年当時の西ベルリンの人口が200万人。東は110万人です。1950年には復員兵、占領地からの引揚者などもいたので、119万にまで増えています。
1950年代には東ドイツから西ドイツに毎年だいたい20万人以上が移動します。ソ連圏の東ドイツ内にあるけれど、ベルリン西部だけは米英仏の西側の影響が強いんです。西側と協力して経済発展する西ドイツ、西ベルリンに対して、経済低迷しているのが東ドイツです。東ドイツにいたくない人は、西ドイツと東ドイツの間には国境があるから、国境のないベルリンに行って、西ベルリンに入ればいいんです。西ドイツは若くて働ける人が来てくれればありがたいので、歓迎します。
この移住者の波は、1961年に23万人にまで達します。
そこで1961年、東ドイツのウルブリヒト国家評議会議長(国家元首です。ドイツ社会主義統一党の第一書記)は人口を維持するために、ベルリンの壁を建設し始めます。
ウルブリヒト第一書記は「既に200万人が国を出た、これではいかん。東ドイツには誰もいなくなってしまう」と考えて、西ベルリンを壁で囲います。東西ベルリンの間だけではなくて、ぐるっと囲んだんです。これで西ベルリン(東京23区程度の規模)は孤立しました。壁の向こうに家族がいても往来できません。もちろん、東ベルリンと東ドイツは自由に往来できます。フルシチョフは、この措置をしぶしぶ承認します。壁ではなくて、空路封鎖を選べば米ソ戦争になりかねません。米国は沈黙しています。米国が反対すれば、ソ連は東ドイツを国家承認するだろうし、その首都であるベルリンから米英仏も撤退しなければならなくなるんです。国家承認は1970年代ですね。
壁と言っても、3年間くらいは有刺鉄線だけの処もあって、管理が甘いので、移住者/亡命者は多かったようです。それから緩やかに減っていって、厳重警備以降は殆ど亡命は不可能になります。100人以上が管理棟から射殺されたり、壁から落下死しました。
1948年のベルリン封鎖とは違います。

以前にベルリンと東京23区は大体おなじ大きさということで、比較して書きましたね。
ベルリン以外の東西ドイツの国境は、触ると感電する有刺鉄線や地雷原、監視塔と照明、動くものを感知する自動発砲装置が備わっていました。ベルリン市内で西側に行く方が安全だったんです。西ベルリンまで行けば、飛行機に乗れます。これは戦争にしたくないから、撃墜されません。西側から鉄道で東ドイツに入ることは、特別な許可があればできたようです。
壁が作られて、移住者は1962年には2万人にまで減りました。その後、ベルリンの壁が壊される1989年まで、年に1~2万人で推移します。この転出者は労働力としてはあんまり生産性が高くないと見なされた高齢の年金生活者でした。
1989年、国境開放の11/7以前に東ドイツ市民がチェコスロヴァキアやハンガリー経由で西ドイ ツに移動していて、8月に2万1000人、10月に6万人でした。国境が開放された11月に14万5000人、12月に6万2000人で、1989年には38万8000人が移住しています。1990年、西ベルリンの人口は 216万人、東ベルリンは128万人になっていました。
西ドイツ-(大統領は名誉職で実権なし)
アデナウアー首相(1949年-1963年)
アデナウアー政権が1963年の独仏友好条約の締結まで続いて、東ドイツとの対決路線を取ったので、冷戦は1961年の東ベルリン政府によるベルリンの壁の建設で緊張が高まります。統一を犠牲にして西側との結びつきを強めることによって、西ドイツは経済復興をしました。これは日本が東側との講和を後回しにして、防衛と市場を米国頼みにした結果として経済発展したこととも通じます。アジアとヨーロッパの二大敗戦国は、勝者の米国に依存することで復興したと言えます。
1963年、独仏協力条約を結びます。この時期になると、米国主導を拒否したとも言えます。実際は西ドイツですが、この条約ではドイツと呼称するのが一般的です。フランスはドイツ連邦共和国/西ドイツだけをドイツの後継国家と認めているからです。この時代の東ドイツは、西側と国際的に重要な条約を結ばないので、条約名に登場することはないし、誤解もないので、日本で教える世界史でも問題ないからでしょう。
エアハルト首相1963年-1966年
キージンガ-首相1966年-1969年「大連合内閣」の時期で、1967年にルーマニア、ユーゴスラヴィアと国交を結びます。
外務大臣の経験がある社会民主党のブラントが首相(1969年-1974年)になります。
米国からさらに離れて独自に東側と友好化していく路線を継承します。いわゆる東方外交を展開します。
1970年、西ドイツポーランド条約を結んで、オーデル・ナイセ線を国境と確認します。東ドイツがポーランドと合意した国境線の追認と言えます。今回は、ソ連の圧力で強いられたものではないので、やっぱりやめたということもないから、両国とも安心できたとおもいます。
次の時代ですけど、ブラントは1971年にノーベル平和賞を受け取っています。
基層では、米国で活躍していたダンサーで振付家のピナ・バウシュは、1962年に帰国すると、エッセンのフォルクヴァンク舞踊団でソリストとして活躍します。振付家ともなって、母校のフォルクヴァンク藝術大学でも教授として教えるようになります。演劇とダンスの融合。
東ドイツ
1949年-1960年はピーク大統領
1960年-1972年、ウルブリヒト国家評議会議長。大統領職を廃止しています。
ベルリンの壁を作る指示を出したのは、この人です。自分が東ドイツの元首だったら、働き盛りの人がどんどん西ドイツに行ってしまう状況でどうしますか?過疎の市町村の長と立場は同じで、ただ権力はもっと持っています。武力で潰される可能性もあるけど、ソ連に逆らって資本主義を取り入れて、民間で競争させますか?それとも政府内だけで資本主義を一部取り入れて、成功したサーヴィスや優れた機能を持つ商品だけを国家レベルに解放して、輸出したりしますか?時間はかかるし、ソ連が認めるかもわからないけど、合同選挙をして、ドイツ統一を目指しますか?ソ連にもっとお金を要求しますか?
歴史総合では、自分とウルブリヒトの考えの違いはどこから来るのか、自分の考えの根拠は何か、ウルブリヒトを説得できるくらいに考えて、架空のウルブリヒト役の人にプレゼンテーションすると、面白いと思います。
□□北欧
1956年、フィンランドの元大統領リュティが死去しました。大戦中に個人としてドイツと協定を結ぶことで、ソ連に抵抗して、しかもフィランドという国をナチスの同盟国にしないという奇策を考えた人です。結局、敗戦でナチスに協力した戦争犯罪人として禁錮10年の判決を受けました。実際は1949年に釈放されて、政治からは離れた生活をしていました。個人を守るために国家が存在するというのが一般的な国家の存在意義なんですけど、この人は自らの意思で国家の盾になった愛国者と言えます。国家のために、いやだと言っている個人を犠牲にする全体主義、ファシズムの似非愛国者とは心根が違います。
1957年、デンマークは国民年金制度を開始します。北欧は福祉国家のイメージがあるんですけど、そんなに古い伝統ではないんです。
北欧ではパスポートコントロールを廃止して、交流の自由化、定住も許可するようになります。お互いを知れば安全保障にもなるし、経済の分裂も避けられるという面があります。逆にスパイも入りやすくなりますけどね。
1950年代末の農業人口はフィンランド30%、スウェーデン14%、デンマーク、アイスランド、ノルウェイは10%台でした。
フィンランドはソ連に賠償金を払うために、工業化していきます。
1958年、フィンランドのファーゲルホルム挙国一致内閣は、ソ連の圧力で崩壊して、農民同盟の内閣が成立します。霜夜事件と言われています。資本主義という意味では西側なんですけど、冷戦中は政治家、マスメディアは反ソ連の言動、放送はタブーとされていました。それにワルシャワ条約機構軍との共闘もあり得たので、互換性のある武器を装備しています。そのくらい、ソ連の影響が強くて、西側だけど、東側にいるような国という状態を、フィンランド化と言いました。
フィンランドは英語の名前で、正式にはSuomen tasavalta、一般的にスオミと言います。北部のラップランドに暮らしているサーミ人に由来すると考える研究者もいます。はっきりはわかっていません。国名の由来がわからないのは不思議と思うかもしれませんけど、にほん、にっぽん、国名の読み方も決まっていない国もあります。
アイスランドはこの頃、英国と「タラ戦争」をしています。アイスランドは専管水域/領海を4海里から、12海里にしました。これでタラを取りに来る英国船が締め出されます。1961年に協定が結ばれるんですけど、その後も、第二次、第三次のタラ戦争が起こりました。このあと、領海とは異なる排他的経済水域という概念が生まれて、経済と軍事の争いは切り離されていきます。
1960年、北欧諸国は英国主導のEFTAに加盟します。
この頃、ノルウェイは信教の自由を憲法で保障します。ノルウェイは米国の北爆/ヴェトナム戦争を批判します。
スウェーデンは米ソのデタント/緩和を受けて、核兵器の開発をやめて、対立の仲介に乗り出すなどの積極的中立を外交政策とします。紛争がないことは、最大の予防、防衛になりますからね。
1960年代後半には世界中で学生運動が盛んになるんですけど、スウェーデンでも教育を産業のための下請けにするなと、学生が起っています。デンマークでは「若者の蜂起」と言われていて、国家権力、親権、男性の優越性を当然視しない世論が生まれています。
□□ロシア/ソ連
1956年2/25、第20回共産党大会-副首相のミコヤンは資本主義国との平和共存政策を発表します。
「資本主義国との戦争は不可避でなく、平和共存可能で、武力以外の共産主義革命も可能だ。」
これはスターリンの強権政策への決別です。雪どけへの方向転換を明確にしたんです。今後は、独裁への忍従でなくて、ソ連の自由化を謳ったんです。最終的には、1989年12月のマルタ会談で冷戦は終結します。まだ先ですね。
第20回共産党大会の最終日、各国代表のいない秘密会議が、残ったソ連共産党員の間で開かれます。フルシチョフのスターリン批判のはじまりです。
「スターリンは、レーニンの戒めていた個人崇拝をすすめ、党大会も開かずに有能な軍人を粛清して、民族を大虐殺して、軍事的失敗も引き起こした」
①スターリン批判以来、各地でスターリンの銅像が引き倒されます。都市や通りの名が戻されていきます。スターリングラード→ヴォルゴグラード。タジキスタンのスターリナバード→ドゥシャンベ。
②チェチェン人、イングーシ人など、かつて強制移住させられた民族は、故郷へ戻って、自治領を作ったグループもいます。1944年にカザフスタンやウズベキスタンに移住させられて、一万人以上が餓死などでなくなっているクリミア・タタール人など戻れない人たちもいました。トルコ系なので、大戦中にトルコやドイツとの連携を疑われたんですね。2021年にウクライナのクレバ外務大臣は、(2014年にクリミアをロシアに奪われたこともあって)1944年のクリミア・タタール人の強制移住は虐殺だったと主張します。
冷戦はソ連/ロシアにとっては和解なのに、米国は勝利/ロシアは敗者と見なして、NATOの東方拡大など、敵視政策をやめなかった、冷戦構造を持ち越したという見方があります。ロシアもトルコ系のクリミア・タタール、ムスリムの多いチェチェンに冷戦後も独立を認めないし、ウクライナを脅してCISに加盟させるし、どちらも勢力圏を拡大/維持しておきたいという冷戦思考のままだと思います。
③スターリン批判は、中ソ論争に繋がります。公然となったのは1960年頃からだそうです。スターリン型の共産主義体制/毛沢東の個人崇拝独裁の大陸中国は「今更修正とは、けしからん」。「資本主義国との戦争は不可避ということで、脅威をあおってきた。先々への準備に共産党が必要だ、これまでにも共産党が国を守ってきたと宣伝することで、求心力を保ってきたのだ。今更、平和共存ができるか?できるわけがない」
ソ連から離れて、むしろ少し親米へと向かいます。台湾の中華民国とは無理でも、米国となら平和共存できるんでしょうか。論理がわかりません。
韓国と対峙している朝鮮もソ連を批判します。個人崇拝に関しては「修正主義?。我が国は主体/チュチェ思想という人民主体であり、個人崇拝などない。」という立場です。
④ ポズナニ暴動、ハンガリー反ソ暴動につながります。
1956年のスターリン批判、ポズナニ暴動、ハンガリー反ソ暴動、コミンテルン解散後の混乱をコントロールするために、1957.11/14-11/16ロシア革命40周年記念という口実で会議を開きます。共産圏12カ国はモスクワ宣言を発しました。「現在、各国は資本主義から社会主義への移行段階にある。各国は、実情に合わせていけばいい。各社会主義政党は協力して多数派を取って、平和裏に移行すればいい。遅れている資本主義国とは平和共存を目指すべきだ。」というものです。
11/16-19には64カ国の代表も参加します。
その1956年には日ソ共同宣言で国交を回復、大した戦略的価値のない歯舞と色丹に関しては、平和条約を締結したら、その後に引き渡すことで合意します。第二次中東戦争では、エジプト側に付いて、武器を支援しています。アラブ世界への影響力を高めようとしたんですね。1959年には米国のニクソン(当時は副大統領)の訪問を受けています。フルシテョフもソ連の指導者として初の訪米をして、アイゼンハワーと会談をしています。このフルシチョフの訪米時、米国に亡命したハンガリー人は、空港でプラカード「殺人鬼フルシチョフ帰れ」を掲げました。
1958年には閣僚会議議長/首相も兼任しています。
1961年ソ朝友好協力相互援助条約を結びました。
1964年、第一書記と首相を兼任しているフルシチョフの独裁を見かねて、次の書記長ブレジネフなどが画策して、既に参加メンバーの意思を固めておいた委員会で「農業政策の失敗と、中ソ対立はフルシチョフの責任だ」として、更迭(こうてつ)/排斥を決議します。フルシチョフは別荘に軟禁されて、1971年に死去します。
ブレジネフが書記長(第一書記は廃止のようです)、コスイギンが首相になります。
1966年12月、米国と距離を取るフランスに近づくコスイギン首相(1964年-1980年)は訪仏して、ド・ゴールと会談すると、ヨーロッパの緊張緩和共同声明を出して、東西陣営の緩和を生み出します。
1967年には、コスイギン首相は米国でジョンソン大統領とグラスボロ会談を行って、中国/中ソ論争、ヴェトナム/戦争、西アジア/パレスティナ問題を話し合いました。
1968年、チェコスロヴァキアの民主化「プラハの春」を潰すために、ソ連はワルシャワ条約機構軍を進軍させました。フルシチョフの政策から路線変更をして、社会主義全体の利益は、各国の利益にまさるとブレジネフは訴えます。制限主権論ですね。この政策/方針をブレジネフ・ドクトリンと言います。イタリア、フランスの共産党がソ連から離れたことは書きました。アルバニアもワルシャワ条約機構を脱退します。
宇宙政策の話を書いておきます。
1957年10月、スプートニク(ロシア語の意味は「衛星」)の打ち上げに成功します。史上初の人工衛星です。すぐに大気圏内に落ちてしまうのではなくて、地球の軌道を周回するということです。 人工衛星発射はミサイル発射と基幹技術は同じなので、米国はソ連に宇宙計画で後れを取ったと驚きます=スプートニク・ショックと言われます。
そのスプートニクのロケットR-7は、8月のICBM/大陸間弾道ミサイルの実験に使われています。ユーラシア大陸を射程に収めるミサイルではなくて、ユーラシア大陸のソ連が発射すると、アメリカ大陸にまで届くミサイルということです。
1957年11/3、スプートニク2号の宇宙空間への人工衛星発射が成功します。このスプートニク2号には、ソ連はライカを乗せていました。ライカというのは、北部ロシアの猟犬のことを指す名前です。特定の犬種ではありません。この時のライカの固有名はクドリャフカで、「巻き毛ちゃん」 の意味です。米澤穂信さんの小説「クドリャフカの順番」って関係あるんでしょうかね。
1959年、月ロケット、ルナ1号の発射に成功。月の近くを通りました。ルナ2号は月に着陸(激突が近いかな)します。人は乗っていませんけど、月を調査します。ルナ3号は、月の裏側を撮影します。1960年のスプートニク5号では、載せた犬が地球に帰還しました。
1961年、ボストーク1号で、人類初の有人宇宙飛行がなされます。宇宙遊泳ではありません。搭乗者のガガーリンは「地球は青かった」という有名な言葉を遺しています。基本的にソ連の発射基地は、カザフスタンにあるバイコヌール宇宙基地です。2022年時点でも、カザフスタンにあるのに、ロシア共和国がバイコヌールという都市も、宇宙基地も租借しています。ロシアの法律、ロシアの通貨が利用されています。
1965年、世界初の宇宙遊泳がなされました。
基層の人たちは何をしているかというと、アラル海沿岸にはカザフスタン側の北部アラル市、ウズベク側の南部ムイナク市に水産加工場が作られて、缶詰工場もできて賑わっています。けど、工場には大量の水が必要です。農地の人も灌漑で使いますしね。アラル海に流れ込む川は灌漑のために流量が減ります。結果として、塩分濃度が上がって、淡水魚は住めなくなります。これは漁業には打撃です。このころ3万5千トンの漁獲量があったんですけど、50年後の2010年代には1000tにまで減っています。1960年には450万ヘクタール、2012年には800万ヘクタールにまで灌漑農地が拡大していることも原因です。アムダリヤ、シルダリヤの流れ込む量は21世紀には5分の1に減っています。カザフスタン側はダムを造って、北部の湾の水量を保っています。ウズベキスタン側は干上がって塩湖になった土地の下に、天然ガスを発見したので採掘を始めました。ただ、砂漠化・塩湖化で湿度が下がったので、周辺の人には肌荒れ、砂が目に入って目の病気も多いようです。
1950年代にはパステルナークが「ドクトル・ジバゴ」を書いています。1960年代にはソルジェニーツィンがラーゲリ/収容所の様子を描いた「イワン・デニーソヴィッチの一日」を書いています。1970年代にこの人は追放されて外国で暮らします。
1968年、「25日 最初の日」という、ユーリ・ノルシュテイン監督の切り絵アニメのデビュー作が公開されました。ロシア革命を描いていて、リズムと音楽もいいんですけど、強い色が印象に残ります。1973年の「キツネとウサギ」では寓話的、1975年の「霧の中のハリネズミ」では幻想的、1979年の「話の話」では、記憶の断片をつなげた自伝的作品を制作します。
1969年には、「チェブラーシカ」、ロマン・カチャーノフ監督の人形アニメが公開されました。
□□東欧
□ポーランド
フルシチョフのスターリン批判を聞いて、独裁政権を打倒してもソ連は介入しないと思ったのが民衆です。ソ連を盟主とした社会主義/スターリニズムよりも、ポーランド民族主義を志向するんです。
その結果がポズナニ暴動と言われる決起です。ソ連は進軍を決意したんですけど、失脚していた民族主義者のゴムルカ/ゴムウカが復帰して、第一書記に就任して、ソ連の介入を拒否すると、自主的に抑え込みました。
□ハンガリー
ソ連が支持するラコシが首相で書記長をしていたんですけど、スターリンの死去で、子分だったラコシは首相から失脚します。そして1953年、ナジ・イムレが首相になります。ハンガリーは苗字・個人名の順で表記する文化を持っています。
ナジはラコシ時代の経済政策を改めようとしたんですけど、書記長に留まっていたラコシ派の巻き返しによって、1955年4月に失脚しました。
1956年7/18、ソ連の圧力でラコシが党書記長を辞任すると、後任には、スターリン主義者のゲレー・エルネーが選出されました。
これに反発した市民は集会禁止令にも関わらず、ブダペストで大規模なデモを行ないます。
1956.10/23ハンガリー反ソ暴動/ハンガリー事件(国際的な視点からの言い方)/ハンガリー動乱(ソ連からの言い方)/ブタペスト暴動のはじまりです。ワルシャワ条約機構からの脱退、ソ連が支援する独裁者ゲレー追放と、ナジ復帰要望のデモです。事態打開のためにソ連のミコヤンとスースロフがハンガリーにいる間に、フルシチョフはハンガリーへの出兵を決定しました。
結局、ソ連主導のワルシャワ条約機構軍が抑えこみます。ソ連軍に殺された人がたくさんいます。
ハンガリーは、ソ連の介入を国連に提訴します。米国がハンガリー、オーストリアの国境に救護所を設置します。亡命した人はたくさんいて、西側への避難民は20万人と言われています。
ただ、民族主義者ナジが復帰して、共産党の一党独裁ではなく、複数政党制を容認するし、ソ連から離反して中立化を目指していきます。
この結果、ナジはソ連に捕らえられて、1958年にはカダル政権により刑死になりました。その後カダル政権は、国連の援助は不要と表明して、救護所も終了します。
基層では、1956年ハンガリーにソ連軍が侵攻してくると、20万人が西側の資本主義、自由主義、民主主義国に避難しています。小説家で21歳だったクリシュトーフ・アーゴタは夫、生後4か月の娘と一緒にオーストリアへ逃れて、その後、受け入れ先であるスイスに暮らすようになりました。偶然フランス語圏に暮らすことになるんです。ハンガリー語は通じません。スイスの主産業である時計の工場で働いて、パリで刊行されているハンガリー語の文芸誌に詩を寄稿していたんですけど、スイスでは慣れないフランス語で小説を書いたので、独特の文体を作り上げることになりました。フランス語での筆名はアゴタ・クリストフ。1986年に「悪童日記」を出版します。
□ルーマニア
1965年、チャウシェスクの下で、対ソ批判をすると独自路線を採ります。ソ連やセルビアのようなスラブとは一線を画すローマ人/Romaの末裔を自負するルーマニア/Romaniaです。石油資源があるので、経済的にソ連に依存しなくてもやっていけるという面があります。
□チェコスロヴァキア
1957年-1968年3/22ノヴォトニー大統領兼第一書記の時期です。
1956年、スターリン批判を受けて、スターリン時代に殺害された犠牲者の名誉回復問題、計画経済の行き詰まりによる不景気、スロヴァキアの自治要求などをめぐって、ノヴォトニーに対する批判が高まっていきます。
ドプチェク第一書記(1968年1/5-1969年4/17)の時期です。
「行動綱領」を採択して、「新しい社会主義モデル」を提起します。
党への権限の一元的集中の是正、犠牲者の名誉回復、連邦制導入を軸とした「スロヴァキア問題」の解決、企業責任の拡大や市場機能の導入などの経済改革、言論や芸術活動の自由化、外交はソ連との同盟関係を強調しながらも、科学技術の導入を通して西側との経済関係の強化をうたっています。検閲も廃止します。ドプチェクの示したチェコスロヴァキアの未来は「人間の顔をした社会主義」と言われます。これまでは人間性がなかったということです。
1968.3/30ズヴォボダが大統領に就任します。ドプチェクは第一書記です。
1968年、プラハの春-民主化と自治運動ですね。ドプチェクの発表した「二千語宣言」は、「行動綱領」と同内容なんですけど、ソ連はこれは反社会主義革命と受け取りました。
8/20、ブレジネフ主導でソ軍事が介入して、改革派を除名します。
□アルバニア
スターリン批判以来、ソ連から距離を取るんですけど、1960年/1961年、ソ連と断交して中国へ接近していきます。1962年にはコメコンも脱退します。
1968年、ブレジネフのプラハの春弾圧/チェコスロヴァキア事件を見て、ワルシャワ条約機構も脱退します。ただ、ホジャ独裁なので、スターリン的路線/共産党一党独裁で個人崇拝ではあります。
元々、共産主義には神を信じないという面があって、1967年にはすべての宗教活動を禁止します。
□キプロス
1960年、キプロスが英国から独立して、キプロス共和国になります。
基層では、ギリシア系とトルコ系の住民対立が起こっています。ギリシア、トルコ、どちらかに併合されたいというんです。
次の段階として1974年のトルコ侵攻と、1983年、トルコが支援する北キプロス・トルコ共和国が島の北部に成立して、北部に住んでいるギリシア系住民の難民化と、南北に島が分断される固定化となっていきます。
□□アフリカ
独立が相次ぐ時代です。
王政をやめて共和制国家として独立した後は、かつての王族は表に出ないことがほとんどです。代わりに、旧宗主国に留学などをして教育を受けた人が指導層になる例が多いようです。
植民地は列強の思惑で分断・統一されただけで、言語や民族に統一性がありません。ブルキナファソとコートジボワールの中間に住む人たちは分断されていますし、どちらの国でも少数派になってしまいます。遊牧民に関しては特に領土意識はないので、独立ではなくて、近隣各国が協力して国家連合を作るという模索をする場合もあるようです。

新興国では、国民意識よりも、部族などのグループ意識が強いので、選挙では自分の部族の人に投票します。そうすると、部族の人口差はそんなに変化しないはずなので、10年でも20年でも、最大部族が最多の議席を持つことになります。これでは不満が溜まりますよね。それで、内乱になりやすいという状況にあります。(地図の真っ赤なエリアは、元はスペイン領のリオデオロです。21世紀初頭の西サハラと言われている地域は国ではありません。国連から早く国家を作るように言われたんですけど、そこで暮らす部族が、国家ではなく伝統的な生活を望んでいます。さらに北部にある隣国のモロッコが実効支配しているので、ただの地域となっています。モロッコは当然国際的な非難を受けています)
1954年-1962年、アルジェリア戦争-対フランスの独立戦争です。1954年、FLN/民族解放戦線を結成して、武装闘争を本格化させました。フランスは戦費が増大して、財政危機・政治危機となってしまいます。ド・ゴール案で憲法を改定して、権限を強化した大統領が決定することで、1962年、アルジェリアは独立を承認されます。
地中海沿岸で独立するのは、1951年リビア、1956年チュニジア、モロッコ(1954年にスペイン領モロッコ、フランス領モロッコが合併しています)で、アラブ系やベルベル系なので黒人国家ではありません。
1957年、サハラ以南ではガーナ自治領が英連邦内自治領としてですが、独立します。サハラ以南というのは、基本的に黒人の居住地ということです。第二次大戦後では初のアフリカの黒人国家の独立です。エンクルマが初代大統領です。
1960年、ガーナ共和国となります。1966年のクーデタでエンクルマは失脚します。
1958年、フランスの第五共和制(1958年-)に反対するかどうかの国民投票で、ギニアでは反対が多数を占めて独立をします。セク・トゥーレが初代大統領で、首都はコナクリ。社会主義の国家です。アフリカ合衆国の創設を目指します。
1960年のコナクリ会議には、アジア・アフリカの50カ国が集まって、反植民地主義を宣言します。同じころ、国連総会でも同じ宣言をしています。
1960年、「アフリカの年」。これは新聞記者の作った言葉です。この年最初のカメルーン(英国から)を始めとして、17カ国が独立しました。国際連合もアフリカ独立を支持します。
欧米列強の植民地、圧制、衛星国からの独立と解放は、大まかな順では、ラテンアメリカに始まって、次に第二次大戦後のアジア、そしてアフリカ、さらにソ連崩壊後の東欧圏という順です。
アフリカに植民地を持っていないので、欧米への対抗上味方にすると好都合なソ連が、アフリカの独立を支援します。だから、独立後に社会主義の一党独裁国家が多いんです。ソ連崩壊後、援助がなくなると、社会主義から次々と脱退していきます。
ダホメ-ヨルバ族など、いくつかの民族がいて、紛争をしています。どの政権も他の民族からは支持されないので、何度もクーデタが起こります。1975年、ベナンと改称します。
ローデシア
1963年に連邦は解体して、1964年には英国から北ローデシアがザンビアとして独立します。ニヤサランドはマラウイとして独立します。残った南ローデシアは1965年、白人政権によるローデシア共和国になります。
コンゴ

1960年、ベルギー領コンゴは、コンゴ共和国として独立します。首都はキンシャサです。部族対立と白人への鬱積した怒りが激しいので、独立直後の1960年にコンゴ動乱(-1965年)が起こります。白人への暴行があって、動乱でたくさんの人が難民になりました。コンゴ政府の許可もなく軍を派遣した旧宗主国のベルギーは国際的非難を受けます。
ベルギーが支援するチョンベは南部のカタンガ州の独立を狙っています。鉱物資源豊富なカタンガ州の分離独立はベルギーにとっても好都合なので、恩を売っておこうというんです。国連軍も出動するんですけど、消極的な活動に留まっています。
初代首相ルムンバはソ連に接近して、親米のカサブブ大統領と対立しています。ここでも冷戦の代理戦争があるんです。
1960年、モブツの無血クーデタと、1961年のルムンバ逮捕、刑死。
停戦調停に赴く飛行機が墜落して、国連第二代事務総長のハマーショルドが死去します。1963年、第三代のウタント事務総長の積極介入で、国連軍がチョンベ派を制圧します。
1964年、故ルムンバ派のシンバ(ライオンのこと)派が決起するんですけど、シンバ派の拠点で、ベルギー人やアメリカ人1000人が人質になったスタンリービル事件解決のため、ベルギー、米軍が介入して抑え込みました。
カサブブとチョンベは対立を続けているんですけど、1965年にモブツが二度目のクーデタをして以降は独裁体制になりました。
1971年、ザイール共和国へ改名します。(1997年にコンゴ民主共和国へ改称します)
鉱山などから得られる利益は政権が独占して、民生には使わないんですけど、冷戦中なので、西側は独裁者にも支援をしています。西側に付いている限りは、独裁かどうかは何の関係もないんです。市民を弾圧する武器を購入する資金は列強から出ています。
1960年、コンゴ共和国-首都ブラザヴィル。フランス領コンゴからの独立です。ベルギー領と当初は同じ国名で、1970年にコンゴ人民共和国、1991年コンゴ共和国に戻します。
1960年、ガボン共和国-首都リーブルビル。フランス領コンゴの一部です。
フランス領コンゴは1885年までの通称で、1910年以降はフランス領赤道ギニア(ガボン・コンゴ共和国・中央アフリカ共和国)のうち、南部の名称です。三カ国ともフランスから1960年に独立します。
1960年、ナイジェリア連邦が独立します。
元々、1900年に英国の王立ニジェール会社が統括してニジェール沿岸、南部ナイジェリア、北部ナイジェリア沿岸を保護領としていて、1914年に南北を統一しました。1954年には自治領になっています。この1960年は、北部・東部・西部州を合わせた連邦国家として独立したもので、タファワ・バレワが初代の首相です。
1963年共和制になります。つまり、英国王を認めないということです。
東部で原油が発見されたので、輸出すれば税収は豊かで、経済的に安定するはずなんですけど。
1966年1月にクーデターで大統領になったイボ人のアグイイ ・イロンシ将軍が、1966年7月ハウサ人のクーデタで殺されて、ヤクブ・ゴウォンの主導する軍政となります。イボ人は迫害されたので、1967年にキリスト教徒の多い南東部のイボ人が、ビアフラ共和国の独立を宣言して、ビアフラ戦争(1967-1970年)が起こりました。フランスはイボ人を支援して、米英ソ連は連邦政府を支援します。
1970年1/15にムスリムの多い北部のハウサ族、ムスリムとキリスト教の混ざった宗教の多い西部のヨルバ族のナイジェリア連邦政府が、フランスの支援するイボ人に勝利したことで、ビアフラ共和国は崩壊しました。150万人以上が死去したうえに、民族自決は達成されませんでした。
地図で示すと、北のニジェールは、ナイジェリアのハウサ人を支援しています。列強はヨルバ人を支援します。

基層では、1958年にナイジェリアのイボ人/族のチヌア・アチェベが「崩れゆく絆」を書いています。1905年前後のナイジェリアを舞台にして、伝統的な集落の慣習や暮らしが、白人の持ち込んだキリスト教、政府などによって損なわれていく様子を描いています。植民地支配時代の線引きだけが国家の枠の根拠になっているというチヌア・アチェベが生きている時期と、植民地時代の始まりで民族や文化、言語が異なるのに、同じ国家にされるという不安が重ねられています。チヌア・アチェベは、植民地時代前の伝統社会は野蛮でも未開でもなかった、と訴えていて、「文明開化」がなされたという「神話」に異議を唱えています。アフリカの歴史性の取戻し、アフリカを蔑視してきた西洋文学への異議、新たなアイデンティティの模索も込められた小説です。「闇の奥」でアフリカを貶めたコンラッドを批判していて、チヌア・アチェベはアフリカ文学の父とも言われている人です。
Apartheid/アパルトヘイトはアフリカーンス語(オランダ語のアフリカ化したもの)で「隔離」の意味なんですけど、本当の意味を知ったうえで、受験生は今だけApart Hate「分けて、憎む」と憶えてもいいと思います。
1961年、南アフリカはアパルトヘイトを批判されたので、1961年に英連邦を離脱して、南アフリカ共和国として独立します。
1966年南アフリカからのナミビア分離独立に対しては、国連は承認しているんですけど、南アフリカによる支配は継続します。この時代にはソウェト叛乱と言われるカラード地区、つまり肌の色がカラー、黒い、要するに黒人地区で決起した人たちがいました。いくつもあるカラード地区には黒人だけが住んでいて、そこから白人地区に出勤していました。ソウェトはカラード地区の一つです。
1962年にはモロッコがフランスから独立します。初代首相はベン・ベラです。FLNの指導者でした。1965年にはクーデタが起こって、軍政になります。
1969年、リビア王国でクーデタがあって、リビア共和国になって、カダフィ大佐が政権を握ります。中尉だったんですけど、このときに大佐を名乗ります。尊敬するエジプトのナセルが大佐だったので、大佐に留まったと言っている人、初心を忘れないためと言っている人がいます。本人に訊いたらわかると思うんですけど。既に軍人でなくて、最高指導者なので階級は低くても良いという前提はあります。
1963年、OAU/アフリカ統一機構が成立します。エチオピアのハイレセラシェ帝が提案者の一人ということで、本部はエチオピアのアジスアベバに置かれます。エジプトのナセル、ガーナのエンクルマも尽力しました。いまだに存在する植民地(ポルトガルなど)解放を掲げています。国連加盟国の三分の一を占めるので発言権は大きいです。このときはアフリカの独立国は33あって、アパルトヘイトで批判されている南アフリカは不参加、トーゴも不参加です。白人主体のローデシアは加盟していなくて、独立国と言えるかどうかもはっきりしません。モロッコはのちに脱退するんですけど、最初からいなかったという扱いになることもあります。
・中部アフリカ
ルアンダ=ブルンディ-これまでベルギーは狩猟採集型の生活を主にする少数派のツチ人を優遇していました。この植民地時代に農耕の生活を主にする多数派のフツ人はフランス語の教育を受けることもできず、冷遇されていました。そして同じ言語、文化、ほとんど見分けがつかない外見なのに別の民族だと認定して、IDカードを配布して区別しました。優遇されたツチは、色が薄くて長身の人が多いということでコーカソイドだとされました。つまり白人です。実際には色が濃かったり、背の高くない人もいるんですけどね。
1959年、ルワンダ革命が起こります。宗主国ベルギーに対するツチ人の決起です。ベルギーは多数派のフツ人に接近しました。
1962年ルワンダが独立すると、少数派のツチ人は、北部のウガンダに逃げました。
1962年のウガンダ独立後は、その中に組み込まれたブガンダ王国には自治権が認められて、連邦構成国という特別な地位を得たんですけど、1966年にウガンダからの独立を主張したムテサ2世は、ウガンダのミルトン・オボテ首相と対立します。結局、1967年にオボテ首相はブガンダ王国を廃止しました。
・南部アフリカ
英国保護領バストランド(1865年成立)が1966年、レソト王国として独立します。
ツワナ人のベチュワナランド(1885年成立)は英国保護領から1966年、ボツワナとして独立します。カーマが初代大統領です。1967年にはダイヤモンドが発見されて、その売り上げを教育に多く配分した結果、識字率は向上して、平和で経済も発展しました。アジア・アフリカの多くの国で支配者一族が地位や経済利益を独占して、軍事費に多くを割いて、経済は低迷して、恐怖政治化するかクーデタを繰り返すのとは大きく異なります。
スワジ王国は英国の高等弁務官領なんですけど、1968年スワジランドとして独立します。
スワジは現地語、ランドは英語なのでおかしいと言われていて、2018年以降はスワジ後で統一して、国名をエスワティニと言います。
・ソマリアからケニアにかけての沿岸地域はアラブ人が多い、スワヒリ語、イスラームという統一性があります。西アジアのアラブ/イスラームでは公的な権威は男なんですけど、このアフリカ東部では女性が王になったり、紛争の調停をするというアフリカ気質も残っていて、脱アラブ化も進んでいます。
アフリカの角と言われる地域にあるエリトリアは、1889年にエチオピアがイタリアと戦争をした結果、イタリア植民地になったんですけど、第二次世界大戦中に英国が占領しました。その後、エチオピアとエリトリアは連邦国家ということに国連で決めたんですけど、エチオピアがエリトリアの国旗を廃止したり、エリトリアの言語を禁止したりしたので、1961年からはエリトリア戦線が対エチオピア武装闘争を展開します。
1962年エチオピアは,住民の意思に基づくという理由でエリトリアを併合して、州にしました。このあと1991年まで独立闘争が続きます。
フランスでは1956年に海外領土基本法が成立します。
1958年フランス領マダガスカルでは、この基本法に基づいた住民投票があって、独立が決定します。フランス共同体の中のマダガスカル共和国となります。
コモロは今のままでいいと拒否するんですけど、1961年には気が変わって独立運動を展開して、1968年にコモロ自治領、次の時代ですけど、1974年に住民投票、3島が独立をして、1島(マイヨット島)はフランスに留まることを決定します。
1975年、コモロ大統領が独立を宣言するんですけど、マイヨットも勝手に入れられたので、マイヨットの分離運動が始まります。1976年マイヨットだけで住民投票をして、フランス帰属を決めると、コモロは国連に提訴します。
「国連としてはこの住民投票は不正の疑いがある」としてマイヨットはコモロのものとすることを決めるんですけど、フランスは無視して統治を継続しています。
1961.10タンザニア独立、1962.7/1ルワンダ独立、7/1ブルンジ独立、10ウガンダ独立、12ケニア独立。
英国から独立するのは、1964年、北ローデシアがザンビアとして独立、ニヤサランドがマラウィとして独立 1965年、南ローデシアがジンバブエとして独立。ガンビアも独立。
1966年ボツワナ、レソト独立。1968年、スワジランド独立。
1968年、赤道ギニアはスペインから独立。
次の時代ですけど、1977年、ジブチはフランスから独立。
イギリスの北部アイルランド、アフリカではルワンダ、スリランカではタミル人などが抵抗して、それを中央政府が武力で押しつぶそうとして、少数派も武力闘争に転換していく紛争が世界中で起こっています。
多数派の民族が、価値観を押し付けることで、国民を創出するという近代国民国家という原理のマイナス面です。同質性を求める国民統合は、アメリカ合衆国にもあって、工業化・奴隷制禁止の北部に対して、南部の分離独立運動が起こった南北戦争や、その後の白人至上主義と黒人による公民権運動なども、国民統合の一面です。
国民統合には狂ったように「非国民」と叫ぶ排他的な型を取る人、時期があるし、
多様性を尊重しようという型を取る人、時期があります。
公用語が複数あって、二重国籍を認めて、移民を歓迎する国や地域もあります。フランスではカトリックの十字架も含めて、すべての宗教を公的な場で出さないようにしようという中立政策を21世紀初頭には取っています。これも国民統合のための政策です。
すべての宗教シンボルを抑制しようとしない日本のような国もあります。日本は二重国籍を認めず、移民を歓迎せず、公用語も日本語のみという国です。
□エジプト
復習します。
1952年7/23に自由将校団がファルーク国王を追放したことで、ムハンマド=アリー朝は滅亡しました。
1953年、エジプト共和国になりました=エジプト革命。この混乱のさなかに、イスラエルはエジプトを攻撃してきました。エジプトのナセルはチラン海峡(イスラエルのアカバ湾の出口で、エジプトのシナイ半島の東側)を軍艦で封鎖して、イスラエル経済に打撃を与えました。紅海封鎖とも言います。 イスラエルは地中海にも紅海にも出ていける唯一の西アジアの国なんですけど、エジプトが紅海を封鎖しているので、貿易ができないんですね。
この頃、スエズ駐留軍の英国軍が撤兵して、キプロスに移動しています。
エジプトは冷戦には付き合わずに、非同盟主義です。それでイスラエルに配慮して米国が武器をエジプトに売らないので、1955年にはチェコスロヴァキアから武器を輸入しました。フランスはエジプトの敵イスラエルに武器を売っています。
1956年2月、スターリン批判があって、ソ連は軟化したと受け止めた東欧で、6月ポズナニ暴動(10月に政権交代)、10/23-11月ハンガリー事件(ハンガリー反ソ暴動)があって、ハンガリーはワルシャワ条約機構軍に抑え込まれました。
この最中、1956.10/29-1957.3第二次中東戦争/スエズ戦争があります。
穀物生産量を増やそうと考えて、ナイル川に作る予定のアスワン・ハイ・ダムの建設資金を出すはずが、ソ連寄りと言う口実でお金を出さない米英に対して、資金を得るためにスエズ運河の国有化をしたのがエジプトです。ナセルが正式に大統領になった年です。
①エジプトはソ連側のチェコスロバキアから武器を買っています。
②スエズ運河会社(当初はフランスの民間企業が出資過半)国有化を受けて、英国(イーデン首相)が利益が入ってこなくなるし、インドとの間も隔てられてしまいます。
③フランスはアルジェリア独立紛争をエジプトが裏で糸を引いているか、支援していると勘違いしました。
イスラエルは、紅海の航海自由を得るためにエジプトを攻撃します。英仏も続きます。
エジプトの降伏寸前に米ソがこの侵攻の非道を国連に訴えました。非植民地主義の米国はソ連のハンガリー侵攻も非難できる好機と考えました。米国はハンガリー事件、ワルシャワ条約機構軍の侵攻を非難するためには、同じく侵攻している英仏の行動も非難する必要があります。ソ連も英仏を非難できるので、エジプトを支援します。イスラエル英仏に国連名義で即時撤退を要請します。 英仏は安保理の常任理事国なので、総会でということです。
英仏イスラエルは米国の支援が受けられずに撤退します。列強とイスラエルを追い払ったナセルはアラブの英雄になりました。運河の国有化は続きます。
国境線は変わらないんですけど、列強とイスラエルを追い出したことで、勝利宣言をしたナセルはアラブの英雄となって、アラブ民族主義がエジプトで強くなります。イスラーム、エジプト人意識よりもということです。
1958.2エジプトはシリアと連合して、アラブ連合共和国を成立させます。3月にはイエメン王国も加わります。
1961年にはエジプトの支配を嫌ったシリアが脱退したので崩壊しました。エジプトだけは「アラブ連合共和国」という国名を維持していたんですけど、1970年ナセルが死去して、サダトが台頭するなかで、正式にアラブ連合共和国を解体します。次の時代ですけど、1971年にエジプトアラブ共和国へ改称します。
1967年6/5-6/10、第三次中東戦争/六日間戦争。

エジプトが、停戦監視の国連軍を退去させたうえで、シナイ半島東部のアカバ湾、チラン海峡を再び封鎖します。シリアはPLO/パレスティナ解放機構(1964年結成のアラブ人組織)を匿っています。そこでイスラエル(エシュコル首相・ラビン参謀総長)はシリア、エジプト、ついでにヨルダンに対して先制攻撃をしました。イスラエルの領土は拡大します。
イスラエルの獲得した土地は、
①元々水の確保のためと対シリアの政治的な占領地だったゴラン高原(シリアから)。
②ヨルダン川西岸/ヨルダンバンク(東イェルサレム含む)をヨルダンから。形式的には首都です。「神の恩寵」、神からいただいた土地だから戦後も返さないという一派がいます。
③シナイ半島。後でエジプトに返還します。
④ガザ地区。後でパレスティナ人の自治を認めます。その意味では、イスラエルが獲得したことがパレスティナ人国家の建設に寄与したとも言えます。
こうしたイスラエルに敗退した西アジアのアラブ諸国では、アラブ民族主義の失墜と交替するようにイスラーム復興が起こります。そして、PLOのゲリラ化と、PLOの拠点が建設されたヨルダン、レバノン(アラブ民族主義健在)に内戦を生みます。
難民が増えて、多くの人はヨルダンへ流入します。米軍はヴェトナム戦争中で介入しません。ソ連は西アジアへの影響力強化を狙って、イスラエル、アラブ両陣営に様々な情報(偽情報含む)を流して戦争を惹起しました。ソ連得意の情報戦です。正式な休戦は1970年8月になされます。この地には、21世紀初頭時点でガザとヨルダン川西岸を合わせたパレスティナ国家が成立しています。
□□西アジア/中東
1960年、 OPEC/石油輸出国機構が成立。メジャー(ズ)/major(s)と称される国際的大手石油会社の石油価格決定権に異を唱えた、イラン・イラク・クウェート・サウジ・ベネズエラが結成しました。本部はウィーンにあります。輸入国との話し合いがしやすいからでしょうか、なぜなんでしょう。石油(量)の安定供給、価格の安定、産油国への適切な見返りを目的としています。加盟国は徐々に増えていきます。
1961年、英国保護領のクウェート(「小さな城」を意味する国名)が独立します。
保護領と保護国-保護国は国があるんですけど、外交と軍事は宗主国が持っています。保護領は国家の体裁がない状態です。
1950年代初頭、イランのモサデクの石油国有化政策によって、クウェートとイラクは輸出が増加しています。たぶん、イラン産の石油を購入しない、市場から締め出したので、国際市場への石油の供給不足が起こっていて、それを埋めるためにこの二カ国が増産したんだと思います。
1958.2シリアとエジプトのアラブ連合共和国成立。3月にはイエメン王国/通称北イエメンも加わります。北イエメンは南イエメンを合併したいんですけど、南イエメンには英国がいるので、英国を牽制して排除しようという意図で参加したんです。
結局、1961年にシリアが脱退したので崩壊しました。
1962年、エジプトの支援を受けた一派によって、イエメン王制は打倒されます。イエメンアラブ共和国となるんですけど、サウジアラビアへ亡命した王政府とは戦争を継続します。
1966年ソ連がシリアに対して、イスラエルの脅威を通報したことで、アラブ連合・シリア共同防衛条約が調印されました。イスラエルはヨルダンを参加させないためにヨルダンに侵攻します。国連安全保障理事会はイスラエルの侵攻を非難したんですけど、アラブ・イスラエルの緊張は増幅して、第三次中東戦争へつながります。
1967年、英国から南イエメン人民共和国が独立します。まもなくイエメン人民民主共和国へ改称します。
1968年、サウジアラビアのファイサル国王が主導して、OAPEC/アラブ石油輸出国機構を成立させます。のち、1973年のオイルショックを主導する機構です。
1970年、第三次中東戦争で衰退したエジプトが北イエメンへの援助を停止します。北イエメンと南イエメンが合併して、イエメン共和国となります。
□パレスティナ
イスラエル建国とその後の戦争によって、170万人余りのアラブ人難民が発生しています。以降、こうしたアラブ人はパレスティナ人と言われます。周辺のアラブ諸国には期待できないので、自分たちでなんとかしようと、1964年、PLO/パレスティナ解放機構を結成します。主流派のファタハを立ち上げて、砂漠の鷲と言われたアラファト第三代議長が長らくリーダーを務めます。国連はパレスティナ人の民族自決と、パレスティナ人国家建設を承認します。
□レバノン
1958年、親英米のキリスト教マロン派のシャムウン政権に対して、アラブ、ムスリムの民衆デモが起こります。政権はイラク革命が波及して、アラブ民族主義が台頭するのは避けたい、エジプト・シリアの連合国家成立も圧力だから、米軍の派遣を要請しました。そして米軍がデモを抑え込むと、反米感情は悪化しました。そして、米軍は撤退しました。
□イラク王国
第一次中東戦争(1948年-1949年)の敗北で、王政府への不満が高まっています。1952年ナセルの起こしたエジプト革命でエジプト王国が崩壊したことも、波及してきます。
1958.2/14親英のヨルダン・ハシミテ王国とイラク王国がくっついて、アラブ連邦を形成します。王族は親戚です。
1958.7/14イラク革命/七月十四日革命/1958年のクーデタで、親英のハーシム家ファイサル二世が打倒されます。
8月にヨルダンと形成したアラブ連邦は瓦解して、イラク共和国へ変わりました。
反米で、ソ寄りの国家です。初代はカセム首相です。
1959年、対ソ連だったMETOを脱退します。バグダード条約機構/METOは、CENTO/中央条約機構へ改組して、バグダードからアンカラに本部は移りました。
1963年2月にバアス党のクーデタで、アブ・バクルが首相になります。
1968年には再びクーデタでアブ・バクルは大統領になります。
□イラン
1960年、パフレヴィー朝のムハンマド・レザー・パフレヴィー二世による白色革命が起こります。白は世界史では国王、権力者の色という共通認識があります。白色テロと言ったら政権側のテロということです。今回の白色革命は、近代化政策のことです。農地改革で自作農を増やしたり、民営化で国営工場を民間に払い下げたり、女性参政権を認めたりしたので、近代工業が発展していきます。
基層では、こういう独裁的な西欧的近代化に対しては、イランの、そしてイスラームの伝統的な価値観にそぐわないと不満に思う人もいます。反政府活動をしていたホメイニは追放されて、1964年-1979年にはトルコ、イラク、フランスなどで亡命生活をして、反政府運動を呼びかけています。
□□南アジア
□ネパール
1962年、ネパール憲法2019年(西暦1962年より57年早いんです)を発布します。政党を禁止した独自の間接民主制/パンチャーヤト体制を成立させます。
1966年、マネンドラ国王が非常事態を宣言して、全権を掌握します。国王クーデタと言われていて、内閣、国会を解散して、憲法を停止します。
□ブータン
第四代ジクメ・センゲ・ワンチュク王が、国民総幸福の指標を国の目標にします。
□インド
1956年、インド憲法の父と言われたアンベードカルと指定カースト集団(かつての不可触民)30万人が仏教に改宗します。差別を残すヒンドゥーのままで死にたくないということだったんです。この年の12/6 アンベードカルは死去します。
この頃、指定カーストと言われるかつての不可触民の人は14.67%いるようで、高等教育への入学枠、公的雇用、議席で15%の枠を持っています。サンタル人、ムンダ人など指定部族は6.86%いて、高等教育への入学枠、公的雇用、議席で7.5%の枠を持っています。積極的に差別の歴史を解消するために優先するアファーマティブ・アクションですね。
1959年中国に圧迫されて、チベットのダライ=ラマが亡命してくると、それをきっかけにして中国軍が侵攻してきます。1954年の「平和五原則」の不侵略に違反しているんですけど、こうして1959年-1962年中印戦争が起こります。実態はカシュミールやその他の国境線をめぐる戦争で、インドが敗北、中国が領土を拡大します。これを受けてインドは核開発に進むんですけど、それを受けてインドに敵対するパキスタンが核開発に進むという連鎖を生んでしまいます。
1961年、ポルトガル領ゴアを武力で占領して、アンダマン諸島、ディウと共に併合します。
1961年には大飢饉が起こります。前回、ノーマン・ボーローグはロックフェラー財団の支援で高収量品種の開発に成功して、ノーベル賞を受けたこと、それがアジアの食糧難の回避につながったことをメキシコのところで書いたと思いますけど、この時期にインドは高収量品種の導入をします。米、小麦の生産量を上げる緑の革命で、生産コストは削減されて、所得も上昇するなど成功した面もあります。
1964年ネルーが死去します。このころ、 ソ連との間で軍事協定に調印しています。英語に代わって、ヒンディー語が連邦公用語になると、非ヒンディー語話者が抵抗したので、英語も続けるという妥協が生まれました。
1965年、カシュミール問題で第二次インドパキスタン戦争が起こります。1966年に停戦します。
1966年-1977年はインディラ・ガンディーが首相を務めます。ネルーの娘で、ラジブ・ガンディーの母です。社会主義政策を強化して、銀行を国有化したり、ベトナム戦争中の米国からは、「ヴェトナムを支持するなら米国は、インドへの援助を停止する」と言われたりしています。
□パキスタン
1958年、国防大臣アユブ=ハーンが軍事クーデターを起こして、軍政へ変わります。
1962年に中印国境紛争でインドが敗北すると、パキスタンは対インドのために、中国と国境協定を結びます。
第2次インド=パキスタン戦争-1965年パキスタン軍がジャンム=カシミール付近に侵攻すると、インド軍はパキスタンの首都ラホールを攻撃してきました。ベトナム戦争が本格化することに備えていた米国は、介入する余裕がないので、国際連合に調停させて、停戦へ導きました。
アユブ=ハーン軍政下、東パキスタンでアブジル=ラフマン率いるアワミ連盟が反政府運動をしているんですけど、弾圧されています。
軍政にはよくあることとして、腐敗とコネ政治に対する不満があって、学生が退陣運動を始めました。こうした世論を背景にして、1969年にヤヒヤー・ハーン陸軍参謀長がクーデタを起こします。アユブ=ハーンは失脚するんですけど、軍政は続きます。
インド・パキスタン間ではインダス川の水利条約を締結していて、独立したことで分断されていたた灌漑設備の再建もできるようになります。インドでもパキスタンでも緑の革命の下地になっています。
カラチへの政治経済の一極集中を危惧した政府は、イスラマバードの建設を開始して、1966年に遷都します。
第二次五か年改革もしていて、開発独裁ですけど、民間資本主導で、外資も入れています。
パキスタンもこの時期に、高収量品種の導入によって、米の生産量を上げる緑の革命で所得上昇を狙います。成功した面もあるようです。近代化もしていて、ムスリム家族法を成立させて、婚姻を登録制にしたり、一夫多妻を制限したり、夫からの一方的な離婚を制限したりします。
1970年、パキスタンで初の総選挙がありました。東パキスタンではアワミ連盟が自治を掲げて第一党になります。西パキスタンでは、シンド州、パンジャーブ州で強いパキスタン人民党(ブット父)が勝利します。互いに東西に候補を立てないで、地元に絞っていました。けれど、ハーン大統領は第一党になったアワミ連盟に政権を委託しません。
□セイロン
英連邦内の独立国です。
シンハラ人が多数派で、1949年、タミル人の選挙権を剥奪しています。
1956年、タミル人を公務員から追放する政策を採っていたソロモン・バンダラナイケ首相が仏教徒に殺されます。
1960年、妻のシリマヴォ・バンダラナイケが世界初の女性首相になります。親ソ外交を基本にしています。このころ英語に代わって、シンハラ語が公用語となると、タミル人は抗議して、タミル自治を要求します。
□□東南アジア
NIESは newly industrializing economiesの略で、1960年代から1980年代にかけての高度成長をしたシンガポール、韓国、香港、台湾などのことです。
労働集約をして衣類、雑貨、繊維などの非耐久財(頻繁に買い替えるもの)を輸出して、1970年代後半からは資本集約をして家電製品、鉄鋼、船舶、乗用車を輸出するようになります。1988年のサミットで、このNIESという呼称がつくんですけど、さかのぼって、1960年代からの時期を意味します。1980年代末には、成長は鈍化しています。1997年のアジア通貨危機でマイナスになります。
1960年、ASA/東南アジア連合を成立させます。タイ、フィリピン、マラヤ連邦(1957年独立)がメンバーで、1961年に正式に発足したようです。
1963.7マレーシア・フィリピン・インドネシアがイニシャルから「マフィリンド」(MA FIL INDO)というグループを意識するんですけど、1963.9月のマレーシア誕生前に、ボルネオなどの領土問題の話し合いを計画したもので、たいした活動はなく自然消滅をします。
1960年代に、自由主義の国、タイ、フィリピン、マレーシア、シンガポール、インドネシア は開発独裁になります。
インドネシアは高収量品種の導入によって、米の生産量を上げる緑の革命で所得上昇を狙います。成功した面もあります。
農業は日当たり、平坦、地味など適地が限られています。
工業化は投資のお金が必要で、資金は税金/政府資金や民間投資を活用します。
後発経済成長国にはお金が不足しています。国内で資金があるのは華人系企業です。もともと商売のために移住してきたから資金もノウハウもあるし、二等市民扱いをされているので、政治・社会にはあまり関与できませんでした。華人系の議員が少ないんです。だから、せめて経済で活躍したいという背景があります。
例えば、インドネシアでは、1990年代末時点で言うと、人口の3%を占める華人が、大企業トップ20社のうち18社を所有しています。サリムグループが有名だそうです。タイのバンコクグループ、マレーシアのクエッラー一族の所有するホンリョングループ(建設業・バイク)、フィリピン(華僑でなくて、スペイン系が多い)のルシオ・タンのグループ(銀行業・タバコ)、アヤラ(金融業・不動産業)、ソリアーノ(ビール・鉱山)なども有名だそうです。そうして巨大財閥化して、政府と癒着することも多いようです。
華人の少ない国では、
初期は世界銀行・商業銀行からの借り入れ、 ODAを資金源にしています。ODA/政府開発援助では、1970年代の日本が大出資国で、橋や道路、ダムや港湾施設、電力設備というような経済成長の基盤/インフラストラクチャーに投資をしました。
中期以降は外国からの民間投資に移行していきます。投資資金も製造技術も、完成品の販売市場もすべて外国にあるのが、この時期の東南アジアです。1980年代に入っても、日本からは政府のODA、民間が投資をしています。現地の政権は、野党を弾圧して、労組の統制などもしています。政権交代はしないし、労働組合の圧力で賃金を上げることもしない、つまり政治、社会の安定を宣伝することで、投資環境として適していることを訴えるんです。投資の呼び込みに必要なので、こういう開発独裁になっています。法人税を下げる、部品などの輸入関税を下げるなどの措置もしています。
最初のころは、輸入代替でスタートしていきます。つまり、国内で生産して、国内で売るんです。お金や技術が比較的要らない日用消費品、繊維(服)などの軽工業、一次産品の加工業(魚の缶詰など)です。こうして、旧宗主国からの経済的自立をしていきます。英国からの米国、スペインからのラテンアメリカの経済的独立もそうでした。
お金はないので人しかいないということで、労働集約型でスタートします。つまり、組み立てなどの人出がいる作業です。そうして組み立てた部品は外国に買われていく垂直型経済ですが、次第に部品の開発へ移行します。つまり他国と部品を融通しあう水平型経済へ入っていきます。この頃になると、資本集約型の電子部品、重工業、輸出志向に変わっています。特に人口の少ない=国内市場が小さい台湾、香港、韓国などは1960年代末という早くから輸出志向に代わっていて、1970年代には成功しています。同じ条件のシンガポール(1965年独立、人口570万人)も後を追うので、日台香韓をマネしようという「ルックイースト」政策が出てくるんです。
1965年にはヴェトナム戦争が始まります。
1967.8/8自由主義の開発独裁をしていた五か国が、バンコク宣言をすることで、ASEAN/東南アジア諸国連合を成立させます。本部はジャカルタにあります。東南アジアの人口の73%、面積の68%を占めるグループです。タイが主導しています。ヴェトナム戦争中ということで、アメリカが促して発足させました。経済協力が表向きの目的で、実際は東南アジアの「ヴェトナム全土が共産主義になったら、他の東南アジアの国々も共産主義になってしまう」という赤化ドミノ理論(米国の思い込み)に基づいています。だからヴェトナム戦争では米国の後方支援をします。1965年~1969年の北爆/北部爆撃では、80%の爆撃機がタイのコーラート米軍基地、タークリー米軍基地から出撃しています。在日米軍も派兵されています。平和憲法を持っている日本も、米国の戦争の後方支援をしているんです。
大戦後に独立はしたものの、とくにインドネシア、マレーシアといった島を多く抱える地域では、植民地化される前に自力で、国家とされた範囲を政治的に統一したことはありません。だから、独立したら、以前のようにバラバラになることを望む人もいるんです。別々の国を作って連邦制がいいという人もいるでしょう。
けど、実際は白人が先住民を抑圧して米国を作ったように、倭人がアイヌを抑圧して日本を作ったように、多数派の民族による価値観を押し付けて「国民」を創出するという西洋的な近代国民国家の原理に従って、国民・想像の共同体=国家が作られていきました。その点では、自由主義、共産主義国の違いは、ないんです。
本来は国民統合、民主主義の定着、福利厚生などの課題があったんですけど、独立直後からの民族や宗教や思想をめぐる紛争が終わらないので、それは後回しにしました。
各国は開発独裁と呼ばれる、高度経済成長をすることで、「お金の心配をさせないから、政治には文句を言うな」という体制に移っていきました。これは旧宗主国からの経済的自立も目的でした。結果として、少数民族の言論が封殺されました。新聞やラジオやテレビ局は、国営だったり政府の検閲などで管理されます。野党・野党の支持者を弾圧・逮捕・投獄・野党の解散命令を出したり、選挙ではお金を配って与党に投票させています。本来は一人一票なんですけど、与党支持者は複数回投票できるようにする国もあります。
国営企業が多いので、文句を言うと解雇されます。デモにも参加せず、働くしかありません。そうするうちに新しいビルがたくさん建って、給与は上がって、服や車や家などは買えるようになっていきます。自民党がずっと政権を担当する日本、韓国、台湾も同じでした。選挙はある民主主義なんですけど、実態は国のために文句を言うな、金の心配はさせないという準全体主義とも言える体制で、これを権威主義と言います。これが行き着く先は、お金が手に入ると今度は自由が欲しくなるのが人間なので、民主化・自由化運動が起こって、複数政党制になって、政権交代が起こって、国営企業は民営化されます。
国際情勢の面から見ると、国連が1960年からの10年間を「開発の10年」と名付けて、経済開発を重視しています。アメリカは共産主義を抑え込むためには、共産主義になびきやすい貧困層をなくすことが必要だと考えて、東南アジアの独裁国家にも経済支援を行いました。日本などの先進国は経済成長をすることで賃金の上昇が起こって、労働者は豊かになっていったんですけど、企業は出費を抑えるために東南アジアに組み立て工場を移転させて、人口が増えているこの地域で安い労働力を雇うようになります。日本などにそうして作った製品を輸入するために、東南アジアに港湾設備・鉄道などを作ります。こうして、この地域の失業率が低下して、給与も少しずつ上がっていきます。受け入れるほうの国の政権は政治の安定を求めて、野党弾圧・労組管理などを実施したんです。
この時代に開発独裁にならない国はどうしていたかを書きます。
社会主義のヴェトナムはフランスからの独立戦争をしました。南部との内戦、米国とは祖国統一戦争をしていました。
社会主義のラオスは1953年から内戦が20年続きます。
ビルマは共産党や分離勢力との内戦をして、外資を締め出しています。
こんな状態で、お金を経済成長ではなくて、戦争に使っていました。
開発独裁か、内戦かの二者択一って、避ける方法はないのかな。冷戦構造で開発独裁を避ける方法を、歴史総合では考えてください。
□ビルマ
ビルマ連邦共和国では、1962年にクーデタでウー・ヌー政権が崩壊します。
その1962年軍中心にビルマ社会主義計画党を結党したネ・ウィンのもとで社会主義化して、独裁体制に入ります。次の時代ですけど、ネ・ウィンは1974年に大統領になります。
ネ・ウィンは少数民族の分離独立運動の抑え込みと、経済開発を掲げるんですけど、どちらもうまくいきません。
バングラデシュに接するラカイン地方では、ムジャヒディン/聖戦士を名乗るムスリムの武装勢力を軍が抑え込んでいます。この頃、ラカイン北西部に住むムスリムはロヒンギャ族を名乗り始めたようです。
□タイ
1945年~1992年の間で、政権交代に至ったクーデタは10回もあります。多数の死者が出ることは稀だったようです。そして、権力を握った軍人が選挙で追認されるというパターンです。
1957年、独裁のピブン政権が倒されると、ピブンは米国、そして日本へ亡命します。ピブンがお金を使った選挙をしているので、その不満が共産主義につながると心配したサリット将軍らによるクーデタが起こったんです。
1958年、サリットが首相になって、開発独裁をしていきます。仏教と、国王を基盤とした国民統合を進めます。南部のマレーシアとの国境近くにはムスリムがいるんですけど、無視します。これも、多数派の民族による価値観を押し付けての国民創出という近代国民国家という原理のマイナス面です。
プレア・ビヒア寺院(アンコール朝時代の創建)周辺で、タイとカンボジアは国境争いをしていて、1958年に国交断絶をします。1959年、カンボジアが提訴すると、1962.6/15にハーグの国際司法裁判所は寺院に主権があることを認めます。周辺の土地に関しては2013年にカンボジア領と認めました。
1963年、タノム政権の開発独裁。1973年まで続きます。
スローガンは「国の掃除」。国家主導の開発なので、専門知識を持った官僚/テクノクラートが必要ということで、欧米の留学から戻った人を積極的に採用します。
□ヴェトナム
米国が主導する南部のヴェトナム国は1955年にヴェトナム共和国に改称しています。大統領ゴ・ディン・ジェム/ゴディンデェム/ゴジンジェム/ゴ=ジン=ジェムで、この人はカトリックなので、カトリック国家にしようと考えて、仏教や高台/カオダイ教の弾圧をします。一族で要職を占めます。
南ヴェトナムは(1952年に発効した)サンフランシスコ講和条約に基づいて、1959年にようやく連合国と見なされて、日本から賠償金3900万ドルを払われます。
1960年、南ヴェトナム内に南ヴェトナム解放民族戦線/ヴェトコンが成立します。これは米国や、米国の傀儡政府/ヴェトナム共和国からの解放、独立を目指す民兵組織です。
1963.11/2南で政変/クーデタが起こります。ゴ・ディン・ジェム/ゴ・ディン・デェム/ゴ・ジン・ジェム/ゴ=ジン=ジェムが殺されたんです。米国が糸を引いた説があります。内政干渉をするアメリカに対して、ゴ・ディン・ジェム/ゴ・ディン・デェム/ゴ・ジン・ジェム/ゴ=ジン=ジェムは突っぱねていたんです。CIAの支援を受けたズオン・バン・ミン将軍(南ベトナム軍の軍事顧問)の率いる反ジエム派と、アメリカ軍事顧問団に近い親米勢力が11/2クーデターを起こしました。ゴ・ディン・デェム政権は消滅して、その後、ゴディンデェムは殺されました。そして、ズオン・バン・ミン将軍を首班とした軍事政権が成立します。つまり、軍政化です。
1964.8トンキン湾事件-北部のトンキン湾に停泊中の米国船が砲撃されたか、撃沈されたかというでっち上げの自作自演を口実にして、米軍が本格的に参戦します。
1965年の北爆から、ヴェトナム戦争が始まったというのが一般的です。米軍が撤退して、1976年に北ヴェトナムが南ヴェトナムを併合して統一国家を作るまでを言うことが多いですね。
ヴェトナム戦争1965年-1975年/1976年
北ヴェトナム側-ベトコン(南部に拠点)、朝鮮、クメール・ルージュ(カンボジアの勢力)。 直接の派兵はしないけど、支援国として中華人民共和国などがいます。120万人が死去したようです。
南ヴェトナム-米国、韓国、オーストラリア/豪、ニュージーランド、フィリピン、タイ。 支援国として、中華民国がいます。20万人が戦死して、巻き込まれて殺された民間人は200万人と言われています。
沢田教一がヴェトナム戦争の写真を撮って活躍するんですけど、1970年カンボジアで狙撃されて亡くなります。

カンボジア王国は両方を支援します。
ヴェトナム戦争の原因は、最初にフランスが独立を認めないという帝国主義で、インドシナ戦争が起こったことにあります。ヴェトナム北部軍がフランス軍の拠点ディエンビエンフーを落とすことで、停戦しました。そのあとは、共産主義の波及を恐れる冷戦の代理戦争として、米国、南ヴェトナムと、北ヴェトナム(ソ連側)のヴェトナム戦争になります。
影響としては、
①ボートピープルと言われる難民が特に南部でたくさん出たことです。日本が積極的にまとまった難民を受け入れたのは、近代になってからは初めてです。
②米国の財政難。マーシャル・プランの10倍、1400億ドルの戦費を使ったそうです。
③米国の権威低下
④反戦平和の世界的な運動。帝国主義的な国にいる若い世代はヒッピー、バックパッカーになって、日本ではべ平連(米軍からの脱走支援)が作られたり、ジョン・レノン♪Imagineが流行したり、終戦後にSEATO解体などにつながりました。
ヴェトナム戦争に、米国は12.5万人を派兵しました。米国の北爆(1965年-1968年)で始まったと考える人が多いようです。北爆というのは「北」ヴェトナムを空「爆」することです。北ヴェトナムから南にいるヴェトコンを支援するためのホーチミンルートをつぶすことも目的に入っていました。
第二次大戦で、世界中で使用された爆弾の量に匹敵する量を米国がヴェトナムに投下しました。第二次大戦以来、軍事力は空軍で決まると思われていたんですけど、ヴェトナムの水田に爆弾が刺さっても効果は薄いし、ガラスのない木造家屋は破壊されても周辺に大きな影響を与えないので、すぐに建て直せるんです。それに友軍の南ヴェトナム人と、敵のヴェトナム人の区別が米国人にはつきません。
それで、爆発よりも延焼を目的とするナパーム弾でゲリラの潜む森を焼いたり、枯葉剤を撒いて森を枯らしました。枯葉剤は人体にも影響が残るので、胴体は一人分で頭は二人分あるというベトちゃん、ドクちゃんで知られるような奇形の子供も生まれました。
地元民に対するスパイ疑惑もあって、1968年、米軍はソンミ村で村人全員を殺しました。これが写真に撮られて、米国でセンセーションを巻き起こします。このソンミ村事件では、1968年3月、ゲリラを制圧するという名目でベトナム中部のソンミ(21世紀初頭のティンケ)村で子どもを含む無抵抗の住民504人が米軍に殺害されました。
戦費増大で税金は上がるし、実は戦果が上がっていないし、この頃には54万人を派兵していたんですけど、戦死者は増えています。
成果報告の水増しもありました。戦時中どこでも起こり得ることで、大本営発表が典型ですね。米軍による北部ヴェトナム市民を含む無差別爆撃も、世界に報道されました。そして、米国の正義への疑いが強くなって、反戦運動の盛り上がりにつながりました。
1967.3米国のジョンソン大統領は北爆停止の声明を出します。
1967.5旧宗主国フランスの都であるパリで、米国とヴェトナム民主共和国(北部)が和平会談を開催します。週1回の開催で、1969年1月から南ベトナム解放民族戦線(NLF/ヴェトコン)、ヴェトナム共和国(南部)も参加します。
1968年1/30夜から北ベトナム人民軍(NVA)、南ベトナム解放民族戦線(NLF/ヴェトコン)が南ベトナムの各都市、米軍の各基地に対して一斉に攻勢に出ました。これを旧正月/節/テトにかけて、テト攻勢と言います。 テトの期間は休戦するという慣例を破っての大攻勢でした。占領した都市で、南ベトナム解放民族戦線は即席の裁判を行って、南ヴェトナム政府の関係者をはじめとして、修道士なども殺しました。こうしたことで、北部ヴェトナム人は怖いという感情が植え付けられて、戦後に多くの南ヴェトナムの人がこの国を去ることになるんです。 南ベトナム解放民族戦線はいっとき、サイゴンのアメリカ大使館も占拠しました。
軍事的には失敗したテト攻勢は、北部のヴェトナム人の士気を高めて、南のヴェトナム人に不安を植え付けました。
1969年9月、ホー・チ・ミン主席が、79歳で死去します。
1970年、ニクソン大統領の米国は、ヴェトナム和平会談を有利に進めるためにカンボジアに侵攻します。カンボジアは親米派のロンノルがクーデタで政権を握っていて、それを支援すること、北ヴェトナムからカンボジア経由のヴェトコン支援ルートをつぶすことが目的です。ロンノルはこのルートをつぶす力を持っていないんです。
次の時代ですけど、1971年、ニクソン大統領の米国はヴェトナム和平会談を有利に進めるためにラオスにも侵攻します。ラオス愛国戦線/パテト ラオ/パテット・ラオはヴェトコンを支援していたからです。
□ラオス王国
1954年のインドシナ戦争後、内戦はありました。けど、1965年のヴェトナム戦争開始前の比較的平穏な時期です。
1957年には反政府軍もラオス王国政府との統一政府樹立を宣言します。反政府の戦闘部隊パテート・ラーオは王国軍に編入されました。米国が支援する保守の国王に対して、中ソが支援する共産主義のラオス愛国戦線、その軍パテート・ラオ/パテット・ラオ(21世紀初頭のラオス人民党)は反国王運動を続けていきます。左派は、国王を認めない共和制が当然だと考えるからです。
1959年には、内戦が本格化します。
親米右派のサナニコン政権は、左派のラオス愛国戦線の政治家を追放して、弾圧しました。これを受けて、王国軍に帰属していたパテート・ラーオの兵士が集団脱走します。パテート・ラーオ軍と、ポウミ・ノサヴァンの率いる王国軍の間で内戦は激化しました。
1960年には中立派がクーデターを起こして、3派の争う内戦となります。
1962年、ラオス中立協定-ラオスが自発的に中立国家となる宣言で、ラオスの独立を正式に承認した1954年のジュネーブ国際会議の参加国が、これを承認します。社会主義陣営に近づいても、軍事的に敵に回ることを防止した西側の政策とも言われています。北欧のフィンランド化の東南アジア版とも言えますね。
ただ、反政府のラオス愛国戦線/パテート・ラオ/パテット・ラオはヴェトコンを支援しています。
□カンボジア王国
プレア・ビヒア寺院(アンコール朝時代の創建)周辺でタイとカンボジアは国境争いをします。1958年に国交断絶をして、1959年にカンボジアが提訴すると、 1962.6/15にハーグの国際司法裁判所は寺院の主権を認めます。周辺の土地は2013年にカンボジア領と認められました。
1965年、ヴェトナム戦争が始まると、南ヴェトナム・米国に味方をして王制継続か、北ヴェトナム・ソ連に味方をして共産主義になるかという問題が出てきました。
どちらの陣営につくか、つまり将来、共産主義を取るのか王制継続なのかを巡って、1967年-1975年、内戦になります。シハヌーク国王は王制継続、親中華人民共和国、反米政策を採っています。
弾圧された左派のサロット・サル(綽名のポル・ポトの方が有名です)が率いるグループは、ジャングルから繰り出すゲリラ活動を開始します。
米国としては北ヴェトナム・ホーチミンを支援するルート/ホーチミンルートを容認しているシハヌークを排除したいんです。それで、1970年に米軍が侵攻してきます。
1970.3シハヌークの外遊中にクーデタを起こした親米のロン・ノル将軍がクメール共和国を樹立して、カンボジア王国は滅亡します。
中華人民共和国で亡命政府を作って、「打倒ロンノル」と「反米」を掲げるシハヌークに対して、中華人民共和国は「スターリン批判」以来ソ連と対立しているし、1969年には国境紛争もしているので、米ソどちらにも与しない仲間が欲しいんです。
厳密に言うと、父王の死去後にシハヌークは、王位は空位のままで「国家元首」に就任しました。それで、皇太子のままということで、シハヌーク殿下と言われることもあります。フランス語でシアヌーク、英語でシハヌーク、現地ではシーハヌです。
□マレーシア
1946年、イギリスの下でペナン、マラッカ、他の9州によってマラヤ連合が成立しました。海峡植民地をペナン、マラッカと共に構成していたシンガポールは入りませんでした。マラヤ連合は、二年後にはマラヤ連邦になっっています。
1957年、マラヤ連邦は、英国から英連邦内で独立しました。王族出身のマレー人アブドゥル・ラーマンが初代首相に就きます。三政党の連合政府が続きます。華人の経済力を警戒して、中国人の移民を禁止しています。

1963年、シンガポールが英国から独立します。
1963年、マレーシア連邦が成立します。マラヤ連邦、サバ/北ボルネオ(という名前ですけど、実際は東部)、サラワク(ボルネオ北部の中部)、シンガポールも独立するのと同時に、マレーシア連邦と合併します。サバ、サラワクを合わせてイギリス領北ボルネオとも言いました。
ブルネイは参加を予定していたんですけど、ブルネイの石油収入を、中央政府に搾り取られるだけと考えて取りやめました。
ボルネオはマレーシア、ブルネイ側の呼称です。インドネシアではカリマンタンです。
マレーシア連邦が成立したことで、インドネシアはカリマンタン島の北半分がマレーシアになると、英国の影響下にあるということで、インドネシアは英国の影響を受けることになると非難して、マレーシアと国交を断絶しました。
スカルノはコンフロンタン(対決政策)という名前で、カリマンタン、マレー半島、シンガポールでゲリラ活動をします。爆弾で民間人を殺したりしました。フィリピン(マカパガル大統領)政府も、サバは元はスールー王国の領土だったから、フィリピンの領域に含むべきであると非難して、マレーシアと国交を断絶しました。
1965年、華人の利益を主張するシンガポールがマレーシアから独立します。シンガポールという地域だけの独立国家化は初めてです。マレーシアに含まれていては、華人は少数派ですからね。
植民地時代にマレー人は自給自足/販売しないで稲作をしていて、華人、インド系の人はゴム農園、スズ鉱山で賃金労働者でした。独立後も、それを引き継いでいて、マレーシアでは所得格差があるんです。1970年時点で、マレー人の月額所得は172リンギ、インド系の人304リンギ、華人392リンギです。けど、少数派だと政治的な発言権は弱いんです。
マレーシアの憲法では、マラヤ連邦の理念を引き継いで、スルタンの権威復活、7割いるマレー人の政治的優位を容認、マライ自治連邦の国民の定義を「ムラユ語を日常語として、イスラームを信仰して、ムラユの慣習に従う人」としていました。これも、多数派の民族による価値観を押し付けての国民創出です。近代国民国家という原理のマイナス面です。だから、シンガポールが離脱するのも納得できます。ムラユはマレーのことです。
1965年、インドネシアではスカルノが失脚して、スハルトへ交代しました。フィリピンでもマルコス大統領へ交代したことをきっかけにして、対マレーシアで融和へ向かいます。1966.6フィリピン、8月インドネシアと国交を回復しました。
1967年、対共産主義/北ヴェトナムで、ASEANを結成します。国交を回復したばかりのマレーシア、インドネシア、フィリピンが参加しています。
1969.5/10下院選挙で、統一マレー人国民組織と連携して与党でいた華人のマレーシア華人協会は27から14に減りました。逆に華人の利益を訴えた野党の民主行動党が躍進しました。議席が1から13に増えたんです。マレー人の中には、経済だけでなく、政治でも華人に支配される不安が生まれたようです。
1969年、統一マレー人国民組織の支持者のマレー人と、民主行動党の支持者の華人/中国系の民族衝突、五・一三事件(5/13事件とも表記します)がありました。200人以上が亡くなりました。警察官はマレー人で、被害者の多くは華人です。この事件以降は、華人が勢力を低下させて、マレー人が優位になっていきます。マジョリティのマレー人を中心に据えた国民統合政策に移行していくんです。
マレー文化を受け入れた華僑/華人はプラカナン(女性はニョニャ、男性はババ)と言われます。受け入れたと言っても、融合ですかね。
□シンガポール
1958年、下院選挙(定数51議席)で人民行動党が43議席を得て勝利します。リー・クアン・ユー(35歳)が自治政府首相に就任します。
1961年、共産主義のグループが分裂して人民行動を抜けて、社会主義戦線を結成します。
1963年、英国からの独立と同時にマレーシアに編入されて、一州になりました。
1963.9州議会選挙。人民行動党が51議席中37議席を得ました。社会主義戦線は13議席。人民行動党政府は、この後も長く政権を担当していきます。
マレーシア中央政府はマレー人優位を主張して、華人の利益を主張するシンガポール州政府と対立します。マレーシアのラーマン首相はシンガポール州を分離して追放すること決定しました。
1965.8シンガポールがマレーシアから独立します。
リー・クアン・ユーが首相です。李/リーという姓から華人とわかりますね。
開発独裁(1965年-1990年)で、スローガンは「生存のための政治」です。国家主導の開発では専門知識を持った官僚/テクノクラートが必要なので、欧米への留学から戻った人を積極的に採用します。1965年以降は経済成長率が10%を超えます。
1968年、下院選挙。58全議席を独占したのが人民行動党です。
□インドネシア共和国
スカルノ大統領の独裁。妻はデヴィ・スカルノ、デヴィ婦人です。
スローガンは「ナサコム/Nas a kom」です。
nationのインドネシア語のスペルなのでnatではなくてnas「民族主義/反植民地主義」
religeon/agamn=「宗教=国教のイスラーム」
commnism/kommunisne「共産主義」
この三つに立脚した挙国一致体制を目指します。
インドネシアはサンフランシスコ講和条約に基づいて、連合国と見なされたので、日本から2億2300万ドルの賠償金が払われます。
インドネシアにいたオランダ人女性には日本軍の慰安婦にされた人もいて、申し立てをした全員と日本政府が和解をしています。
1960年、オランダが支配するニューギニア西部/イリアン・ジャヤを占領します。
1963年、オランダの植民地としてはインドネシアにどこも残っていません。イリアン・ジャヤ州としてインドネシアが併合します。
1963年のマレーシア成立時にサバ/北カリマンタン(実際は東部)、サラワク(カリマンタン北部の中部)を合併したことで、カリマンタン島の半分がマレーシアになります。英国の影響下にあるから、インドネシアは英国の影響を受けることになると非難して、マレーシアと国交を断絶します。スカルノはコンフロンタン(対決政策)という名前で、カリマンタン、マレー半島、シンガポールでゲリラ活動をして、爆弾で民間人を殺しました。
1963年、スカルノは終身大統領に就任します。
1964年、スカルノはゴルカルという職能団体の連合を作ります。官僚、退役軍人、婦人会などが参加する職能団体です。
1965年には国連を脱退します。マレーシアが国連安保理の非常任理事国に当選したことへの不快感が原因で、これ以降、反米、親ソ、反国連の外交政策になっていきます。
1965年インドネシア・クーデタ/九・三〇(きゅうさんまる)クーデタ/九・三〇事件/9月30日事件とも言われます。スカルノ政権の支持者は、軍とインドネシア共産党です。スカルノ親衛隊のウントゥン大佐(共産主義にシンパシーを感じる左派。共産党員だったかもしれないと言われています)率いる部隊が、反スカルノ軍部(右派)を米国の傀儡だと決めつけて攻撃して、6人の将軍を殺しました。
これに対して、陸軍右派のスハルト少将などが親衛隊を抑え込んで、権力を掌握します。こうして親衛隊は衰退、軍と対立したので事実上のスカルノ失脚です。
スハルトは1966年に共産党(党員300万人)を非合法化して、45~50万人の共産党支持者を殺しました。
これまではインドネシア領だと主張していたサバも含めてマレーシアを承認します。マレーシアが同じく反共産主義の立場を採っていることもあ背景にあるかもしれません。
1965年、スハルトは東南アジア諸国との協調路線を訴えて、融和へ向かいます。
スハルト大統領の開発独裁(1965年-1998年)。スローガンは「新秩序」です。
国家主導の開発には専門知識を持った官僚が必要なので、カリフォルニア大学バークレー校の関係者を採用しました。批判者はこの人たちを”バークレーマフィア”と呼びました。
経済開発優先で国内の協調を生む、それが正統性にもつながるという考えが開発独裁なので、戦費は削りたいんです。それで1966.8月マレーシアと国交を回復します。1966年、国連にも復帰します。
けど、九・三〇事件の原因はインドネシア共産党で、その背後には中華人民共和国がいたと非難して、中華人民共和国と国交を断絶しました。歴史的に中国への警戒感、華人の経済力への警戒感があるんです。これを受けてほかの東南アジアの国々でも、中華人民共和国の支援を受けた共産党が衰退します。それと比較して政府の基盤が強化されていきます。
九・三〇事件以降、華人は抑圧されていきます。中国語の使用禁止、イスラーム風の氏名への改称を強制されました。日本が朝鮮半島で行った創氏改名に似ています。少数民族を排除して国民統合をしようという動きの典型例です。
1990年代後半のハビビ大統領時代になると、中国語などの容認へ転換していきます。華人でない人はプリブミと呼ばれます。
1967年にはASEAN結成。
スハルト(臨時)大統領の軍事政権が続きます。(1970年スカルノ死去)
軍政時代は、軍は二重機能を持っていて、国防と治安、行政と政治管理をします。タイの軍政にも似ています。
地方の反政府勢力は1965年頃が全盛期で1万人以上の規模を持っていました。
インドネシアにイスラーム国家を樹立したいダルル・イスラーム運動は非合法化されます。
開発独裁でアチェの石油・天然ガスの利益を吸い上げるので、アチェでは分離独立運動が再燃しました。
1968年3月、スハルトが正式に大統領になりました。
□フィリピン
サンフランシスコ講和条約に基づいて、連合国と見なされて、日本から賠償金5億5000万ドルを払われます。
1963年、マレーシアが成立する時に、マレーシアはサバ/北ボルネオ(実際は東部)を合併しました。これを受けて、フィリピン(マカパガル大統領)政府は、「サバは元は、フィリピン南部のミンダナオ島を支配していたスールー王国の領土だったではないか。フィリピンの領域に含むべきなのに、ゆるさーん」ということで、非難して国交を断絶しました。
1965年、フィリピンがマルコス大統領へ交代します。
このマルコス大統領は、弁護士出身で、「今までの富裕層政権と違う。経済成長と寡頭政打破をしてくれるはずだ」と期待されていました。それで開発独裁(1965年-1986年)に入ります。スローガンは「新社会運動」。
国家主導の開発で専門知識を持った官僚/テクノクラートが必要だから、ハーバード大学の関係者を採用しました。批判者はこの人たちを”ハーバードマフィア”と呼びました。
経済開発優先で国内の協調を生む、それが正統性にもつながるから、戦費は削りたいということで、外交は融和へ向かいます。
1966.6マレーシアと国交を回復します。
1967年、ASEAN結成
フィリピンも1960年代から、高収量品種の導入により米の生産量を上げる緑の革命で所得上昇を狙いました。成功した面もあります。
関心のある人は、東南アジア各国の米の生産量を比較することもできます。面白そうです。
□□中国
1956年、中ソ論争-フルシチョフのスターリン批判を受けて、毛沢東は独裁モデルへの批判が波及することを恐れます。中ソ論争の公然化は1960年頃からです。
スターリン型の共産主義体制/毛沢東の個人崇拝独裁の中国は
「今更修正とはけしからん。ソ連は修正主義だ。もはや社会主義の旗手ではない。中国では、これまでに資本主義国との戦争は不可避ということで、脅威をあおってきた。先々への準備に共産党が必要だった。これまでにも共産党が国を守ってきたということを宣伝して、それによって求心力を保ってきた。今更?今更、資本主義国と平和共存ができるか?けしからん」ということで、ソ連から離反して、なんと、親米へ傾きます。
1956年以降は、スターリン批判で西側との平和共存を志向したソ連と、中華人民共和国は思想面で対立「中ソ論争」をしています。けど、政治的対立「中ソ対立」は表面化していないこの時期、ソ連と中国は、1957年「国防新技術についての協定」を締結しています。ソ連が中華人民共和国に、原爆のサンプルと製造技術を提供すると約束したようです。
1956年、経済面での社会主義化は終了したと言われています。
この頃、毛沢東の権威は低下していました。なぜなんでしょう。
毛沢東は「百花斉放、百家争鳴」をスローガンにして、「中国共産党を批判していい。色々な意見を出せ。その意見を生かして共産党は飛躍するのだ」。
「へー、言っていいんだ」とお人よしや、義憤に燃える人、愛国心のある人は意見を出します。けど、この政策は一年で撤回されて、批判者は弾圧されました。これが1957年の反右派闘争と言われる出来事です。「百花斉放、百家争鳴」を含む反右派闘争の目的は定説がありません。反共分子/反共産主義の思想を持つ人を洗い出す目的という研究者もいます。
結果として、中国共産党は批判されて、その責任を取らされた人たちがいます。毛沢東の権威だけは上がりました。政敵/政治上の敵の力を削ぐことが目的だったという研究者もいます。
1958年、第二次五か年計画を開始します。
1958年-1961年、第二次五か年計画のスローガンが「大躍進」です。農業を中心にしているんですけど、政治、経済、教育、文化、軍事にまたがる集団化組織「人民公社」を設立します。簡単に言うと、行政組織/政治と、生産組織/仕事場の合体です。人民公社は農村に作られました。元々は農村に組織された農業生産合作社で、1958年にこれをいくつか合併します。そして、郷(ごう)政府の有していた行政機能、商業、学校、民兵の組織を取り込んでいきました。
1972年時点で、平均して3000-5000戸の人民公社があって、全体で7.5万社ありました。1、2か月のうちに全国99%の農家が参加する人民公社化運動が展開されました。食事の無料供給を行う「公共食堂」が設けられたり、一部の地域では公社規模での所有、管理、分配が行われました。村全体で合宿をしているような感じです。仕事は一緒、ご飯も一緒、寝るのも一緒、地位の高い共産党員でないと夫婦でも別居です。しかも、プライヴェートがない中で、密告が多いし、誰が共産党から派遣されているスパイかもわからないので、「この計画って無理だよねー」と一言呟くと、収容所に送られる可能性もあります、気を抜けません。
けど、1959年~1961年には自然災害が多発しました。人民公社化が引き起こした人災という面もあります。田畑を広げるので、山林を伐採すると、山は土砂崩れをしやすくなるし、山の保水能力が落ちて、川は洪水を起こしやすくなります。もちろん、田畑が被害を受けて、農民は一からやり直しになります。
収穫時期に、たぶん工場へ労働に駆り出されるので、穀物を刈取りできないし、ノルマが決められているので、自分たちの食べる分も強制的に取り立てられます。それで大躍進の時期に、1500万人以上が餓死したようです。外貨を稼ぐために、アフリカや、この時期に対立し始めてはいるけれどソ連へ穀物を輸出していたので、ノルマがあったんです。上司にいい顔をしたい人は「2万トン生産出来ました」と言うし、その上司は、さらに上役に「3万トン生産出来ました」と上乗せして報告するので、毛沢東のところに届く報告は実態とはかけ離れていたこともあったようで、「そんなにたくさん生産できたんなら、これくらいは輸出できるな」ということで、中国人が食べる分も輸出してしまったそうです。けど、都市化で農業人口は減っていたので、生産力は低下していた可能性が高いようです。
農民は疲れます。「もう働けない」。
共産党は人民公社制度を再編することにします。
1961年以降、最小単位として20戸~30戸の生産隊を基本単位とします。生産隊が土地を集団で共有して、生産・分配の意思決定権も持ちます。その上にある生産大隊が比較的大きな資本を持ちます。さらに上にある人民公社が灌漑(かんがい)設備/人工水路や、トラクターなどの資本を所有して、管理する「三級所有制」にしました。この人民公社体制の成立で、農民は基本的な医療、教育、生活保障のある暮らしを得られるようになりました。地方によって差はありますけどね。
1958年-1962年の一切の貿易断絶を宣言した時代でさえ、日本とは民間貿易なら良いとしていました。日米離間/日本と米国の仲を裂くために、中国共産党の方も、日本人民の革命を期待したことと、日本の55年体制後の初の選挙に揺さぶりをかける目的でした。米帝国側とは貿易しないという、政治も経済も分けない政経不可分の原則がある中で、この措置は、政治目的のための経済利用とは言え、政経不可分の原則が緩和された証拠です。
1957年11月、ロシア革命40周年の大会を機にモスクワを訪問した毛沢東は、ソ連に留学している中華人民共和国人の学生に「東風は西風を圧す」と言いました。東風と西風は対立しているので、共存はできません。だから勝つしかないということで、 東風を社会主義、西風を資本主義に見立てて、中華人民共和国は社会主義を進めるべきで、ソ連は資本主義と融和すべきではないということを示したんです。
国内では、凶作は続いています。
1959年、国防部長の彭徳懐/ほうとくかいは、大躍進は修正の必要があると毛沢東に言いました。毛沢東は、「私の権威に傷をつけたな。政権転覆を狙っているな」と過大な被害者意識を持って、彭徳懐を解任しました。
大躍進の失敗で毛沢東は国家主席ではいられなくなりました。それで、劉少奇が国家主席(-1968年)になります。共産党のトップは毛沢東が務めています。
大躍進の失敗から庶民の目をそらすためなのか、不満を解消するためなのか、チベットで信教の自由を否定された人たちが決起すると、軍を派遣して弾圧しました。この結果、ダライラマ14世はインドに亡命します。インドとの国境紛争はこれを機に本格化します。
台湾/中華民国の金門島を砲撃もしています。

1954年-1962年の中ソ関係は、ソ連は共産主義陣営の盟主を維持したいので、口では中華人民共和国を支援と言うんですけど、台湾/中華民国の問題ではソ米激突をさけたいので、「中国という国が二つあること」を認めるように圧力をかけているんです。米国も同じ懸念があるので、台湾//中華民国の大陸反攻/一度追い出されて撤退したけどターンして攻撃、を認めていません。こういう事態打開に役立たない状況で、中華人民共和国は敢えて金門島・馬祖島を紛争地帯として残すことで「これは国共内戦が持続しているのであって、台湾が独立しておらず、中国が一つであることの証左だ」という理屈を作り出しているんです。因みに台湾/中華民国側も自分たち主導で中国/中華民国は一つという立場では同様です。つまり、内政問題ということです。中華人民共和国は「内政なので外国は口を出すな」という姿勢で、中華民国は「反政府の勢力を抑え込みたいので支援をしてほしい」という立場です。
1959年、フルシチョフと毛沢東の交渉が決裂して、ソ連は協定の破棄を通告します。原爆サンプルなどの提供を拒否したんです。1960年には、1390人いたソ連の技術者を中華人民共和国から引き上げて、技術提供も停止します。これで、1950年の中ソ友好同盟相互援助条約以来の中ソ同盟は解体して、この後、ソ連首脳の訪中は30年以上途絶えます。
中華人民共和国は独自で核開発を進めます。
1960年、新聞の「人民日報」がレーニン主義を礼賛します。フルシチョフの路線を批判したんですね。これまでは共産党の幹部だけでやりあっていたんですけど、メディアが取り上げたということで、中ソ対立は公然化しました。庶民も知るようになったんです。これを本格化したと表現する研究者もいます。
1962年、インドとの国境紛争ではソ連はインドを支援しました。
この年にはキューバ危機もあって、ソ連がキューバからミサイルを撤去したのを見て、ソ連には期待できないからと、中華人民共和国は自主防衛力の強化を主張します。
1963年、部分的核実験禁止条約-西側と融和を進めたソ連と、台湾・インドとの紛争を抱える中華人民共和国との対立は激化します。
西側ではフランスが反対しています。
「自分たちはさんざん核兵器を作っておいて、完成したら、他の奴には作るな?我らはまだ完成の域に達していないから、実験は必要だ」ということです。
これを受けて、①中ソ論争は更に深まります。②米ソ二大陣営から距離を置く独自路線の二カ国が、翌年に関係を持ちます。
1964年、フランス(米国から離反)が中華人民共和国(ソ連から離反)を承認します。つまり台湾/国民党政府と断交します。
大躍進の調整後、米ソの影響を受けない中間地帯を確保するために、台湾/中華民国を承認していないドイツに近づいたんですけど、思いのほかアメリカ寄りと判断したので、交渉は決裂します。台湾/中華民国を承認しているフランスは、米国と異なる独自外交をしているので、これを好評価して国交回復に至ります。つまり台湾問題は大きいけれど、結局は内政であって、台湾/国民党政府を承認しているかどうかは重視していません。もっと大きい問題なのは、米国やソ連との外交という考えです。
ソ連の技師は引き揚げているんですけど、残された技術で1964年、中華人民共和国が核実験に成功します。こうしたことをできているのも、大躍進の失敗を劉少奇や鄧小平(とうしょうへい/たんしゃおぴん)が資本主義を少し許容することで回復させていたからなんです。ノルマはあるけれど、余った生産物資を市場で売買していい「生産責任制」というものです。毛沢東の尻拭いをして、再び国を成長軌道に乗せたんです。こうなると、毛沢東は嫉妬もするだろうし、自分の地位は危うくなりますよね。経済には疎いようですけど、政敵を排除するのは得意なんです。
1965年/1966年-1977年、プロレタリア文化大革命/文革-たいそうな名前が付いているんですけど、毛沢東と劉少奇の権力対立と政策対立。毛沢東の権力奪還と言ってもいいと思います。
1965年11/10、姚文元/ようぶんげん(四人組の一人)は上海の新聞で、京劇の『海瑞罷官』を批判します。「劇中の冤罪救済は、現在の中華人民共和国における反革命分子/革命に反対する人たちの名誉回復を狙っているものでけしからん。悪い官僚に没収された土地を、民衆に返すシーンは、現在の中華人民共和国における農業集団化、人民公社を否定するもので、許しがたい」と言うんです。反革命の人を弾圧する文革のはじまりは、文壇/文学界で起こったんです。毛沢東は6年前の彭徳懐の解任と、今回の京劇の話を結びつけます。『海瑞罷官』は彭徳懐解任を批判した劇だという印象操作をしたんです。
受験では本格化する1966年からを文革の時期として出題する大学が多いですね。
劉少奇や鄧小平は、毛沢東から「実権派」と呼ばれました。社会主義を捨てて、「資」本主義に「走」った一「派」ということで走資派/修正主義とも呼ばれました。資本主義の復活を狙っていると毛沢東に解釈されたんです。
毛沢東は林彪/りんぴょう将軍を仲間に就けます。後継者と見なされていたくらいに従順な人でした。
表向きは権力奪還ではなくて、資本主義の文化に毒されているので、文化面で革命を起こそうという姿勢を取っています。搾取階級/資本家階級の①思想②文化③風俗④習俗/習慣を打破すべきものと主張して、「破四旧」をスローガンにしました。また、この四つを新しくしようと「立四新」をスローガンにしました。結果として、貴重な文化財は破壊されたり、没収されたりしました。
毛沢東は大躍進の時のように表に出て失敗すると今度こそ終わりなので、裏で糸を引いています。表向きは四人組が主導します。①毛沢東の夫人の江青、②張春橋/ヂャン チュンチャオ。中国共産党中央政治局常務委員会委員、国務院副総理(副首相)、③王洪文、 ④姚文元/ようぶんげん)の四人です。
そして、若い世代に、「紅衛兵」を結成させます。毛沢東は「造反有理」=反抗するのには理由があるということで、紅衛兵のバカ騒ぎ、暴動を支持します。毛沢東が支持したということで、お墨付きを得たと感じた若い世代の暴動はエスカレートしました。
実権派の家へ押しかけて、謝罪を要求しました。劉少奇は反省会に引っ張り出されて、胴上げのような感じで投げられて、何度も地面に叩きつけられて下半身不随になりました。毛沢東と対立する政治家の家は破壊されました。毛沢東を支持するグループの家は厳重な警戒をされていて、資本主義的な西洋絵画や彫刻があったり、ジャズやクラシックのレコードがあっても、近づくこともできません。
そして、実権派は失脚しました。
紅衛兵は少年少女の組織で、家庭内でも力を発揮しました。普段から「買い食いするな」「勉強しろ」と口うるさい親に恨みを抱いている子供は、反共産主義者として親を告発しました。その後、親は追放されたり、刑死します。子どもは洗脳されやすいのです。村の広場で自分の親が村人から酷い言葉をかけられて、土下座して、石を投げられたりしています。石を投げないと村人も何をされるかわかりません、仕方なくです。子どもは、親でさえ告発するくらいの筋金入りの模範的な共産主義者と褒めたたえられます。すべてが終わった後、子どもは何を思うんでしょう。
対米のために、近代化兵器の象徴としての核兵器開発を至上としていた中華人民共和国は、一旦開発すると先制不使用宣言し落ち着きました。一方で核兵器は人類に不要だと主張して、平和利用/原子力発電にとどめてきたインドは、根深い中華人民共和国に対する不信、中印紛争での敗北などの現実を見て、核兵器開発へ進みます。
中華人民共和国は排他的クラブであるNPTに加盟したことで、合法的に核実験を繰り返しているし、インドの核開発を阻止しようとするんですけど、失敗します。
インドが実質的に核保有をすると、インドと対立している隣国のパキスタンは、カシュミール紛争での敗戦や、インドが支援してのバングラデシュ独立を受けて、核開発にひた走ります。核兵器開発の連鎖です。
ヴェトナム戦争で米国が、中華人民共和国の隣国の社会主義国を攻めています。これは脅威です。それで核兵器の開発をさらに早めます。
1967年、水爆の実験に成功します。
1969年、黒竜江の支流のウスリー川はソ連と中国東北部の国境になっていて、その中洲のダマンスキー島/珍宝島で、中ソが武力衝突します。

国境を画定する時に、「ウスリー江にしよう」「うん、いいね」となっても、中洲/河の中にある島はどうするという問題があって、もめるんです。大阪の中之島、博多の中洲も中洲です。
□□朝鮮半島
□朝鮮
金日成/キムイルソン主席。
スターリン批判に対しては、朝鮮もソ連を「修正主義だ」と批判します。
千里馬運動(せんりま/チョルリマ)‐1956年12月に北朝鮮の金日成が朝鮮労働党全員会議で提唱した、経済発展を促進して、社会を大躍進させようという運動です。
1957年~1961年 五ヶ年人民経済計画。
大躍進時代の中国では飢餓状態に陥った朝鮮族が、半島に逃げてきました。言葉が通じるし、親類も多いからですね。
金日成が個人崇拝の独裁体制をしているので、「我が国は主体/チュチェ思想を持っている。人民主体であって、個人崇拝などない。経済・政治・軍事面でも主体的に行く、今後はソ連から自立する」。対等な国になるということで、
1961.7ソ連、中国と友好協力相互援助条約を結びます。
1966年には韓国の漁船を攻撃して、1967年には38度線で武力衝突しています。
1968.1/21に朴正熙大統領を殺すために、大統領が仕事をする青瓦台襲撃の部隊を派遣しました。30人はソウルで殺されて、1人は捕縛されました。 朝鮮は独裁体制なので、韓国の朴正熙の開発独裁を同じように見ていたようです。独裁者がいなくなれば、韓国で革命が起きると考えたんですね。
□韓国
李承晩/イスンマン大統領(第一共和国)。
1960年、四月革命-不正選挙を契機に学生も参加するデモが起こって、イスンマンが大統領を辞任します。李承晩/イスンマンは、ハワイに亡命しました。張勉首相の下で、第二共和国と呼ばれる政体になります。
1961年、朴正熙/パクチョンヒによる軍事クーデタがありました。陸軍士官学校の全斗煥/ちょんどふぁん/ぜんとかん、盧泰愚/ノテウが支持しています。
1962年、新憲法によって、第三共和国になります。軍政です。
「大統領の理髪師」という映画を見ると、韓国の当時の重苦しい雰囲気がわかります。
1963年、朴正熙が大統領(-1979年)になります。開発独裁の時期です。スローガンは「維新体制」。国家主導の開発で専門知識を持った官僚/テクノクラートが必要なので、欧米の留学から戻った人を積極的に採用しました。韓国は「漢江/ハンガンの奇跡」と言われる高度成長に入ります。1938年創業のサムスンを除くと、いわゆる財閥は戦後に形成され始めて、この高度成長の時期に拡大しました。化学薬品や電子機器のラッキー金星(Lucky GeumseongなのでLGグループに改称)、 織物をルーツとして石油・通信に拡大したSGグループ、日本でロッテを作った在日韓国人の重光が1966年に韓国で創業したロッテグループ、現代/ヒョンデ自動車は1967年、鉄鋼のポスコが1968年の設立です。
高度成長するためには、資本が必要です。日本からの投資を受けられると助かるので、朴正熙は日本との関係改善を進めます。けど、1964年、日韓関係改善に反対する学生デモがありました。のちに大統領になる李明博も参加したんですけど、抑え込まれて、戒厳令が出されています。
1965年の日韓基本条約
①大韓民国を朝鮮半島にある唯一の合法政府と確認する。朝鮮は認めないということです。
②日本側が援助金を提供する。賠償金は支払わないけれど、実質は賠償金を払う。
③韓国は今後は一切の賠償請求をしない
④補完する協定を結ぶ。漁業範囲としての李承晩ラインは廃止して、漁業協定を二国間で結びました。
③に関しては議論があります。日韓に限らず、こうした協定・条約の義務を負うのは政府だけで、個人の賠償は含まれないとする研究者がいます。
戦時中や植民地期間中の強制労働、徴用工や慰安婦などの問題に関して、日本政府や、日本の民間企業を相手取っての訴訟が起こされるのは、そういう理由です。いくつかの民間企業は和解金を支払って、解決しています。
慰安婦に関しては、日本政府は「既にこの条約で解決済みだから、謝罪はしないし賠償金も払わない」という立場です。けど、人道的に同情を禁じ得ないという理由で、見舞金を民間からの寄付で賄ったり、税金で基金を設立して、生活保護の支援金としたり、のちの朴槿恵/パククネ政権時には両国で財団を設立して、資金を出すことにします。
1968.1/21朝鮮による青瓦台襲撃未遂事件がありました。朴正煕を狙いました。
1/23朝鮮東岸の元山沖の洋上で、米国の通信傍受作戦中のプエブロ号が、領海侵犯を理由に朝鮮に拿捕(だほ)されて、乗員82名が拘束されました。領海侵犯したかどうかは不明です。人質を取ることで、南からの進軍を牽制したと言う研究者がいます。
韓国は、金日成を殺すための684部隊を編成します。実際は、一般人が志願して入隊しています。社会のはぐれ物が入隊させられているなどのだいぶ脚色があるんですけど、「シルミド」という映画は、この部隊をモチーフにしています。
基層の人では、映像で世界同時表現を可能にしたナムジュンパイクが、韓国で現代アートの旗手として活躍しています。
□□日本
1956年、日ソ共同宣言-鳩山一郎とブルガーニンが話し合って、国交を回復します。戦争状態の終結も確認します。平和条約を結んでいないので、厳密にいえば1945年からの戦争の休戦中ということです。平和条約締結後に歯舞群島/諸島、色丹島の日本への引渡しで合意しました。平和条約交渉を継続することでも合意します。
国連加盟-23年ぶりの国際社会復帰の第一歩です。安保理常任理事国でもあるソ連の承認によって、国連加盟が可能になりました。
1957年、砂川事件-東京都の米軍立川基地の拡大に講義する市民が基地に入ったら、日米の行政協定に違反したという疑いで起訴されたという事件です。一審は日米安保は意見なので行政協定も無効だから無罪。駐日大使ダグラス・マッカーサー二世と話し合って、結論を漏らしていた最高裁の田中耕太郎は「米軍は違憲ではない。条約が違憲かどうかの判断はしない。地裁で判断しましょう。」、地裁は「有罪」詳細は前回の「地位協定」(この時点では行政協定と言っていて、地位協定は1960.1署名)に関する項に書きました。
結果を先に一方にだけ漏らすというのは、司法の独立性を揺るがすものです。
1972年に自民党政権は、日本が攻撃されていないのに米国を助けるために参戦するという条件では、集団的自衛権の行使は憲法上許されない と言っています。後年、第二次安倍政権は、砂川事件の判決を根拠として、集団的自衛権は合憲だと解釈します。
1960.1/19自民党政権の岸(安倍晋三の祖父)内閣は、日米安保条約改定に署名します。新安保と言います。1970年までの10年間有効で、それ以降は一年ずつ延長します。どちらかの国がやめると言うと、一年後に廃棄されるという条件になっています。自民党政権は、アメリカと対等な内容の条約にすると訴えていました。一方的に守られているのが、屈辱だということが表向きの理由らしいんですけど、よくわかりません。一方的に守ってもらえるならありがたいんですけどね。自民党/岸政権は、日本は米軍に守ってもらう、その代わりに日本防衛以外の目的でも基地を提供する、これで対等だという解釈です。
①「米軍が日本に駐留する」
②「日本の領域内で日本か米軍基地のどちらかが武力攻撃を受けた場合は共同作戦をとる」。日本の範囲に限っての集団的自衛権です。「日本防衛義務の明確化」とも言えます。
ただ、どちらかへの攻撃は各々の憲法上の規定に従って行動するということなので、実際は防衛義務が記載されていないと言えます。米国の高官が尖閣諸島は日米安保の範囲内だと発言することがあっても、在日米軍基地を日本が守るから、代わりに米軍が日本を守るなどの規定はありません。
元々は対等にするつもりで、米軍施政権下にある沖縄・小笠原を日本が守るから、これで双務的と考えることができるというアイディアがありました。けど、沖縄・小笠原がいつか返還されることを考えると、双務的でなくなってしまいます。それで、このアイディアは破棄されました。
③「事前協議制」。日本にある米軍基地から出撃する際は、事前協議をするということで、これは朝鮮戦争への反省があって、こうした改訂がなされました。参戦している国の基地が日本にあると攻撃される、日本が戦争に巻き込まれるので、事前協議は当然です。けど、実際は一度も協議ないようです。さらに朝鮮有事の際は事前協議はないとの秘密合意もあるようです。ヴェトナム戦争へも在日米軍は出撃しています。
条約の範囲が日本だけでなく、極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するためと記載されているので、台湾、朝鮮半島は入ります。極東に影響を及ぼすのが、ヴェトナム、中華人民共和国、ソ連、インドという可能性もあるので、地理的な制限はないに等しいという研究者もいます。
④「内乱条項削除」。これはGHQの占領を引き継いでいる条項で、日本の内乱の際に米軍が出動できるというものです。これは対等とは言えないので、削除は当然だと思います。
⑤「条約期限設定」。無期限ではなくて、1970年以降は一方の通告で一年後にやめられることになりました。つまり、地位協定は新安保の補則なので、政府の決断によって、安保を更改/延長せずとすることで、地位協定は効力を失うし、米軍の駐留はできなくなります。
⑥「国連との関係明確化」。国連の理念に従って行動するという合意です。
ただ、9.11を経た後の2005年の日米合意では、国連中心主義を否定しています。
⑦「有事の際の核兵器持ち込みの密約」。のちの「核兵器を持たず作らず持ち込ませず」という非核三原則に反しています。主権在民なのに、秘密条項なので、主人である国民には知らせないということで、日本国憲法の精神を侵害していると言えます。
この後も、核兵器を積んだ艦船が日本の領海を通過しているようです。
米国と条約を結んでいるニュージーランドは、はっきり核積み込みをしていないと確認できなければ、寄港を許可しないという合意をしています。日本は「米国が答えないなら非搭載と考えよう」という姿勢です。黙認ということです。税関では武器の持ち込みなんて「ノーコメント」「持っていないということですね。入国してください」なんてなりません。
⑧「日米地位協定」。新日米安保条約に付帯するものとして、これまでの行政協定に代わって、日米地位協定も認められます。米国は日本国内で自由に基地を置いていいことになります。低空飛行をしてもいいし、土壌汚染をしたまま日本に返していいということです。
ドイツでは米軍機の低空飛行を禁止しているし、イタリアではイタリアの司令官下に米軍があるので、演習も許可制になっています。韓国では返還された基地の汚染に関しては、米軍に浄化義務があります。社会主義国と国境を接しているドイツ、韓国でさえしっかり合意を勝ち取っているのに、なぜ差し迫った危険のない岸政権はこんなにいろいろ認めているんでしょう。よくわかりません。
ウクライナ情勢を見ればわかると思いますけど、戦争では最初に民家よりも軍需工場、さらに基地が狙われるのは自明のことです。基地がある街から順番に攻撃されることは第二次世界大戦を見てもわかります。在日米軍の駐留が長引くことで日本が戦争に巻き込まれる可能性が高まる、と考えたのは軍事史の常識です。敗戦の記憶がまだ強く残っっていたので、市民は戦争は嫌だと思っていました。在日米軍に所属する米兵は犯罪をしても免責される特権があって、これへの批判もあります。日本人が強盗、強姦、殺人の被害にあっても日本の法律で裁けないことは、植民地化の一歩である領事裁判権の占領国への容認と同じ意味を持ちます。
それで、安保闘争と言われる安保改定反対が全国化したんです。主権者の構成するデモ隊を、岸政権下にある警官隊が攻撃することもありました。
警察の機動隊に所属していた人間は、国の将来や個人の価値観よりも現行政府の命令や仕事/お金を優先したんです。戦時中と全く同じです。人は弱いし間違うんです。
1960年6月には東京大学の学生で、共産党員でもある樺美智子が警官隊との衝突で死去しています。
この6月に条約が批准されたので、岸内閣は退陣します。全国的な反対運動にも拘らず、「新安保条約」は参議院の承認を経ないまま成立しました。
これで政治に対して無力だと感じた学生は、その後政治から離れて「エコノミック・アニマル」となって、日本は経済一辺倒へ進んだと考える研究者もいます。
そうでしょうか。憲法で認められている正規軍を有している国は、それだけ軍費を使います。日本はその部分を米軍に委託しているので、経済成長に注力できたと発言する研究者もいます。日本は在日米軍の維持費を出してもいるし、自衛隊も有しているので、事実なのかなと疑問には思います。在日米軍、安保条約を正当化するための発言にも感じます。正規軍を有している韓国、シンガポールは1960年代から高度成長しているし、経済成長する21世紀の中華人民共和国は軍事費も伸ばしています。各国の軍事費の対GDP比の推移を比較すると、軍事費が経済成長と反比例しているのかどうかもわかると思います。
この年の10月には日本共産党の浅沼委員長が右派思想を持っていた少年に刺殺されます。
経済成長期になるので、復興を支援してくれたガリロア・エロア返済協定にも調印しています。くれたわけではないんですね。
1962年、L・T/LT協定-LTは日中の代表者、廖承志/りょうしょうしと、高碕達之助のイニシャルから取りました。これまでは、国交のない日中貿易は民間だけだったんですけど、政治と経済の分離/政経分離を掲げた池田内閣は、 政治的には冷たい関係で距離があるけれど、経済では熱い関係で親しくしようというものです。覚書を交わしたこの協定に基づいて、1968年の日中覚書貿易へと変わっていきます。ただ、国交がない時期なので、準政府間貿易と呼んでいます。
1964年、IMF14条国から8条国へ移行します。1952年にIMFに加盟しているんですけど、関税操作や為替介入をして、貿易赤字が過剰になることを防止しても構わないという、途上国向けの14条を適用されている国から、ハンディのない8条国へ移行します。途上国を脱却したことの一つの証です。
1964年、OECD加盟-これも先進国の証と言われます。俗に「先進国クラブ」とも言われていて、欧米以外では初の加盟です。
1965年、日韓基本条約-合意したのは佐藤栄作首相、朴正熙/パクチョンヒ大統領です。大韓民国を朝鮮半島にある唯一の合法政府と確認しました。冷戦の産物ですね。西側に属さない朝鮮とは仲良くできないんです。
1967年、佐藤栄作・リンドン・ベインズ・ジョンソン米国大統領との会談で、小笠原返還を協議します。このとき、核兵器持ち込みの密約も検討されました。
小笠原への核兵器持ち込みに対して、国会で問われたので、1967.12月佐藤栄作は”非核三原則”を表明しました。実際は新安保で密約があるので、この三原則は嘘だと知っていて表明しています。また主権者に嘘をついています。1968.1の施政方針演説でも佐藤栄作は掲げています。1971年国会が採択して、国是となりました。
それなのに、非核三原則を理由として佐藤はノーベル平和賞を受賞しています。うーん、納得できません。米軍の原子力空母などの日本への寄港も、原子力を使った兵器ではあるので、核兵器と同じ理論で、日本人は拒否運動をしています。
1966年には、岩国沿岸で、米国の艦艇が核兵器保管をしていました。日本の領海なので持ち込みに該当します。けど、米国は「配置、設置、戦争準備としての貯蔵」ではないから、持ち込みには当たらないと主張しました。日本政府はこういう解釈を米国がすることを承知のうえで、国民向けには「事前協議があれば拒否するし、協議がない以上は持ち込んだとは思わない」と説明しています。国民を馬鹿にしていると思います。
さらに「仮に持ち込んだとしても解釈の違いであり、日本政府を批判するのはお門違いだ」と逃げます。1981年のライシャワー発言で、暴露されていることとして、1961年-1966年に駐日大使を務めたライシャワーは「1966年、佐藤栄作内閣の大平外務大臣と話し合って、国内への核持ち込みは了承されている」と言っています。
1974年にはラロック退役海軍少将が「日本に寄港する前に、米軍はいちいち核兵器を降ろしたりしない」と発言しています。
そうは言っても、日本国内にも原子力発電所はあります。原子力発電所からは核のゴミとしてウラン分裂後のストロンチウムやキセノン、セシウムなどの「死の灰」と、プルトニウムが出ます。プルトニウムはウランより安いコストで、小型の核兵器を作れるそうです。少ない塊で核分裂を起こせるし、軽い、つまり飛距離が長い核兵器ということです。 日本が核兵器をいつでも作れる技術と燃料を持っていて、どんどん燃料を増やしていることは、特にアジアからは「核武装をするつもりなんじゃないか」という疑念の目で見られています。
1965年、ILO/国際労働機関が加盟国に求めている87号条約をようやく日本政府が承認します。これは「公務員には一切のストライキ権利が認められていないのはおかしい」と、1957年に基層の人たちがILOに訴えたもので、自民党政権は長らく放っておきました。それがILOが調査した結果として、改善するように勧告を出したので、仕方なく批准して改善の意思を示しました。
1968.4/5小笠原返還協定に調印して、6月に本土復帰します。米軍の施政権から解放されました。
1969年、佐藤・ニクソン会談では、沖縄返還を協議します。このあと、1971年に沖縄返還協定を結んで、1972年、沖縄の施政権が返還されます。
1970年、日米新安保条約は10年の期限を迎えました。以降は一年ごとの更新なんですけど、政府も、国会も反対せず、自動更新していきます。
国内のことを書きます。
1956年、経済白書の言葉「もはや戦後ではない」が有名です。戦後=復興は終わったという意味です。
1956.12-1957.2石橋湛山内閣。
石橋湛山は、戦時中は雑誌「東洋経済」でリベラリストして知られていて、戦後になって政界へ進出しました。GHQ駐留費の日本負担削減などを訴えました。公職追放後、自由民主党の総裁に就きます。病気で退陣しました。
外務大臣に岸信介がいました。戦時中の商工大臣で、A級戦犯容疑者でした。放免後は公職追放されました。安倍晋三の祖父です。大蔵大臣には池田隼人(はやと)がいました。
1957年-1960年、岸信介首相。昭和の妖怪と呼ばれました。スローガンは外に「日米新時代」、対米従属と対中強硬です。当然、反共政策の米国防省から資金を受けていました。内に「三悪追放」、汚職・暴力・貧困をなくそうということです。
1958年-1961年には岩戸景気と言われる好景気があります。
1958年選挙-1955年の「保守合同」、つまり保守系の自由党と日本民主党が合併して成立した自由民主党が、この1958年の選挙で第一党(287議席)となって、以降は長期政権となります。野党には、日本社会党がいて166議席です。この二大政党の構図を「55年体制」と呼ぶことは書きました。
1959年、ミッチーブーム。皇太子明仁と、正田美智子/ミッチーが結婚します。
日米新安保が成立して、「政治の季節」の終わりと言われます。
1960.7-池田隼人内閣-スローガンは「寛容と忍耐」で庶民の味方を演出していると言われています。「所得倍増計画」で経済に目を向けて、安保や憲法改変は封印します。政治の季節から「経済の季節」へと言われる転換期です。一人当たり実質GDPは1960年を6としたときに1970年に17くらいになっています。名目GDPや、日本国としてのGDPはまた違います。
全国総合開発計画/全総発表と、太平洋ベルト地帯の形成をしていきます。鹿島臨海工業地帯から京浜工業地帯を経て、北九州工業地帯までですね。
国会議員が選挙活動をする「地元」の選挙区へ、ダムや高速道路などの公共事業を持っていく見返りに選挙資金と投票を依頼するという癒着が開始された時期とも言われています。古代のアテネや共和制ローマでもそういうことはあったので、日本でも以前はしていなかったとは信じられないけど、どういうことなんでしょう。酷くなったということかな。
自由貿易を推進して、関税を払ったり、数量の制限をする品目はあるんですけど、この時期に輸入自由化率を43%から93%へとあげました。輸入自由化されていないのは、武器や麻薬くらいのものになりました。
1960年、身体障害者雇用促進法-大企業への一定人数の雇用を義務付けます。欧米と比較し、日本では障碍者を見かけないとはよく言われます。法律や制度や気持ちや施設のバリアフリーが進んでいないためなんですけど、この法律が健常者と障碍者の共生のはじまりと言われています。2000年にようやく駅や鉄道などの車いすスペースやエレベーター設置などが義務付けられます。障「害」者の文字のイメージが悪いから、当用漢字でないから書かれなくなった戦前の障「碍」者に表記を戻そうという動きもあります。「碍」は「妨げる」という意味です。精神障碍者に関する規定はこの時代はないですね。
1961年、農業基本法-農業が経済成長から取り残されているので近代化を狙ったもので、大型農機具の導入などをしました。結果として、兼業農家が増えて、食糧自給率の低下につながりました。
1964年10/10、東京オリンピック開幕。
この10月10日は晴の特異日(過去、晴の多かった日)ということで開幕の日に選ばれました。1999年までは体育の日という祝日になります。
1940年に開催しなかった札幌オリムピック、東京オリンピックから24年経過しています。今回が1964年で、次が1972年の札幌、1998年の長野、2021年にどこかでやっていたという2020年東京オリンピックです。名称も一年前になっているし、開催都市では観客もいなかったそうで、地方都市では開催されて観客もいて、不思議な時空間で開催されたと(先生に)言われている競技会です。
それに合わせて10/1に東海道新幹線が開通しています。東京の河川に蓋がされた/暗渠化(あんきょか)したのは「どぶ川があっては世界中のお客様に対して見栄えが悪い」という理由でした。臭いものに蓋ですね。経済成長で工場からの排水も多いし、都市化で人口も増えるので、洗濯石鹸、飲み残した薬も流されます。日本政府は浄化という選択肢を取りませんでした。河川の上は遊歩道になりました。運河の街だった江戸は遠ざかりました。
1966年からは不況に入ります。オリンピック・新幹線などで、需要の先取りをしたので不況になるのは自然です。税収不足に陥ったので、公共事業のための建設国債/債券を発行しました。これが赤字国債の起点です。2016年には1000兆円を越える債務/借金になっています。
1967年、公害対策基本法-公害というのは騒音を別にして、発症してから、原因がわかるまでに時間がかかるし、訴えても、裁判が結審するまでにさらに時間がかかります。ジブリアニメの「コクリコ坂から」の映画設定は1963年の横浜で、工場の煙がカラフルなので、大気汚染対策がされていないことがわかります。工場や自動車の排気ガスが紫外線で変化してオゾンになる光化学スモッグの発生も、1980年代半ばまでは一般的でした。
自動車が普及すると、その排ガスと花粉が混ざって、花粉症が発生しやすくもなります。都市化でアスファルトで土を覆ったので土が減ったことで地面が呼吸しないので、乾燥が進んで、そこに暮らす人の免疫機能が低下して、皮膚病になる人が増えました。アトピーとかも関係あるのかな。
アスファルトは土と違って保水しないので、雨は基本的に下水、川へと流れます。洪水が増える可能性があるということです。
21世紀初頭の中華人民共和国、インドネシア、インドの大気汚染も先進国が「いつか来た道」を追っているんですけど、これも排ガスが主です。特に中華人民共和国は石炭の使用率が高いことが原因の一つです。偏西風によって、微粒子のPM2.5も半島や日本列島に運ばれます。偏西風は黄砂も運んでいて、大気汚染にもなるけど、土壌の栄養分にもなるので、日本の森林を早く成長させて、国土を豊かにしている面もあるそうです。
大陸から離れていて黄砂の恩恵を受けられないイースター島では、一度伐採した木は一世代では育たないので、はげ島になって、モアイを作った文明は衰退したと、ジャレッド・ダイアモンドが「文明崩壊」で書いていました。
1960年-1970年代の日本と同じ段階にある21世紀初頭の中国や途上国では、大気汚染に限らず、工場排水によって魚の異変や川の色の変質、人体への被害などが報道されています。国境を越えれば、日本では50年前に克服した被害が繰り返されている状況をグローバリズムと言えるのでしょうか。知識や対策や技術が往きかっていないのです。
1968年、消費者保護基本法
消費者は保護されるべき存在で、省庁や企業が守ってあげるという傲慢な姿勢です。
米国では1962年に「知る権利」が立法化されて、残存農薬の種類や量など、安全かどうかを消費者が知ることができる、そのデータに従って、どの商品を選択するかを消費者が決められる、そのデータを巡って意見を交わすので、繁栄していくという考え方を持っています。
日本では、2002年に消費者基本法が制定されて、ようやく消費者にも権利があるから尊重しよう、自立を支援しよう、企業と行政の責任を定めようとなります。
1960年代末期には、小笠原が復帰して、そうなると韓国が実効支配している竹島/独島、ソ連が占領している南樺太、千島列島を除くと、米軍が占領している沖縄の返還が視野に入ってきます。
安保闘争 、べ平連/ベトナムに平和を連合の運動はヴェトナムへの米軍の派兵が、沖縄に集中する在日米軍だったことも関係しています。これが沖縄の返還にも影響して、返還が早まったと研究者は考えています。
□北海道
いわゆる北方領土問題-戦前の日本の領土で、ソ連が占領する南樺太、北千島、南千島のうち、南千島だけの返還を求める問題です。水晶島や貝殻島などの歯舞群島/歯舞諸島(はぼまいしょとう)、色丹島(しこたんとう)、国後島(くなしり)、択捉島(えとろふ)が南千島です。
復習します。
1855年の日露和親条約/下田条約は、日露で平和的に結ばれた初の条約です。ウルップ島以北の北千島はロシアが取る、択捉島以南の南千島は日本が取るという、アイヌの意向を無視した条約でした。
「これまではアイヌという民族はいたけれど、合法的に領地として経営してきた政府はなかった。これを無主地/むしゅちと言う。無主地においては、今後は我が国がこの地を領土にするつもりだが、異論のあるものはいるか?もし、そこは既に我が国の領土だというものがあれば、申し出て戴きたい」と国際的に通告することが国際法で決められているので、しました。そして、
「だれも申し立てをしなかった。従って、日露で分け合った。これまでに誰のものでもなかった土地であり、始めから日本国が領土としたのである。これを固有の領土と言う。北方領土は有史以来の固有の領土、と日本政府が主張するのはこういう根拠にある」。
ただ、実際にアイヌに通告したか、アイヌが理解したかは不明です。
これは葡西英米仏独日露の列強が、帝国主義時代に勝手に未開の地と決めつけて、合法的な政府がないと決めつけて、領地にしていったのと同じ構図です。「列強の側から見た文化度」が低いと、「領地にしていい。むしろ、我ら先進国がキリスト教を布教し、科学技術を伝え、行政を教えるなど教化啓蒙して、文明を教えてやることで、この土人どもも幸福にしてやるのだ。有り難く思え」という、傲岸不遜で価値観を押し付ける愚昧な人間の態度だと思います。インドに対する英国、先住民/インディオたちに対する米国なども典型的な例と言えます。
1875年、樺太/サハリンを露、南北の千島を日本が取りました。
1905年、日露戦争後、日本が南樺太を取ります。
1945.2ヤルタ会談で、対日参戦の見返りに南樺太・千島列島をソ連が要求して、米英は承認します。ヤルタ会談は列強の合意にすぎないし、正式な文書もないので、国際法から言うと効力はありません。カイロ宣言では領土不拡大を宣言しています。つまり戦争で領土を拡大しないということなんですけど、ソ連の行為はこれに反しています。領土不拡大なので、信託統治=「実質領土だが、形式的には領土ではない」というアイディアを出して、パラオなどを支配するのが米国です。日本も北海道、本州、四国、九州は1952年までは信託統治です。
1945.7ポツダム宣言-米英中です。ソ連は日ソ中立条約があるので表向き署名できません。
「日本の無条件降伏、列強による占領、占領下では日本に主権を認める」。
1945.8/6ソ連の対日参戦、8/8ソ連がポツダム宣言に署名。9月までにソ連が南樺太・千島列島を占領。
1945.8.14日本がポツダム宣言を受諾する宣言。
1945.9日本が降伏文書に調印。
1945.12根室町長が、マッカーサーへ、四島を米国管理区域にするよう要請の手紙を出しました。マッカーサーには権限がないんですけどね。
1946年、GHQは米英仏ソなど連合国の総意として、南樺太、南北千島に関する日本の行政権を停止。ソ連は南樺太、南北千島の国有化を宣言。領有権が移動したと主張します。

ソ連は、戦争の結果奪ったものは合法、中国は戦争の結果奪われたものは非合法と主張します。中ソは結託していないので、各国が異なる根拠で主張するのは当然です。
尖閣諸島に関しては大陸中国、台湾、琉球、どこに属していたのかは、はっきりしません。琉球王国に属していた場合は、合法的に日本の領土になります。島根県の沖合にある竹島/独島に関しては、韓国が主張している古文書の竹島というのは、別の島ではないかと考える研究者もいます。
実効支配は、権限はないけど支配している状態。日本から見れば竹島/独島を日本、南千島をロシア、中国から見れば尖閣を日本ということです。
1951年、サンフランシスコ講和条約-領土規定は「台湾、南樺太、千島、委任統治の太平洋の諸島、南沙諸島、西沙諸島に関して、全ての権利権原請求権の放棄」とあるので、放棄した後で、その地域がどの国に帰属するか/領土になるかは書かれていません。特に千島・南樺太・台湾に関しては、21世紀に入っても外務省は「帰属はまだ未確定」という立場で、返還要求をしているのは南千島だけです。
沖縄と小笠原、奄美を含む日本は、米国を施政権者とする信託統治へ1952年まで入ります。北海道、本州、四国、九州は日本の主権も施政権も制限付きで認められています。沖縄に関しては、潜在的主権は日本にあるということがGHQの占領によって暗示されます。千島と南樺太はロシアが行政権を行使して、管理します。朝鮮は北部をロシア、南部を米国、ミクロネシアは米国が保障占領して、信託統治しました。信託統治は領土化ではなくて、できる限り早く自治・独立の状態に持っていくように努力する責任を信託統治国は持ちます。ミクロネシアや沖縄など軍事的に利用価値の高い地域は、長く米国が信託統治をしたので、責任を果たしていないと国連から度々叱責されます。
ソ連は多国間のサンフランシスコ講和条約に署名していないし、領土問題が日ソ二国間の問題として残りました。戦争状態は継続していて、北方領土に関して、日本が施政権を放棄することにも合意していないことになります。つまりソ連による不法占拠です。
ソ連は中国の、日本は米英の支援を受けられませんが、元々はソ連による千島列島の占領を米英が承認したので、今更「やはりソ連には渡せない」とは言えません。米国は沖縄を領有しないことで、ソ連の北海道領有を拒否できたんですけど、沖縄を占領している手前、北方領土に関しては口をつぐみます。
1956年、日ソ共同宣言-平和条約締結後に歯舞群島/諸島、色丹島の日本への引渡しで合意します。日ソ間の国交を回復後、平和条約交渉を継続することも確認しました。そして同年、国交を回復して、戦争状態終結を確認しました。
1960年、冷戦中なので、ソ連は日米安保条約は対ソの敵視条約だと主張して、「全外国軍の日本撤退が北方領土返還の条件」とする対日覚書を出します。つまり、米国が在日米軍をあきらめる、日本が核の傘をやめること、西側から離脱することが条件になります。2022年のウクライナに対する中立化、NATO加盟の断念を要求するロシアが重なります。
ソ連/ロシアは米国への対抗上、太平洋に艦隊を派遣して影響力を保持したいんです。21世紀初頭時点では、根室にある日本のレーダーで、ロシア艦隊の航行を日米安保条約によって、米国が知ることができます。ソ連/ロシアの潜水艦は、千島列島の中で最深の択捉島と国後島の間の海峡を通ることで、察知されずに太平洋に展開できます。もう一つの航路、ベーリング海峡は浅いので、温暖化で北極海の氷が解けて航行しやすくなっても、レーダーですぐに知られてしまって、通れません。だから、択捉島と国後島の間の海峡を確保することはロシアにとっての軍事的な前提条件なんです。歯舞・色丹は返還できても国後島は返還できません。国後島にレーダーを設置したら、深い海峡を通る潜水艦が察知されてしまいます。だから、日米安保の廃棄=米国にロシアの軍事情報が伝わらない=日露が軍事条約を結ぶ=根室から先にレーダーを設置しないなどが、ロシアの領土返還条件になります。
日本政府は国内的には歯舞、色丹、国後の返還で面積の50%を確保、元島民の90%が帰れるので、択捉はそれほど重要ではないと考えているんではないでしょうか。21世紀初頭のロシア人は殆どが択捉、国後に暮らしているので、ロシアにとっては歯舞、色丹の返還はそれほど問題ではありません。つまり問題は国後なんです。国後を半分にする案も出ているかもしれません。けど、共同統治は難しいですね。
ロシア側としては「日本は南樺太、千島列島すべてを要求したが、ロシア政府はこれを突っぱねて、面積で10%に満たない4島だけを返還した。ロシアの勝利だ」と言えば国内的に納得する可能性はあります。けど、ロシアの実効支配を進めるために、四島への移住を促した歴史があるから、ロシア島民からの反発はあるでしょう。日本側が経済援助をして、さらにロシア人島民の居住権容認などの措置を取ることは必須条件になると研究者は考えています。
竹島を日本が領有するには韓国との戦争しかないので、この方法は取れません。かと言って、竹島を譲渡すれば、北方領土に対しても日本は弱気だとロシア側が取る可能性があるので、北方四島の解決はできなくなります。尖閣諸島に軍事施設を設置することなどは、実効支配の維持には有効かもしれませんけど、中華人民共和国のさらなる反発を生むでしょうし、ロシアから北方領土に関しても強硬だと取られるので、尖閣諸島問題も北方四島の後にするしかありません。
1964年、北方領土に元島民の墓参りが許可されます。以降、中断と再開が繰り返されます。
1967年、旭山動物園創立。
□小笠原
1968.6/26小笠原諸島の施政権が日本に返還されます。日本人の帰島も始まります。
「島民が帰りたがっているから小笠原を返還せよ」
これが名目だったんですけどね。それなのに、北硫黄島、硫黄島には帰島を許さないのが日本政府です。
日本政府の言い分は「火山活動がある、離島だから産業もなく生活基盤が成立しない」
伊豆大島のように火山活動が活発なところにも日本人は多く住んでいるので、この言い分が嘘であることは誰でもわかります。南大東島・利島のように離島でも生活している人がいるので、もう一つの言い分も嘘であることは誰でもわかります。
結局、2020年代に入っても、自衛隊が硫黄島を軍事利用しています。
「潜水艦監視、飛行場としての価値があり、情報漏れを心配しているから帰島を許可しない」と、事実を言えばいいのに、誰にでも見抜ける嘘で塗り固めて、歴代の政権は行政府の信用を失墜させてきました。つまり、民主主義をないがしろにしようとしているんです。そんな人に投票しているのは主権者なんですけどね。
1968年の返還協定署名の際に、米国は
「有事の際に、米国の核施設が攻撃されるかもしれない。有事の際に小笠原に予備の核兵器を置きたい。日本政府からの好意的反応を期待する。」との趣旨が記録されています。日本政府は「そのような協議に入る」と応じました。つまり、日本の国是「非核三原則」核兵器を作らず、持たず、持ち込ませずを破っていることを意味します。後の沖縄への返還条件としての核兵器持込の密約の先行事例です。
□沖縄
基層の人は「核抜き本土並み」を合言葉に復帰運動をしています。
「米軍占領下は酷い。けど、だからと言って、復帰時に核兵器持ち込みを条件とすることは拒否したい。北海道、本州、四国、九州地方/本土並みの扱いにしろ、差別するな」という願いです。
1958年、通常使用の通貨がB円からドルへ変わります。
1959年、宮森小墜落事件がうるま市であって、18人が死去、200人が怪我をしました。
1960年、安保改定に際して、沖縄への核持ち込みに事前協議が必要となって、日本を核兵器で守るという「核の傘」が機能しない可能性が高くなりました。日米の政府は、密約で、沖縄を核兵器持ち込み禁止の規定から外して、米軍が単独で自由に使用できるようにします。大和(北海道、本州、四国、九州地方)は安心、戦争は沖縄に負わせるという構図だと沖縄の人は思っています。
1963年、国場君事件-青信号を渡っていた人を米国人のトラックが轢いたんですけど、無罪。
米軍に抵抗して解雇されたら、生きていけないので、反発心を表に出せない人たちもいます。
1965年、11歳の棚原隆子が、演習ヘリからパラシュートを付けた降下トレーラーが落ちてきて、圧死。泣き寝入りの被害者。大和の司法も「安保条約のような高度な統治行為には司法は関わらない、違憲の判断もしない」という「統治行為論」で逃げます。裁判官も人間なので、政府に不利な判断をしたことで左遷されたくないでしょう。独裁を予防するという点では、三権分立の理想は素晴らしいんですけど、人間が担う以上、限界はあります。国民が選挙で最高裁判所の判事を選べばいいんですけどね。
ヴェトナム戦争中の米軍は、この時期、銃口を住民に向けて低空飛行をしたり、集落の住民を仮想ベトコンにして、徴用しています。ほとんど戦争です。
国外残留日本人-残留者には軍人、民間人がいます。軍人は終戦を知らずに継戦していたり、日本に帰りたくないという人もいました。
民間人は残留孤児と言われて、大人と区別されることもあります。太陽族が踊っている頃、1958年、厚生省は初めて中国残留者6000人がいることを認めました。帰還事業は、国交のない国との折衝など無理な厚生省へ移管されます。外務省は生きているかの調査だけをします。それも県郡に丸投げして、国交のない国を相手に手紙を送り付けて、手紙が戻ってきたら生存とみなすという荒っぽい方法です。
日本政府は、1958年には「未帰還者特措法」を成立させます。「7年間、情報がなければ死亡扱いとする」。帰国させようという意思はありません。
後にフィリピンから帰ってくる小野田の探査に1億円以上かけたように、軍人の探査と帰国は票田/投票してくれる有権者が多い分野になるから、国会議員は注力するんですけど、地方人(軍隊用語で民間人)に対しては予算をつけていません。
1972年日中国交をすると、中国が「帰国させます」と言うのに、日本は方針を作っていません。
1972年-1980年には永住帰国孤児105人、成人女性945人、一時帰国孤児178人、成人女性2846人(日本の記憶がある年齢)。残留者の帰国の滞在費は自前です。厚生省は折衝せず、民間任せ。一方で軍人遺族は援護して、靖国への合祀に特化していきます。
7年連絡がないから死亡扱いにして戸籍抹消をしておいて、「戸籍を抹消した人にいまさら調査費は出さん」としています。
終戦から20年以上が経過して、13歳以下は孤児として肉親捜しも支援するけれど、13歳以上は自分の意志で留まったとして無視します。国際結婚をして、子も孫もいるし、生活基盤が中国にあるので、日本への永住帰国などできるはずがない人もいるんですけど、一時帰国しても外国人扱いで、永住帰国の場合は帰化せよという方針です。戦時中の「国籍はどうなってもいいから、民間人は大陸に多く残して、反転攻勢の芽とする指針」を踏襲していると考える研究者もいます。
ポツダム宣言でも、兵隊の復員規定があるだけで、民間人は除外されていて、母国の責任で返せとなっています。ソ連もそれを受けて民間人は無視、一方では軍人をシベリアへ連行したのは、日本の労務提供の提言を受けての事です。
1980年、民間調査隊が訪中するんですけど、日本政府には施策はありません。受入れ施設・十分な日本語教育・職業斡旋もありません。中国で結婚してできた家族の引揚に関しては、成年の子は政府が費用を出さないので、自力で生活費や旅費を捻出するため、肉体労働をして稼いで、日本語を学ぶ暇がありません。定住地では、通訳などの引揚者への支援があれば、習慣に慣れるのも早いはずなんですけど、無計画。
1981年-1987年、1488人が参加して、来日しての調査面談がありました。身元の判明率は低くて、突然の終了宣言をします。世論の不評を買ったので、再面談をして、1991年までに累計2116人が参加、身元の判明は670人でした。
支援も始めるんですけど、四カ月、定着センターで学んだだけでは日本語を習得するのは無理です。生活保護を受けることになった人もいます。
1993年、12人が強行帰国します。残留者に冷たかった自民党政権が下野して、細川内閣が発足したことに期待したんです。1994年、帰国促進・自立支援法を成立させます。初めて国の責務を認めました。身元保証人がいなくても帰国していいとなりました。ただ、中国に残してきた家族が来日しても、その人たちへの援助がありません。1999年時点での離散家族率が67.2%です。国外別居です。
2001年、国家賠償訴訟を「中国帰国者の会」が起こします。日本語教室、住宅探し、国籍、就籍問題、職業訓練などいろいろな問題があって、原告は約40人でした。当日、地裁へ600人、弁護団も30人が出向きました。
2002年、朝鮮拉致被害者支援法は、孤児と違って、拉致期間中は保険料を納付したとみなすなど、残留者からは「差別だ」という声が上がりました。帰国孤児2500人中の2211人が原告となって、日本政府に早期帰国義務があること・自立支援義務を怠っていたこと・長期未帰還者は母語を失い労働能力を失った特性があることを認めよと迫ったんですけど、賠償は棄却されました。援助金の創設は促されました。中国に残してきた年を取った養父母のお見舞いに行くお金も出ないんですからね。
2006年、神戸地裁では、勝訴して、賠償命令がでました。61人に、4億6860万円です。(一人768万円くらい)
「発生主因は国主張のソ連侵攻でなく国の満洲政策」「違法に帰国を妨げた、国家賠償法に基づき賠償」「拉致被害者への支援より貧弱であっていいわけはない」という見解を裁判所は出しました。当時の首相、安倍は理解するという談話を出して、施策の指示などもしたんですけど、実際は控訴したので、原告は敗訴となりました。安倍が辞めた後、改正支援法が充実して、日本政府は告訴を取下げます。年金は満額6.6万円、給付金8万円が支払われます。ただ、10万人を超える2世、3世は蚊帳の外におかれました。
日本列島の基層の人たちを書きます。
世相では、石原慎太郎の小説「太陽の季節」(1956年)が、アロハシャツにサングラスの軽薄な若い人の文化=太陽族につながりました。後生まれの俳優、石原裕次郎と共に人気を得ています。慎太郎の方は参議院議員もしていて、東大紛争では安田講堂に立て籠もる学生を警棒で殴り倒す機動隊を激励しました。後に都知事となると尖閣諸島の国有化を言い出して、日中摩擦を生みます。
1963年、力道山刺殺-相撲の関脇から転身した在日朝鮮人の人気プロレスラーなんですけど、飲酒トラブルから刺されて、手術後に死去しました。
1966年、ビートルズが来日します。赤坂のキャピトル東急ホテルに宿泊していて、ファンが押し寄せました。
1968年、三億円事件。現金輸送車から三億円が強奪された事件で、未解決です。当時としては大金だったので、たくさんの興味関心を生みました。
国鉄/日本国有鉄道に自動券売機が登場しました。それまでは、対面で人が販売していました。
金嬉老事件(きんきろう/キムヒロ)-2/20在日韓国人二世の金嬉老(権禧老/クォン・ヒロと改名)が静岡県清水市のクラブで知人2人を射殺した後、寸又峡温泉の旅館ふじみやの一家と客を人質に篭城した事件です。
1969年、一般参賀。市民が皇居に行って天皇を見るという行事です。このとき、奥崎謙三は「ヤマザキ、天皇をピストルで撃て」と、死んだ戦友/ヤマザキの名を叫んで、天皇にパチンコ玉を発射しました。当たりませんでした。これ以来、皇室の立つ窓は防弾ガラスになります。
この時期、松本清張は、社会派小説で時代の闇をえぐっています。
この時期の世相、事件や芸能に関心のある人には、「誰も戦後を覚えていない昭和30年代篇」(文春新書)という本があります。
見映えが悪くて、電波の届く範囲の狭い、各放送局の低い電波塔が乱立している状況を解決するために、高い電波塔に集約するアイディアが出ます。そして、1958年に東京タワーが竣工します。これで各家庭はチャンネルごとにアンテナの向きを変えずに済んだそうです。資材として、朝鮮戦争における米軍戦車のスクラップ鉄材が多く使われたと言われています。
1962年、首都高速道路(京橋-芝浦間)が開通します。車社会の進展を予測していたので、渋滞解消のために作りました。結局、首都高速道路自体がいつでも渋滞しています。建設地確保は地権者との交渉を避けて、河川の上にしました。日本橋の上に高速道路が作られていて、見映えが悪いから高速道路を撤去してほしいという要請も地元からあります。
首都に限らず、建設のための借金を返したときに料金は値下げするという規定なんですけど、道路を作り続ける口実で滅多に値下げはありません。
1964年、この頃から「モータリゼーション」、車社会化です。大衆車が普及して、高速道路が拡充していきます。鉄道の事故やストライキによる休止も、車の普及を後押ししました。
この頃から木材輸入の自由化で、安い外国産木材が大量に入ってきました。日本の杉林の放置開始です。伐採費用が高くて儲けが出ないうえに、はげ山防止のため二年以内に植林しないといけないなどの規則があって、放置を助長しています。さらにモータリゼーション/車社会化による排気ガスと結びつくことで、スギ花粉症の原因物質となっています。杉ばかりで広葉樹の減った山では、果実や茸がないので、熊や猪(イノシシ)が里に下りて来ます。さらに出稼ぎなどで人が減った地方では、農業の担い手も減って、里山の管理もしないので、熊やイノシシが畑に現れるようになります。全土的な問題になるのは1990年以降です。
1965年-1970年、いざなぎ景気-「車/Car」「クーラー/Cooler」「カラーテレビ/Colour TV」の3Cが、この時期の三種の神器、ステータスシンボルでした。
加盟金が必要で、上命下服の組織的拘束があるという全日本学生自治会総連合/全学連は労働組合の学生版の感じがあるんですけど、安保闘争にも参加していました。大学改革では、これまではサボタージュ/授業放棄、ピケ/ピケッティングをしていました。ピケはストライキ中に見張り/ピケットを置いて、通常活動(授業や就労)の阻止したり、ストライキ参加を促したり、大衆にアピールすること。けど、大学にとっては痛くもかゆくもなく、授業放棄した学生に単位を与えなければいいだけです。
1960年代の後半に入ると、大学内にいくつもある組織を横断した全学共闘会議/全共闘(共産党とは関係ありません)が校舎、敷地/キャンパスの封鎖をして学生も教授も入れない作戦を取りました。名乗ればだれでも参加できるという勝手連です。狙いは授業料や学生寮の値上げ反対、理事会選挙などに投票権を持つという学生の自治権獲得などです。古田理事長の方針で、日本大学では学生自治会を認めてこなかったんですけど、1968年に使途不明金が発覚して、日本大学全共闘を作った学生が決起します。理事会は経理の公開や理事全員の退陣を受け入れたんですけど、佐藤栄作首相が「常識を逸脱している」と発言すると、理事会はとたんに約束を撤回します。話し合いの場にいた全共闘の学生に警察の機動隊が襲い掛かりました。2021年にも日本大学の田中理事長が脱税容疑で逮捕されて、大学から訣別宣言を出されますね。 大衆も支持したのが1969年の東大紛争ですね。安田講堂に立て籠もった学生はゲバ棒と言われる角材、投石で機動隊に抵抗しました。抑え込まれてからも、日本の大学の八割で闘争が続きました。 1969年には佐藤栄作の指示で、東京大学を始めとしていくつかの大学で入学試験が中止になって、入学者はいませんでした。授業もしていないので、留年になった人も大量にいました。総理大臣のせいで東京大学を目指していた人が妨害されて、授業を受けたい人が学生のせいで妨害されるのは許せませんね。戦後すぐの1947年−1949年に生まれた世代は、ベビーブームで、人口が多いんです。堺屋太一の小説「団塊の世代」(1976年)から遡って言われるんですけど、全共闘世代とも言われます。ただでさえ受験はきついのに、受けられなかった東京大学の志望者が早慶京大に入ってくるので、 そのレベルの大学の受験もかなりきつくなったそうです。
関心のある人には「安田講堂 1968-1969」 (中公新書)、 「全学連と全共闘 」(平凡社新書.2010年)という本があります。
こういう大衆運動は、戦前の軍国主義に異議申し立てをしなかったことへの反省があると思います。若い人の決起はパリ五月革命などに影響を受けています。
1968年、成田空港三里塚(さんりづか)闘争-国際競争のための発着枠拡大に、羽田空港は対応できませんでした。離着陸の飛行機が空中で衝突しないように、既存の滑走路とは異なる向きに滑走路を作りたいんですけど、羽田空港の西部にある横田基地周辺の大空域/横田ラプコーンは、米軍が管理していて、民間の飛行機は通過できないので、そちら方面への離陸をする滑走路を作れません。これも日米地位協定の影響です。
羽田は東京湾にあって、もっと埋立をするにも技術不足でした。それで内陸の、横田から遠いので離陸しやすい千葉県の成田へ新空港の建設を計画します。けど、強引な政府のやり方に地元は反発して、各政治勢力も加わって闘争化します。地元ではなくても、一坪だけ購入して地主として戦う人も出てきました。結局、成田空港は1978年に開業します。
食では、1958年にチキンラーメンが発売されて、1968年にボンカレーが発売されました。
服飾では、小説が原作の映画「太陽の季節」(1956年)は、アロハシャツにサングラスの軽薄な若い人の文化である太陽族につながりました。俗にシネマファッションと言われます。1958年にはロカビリー旋風もあります。
米国の東海岸の名門校であるコロンビア大学、プリンストン大学などのアイビーリーグの学生をモデルにした、ジャケットなどのアイビールックが流行します。着崩したみゆき族も流行します。
1965年-1966年前後に、ロンドンのカーナビーストリートに店を構えるジョン・ステファンが生み出したモダンズ/モダンジャズを愛する者たち/略してモッズは、 胴を絞って裾を広げたジャケット、花柄のシャツやネクタイ、長髪などのスタイルで、スクーターに乗ってクラブに通うという文化を生み出します。これがビートルズの来日で、日本でも流行するんです。中年、壮年が作ってきた伝統的な文化/トラディショナルなカルチャーに対して、若い人が発信したい、異議申し立てをしたいという側面もあったようで、その意味では、1960年代末以降のヒッピーの先駆けと言えます。
これは男性服の女性化/ピーコック革命の走りとも言われるんですけど、花柄が女性などというジェンダーはごく限られた地域のことにすぎないので、21世紀初頭から見ると狭い了見に思えます。
戦後は地方自治体が発足していって、自立性をもって公共建築をしていきます。丹下健三が設計した1959年の香川県庁舎は、ピロティ、ホールなど市民へ開放する空間を持っています。庭園や池との関係性を意識した和の神奈川県立近代美術館は坂倉準三の設計です。1950年代は円形校舎が増えて、異彩を放ったようです。
メタボリズム/新陳代謝-「もはや建てて終わりの時代ではない」ということで、社会の変化や、人口が増えて広がる都市に対応できる可変的建築が提唱されます。1958年、菊竹清訓/きよのり自邸のスカイハウス(東京都文京区)は、空中に吊った夫婦部屋から子供部屋が釣り下がるという、とんでもない建築です。黒川紀章が設計した1972年の中銀カプセルタワー(東京都中央区)は、取り外し可能なユニットを垂直のコア部分に付加するというもので、新陳代謝に対応できるように、壊れることを前提にする輪廻意識があると言われています。新陳代謝のはずなのに、2020年代に「老朽化」で取り壊されます。
芝生、空き地、自然、ハイテクもセットにする時代で、有機的な曲がりくねる線が多い建築が増える時期です。
1964年、芦原義信が東京オリンピックに合わせて、駒沢公園に仏塔を思わせる管制塔を設計します。丹下健三は巻貝のような代々木第二体育館、和風の屋根を思わせる曲線を持つ代々木第一体育館をオリンピックの会場として設計しています。基層の基礎としてのつり橋・梁の反りの技術を、無柱の屋内空間の表現として結実しています。
大阪万博(1970年)では、黒川紀章のタカラビューティリオン、菊竹清訓のエキスポタワーなどメタボリズムが全盛です。万博のパビリオンなどは建てて終わりの対極にあって、壊すことも視野に入れるので、メタボリズムに適しているんです。
東京オリンピック(1964年)で来日する外国人を対象に、1962年にホテルオークラが開業します。ロビーの設計は谷口吉郎。1963年には東京ヒルトンホテル(当時は永田町。設計はエマニュエル・グラン)、1964年にはホテルニューオータニが開業します。最上階の回転ラウンジの回転機構は、戦艦大和の主砲塔の回転技術が応用されたそうです。なんだかすごいと感じます。
建築では、1960年代に容積率という概念が生まれています。簡単に言うと敷地に対して、延べ床面積がどれくらいあるかということです。けど、日本では敷地を広く取っていれば、ビルを高くしていいという考え/容積率の緩和にすり替わっているようです。高さ制限の緩和を受けて、1968年に霞が関ビルディング147mが建てられます。日本初の高層ビル、または超高層ビルと言われています。この頃から西新宿が高層ビル群化していきます。
舞台では、小劇場運動が始まります。劇場主体ではなくて、劇団主体の演劇へという流れです。唐十郎の劇団である状況劇場は、公園に赤テントを建てて芝居をしています。佐藤信など演劇センター68のメンバーが黒テントで芝居を打っています。この時代は、「これは本物でなく芝居だ」と示して、最後にカタルシス(観劇中に溜まったものを出す)を得るために劇場の外での公演が目立っています。ストリートの芝居もあるし、芝居のラストでテントを開けて、役者の後方に都会/現実が現れるという演出が多いです。1967年には寺山修司が天井桟敷を結成します。エログロナンセンスのアングラ/アンダーグラウンドの演劇が全盛の時代です。
安部公房の戯曲「幽霊はここにいる」「友達」などもこの時期です。「友達」は友達だよねと言って知らない人が家に入ってきて住み着いてしまうという不気味な芝居で二度と観たくありません。不条理劇の戯曲としては、別役実がたくさん書いています。
大野一雄に刺激を受けた土方巽が暗黒舞踊を創始するのもこの時期です。白塗り、テンポなしで、ダンスを見せるのではなくて、肉体を見せるアングラと言っていいでしょう。勅使川原三郎(てしがわら) は速く流麗に回転しつづけるダンスを展開しています。
1962年、映画「ウェストサイド・ストーリー」を観たジャニー喜多川は芸能事務所設立を決意します。ジャニー喜多川は自分が監督をしている野球チームから選抜したメンバーで、ジャニーズという少年4人(あおい輝彦など)のグループを結成させます。事務所名も「ジャニーズ」とします。 事務所ジャニーズからはフォーリーブスがデビューします。
文学では、井上靖の「氷壁」「敦煌」、山崎豊子「白い巨塔」などがこの時期です。小田実の「何でも見てやろう」は旅行記。フランクル「夜と霧」はユダヤの収容所の話です。「アンネの日記」もベストセラーになっています。モズレーの「天皇ヒロヒト」、佐藤久の「浩官さま」もこの時期です。庄司薫(妻はピアニスト中村紘子)が日比谷高校の学生の青春を描く「赤頭巾ちゃん気をつけて」が1969年です。
マンガは1968年にボクシングの「あしたのジョー」、スナイパーの「ゴルゴ13」が始まって、「少年ジャンプ」もこの年に始まります。1969年に「週刊」少年ジャンプとなります。
映像では、植田正治がモノクロ写真で有名です。人を人物としてではなくて、写真の要素として捉えて、砂丘を背景に撮るなど写真家の主観と演出を前面に出しました。
田沼武能は、世界の現実と、希望としての自由で、笑顔の子供の写真を撮っています。
VIVOは、写真家自身が使用権を管理しようという写真家のグループで、活動は1959年-1961年。報道写真や商業写真という分類ではなく、公的なものでなく私的な映像として見ようという異議申し立てとも言えます。
石川文洋/ぶんようは、ヴェトナム戦争などを取材して写真を発表しています。
映画では今村昌平(監督)、 高倉健(役者)が人気で、「椿三十郎」(1962年、黒澤明監督)がヒットしました。
他に「猿の惑星」「黒部の太陽」、「白蛇伝」(1968年)は日本初の長編カラーアニメ映画です。他にアニメでは「巨人の星」「009」「鬼太郎」「怪物くん」、1969年にはTVアニメとして「サザエさん」(映画はもっと早いようです)が放送されます。
音楽では、1950年代は戦争で断絶したクラシックの復活のため、斉藤秀雄などが英才教育で小澤征爾らを育成します。1992年からのサイトウキネンフェスティバルに名を遺しました。2015年にはセイジ・オザワ 松本フェスティバルに改称します。
坂本龍一は映画音楽などで活躍しています。
敗戦後、アメリカの音楽が入ってきたんですけど、一方で流し、民謡などが、この時代に生まれた演歌というジャンルに取り込まれていきます。日本人の心を詠おうという運動、精神があったからのようです。敗戦国だけど心は日本を誇りたい、いいものがあるじゃないか、という気概をみせたいのかもしれません。
スポーツでは、東京オリンピックによって、陸上競技場や体育館が整備されて、都心のスポーツ人口が増えます。スポーツ大会は土建屋/建築業界のカネになると認識されたので、これ以降、夏冬のオリンピック大会、サッカーやラグビーのワールド杯などの招致に政治家が力を入れます。国民の健康のために、レガシーとか口では言うでしょうけど。インフラ整備によって、川は遊歩道で蔽われて、都心から水の都市の性格は失われます。水運に代わって、車の高速道路、鉄道の新幹線が国土をつなぎます。都市同士が近くなる一方で、地方で過疎化が進みます。
□□太平洋
□タヒチ
1958年までに、タヒチの島々全体がフランスの海外領土として再編されて、「フランス領ポリネシア」と改称されます。
□ニュージーランド
1960年代前半に、西サモアが独立します。
1960年代後半に、オーストラリア、ニュージーランド、英国の共同統治していたナウルが独立します。バチカン市国、モナコ公国につぐ、世界で三番目に小さな国です。
ニュージーランドはヴェトナム戦争に派兵しています。
□オーストラリア
先住民/アボリジナルな人々/アボリジニー(アボリジニーという言葉自体が差別ではないかと言う人もいるので、最近はアボリジナルな人々という表現が穏当だと言われています。)は、英国が入植した18世紀以降、迫害され、差別を受けてきました。
1967.10/27国民投票で、政府はアボリジニーなど先住民を国民と認めます。
ただ、白人最優先の「白豪主義」を採った歴代政権は、「劣った」先住民の子どもを「優れた」白人と同化させるために、家族から強制的に引き離す政策を1970年代まで続けました。人権侵害です。
21世紀初頭時点でも先住民と、移民してきた欧州系の人とでは、健康・教育面で格差があって、先住民の声を反映させる組織創設のため、改憲を要求しています。
ヴェトナム戦争に派兵しています。
今回は1956年-1970年を書きました。
10万1280字なので、原稿用紙253枚くらい、本だと170ページくらいですね。
次回は1970年-1989年を書きます。冷戦末期です。ソ連のアフガニスタン侵攻、東欧革命、ベルリンの壁崩壊、イラン・イラク戦争、文化大革命、天安門事件といった時代です。
次の皆伝29はこちらです。
https://note.com/kaiden_juken/n/nb5d1fb556f86
東西陣営のゆるみがわかった、アフリカの独立がわかった、キューバ危機がわかった、中東戦争を確認できた、中ソ論争が納得できた、北方領土問題がわかった、役立った、面白かった、目からうろこもコンタクトも落ちたと思ったりしたら、下にあるスキ(♡です)を押したり、本郷りんのツイッターをフォローしたりしてくださると嬉しいです。
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