皆伝 世界史29 1970年-1989年
東西両陣営は互いに牽制と経済の限界が近づいたので、デタント/緩和を目指します。西側では保守と革新の対立、東側では社会主義体制の行き詰まり、東西から支援を受けてきた途上国では、経済の自立を迫られて不安定化したり、南北問題が顕著になってきます。
1989年の冷戦終結前後にはソ連からの離脱、東欧の民主化、開発独裁の終焉などがあります。
■宇宙
1971.4-10地球人が地球人初の宇宙ステーション サリュート1号の打ち上げと、計画的落下。
1972年、これまで月/Moonに6度の着陸をしたアポロ計画が終了。
1973年、探査機パイオニア10号が木星に接近。
地球人がスカイラブ一号/アメリカ合衆国初の宇宙ステーションを打ち上げ。この宇宙の実験室/ラボには、何度か地球人が送り込まれ、ある個体は84日間滞在。1979年に地球の大気圏に落下して消滅。
1976年、探査機バイキング一号が火星に着陸。
1979年、探査機ボイジャー1号が木星の衛星イオの火山活動を記録(発見)。
1980年、ボイジャー1号は土星に接近。
1981年、スペースシャトル/再使用できる有人機体のコロンビア製造。
1983年、探査機パイオニア10号は太陽系の外へ。
1986年、スペースシャトルのチャレンジャーが発射直後に爆発。
ボイジャー2号が天王星に接近。
地球人(ソ連)が「平和」の意味を持つ宇宙ステーション ミールを打ち上げ。ポリャコフは437日滞在。2001.3に地球の大気圏に計画通りに落下、燃え尽きなかった部材は、ネモ船長に由来するポイント ネモに落下。
ポイント ネモは到達不能域とも訳される大陸から遠い海洋の区域の一つで、チリ、ニュージーランドの中間、強いて言うとイースター島に近いようです。
1989年、ボイジャー2号が海王星に接近。
1990年、ハッブル宇宙望遠鏡が衛星軌道に乗ったのもこの年です。大気汚染のひどい大都市から遠いハワイ、乾燥していて大気の澄んでいるチリのアタカマ砂漠から宇宙を観測しているんですけど、大気圏の外の方がもっとよく観察できるので、衛星軌道上に望遠鏡を作ったんです。
■地球
■自然界・生物界
捕鯨の維持継続を目指した人間のグループ(国と言います)が、捕鯨枠の設定を話し合っていたのが、国際捕鯨委員会/IWCです。小型のクジラは議題にも上っていませんでした。1972年に国連人間環境会議が(先住民が昔ながらの 自分たちが食べるために捕ることを除いた)商業捕鯨の10年間停止/モラトリアムの勧告を採択します。これをきっかけに反捕鯨国がIWCに加盟していきます。クジラを殺すのは非道だという意見が出ると、商業捕鯨、食用、儀式のためといったことも関係なく、倫理の問題になりました。善悪の二元論ですね。1982年、人間の作った国際捕鯨委員会/IWCが、大型船団による商業捕鯨の一時停止を決定しました。カナダという国が「捕鯨を続けるので、この決定に拘束されないように脱退する」と決めます。1986年には、沿岸海域での商業捕鯨も停止と、人間は決めました。クジラ種の多くは、人間に商業目的で捕まる可能性が低下します。けど、これ以降も、調査目的で毎年1000頭以上のクジラが捕殺されます。なぜかと言うとこのモラトリアムはクジラが減りすぎていないか、商業捕鯨を続けても問題ないかという事実を調査する期間として設けられたからです。スイス・チューリヒ大学のクリストファー・クレメンツの研究チームは、国際捕鯨委員会/IWCの記録を調べました。そうして、1900年前後に「狩り」を「大量捕獲」へと転換させる新たな技術が登場したこと、捕獲されたクジラの平均体長が70年間で最大4メートル縮小したことを明らかにしました。20世紀中に商業捕鯨の対象になったクジラは300万頭近いそうです。
■人間界
構造図を拡大して観てください。

世界年表を拡大して観てくださいね。

この時代の概要
1971年、国境なき医師団設立-世界の感染症の流行地や紛争地にも駆けつけて医療を行うNGOです。国境や国家主体を超えているという点で、1863年に設立された国際赤十字に継いで、保健衛生分野におけるグローバル化の深化と言えます。
米国の大統領はニクソンです。1969年にはニクソン・ドクトリンがありました。米国がヴェトナムなどへ直接介入することに替えて、戦費や同盟軍派遣などの負担を、同盟国へ肩代わりさせたいという要求です。
1971年、ニクソン・ショック-
●経済面のショック=ブレトン・ウッズ体制の終わりをもたらした出来事で、ドル・ショックとも言われます。ヴェトナム戦争による戦費増大で、弾薬も食料も外国から買ったりもするので、支払い通貨としてドルが国外に流出して、ドル高になっています。経済的な貧しさの中で共産主義になびかないように、日本やドイツの製品を買っていることもドル高の影響です。ドルが出ていくということは、米国の持っている金/GOLDも交換を要求されて出ていくということです。ドルは兌換(だかん)紙幣なんです。兌換紙幣は「政府が金/GOLDとの交換を保証する貨幣」のことです。金/GOLDの裏付けがあるので、その国が発行した貨幣は信用されると、金融学の研究者は考えています。金/GOLDと交換できないなら、いつその国が滅亡するかわからないし、いくらでも発行することで、発行者の政府、国王、中央銀行が一人で儲けるかもしれないので、信用できないと、研究者は考えています。金/GOLDが減っている米国は、あんまりドルを発行できなくなります。国内にお金が必要なことがあるのに、ドルが足りなくなります。
米国は貿易赤字と財政赤字を何とかしたいので、ニクソンはドル高を是正して、ドル安にするために、「新経済政策」を発表しました。
①「ドルの兌換(だかん)を停止」。
ニクソンがドルの兌換をしなくなったので、これまで通りの35ドルで1オンス(28g)の金/GOLDと交換できなくなります。金/GOLDの裏付けがなくなった$/ドルの価値は下がります。ドル安です。そうなると米国へ輸入するものは、米国内で値段が上がります。だから輸入は減ります。日本や西ドイツの製品を買うためにドルを支払わなくなっていきます。$/ドルの海外への流出が止まります。逆に、米国からの輸出は増えます。これで、貿易赤字が減っていきます。金/GOLDの減りも緩やかになります。
②「10%の包括的輸入課徴金」。関税を高くして、国内産業を保護する政策です。関税障壁を高くすることはブロック経済化につながって、大戦につながるのでやめようというのが、戦後の国際的な合意で、GATTの精神にもなっているんですけどね。
③「90日間 賃金の凍結、物価の凍結」。
金/GOLDが不足していて、通貨のドルを発行できないので、ドルが貴重になる分、物価などが下がります。それにつれて賃金を下げられてはたまりません。国内の混乱を防ごうとしたんです。90日後に何か手を打とうとしたのか、90日経過すれば、金/GOLDが減らないことが明らかになって、ドルを発行できると考えたんでしょうかね。
ドルは世界の基軸通貨、貿易で支払うなら信用できるドルにしようというのが西側の常識でした。これが急にドル安になって、ドルを信用できないということになったので、ドル・ショックと言われます。ドルで貿易していいんだろうかと思うし、日本円のようにドルと価値が固定されている通貨も混乱します。後で1973年にはオイル・ショックもあるので、経済的なダブルのショックを受けた西側世界は、不景気になりました。
ニクソンショックを受けて、1971年12月に経済面での主要10か国の財務担当大臣と、中央銀行総裁がワシントンD.C.のスミソニアン博物館で会議を開きます。そこで合意したものがスミソニアン協定です。
ドルと金/GOLDとの兌換の再開と価格の引上げ。35ドルではなく、38ドルで1オンスの金/GOLDと交換にします。
ドルと各国通貨との交換レートも変更します。例えば、日本円は、GHQ下の1949年4月に1ドルの価値を360円と決定したんですけど、今回の協定で308円にします。16.8%切り上げて、円高になりました。つまりドル安になりました。これで日本から米国への輸入は減ります。西ドイツは13.5%切り上げ、フランスは8.57%切り上げ、イギリスは8.57%切り上げ、イタリアは7.48%の切り上げです。
為替/各国通貨の交換の変動幅を拡大して、-1%~+1%だった幅を、-2.25%~+2.25%にします。各国は、自国の通貨発行量を少しは自由にできるということです。
アメリカの輸入課徴金の即時撤廃でも合意しました。
この協定、つまりブレトンウッズ体制の改訂版を維持する体制をスミソニアン体制と言います。先生が「憶えにくいなら、酢味噌に餡/すみそにあんを入れると思い浮かべよう」と言っていました。甘いのか酸っぱいのかわかりません。けど、各国は2.25%ではやっぱり金融政策の自由が制限されていると考えて、金本位制をやめていきます。好きなだけ通貨を発行できるようにするんです。そして、協定に合意したすべての国が金本位制をやめた1973年には、変動相場制度へ移行してしまいます。1976年にはジャマイカの首都キングストンでIMFの会議を開催して、変動相場制を承認します。そうして成立したのがキングストン体制です。
●政治面のショック=1971年7ニクソン大統領が近いうちに訪中することを発表します。1971年、腹心/側近のキッシンジャーがひそかに訪中しています。敵視政策をやめて中国と国交を結ぶことで合意して、大陸中国に国連代表権を付与します。
既にヴェトナム戦争で敗れることは視野に入っていたので、戦後政策として、ヴェトナムを支援する中国と国交を結んでおこうと考えました。中国と対立しているソ連を牽制する意図もあります。キッシンジャー博士の「勢力均衡論」を採用したんです。米ソに加えて、欧日中が均衡を保って、世界の安定を図るというものです。
ニクソン大統領の訪問は、翌年の1972年です。
これを受けて、もう同盟国の米国の敵ではないからと、日本も1972年に田中角栄首相が訪中します。そして、ヴェトナム撤退の前年である1972年に沖縄返還、日中共同声明があります。6年かかって、1978年に日中平和条約も結ばれます。
1972年に知識人たちのグループ、ローマクラブは「成長の限界」というレポートを出して、世界に警告しました。経済成長一辺倒は、環境破壊になるし、経済成長の負の側面に目を向けようという訴えです。
1972年6/5-6/16、国際連合人間環境会議が、スウェーデンのストックホルムで開催されました。環境問題についての世界で初めての大規模な政府間会議です。スローガンは、「かけがえのない地球」です。そして、人間環境宣言を採択します。6/5には、ケニアのナイロビに本拠を置く国連環境計画/UNEPを設立しています。
1973年、第四次中東戦争でオイル・ショックが発生します。1968年結成のOAPEC/アラブ石油輸出国機構が石油を禁輸する「石油戦略」、OPEC/石油輸出国機構は石油価格を引き上げます。こうして、米日欧でオイル・ショックが発生しました。これで日本の高度成長は終わります。オイル=原油から石油、ガソリン、灯油などが分けられて作られて、プラスティック製品も作られます。油がないと車、飛行機、鉄道が動きません。部品も届かないし、漁にも行けないし、完成品や果物や米を配送することもできません。
オイル/石油を輸入に頼ることの危険性から教訓を得て、各国は食糧も危ないと考えて、食糧の自給率向上に意識が向かいます。
1974年、世界食糧会議-国連が主催して、ローマで話し合います。深刻な世界の食糧事情改善のためですね。
1975年、フランスのジスカールデスタン大統領が提案して、オイル・ショック後の経済回復協議の為に、先進国首脳会議/サミットを開催します。サミットは頂上のことで、世界のトップの国という意味なのか、首脳会議という意味なのか、私は知りません。
米英仏独日が招待されました。イタリアの首相は会議に押しかけてきたので、6国で会議をしました。ちなみにこの時点で、世界に占める6国のGDPシェアは60.1%でした。欧4、米大陸1、亜1ではバランスが悪いと米国が訴えて、1976年からカナダを加えてG7/Group of Seven体制へ変わります。7国のGDPシェアは62.8%です。アジア、アフリカは増えていませんけど、参加できるくらいの経済力を持っている国は日本だけなので、納得はできます。1987年に69.9%のピークになります。
冷戦が終わって資本主義体制化していく1991年以降は非公式にロシアが参加していて、1998年から正式なメンバーとしてG8になります。この時点でシェアは66.3%です。クリミア・ウクライナ紛争を起こしたので、除外されてロシアは2014年からは不参加です。国連事務総長やEU議長やその時々の重要な国の元首が参加することもあります。2010年代にはG7のシェアは40%台になっています。こうなると7国で決めても世界経済に大きな影響を与えられないということで、G20も台頭してきます。
1975年、ヴェトナム戦争終結-北ヴェトナムの勝利で、南ヴェトナムの人たちは共産主義者を恐れて脱出します。ボートピープルと言われる難民です。インドシナ半島がタイを除いて社会主義化しました。タイと全インドシナ国家との戦争に加盟国が巻き込まれるのを防止するために、反共軍事同盟として成立していたSEATO/東南アジア(集団防衛)条約機構を1977年に解散します。メンバーは米英仏豪、ニュージーランド、タイ、パキスタン、フィリピンでした。
1975年、ヘルシンキ宣言-米ソなど欧州安保協力首脳会議/全欧安全保障協力会議で、既存の欧州国境を既成事実として受け入れること、各国の主権の平等、基本的自由の尊重を確認しました。ロシアの水爆の父と言われたサハロフは、この頃人権問題に取り組んでいて、この年、ノーベル平和賞を受賞しました。EUの立法機関である欧州議会は1988年に人権と思想の自由に取り組む人にサハロフ賞を贈り始めました。2014年と2022年のロシアによるウクライナ侵略、国境変更の試み、民間人殺害はヘルシンキ宣言に反しています。
1978年、中東和平会議が米国のキャンプ・デービッド(ワシントンD.C.郊外の大統領公邸となっている別荘)で行われました。このキャンプデービッド会談は、カーター大統領が仲介して、イスラエルとエジプトが話あいをしたものです。この年、イスラエルのベギン、エジプトのサダトはノーベル平和賞を受賞しています。つまり、平和に向かった合意をできたということがわかります。歴史総合でも、ノーベル平和賞の歴代受賞者を見ると、傾向が見えてくるかもしれませんね。
翌年の1979年にエジプト・イスラエル平和条約を結びます。初めてアラブの国(エジプト)がユダヤの国を認めたんです。国交を結びます。イスラエルは占領したシナイ半島をエジプトに段階的に返還していきます。この一環として、エジプトはアラブ連盟を脱退しました。キャンプ・デービッドで何が合意されたかがこれでわかります。この平和の立役者、サダトは1981年に「アラブの裏切り者」としてアラブ人のムスリムに殺されます。ユダや国家を認めたことが許せなかったんでしょうね。
1978年、ユネスコが世界遺産の認定を開始します。第一号が1979年のアブシンベル神殿です。エジプトがアスワンハイダムを作るので、ダム湖になる予定地にある神殿が水没してしまうということで、解体して移築したんです。こういうことが二度とないように人類の遺産を保護しようということで始まりました。世界遺産は人工的な文化遺産が多くて、自然遺産は少なめです。欧州に偏りがあるというのも、当初の懸念でした。こう言うのも歴史総合で、なぜ欧州に偏りがあるのか、文化遺産を重視なのかを調べると面白そうですね。 1992年に、日本も批准します。そして法隆寺地域、姫路城、屋久島、白神山地が1993年に世界遺産として登録されます。早いですね。法隆寺は行ったことがあります。他はないですね。建築が好きなので姫路城は観たいですね。先生は屋久島に行ったことがあるそうです。けど、白神山地は熊が出そうで怖いから行かないと先生は言っています。
この年には、ヨハネ パウロ2世がローマ教皇として就任(-2005年)しています。
1978年-1989年、ソ連のアフガニスタン侵攻がありました。 タリバーンやイスラム過激派のアルカイダを生むきっかけになります。
1979年、第二次オイル・ショックが起こります。イラン革命をきっかけに石油国有化、各国の禁輸措置という流れで起こりました。
1979年、国連加盟国が女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約 /女性差別撤廃条約を採択して、1981年に発効します。日本は1986年に批准しました。例えば女性が家事、文系で、男性が外で仕事、理系というような「固定的役割の変更が男女の完全な平等には不可欠」という理念が書かれています。「男女の社会・文化的行動様式の修正」も書かれていて、批准国は差別的な法律は改正しないといけないということです。日本は男女雇用機会均等法の制定、家庭科の必修化などがなされていきます。夫婦別姓、医学部の女性不合格、議員に女性が少ないなどもそうですね。女性専用車両もそうなのかな。
1980年、イラン・イラク戦争(-1988年)。国境問題を抱えていたところに、イラン革命で防備が手薄だと考えたイラクが攻め込んだことで起こりました。
1982年、フォークランド紛争。支持率の落ちてきた独裁者のいるアルゼンティンが自国の領土だと訴えて、英国と戦争をして、敗北。
1982年、イスラエルがエジプトにシナイ半島を返還します。イスラエルがレバノンへ侵攻します。
1985年、プラザ合意。米国の双子の赤字(財政赤字と経常収支赤字)の解消のために、ドル高を是正する措置で合意します。ニューヨークのマンハッタンにあるザ・プラザホテルに、G5の大蔵大臣/財務長官と、中央銀行の総裁が集まります。ドル高になりそうなときには、各国が外国為替市場に協調介入をして、つまりドルを売って、為替レートをドル安に誘導するということで合意します。これで米国の輸出競争力が高まれば、貿易赤字/経常収支赤字も解消されていくという考えです。日本円はプラザ合意後、1ドルが240円だったのが200円に急上昇します。この急激な円高に対して、日本銀行は低金利政策を採っていたので、銀行への預金額は少なくて、お金が余っているから、土地/不動産、国内外の株を買おうという動きが出てきます。これをバブル景気(1986年-1991年)と言います。
1986年4/25、チェルノブイリ(ロシア語)/チョルノーブィリ(ウクライナ語)で原発事故が起きます。スウェーデンの原発で働いていた作業員の靴が、高濃度の放射性物質に汚染されていることが線量計でわかりました。スウェーデンがソ連に問い合わせると、ソ連は4/28にやっと公表しました。これを受けて、東京サミットでは「今後、原発事故が起きたら、詳細と完全な情報を迅速に公表する」と共同声明を発表します。冷戦中の各国は、ソ連と融和したいので、「事故への懸念」という文言を共同声明から削除しています。日本の外務省はモスクワが汚染されていることさえ「国民に公表するな」と、科学技術庁に口止めをしています。共同声明に反する行為です。
関心のある人には「チェルノブイリの祈り」(スヴェトラーナ アレクシエーヴィッチ.岩波書店.2011。増補改訂版「完全版」は2021年)という本があります。
オイル・ショック後の先進国は、エネルギーの自給自足に向かっています。この時期は、原子力発電所が自給自足には必要だと考える人が各国の政権には多かったんです。そんな考えさえなくて、お金をもらっているから原子力発電所に賛成しているという人もいました。
1979年にスリーマイル島の事故、1986年にチョルノーブィリの事故、2011年に福島の事故です。甚大な被害を出していて、事故やミサイル攻撃の対象にされたら危険で、既にコストも風力や太陽光と比較して高いとわかっているし、使い終わったごみを捨てる場所さえ決まっていないし、建設や運転(燃料の運搬など)をするために実はCO2を排出しています。それでもまだ続けようという人がいます。なぜだと思いますか。歴史総合で考えると面白いかもしれません。
1987年、国連はモントリオール議定書を採択します。紫外線から生物を守っているオゾン層が減っているので、保護するための措置を決めました。
①フロンガス禁止。
塩素を含むフロン/CFCl3は、波長が240nmの紫外線を浴びると分解されて、塩素原子が生成されます。その塩素原子はオゾン/O3を分解して一酸化塩素/ClOと酸素分子/02を生成します。この一酸化塩素は不安定なので、酸素原子と反応して、また塩素原子に戻ります。こういう連鎖的な反応が起こって、オゾン層が破壊されていくんです。この時期には、例えばヘアスプレーなどの噴射にフロンガスを使っていました。21世紀初頭では、フロンに限らず、ガスよりはチューブや、手ですくえる方が環境にいいと言われています。
これ以降、地球温暖化にも目が向けられて、1992年の地球サミット、2005年の京都など、Co2排出規制へとつながります。
②代替エネルギーを増やす。
1987年、米ソが中距離核戦力全廃条約を結びます。これは1996年の包括的核実験禁止条約、つまり、爆発を伴う実験禁止へとつながります。
1987年、パレスティナ人がイスラエルにインティファーダ/投石を開始します。
1988年、イラン・イラク戦争終結-米ソの援助で軍事力が強大化したんですけど、戦時負債が拡大したイラクに対して、米国が輸出制限をします。「貸したお金を払えんなら、もう売らん」。困窮するイラクは、次の時代にクウェートに進軍します。
1989年、APEC/アジア太平洋経済協力が発足します。オーストラリアが提唱しました。日本が提唱した1980年の太平洋経済協力会議創設が土台になっています。
1989年8月、汎ヨーロッパピクニック‐東西のドイツ人は国境を越えられないので、東側のハンガリーまで来て、そこから東ドイツ人600人が、西側のオーストリアへ出ました。実質的に鉄のカーテンが崩れたと言えます。そして11月、ベルリンの壁が崩壊しました。これは象徴的な崩壊ですね。
1989年12月、マルタ会談-形式的に冷戦終結と言われる出来事です。「ヤルタ(開始)からマルタ(終結)へ」という言葉がありますね。ソ連のゴルバチョフ(1990年にノーベル平和賞を受賞します)、米国のジョージ・ハルバート・ウォーカー・ブッシュの会談が、マルタ島沖、ソ連のクルーズ船マクシム・ゴーリキーの客室内で行われました。ソ連のシュワルナゼ外務大臣、米国のベイカー国務長官も同席しています。
ゴルバチョフは声明で、「もはやイデオロギー闘争は過去のもの、米国と戦争はしない。資本主義 対 共産主義は終わる」と言っています。
ソ連は軍備拡張で財政が悪化しているし、これ以上軍備拡張競争に耐え切れそうにないこと、アフガニスタン戦争で勝利できずに、東側での権威が低下したことなどで、冷戦を終わらせたいと思っていました。米国は軍産複合体で民間は経済成長をして来ました。けど、大きな政府を指向して、財政赤字が増えました。西ドイツや日本の復興支援の延長として、貿易競争で負けて貿易赤字が増えました。ヴェトナム戦争で勝利できずに、財政はさらに悪化して、西側での権威も低下したので、冷戦を終わらせたいと思っていました。こうしてソ連も米国も冷戦の終結に前向きになったんです。
社会主義国家と、社会主義的な政策を採用することで社会主義になびかないようにするという資本主義国家が対立していた冷戦は、福祉国家の完成を競う側面もありました。
基層の人たちを書きます。
世相としては、1969年ニューヨークのゲイバー「ストーンウォール・イン」への警察の暴力的捜索とLGBTQの人たちの抵抗という事件があって、1970年からプライドパレードと言われるLGBTの権利を擁護しようというパレードが行われました。これ以降、世界中に拡散していきます。
LGBTQは、ゲイ、レズビアン、バイセクシャル、トランスジェンダー、などの頭文字/イニシャルから採った名称です。性的な自己認識、性的な指向が少数派という人たちです。

HSはヘテロ・セクシャルのことで異性愛者という意味です。性的指向は生育環境で変わるようです。相手の性別や年齢もそうで、男性ばかりのキリスト教の教会関係者が少年(男子)を性的虐待した事件があったこと、小学校の教員が小学生を性的虐待した事件があることを思い出します。良心的な小児性愛者と言われる人たちは、そうしたことに関わらないように、ベビーシッター、保育園や幼稚園、学校や塾、公園など、子供と触れ合う環境に身を置かないようにしているようです。
この時代には、多くの国、地域で異性の服装を大人になってもする人、同性愛などは違法行為とされていました。宗教の強い国や地域では死刑というところもあります。
1971年、世界経済フォーラム設立-毎年スイスのダボスで開催されていて、ダボス会議と言われています。知識人やジャーナリストや経営者や政治家が招待されていて、参加することは国際的に影響力のある証明、ステータスになります。民間のG7やG20といった感じですね。
1977年、世界初のLCC/ローコストキャリア/格安航空会社として、レイカー航空が就航します。ニューヨーク-ロンドン間の運航をします。価格カルテルに入らないことで、コスト削減をしたようです。コンゴ、LCCが増えていくんですけど、集客率の高い路線だけを往復すること、中古の飛行機を買って運用すること、大手航空会社を退職したパイロットを採用すること、黒字にならない程度にしか乗客が集まらない場合は欠航することなどで、安くしています。映画の再上映でも要望が少ないと公開しないことってありますよね、おんなじ手法なのかな。
1980年12/8、ニューヨーク州マンハッタンのアッパーウェストサイドのダコタハウス前でジョン レノン(ビートルズ)が射殺されました。射殺犯のチャップマンは精神病で、レノンのファンだったんですけど、レノンの豪勢な生活に怒ったとか、射殺して有名になりたかったと言われています。
1983年、ポーランドの政府に抵抗して自主的な労働組合を率いるワレサ/ヴァウェンサが、ノーベル平和賞を受賞しています。
服装では、ヒッピースタイル、フォークロア・ファッション、T シャツとジーンズが全盛です。三宅一生/イッセイ ミヤケがパリ コレクションで「一枚の布」という着物やインドのサリーに着想を得たアイディアを発表したのもこの頃です。1976年にはミラノコレクションが始まります。この時期にはビッグファッションが流行して、カジュアルな服が一般化しました。パンクファッションも流行するし、ジョギングウェアなど、アクティブスポーツウェアも普及します。
1980年、マイクロファイバーが開発されると、新合繊維の時代へ入ります。川久保玲、山本耀司など、日本人デザイナーがパリで注目されるようにもなっていきます。身体を意識したファッションへという時代でもあります。メンズではイタリアン・カジュアルが拡大していきます。この時期、シャネルのデザイナーはカール ラガーフェルドでした。ベルナール・アルノーはDIOR/ディオールを買収します。ブランドブームが全盛ですね。日本だとバブル景気なので、20歳前後の人たちが家ではカップラーメンを食べているのに、プラダやグッチ、ルイ・ヴィトンのバッグを持ったりしています。1989年、ベルナール・アルノーはルイ ヴィトン モエ ヘネシー/LVMHを買収します。この時期には1960年代、1970年代などのリバイバルファッションも流行しています。
スポーツでは、1972年9/5に西ドイツで開催中のミュンヘン オリンピックで、PLOのファタハの指示で、黒い九月という武装したパレスティナ人たちが、選手村にいた11人のイスラエルの選手を殺しました。
1980年のモスクワ オリンピックを西側がボイコットしています。前年にソ連のアフガニスタン侵攻があって、これに抗議した米国のカーター大統領が、共産圏での初開催の大会にボイコットを呼びかけ、西側の日本も応じています。英仏伊、西ドイツなど60カ国がボイコットしました。つまり不参加です。英仏のオリンピック委員会は政府の方針に反して、個人資格での参加を認めました。スポーツと政治は別物だという考え方に則っています。中越戦争/中華人民共和国ヴェトナム戦争で中ソ対立が激化していた時期に、この侵攻があったので、大陸中国もボイコットしました。
そもそも政治利用されないために、国家ではなくて、都市がオリンピックを開催しています。国ごとのメダル獲得数などの公式発表はないし、国ではなく、日本という「地域」の代表という形をとっています。実際はお金を出している国家の圧力で、国旗掲揚や国歌演奏があるんですけどね。オリンピック精神を体現しているのは英仏のオリンピック委員会だと思います。日本や西ドイツのオリンピック委員会は政治の言いなりです。
2017年、日本スポーツ学会のアンケートで、「モスクワ オリンピックをボイコットすべきではなかったか?」の質問に、幻の選手団のメンバーの82%が「はい。ボイコットすべきではなかった」と回答しています。「ボイコットは意味があったか」の問いには、74%が「いいえ。無意味だった」。「ボイコットはあなたに影響を与えたか?」「影響があった」+「大変ダメージを受けた」は84%です。
日本には柔道の山下泰裕選手、マラソンの瀬古利彦選手など、メダルが有望視されていた選手がいました。
1984年のロサンゼルス オリンピックは、米国のグレナダ侵攻を理由に東側がボイコットしました。1980年モスクワオリンピックボイコットの報復としてですね。以後、スペインのサマランチがIOC/国際オリンピック委員会の新会長となると、ボイコットを避けるための政治的独立、そのための経済的自立を目指します。TV放映権の販売、大型スポンサー契約を取り付ける商業主義を採っていくんです。こうして国家からは自立したんですけど、大口スポンサーの米国のゴールデンタイム/夜の視聴時間に合わせて決勝種目を行うなど、選手にとっては体調管理などが難しい大会となっていきます。これまではアマチュアの祭典だったんですけど、これ以降、視聴率を上げてお金を集めるために、プロ選手の出場に道が開かれます。アマチュアだけが出場したというのは、古代のオリュンピア協議会がそうだったからと考えてのことだと思います。実際は、アテネ、テーベなどにもスポンサーがついて、故郷に戻ると賞金をもらえるというので競技をしていたプロもいました。競技会では月桂冠という名誉だけを授けているんですけどね。周辺がヒートアップしてしまうんですよ。選手や大会を運営する人は惑わされないでほしいですね。
舞台では、1984年にシルク ド ソレイユがカナダで結成されています。幻想的な物語を見せるサーカス集団です。2020年には新型コロナウイルスのパンデミックの影響で公演中止となって、破産しました。
医学・生理学・生物学などでは、CTスキャンが開発されました。体を輪切りにした映像を観られるというあれですね。
物理学・化学などでは、ルスカが電子顕微鏡を発明しています。米仏の研究者がレーザーによる原子冷却法を開発しています。ギルバートとサンガーが、核酸の塩基配列を確認しています。
□□アフリカ
1968年、ポルトガルでサラザール政権が崩壊すると、その後のカエターノ政権は1974年4/25「カーネーション革命」で倒されます。左翼政権が成立すると、これをきっかけにして、独裁者を倒したら、自分たちがアフリカの国に対しては独裁者だったと気付いたので、ポルトガルの植民地が1974年-1975年に独立していきます。1973年のギニアビサウ、1975年のカボヴェルデ共和国、1975年のサントメ・プリンシペ。1975年のアンゴラ人民共和国と、1975年のモザンビイク人民共和国(指導者はマシェル)はソ連の支援を受けるようになります。東ティモールは独立の準備中に、インドネシアが「ここは歴史的に言って、われらのものだ」と侵攻して、併合してしまいました。

アフリカで残るは、西サハラという地域、南アフリカに併合されているナミビアが独立していない状態と言えます。
アフリカの角と呼ばれる地域では、1969年10/15ソマリアのアリー シェルマルケ大統領が殺されます。クーデタがあって、バーレ少将の軍政になります。この時期から、ソマリ族がソマリア、ジブチ、ケニアの一部、エチオピアのオガデン地域にまたがっているので、1つの国家を形成すべきという大ソマリ主義を表立って掲げます。他の国からすると、自分の国の一部を奪われることになるので、かなりぎくしゃくします。
1969年にはリビアのカダフィ大佐が「緑の書」を表して、自分の政治哲学を披露していると、たしか書きましたね。1977年からはジャマヒリヤという独自の民主主義を装った制度を開始します。1979年には公式な役職名のある地位には就いていませんけど、最高権力者として独裁をしています。
1977年、オガデン戦争-エチオピアのオガデンに暮らすソマリ人が反政府運動を開始すると、大ソマリア主義を掲げるソマリアがソマリ人の住むエチオピアのオガデンも併合しようと戦争を開始します。エチオピア・ソ連・キューバが支持するオガデン州解放運動、アラブが支持するソマリアという構図です。
ソマリアのバーレはソマリ社会主義革命党の独裁体制で、自分の地盤である南部のマレハン氏族を重用して、国家予算を南部の開発に向けたので、1982年にはソマリア内戦が始まります。1988年、内戦で弱体化したソマリアが衰えたので、オガデン戦争は停戦になりました。
1976年セーシェルが英国から独立します。
チュニジアでは1982年にブルギーバ大統領が、レバノンにいられなくなったPLO/パレスティナ解放機構を受け入れています。1987年からはベンアリが大統領になります。そして、政治犯の釈放、党(立憲民主連合)と政府の分離を決定します。
□ナイジェリア
ビアフラ共和国の成立で内戦になっていました。1970年1/15ビアフラが降伏して。消滅します。勝利したナイジェリア軍政府ですけど、1975年クーデタで民政移管派が勝利します。この中には後に大統領になるオバサンジョもいます。ムルタラ・ムハンマド将軍が実権を握るんですけど、1976年に殺されます。最高軍事評議会の議長が将軍なので、副議長のオルシェグン・オバサンジョが混乱を抑え込みました。そして元首になると、1979年民政に移管します。シェフ・シャガリ大統領 が選ばれて、1983年にも再選されます。けど、12/31クーデタがあって、ムハンマド・ブハリが実権を握ります。1985年にはクーデタで、イブラヒム・ババンギダが実権を握ります。軍政が続きます。
□エチオピア王国
ハイレ・シラシェ皇帝の専制なんですけど、1974年にエチオピア革命が起こります。メンギスツ・ハイレ・マリアムが主導した軍部クーデタで、皇帝の孫、元首相、国会議長などを殺します。臨時政府を樹立すると、エチオピア国と改称します。
1975年、13世紀から続く帝政を正式に廃止しました。そして、軟禁していたハイレ・セラシエ1世を殺します。これで紀元前1世紀、または紀元120年頃からのアクスム王国の伝統が途絶えます。以降、軍政と独裁が続きます。
メンギスツ・ハイレ・マリアムはエチオピア人民民主共和国の初代大統領となると、エチオピア労働者党書記長、アフリカ統一機構議長ともなります。
クーデタを起こした1974年から1991年にかけて数十万人の反対派を殺しました。戦争や飢餓の拡大などによって、100万人が難民となりました。
□ウガンダ
1980年代は内戦です。政府側で貢献したツチ移民(ルワンダから逃げてきました)は、元々のルワンダへ攻勢を仕掛けます。
□ルワンダ
政権のフツ族は、国内に留まったツチ族との融和を進めています。そこにウガンダからのツチが反政府活動を仕掛けてきます。
□ローデシア
北部はザンビアという独立国になっています。
南部では1965年、植民地の指導者になっている英国人たちが、黒人との相談もなく一方的に英国からの独立を宣言して、ローデシア共和国を建てます。白人主義なので、国際的な非難を浴びました。1980年、南ローデシアがジンバブエ共和国として正式に独立します。今回は黒人主導です。選挙を経て、バナナ大統領、ムガベ首相(1987年から大統領になります)が就任しました。
□南アフリカ共和国
黒人の居住区であるソウェトで、反アパルトヘイトを掲げた決起があります。希少金属の産出国なので、輸入してきた国際社会は批判を抑えてきたんですけど、とうとう経済制裁をします。これがきっかけになって、国内の黒人を解放すると、次の時代、1990年に北西部がナミビアとして独立します。ナミビアはSWAPOと呼ばれる解放組織が活動していました。南アフリカのデクラーク大統領は、反アパルトヘイトの闘志 ネルソン・マンデラをロベン島から解放します。
アフリカ民族会議/African National Congress/ANCは、反アパルトヘイト活動をしていて、その議長がマンデラです。
アフリカの地域機構としては、アフリカ諸国は、1975年にECOWAS/エコワス/西アフリカ諸国経済共同体を、域内経済統合推進の目的で結成しています。
1989年には、AMU/アラブ=マグレブ連合を、アフリカの連帯と進歩と権利保護を目的に結成しています。マグレブはアラビア語で「日の沈む方角/つまり西」を意味しています。アルジェリア、リビア、モロッコ、チュニジア、モーリタニアを指す言葉ですね。エジプトを入れる人もいますけどね。
1963年のOAU/アフリカ統一機構が最古の組織で、連帯・新植民地主義反対が目的です。2002年にAU/アフリカ連合へ改称します。
他にSAO/セアオ(サオではありません)/西アフリカ経済共同体もあります。
基層の人たちを書きます。
文学では、元宗主国の言語で文学を書ける作家が多いので、欧米に受け入れられやすい素地があります。最初、エジプトや南アフリカなどの比較的経済の進んだ地域、それから、その他の地域でも世界的に受け入れられる文学が出てきます。ただそうした後発の地域では、独裁国家が多くて、政治的自由が少ないので、検閲を避けるために、寓話や歴史小説が多いですね。冷戦期の香港や韓国の映画にカンフー、恋愛、歴史映画が多くて、現代を描くものが少なかったのもそういうことです。南米の文学に幻想的な小説が多いのも同じだと思います。
1970年代以降2000年代までの文学を記します。
エジプトではナギーブ・マフフーズ「バイナル・カスライン」(日本語版「張り出し窓の街)、が日常生活を描いています。スーダンでは発禁になっているんですけど、アッ・タイーブ・サーレフ「北へ還りゆく時」が有名です。モロッコではターハル・ベン=ジェルーンが「砂の子ども」で、男子として育てられた女性の苦悩を描きます。ケニアではグギ・ワ・ジオンゴが「泣くな、わが子よ」でロミオとジュリエットのように対立する家の男女が出逢い、伝統文化ではなく、白人の教育を受けること、黒人間の対立などで苦悩する様子を描きます。エイモス・チュツオーラが「やし酒飲み」でナイジェリアの寓話を描いています。旅をして戻ってくる話だったと思います。
ナイジェリアの戯作家、詩人として有名なウォーレ・ショインカは「神話・文学・アフリカ世界」という作品を著していて、ノーベル文学賞をアフリカ人として初めて受賞した人です。ジンバブエではチャールズ・マンゴシ「乾季のおとずれ」、南アフリカでは、ナディン・ゴーディマーが獄死した父親を通して娘が観る社会を「バーガーの娘」で描いています。一時、禁書になっていました。
□□カリブ海地域
1974年、グレナダが英連邦内で独立します。そしてこの年、クーデタで親ソ親キューバの政権がグレナダに誕生します。これは対米を意味するので、米国(レーガン大統領)が1983年に侵攻してきます。そして、左翼政権を打倒して、ソ連とキューバの影響を排除して、1984年に親米政権を打ち立てます。これ以降も、米国は敵対的な他国の政権に、戦争を仕掛けたり、クーデタを支援して打倒していきます。相手国の民意などおかまいなしです。表向きは民主主義を標榜して、世界の警察官を名乗るんですけど、民意をつぶして、戦争を仕掛けています。
この1983年の米国のグレナダ侵攻を理由に、多くの東側諸国が1984年のロサンゼルス・オリンピックをボイコットしました。1980年のモスクワ・オリンピックのボイコットへの報復としてという意味もありました。
□□ラテンアメリカ
民主的に選ばれた政権であっても、ソ連側の左派政権が生まれると、米国はクーデタを支援したり、米軍が侵攻して、左派政権を打倒します。右派政権の場合には、独裁者として民衆を殺していても、米国は武器やお金を提供して、米国側に付かせています。
1973年、カリブ共同体の成立。
1981年、ラテンアメリカ統合連合、カリブ共同市場、東カリブ諸国機構が発足します。
1983年、米国のグレナダ侵攻以降、対米負債/借金が拡大したり、米国外交への不満が溜まっていきます。1985年の第七回ラテン諸国会議で、キューバのカストロの呼びかけに応えて、米国から離反して、親キューバになる政権が増えます。戦後は独裁政権、クーデタで軍政になるという流れの多いラテンアメリカでは、1980年代半ばからブラジル、ウルグアイ、アルゼンチン、チリ、ホンジュラスなどが「軍」部が「政」権を担当する「『軍』『政』」を終えて、民政に移管していきます。
流刑地だったフランス領ギアナは1848年に奴隷制を廃止したあと、アジア系の移民が流入しました。この土地の人たちがフランス市民権と選挙権を獲得したのが1974年、フランスの海外県となります。2022年時点でも、そのままですね。独立していません。人口は16万人で、スリナムからの難民が1万人います。バナナ、トウモロコシ、コメ、ラム酒のためのサトウキビ、魚の輸出をする地域です。
□メキシコ
2020年代でも世界10位の石油生産量という国です。石油頼みの経済なので、20世紀後半には、石油価格の下落で低迷して、財政が悪化します。
□ベリーズ
1973年に、ブリティッシュ・ホンジュラスからベリーズに改称します。マヤ語で泥水という意味だそうです。グアテマラが領有権を主張して、英国と争っていたんですけど、
1981年、英国から独立します。2022年時点では、アメリカ大陸で最後の独立をした国家となっています。いまだに独立していないのはフランス領ギアナくらいかな。
□エルサルバドル
1980年、ホンジュラスと国交を回復します。
極右によるテロが勃発すると、左翼ゲリラが抵抗活動をして、1980年代初頭、内戦が激化します。米国が介入するんですけど、おさまりません。
□ニカラグア
1936年に国家警備隊長官のアナスタシオ・ソモサ・ガルシアが自由党のサカサ政権をクーデターで追放して以来の独裁です。1956年にアナスタシオは詩人に殺されました。その後、長男のルイス・ソモサが独裁を続けます。1963年からルイスの秘書ルネ・シックが政権を担当するんですけど、1967年に次男のアナスタシオ・ソモサ・デバイレが大統領となっています。
1979年、ニカラグア革命-サンディニスタの活動で、ソモサ独裁政権が打倒されます。
サンディニスタは、ソモサ・ガルシアに殺された革命の闘志アウグスト・サンディーノ(1920年-1930年代に活躍)にちなんでいます。
このサンディニスタが1979年6月に決起して、臨時政府を樹立しました。親ソ親キューバの社会主義政権が生まれたんです。ソモサは米国に亡命して、その長期独裁政権は終わりました。
このニカラグア革命政権は、土地改革・識字運動の推進、ソモサ家の財産没収などを行います。けど、そのあまりに急進的な革命には中間層が反発して、1980年には中道派が離脱したので、革命派は困難な事態に陥りました。
1983年から米国のレーガン大統領が、左派のサンディニスタ政権が周辺諸国の反政府ゲリラを援助しているという理由で、爆撃や港湾への機雷敷設など介入を開始します。 この時期、米国の議会は孤立主義の伝統をもつ民主党が過半数を占めているので、米軍の派遣には反対しています。それで、反政府の組織「コントラ」への支援だけに留まっています。ただ、ニカラグアは内戦になってしまいます。サンディニスタはキューバとソ連から軍事支援を受けました。
サンディニスタ政権は1984年に、米国の行為は侵略だと国際司法裁判所に訴えます。パナマのコンタドーラ島でメキシコ,パナマ,コロンビア,ベネズエラも仲介を申し出るんですけど、なかなかうまくいきません。
1987年にグアテマラで開催された関係国会議で、1990年に自由選挙を行うことで合意、1989年末にはマルタ会談で冷戦の終結宣言が出されたことも、和平を進展させます。
国連の選挙監視団もいた1990年の総選挙で、サンディニスタ社会主義政権が国民の支持を得られずに野党になります。チャモロ候補を米国は支持していたので、野党連合のチャモロが新大統領に就任します。 親米政権です。
その後、三期続く中道・保守政権では、汚職、経済格差が拡大します。
□コスタリカ
1983年から非武装中立を国是とします。平和憲法ですね。米国が支援しています。私は理由を知りませんけど、コスタリカと日本は移民協定を結んでいて、比較的容易に移民ができます。
□パナマ
1972年からトリホス大統領の軍事政権になっています。主権回復を求めて、1974年-1977年にはパナマ運河の返還を米国と交渉して、トリホス-カーター条約を1977年に結んでいます。1903年のパナマ運河条約に代わって、新パナマ運河条約とも言われます。西暦1999年12/31.12時00分に、米国がパナマ運河を返還すると決定しました。実際は2000年に実施されます。
トリホスは1979年に引退して、1981年に飛行機事故死するんですけど、
1983年からのノリエガ将軍の独裁政権時代には、米国が「麻薬を米国に密輸出しているだろう」という疑いを口実にして、米国が運河の支払料金の停止措置を取ります。ソ連が衰退して、冷戦の終わりが見えている時代なので、ラテンアメリカへの支配権復活を狙っているんです。1989年には米国が侵攻してきて、政権は崩壊します。親米政権へ代わります。パナマ運河の使用権は米国が支配しています。
□コロンビア
1974年、二つの党が合同していた国民戦線は解散します。その後、マフィアや、FARC/コロンビア革命軍などの左翼ゲリラの反政府活動が活発化します。麻薬の製造などで資金を得たFARCは1984年に愛国同盟という政党を作ります。和平交渉の結果、合法政党として議席も得るんですけど、その後も議員の殺害などを続けました。和平交渉は頓挫、つまり中断してそのままになりました。
□エクアドル
軍政から1979年に民政移管します。つまり、「軍」部が「政」権を担当する「『軍』『政』」から民主的な選挙を経て、文民、つまり市「民」が「政」権を担当する「『民』『政』」へ政治体制が移った、つまり移管したということです。
地域対立、経済格差による階級対立で小党が分立する状態です。小さな政党が分立すること自体は悪くはないんです。独裁者を生まない傾向があるし、多様な世論を反映できるからです。ただ、複数の政党が連立を組まないと政権が安定しないので、長期的な政策を実行できない負の側面もあります。日本では、自民党の強い時代には首相在任期間が長くて、日米安保などが結ばれました。ただ、議会軽視で、安倍政権の強行採決などが批判される時期でもありました。
□ベネズエラ
有名人たちのどんちゃん騒ぎはなくて、基層の人たちが1975年、エル システマを発明しています。スラム/貧困地区の貧困家庭の子どもに無料で楽器を貸して、世界のトップ指揮者のアバド、バレンボイム、サイモン・ラトルなどが演奏を指導する制度です。居場所ができるし、自己表現ができるし、犯罪グループと近づく時間を減らせます。貧困と犯罪から救う目的です。21世紀には世界で活躍する音楽家が輩出しています。21世紀には日本を含めた20カ国以上にこのシステムは普及しています。関心のある人には「魂の教育 エル・システマ」という本があります。
□スリナム
1975年、スリナムは、オランダから独立します。人口41万人、先住民とクレオールは20%以下で、黒人は33%、奴隷制廃止以降にオランダが送り込んだインド系の人が34%と、ジャワ系の人が15%です。ギアナ地域では、英国領ガイアナに続く独立です。イスラーム、ヒンドゥーが混在しています。経済低迷後はクーデタが起こります。
□ペルー
1968年、クーデタがあって、ベラスコによる軍事独裁政権が建てられました。米国一辺倒をやめて、中ソ日キューバと親交をします。
不況なのに、1973年のオイル・ショックで追い打ちをかけられて、民衆の支持を失っ田政権は、1975年にクーデタで打倒されました。1980年、再び民政へ戻ります。
日系のアルベルト・フジモリ大統領(のちに日本国籍を保有していた、日本人であることが判明します)は行財政改革を進めます。そして、抵抗する議会を解散したり、ゲリラを抑え込んだりと強権的です。
フジモリは、緊縮財政を敢行します。
□ブラジル
軍政下、外資を導入して高度経済成長をしていたんですけど、1973年のオイル・ショックで頓挫します。その後、核兵器の開発も始めたようです。
1979年、政党を作っていいと許可を出しました。相変わらず経済は低迷しているし、ファベーラ/スラムへの弾圧的な取り締まりへの反発で、軍政への支持は低下していきます。そして、1985年に民政移管がなされました。
サルネイ大統領の下で、通貨切り下げをして輸出を増やそうとしたり、1988年には新憲法を公布して、先住民の権利保護、人種差別の禁止、非識字者/字が読めない人の選挙権を認めたりします。この頃からアマゾンの伐採が進んで、砂漠化もみられるようになっていきます。1988年頃からバブル期を迎えている日本に出稼ぎにいく日系ブラジル人が増えます。
□ウルグアイ
ゲリラ掃討に功績のあった軍部の発言権が増して、1977年にクーデタを起こします。権威主義国家化して、官僚主義国家化もします。人口の20%が治安関係者だそうです。民間の企業が育っていないということですね。つまり、税収が少ないということです。1981年、軍の政治介入合法化案が国民投票で否決されました。そして1984年から民主化を開始します。
□パラグアイ
コロラド党の党首、ドイツ系のストロエスネルが1954年にクーデタを起こしたときから大統領を務めています。だいたい10年以上も大統領をしていると、独裁だなと分かります。ドイツ系なのでということが理由になるのかどうかわかりませんけど、ホロコーストなどに関わったナチスの戦争犯罪人のうち、国外逃亡をしている人がパラグアイに入って来て隠れていても、逮捕したり引き渡したりはしていません。
首都だけは大きくて新しい建物が立っていて、地方には水道も完備さえていないという地域格差があります。こういうのは独裁国家、独裁的な府県道都には見られますね。県庁舎だけは豪勢というところです。経済が低迷を始めると、大統領の世襲に対して不満が募ります。
1989年に側近が決起して、8期35年間も職に就いていたストロエスネル大統領を追放します。もう冷戦も終わりなので、米国も支えなかったんです。
□ボリビア
1982年、民政移管がなされます。
ハイパーインフレです。例えばコーヒー1杯が今日は4000万円です、クレジットカードの普及していない時代には、財布にそんなに紙幣は入らないし、バッグは札束だけでいっぱいになります。為替も大変なことになります。明日にはコーヒーは4100万円になっています。10%の値上げです。利子が一日で10%の銀行など存在しないので、預ける人はいません。みんな使ってしまう方がいいと思っています。それで、お金が集まらないので銀行は倒産します。こうした事態に対応するために政府は、100万分の1の通貨切り下げで押さえこみます。「新しい1円通貨を発行するよ。昨日までの100万円と同じ価値だよ」ということです。ボリビアの通貨は円ではなくて、ボリビアーノというそうです。
□アルゼンティン/アルヘンティーナ
民主化でペロンが復帰して、1973年に大統領になるんですけど、1974年に病死します。ペロンが亡命中に、スペインのバルで踊っていたイサベルと出会っています。この人が後妻になったイサベル・ペロン/エヴァ・ペロン/エビータで、副大統領になっていました。そして夫の死去で、大統領へ昇格します。世界初の女性大統領です。世界初の女性首相はスリランカのバンダラナイケでしたね。
ただ、失政で1976年にはクーデタが起こって軍政へ代わります。
ビデラ大統領は親米なので、米国が介入することはありません。
ただ、ハイパーインフレになってしまいます。中南米ではなぜハイパーインフレーションが多いのかというと、はっきりはわかっていません。考えると、独裁体制を維持するために基層の人たちの支持をつなぎ留めたい、だから税収は少なくて財政に余裕がないのに支出をたくさんしています。つまり放漫財政です。そして不足分を国債の発行で補っているので、借金漬けになっています。つまりいつデフォルト/債務不履行になるかわかりません。国家が破産したら通貨は無価値になるので、基層の人たちは自国の通貨を信用せずにドルを持ちたがります。だからドル高、自国通貨安(アルゼンティンの通貨はペソ)になるので、インフレになるということだと思います。
アルゼンティンの場合は、そういうパターンに加えて、輸入代替を狙っていました。輸入するのではなく、自国でつくるという方針です。そのために農業に注力していた資本を分散しました。結果として、外貨を稼いでいた農業部門が不振に陥りました。工業部門も巧く育たず、国際的な市場でも売れませんでした。ペロンの時期にすでにインフレは始まっていました。軍政になってそれがハイパーインフレになったということです。
軍政の中ではどんどん人が入れ替わっていきます。
1982年、ガルティエリ大統領は基層の人たちの不満を逸らすために、マルビナス諸島を英国から奪還しようと戦争を起こします。1832年から英国が占領していて、英国名ではフォークランド諸島です。
このフォークランド戦争/紛争でアルゼンティンは負けます。米国は英国を支持しました。米国の傀儡で作られたOAS/米州機構はこの時、アルゼンティンを支持しました。
経済はうまくいかないし、戦争でも負ける軍政に期待するものは何もありません。基層の人たちの間で、反軍感情が沸き上がって、軍政は崩壊しました。
1983年に民主化されます。アルフォンシンが大統領になります。
戦争で英国を支持した米国から、ラテンアメリカ諸国が離反していきます。そして、アルゼンティンに同情的な空気が生まれました。この空気の中で、民主的な政府は、チリに対して国境問題で譲歩して、関係改善をします。マルビナスの敗戦ショックがあるので、国民も受け入れました。ブラジルとも関係改善をします。平和路線で、軍事支出も削減します。
そして、ラテン・アメリカでは初めての、戦争犯罪の軍人を裁くことにしました。さらに、軍を文民統制化におきます。
経済では、外貨準備高に見合う規模に紙幣の増刷を制限することで、インフレを防ぎます。民営化も進めます。外交では親米路線を取ります。
□チリ
軍事政権後、人民連合の支持を受けて、1970年アジェンデの率いる社会主義政権が成立します。左派なので、米国覇権主義と結んでいるブルジョワジーに対抗するために、米国系の資本や資源を国有化します。大土地所有も解体します。年金と賃金を上げます。
この結果、財政悪化とインフレを招きました。需要は上昇するんですけど、供給が減ったんです。不満を持った労働者が武装化します。
1973年、米国の支援を受けたピノチェトの軍事クーデタで、政権は崩壊します。アジェンダは死去しました。娘は作家のイザベル・アジェンデで、「精霊たちの家」という面白い小説を書いています。
1974年からピノチェト大統領が独裁の軍政です。人民連合を弾圧したり、反共政策を取ったり、ストライキ禁止令を出したりします。外交では、対米協調路線です。
米国の経済学者ミルトン・フリードマンなどの助言を受けて、市場開放政策を取るんですけど、高失業率、低成長は変わりません。
選挙で敗北すると、1990年に下野したので、民主化します。
基層では、ホセ・ドノソが代表作「夜のみだらな鳥」を書いています。つまらなかった記憶だけあります。
□□アメリカ合衆国
リチャード・ニクソン大統領です。
1972年訪中して、米中関係を改善します。大陸中国を承認します。政治面でのニクソンショックです。金/GOLDとの兌換を停止するドル・ショックもありました。
「脱ヴェトナム化」も進めています。1973年、ヴェトナム戦争は休戦します。米軍が抜けただけで、南北のヴェトナム人は殺しあいます。
1974年、ウォーターゲート事件-前回の大統領選挙期間中に、敵対する民主党本部の入っているウォーターゲートビルに、盗聴器を仕掛けたことが暴露されて、辞任しました。
関心のある人には、「ディープスロート」という本があります。メディアに情報を流していた人の綽名がディープスロート/長い舌でした。
1974.8からジェラルド・フォード大統領(共和党)。外交は「多様化の中の平和」をスローガンにしています。
1977年からカーター大統領(民主党) 「人権外交」
1978年、エジプト・イスラエルの和平を仲介するキャンプデービッド会談の立役者です。
1979年、対ソ連戦略として中国と国交を結びます。台湾と断交するということです。
イラン革命の時に、米国大使館が占拠されて、米人が人質になっています。この奪還作戦を指示したんですけど、失敗しました。
ニカラグアに介入するのもこの時期です。スリーマイル島の原発事故も起こっています。
経済的に衰退してきて、日本が台頭している時期なので、エズラ・ヴォーゲルが「Japan as Number 1」という本を書いています。NO1としての日本が近づいている、米国は日本を見習おうという主旨です。年功序列、新卒一括採用などの日本的な雇用を研究して、そこに強みがあると指摘しています。あくまでこの時代の日本に適したいたということです。
1981年、レーガン大統領(共和党)。俳優出身で、カリフォルニア州知事になった経歴を持っていて、シュワルツネッガーがその点で重なります。外交のスローガンは「強いアメリカ」です。1982年、フォークランド紛争で英国側に立って、中南米の諸国に距離を置かれました。1983年にはグレナダに侵攻しています。軍事費を増やしたので、財政赤字は増えました。ただ戦争はせずに、イラン内のアメリカ大使館人質事件を解決しました。経済面では自由貿易体制、国際協調の維持を主張しています。カナダとFTA/自由貿易協定も結んでいます。それで、貿易赤字も増えて、双子の赤字が拡大しています。
1985年には純債務国になっています。対外債務(米国の国債などを外国人が持っているということです)が対外資産(米国人や政府が持っている外国債券など)を超えている状態です。
レーガンがよく口にするMake America Great Again (アメリカを再び偉大に)は、のちにトランプ大統領も使用します。
国内では共和党の伝統で、小さな政府を志向します。財政赤字の削減には効果があると思います。レーガンのエコノミクスということで、レーガノミクスと言われる経済政策ですね。減税、民営化、規制緩和、市場主義で、21世紀初頭の新自由主義にも通じます。
1985年、双子の赤字(財政と経常収支赤字)を減らすために、プラザ合意で、ドル高是正をします。
1987年にはブラックマンデーという株価の大暴落もありました。
この年、中距離核戦力全廃条約をソ連と結んでいます。
1989年1月、ジョージ・ハルバート・ウォーカー・ブッシュが大統領に就任します。
1989年12月にマルタ会談で、ソ連のゴルバチョフ大統領と、冷戦の終結を確認しています。二人とも1990年にノーベル平和賞を受賞します。
冷戦の終結は、ソ連にとっては雪解け、デタントの延長としての和解です。米国にとっては、資本主義、民主主義が共産主義、社会主義に勝利したという捉え方です。勝利したなら日本や西ドイツに対してしたように支援すればいいんですけど、そうはしませんでした。むしろNATOの拡大、EU拡大などで、旧ソ連圏を取り込んでいって、降伏した敵を追い詰めるような態度を取りました。それが2014年のクリミア併合、2022年のウクライナ侵略という反抗につながります。
1989年から1990年にかけて、米国はパナマに侵攻して、ノリエガ政権を転覆させています。
基層の人たちを書きます。
1973年、中絶の権利を原則として認める判決が連邦最高裁で出ました。キリスト教徒の間では、子供を堕胎する行為は神の教えに反すると考える人もいるんです。自分の身体に関しては自己決定権があるという近代的な人権と対立するので、連邦政府が中絶を合憲としても、州政府の州法では違法になったりします。
キリスト教では、受精した瞬間から人間です。人間の生命は神の意思だけでどうにでもなるので、人間が人間を殺してはいけないという考えです。原罪はあるけれど、まだ現世で罪は犯していない無垢の存在を殺すということで罪が重いと考える人もいます。無垢でも悪人でも、殺人に等級を付けるのはおかしいという考えもあります。出産前なので子どもは洗礼を受けていませんけど、親はキリスト教徒ということですね。
死刑制度の廃止は人権を考慮してのことだと思います。死刑制度を維持していて、中絶は禁止している州はあるのかな。関心のある人は調べてください。
この時期には、バロウズの「裸のランチ」(1959年出版)がよく読まれていて、コカイン、ヘロインなどの麻薬/ドラッグ、ボヘミアン・スタイルは10代、20代の通過儀礼で、自己表現で、アイデンティティ確立までの過程で経験すべきことと思われていました。バスキアは家出をして、友人の家に泊まってコカインを吸ったり、ヘロインを注射したり、街の壁にスプレーで絵を描いたりしました。家もお金もないから描く場所が街だけなんですけど、認められたい、有名になりたいと思っていたので、アートの街SOHO界隈で描いていました。バスキアは、治安の悪い街で銃声を聞いたりしながら、少しずつ作風も変えていきます。SAMO(セイモ)のサインが有名なんですけど、最初、正体は謎でした。知りあいの服飾店のウィンドーで作品を展示したりもしています。その後は展覧会を開いて、有名人になります。バスキアの人生は、映画にもなっていますね。「バスキア」(1996年)、「BOOM OF REAL」(2018年)です。
建築では、1973年にマンハッタン南端にワールドトレードセンター/WTCのツインタワーが営業を開始しています。バスキアもこの威容を目にしています。2001年9/11にテロで破壊されます。
1980年、カリフォルニア州にクリスタル大聖堂が建てられます。フィリップ・ジョンソン設計のガラス張りで、表面に鏡もあって、この地域の強い太陽光を跳ね返す建築です。
絵画では地下鉄や街中の壁へのグラフィックアートが流行した時期です。中でもバスキアは絵と文(詩も含む)を融合させたことで高い評価を得ています。スプレイ・ペインティングのバスキアは、黒人がアート界で認められた先駆者と言えます。バスキアはヘロイン中毒で死去しています。
バスキアの他にも美術学校などのアカデミックではない出身者が活躍します。ストリートアートの先駆的な存在キース・へリングはチョーク画のAIDS撲滅の絵で有名です。キース・へリングもHIV感染者で、それが死因にもなっています。
この時期にはコピー機の性能が上がったことで、新聞や本やポスターの切り貼りをしてコピーをするコラージュの手法が流行しました。
文学では、トマス・ピンチョンの「競売ナンバー49の叫び」「ヴァインランド」(分厚いです)、カート・ヴォネガットJrの「スローターハウス5」、リチャード・ブローティガンの「アメリカの鱒釣り」、アーサー・ヘイリーの「ホテル」、チャールズ・ブコウスキーの「町でいちばんの美女」、フィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」(SF)がたくさんの人に読まれました。
映像では、1975年にイーストマン・コダックがデジタルカメラを開発します。
1972年、フランシス・フォード・コッポラ監督の「ゴッドファーザー」が公開されました。マフィア映画ですね。ジョージ・ルーカスの「スターウォーズ」は映画に年代記・神話・シリーズものを持ち込んだと言われています。「激突」で名を挙げたスティーブン・スピルバーグは「ジョーズ」「未知との遭遇」「インディアナ・ジョーンズ」「E.T.」などで有名で、SFXなどの常に最新技術を追っています。2000年代には3D「アバター」を撮っています。
音楽では、ラップが普及して、ヒップホップも登場しています。ニューヨークのマッドクラブやクラブ57はアート界のキュレーターや、既に地位を得たアーティストが、これからのアーティスト(バスキア、ヘリング)、ヒップホップなどの文化と出会う場になりました。ブレイクダンスも10代、20代の文化として生まれました。
□□西欧
□アイルランド
英国が占領している北アイルランドでは、王政派、英国軍と、カトリックのアイルランド人との間で衝突が絶えません。1971年、フォークナー北アイルランド首相は、インターメント/非常拘禁法を実施します。令状なしで逮捕ができるというもので、拘留機関の定めもなく裁判もなく拘禁の理由さえも明らかにする義務がないというものです。無期懲役よりも酷いです。21世紀初頭の日本の入国管理局の酷さも似たようなものだと言われますけどね。北アイルランド政府はデモも、一年間禁止しました。
1972年、血の日曜日事件-北アイルランドでカトリック市民のデモ隊に対して、イギリス軍が発砲して、13人/14人が殺されます。英国軍は「IRAが発砲してきたからだ」と嘘を言いました。何十年か経過して調査がなされて、2010年に英国の下院でキャメロン首相は謝罪をします。兵士が警告なしに発砲したことや、デモ隊は反撃しなかったこと、IRAの銃撃もなかったこと、負傷者を助けようとした人も撃たれたこと、兵士が嘘をついたことを認めました。 48年も経過しているんですけどね。何年経過しても嘘を認めない政治家や官僚が日本にも米国にもどこの国にもいるので、それよりはましなのかな。
この事件をきっかけに、もう北アイルランド政府には統治力がないと判断して、英国が北アイルランドの直轄統治をするようになります。。
1973年、アイルランドは拡大ECに加盟します。米ソに加えて「第三の巨人」と言われます。
この年からIRA/アイルランド共和国軍が、英国で爆弾テロを開始します。
1980年、英国との間で、北アイルランド問題の解決に向けた模索がはじまります。同時にIRAも活動を激化させています。
□英国
1973年、ECに加盟します。拡大ECですね。米ソに加えて「第三の巨人」と言われます。地図の薄い水色で、英国とアイルランド、デンマークの加盟を示しています。

「鉄の女」という異名を持つサッチャー首相(1979年-1990年)は、市場に介入するという伝統的な英国政府のケインズ的な政策から脱して、小さな政府を志向します。1982年にはフォークランド紛争で勝利しているので、国民の支持を固めています。それで、シカゴ学派の意見を取り入れて、市場原理に任せるんですね。サッチャリズムと言われます。日本の中曽根首相、西ドイツのコール首相が模倣する政策です。新自由主義 と言えます。価格規制や雇用の保護などをなくす規制緩和、国有企業の民営化、戦後にアトリーが推し進めた揺り籠から墓場までの時代は遠くなりました。北海油田の開発もします。
外交では、中国の鄧小平と香港返還の交渉を開始しています。鄧小平もこの頃、シカゴ学派のフリードマンを招待して話を聞いています。改革開放に生かすんですね。
基層の人たちは何をしているかというと、テレンス コンラン卿が主にインテリア、ホテル設計にも関わっています。
舞台では、英国はセリフ劇が主体なんですけど、テアトル ド コンプリシテがほとんどセリフなしの肉体芸術を作り上げています。
□フランス
ジスカールデスダン大統領が、ドル・ショック、オイル・ショック後の世界経済を憂いて、サミット開催を提言します。
1981年からはミッテラン大統領(-1995年)の時期です。
富裕税を導入したり、産業の国有化をしたりと、この時期の米英日とは異なる政策を実施しています。
基層の人たちを書きます。
服飾では、1972年にピッティ・イマジネ・ウオモが初めて開催されました。これは世界最大規模の男性(uomo)の既製服の展示会です。バイヤーとデザイナー、メーカーが集まる、流行の発信源の一つになります。元は1951年で女性用に始まりました。この当時はフィレンツェのピッティパレスで開催されて、2020年代にはバッソ要塞が会場になっています。
思想では、ジル・ジルドゥルーズとジャック・ガタリが、すべての個体はあらゆる段階の個体と関係しているとか、欠如(欲望)を埋めるために消費が生まれるとか、ミクロの動きがマクロの安定構造を生むとか、偶然の揺らぎが全体を決定するとか、社会も経済も歴史も過渡的局面に過ぎないというようなことを考えています。
舞台では、ジンガロが、合図や命令をせずに人馬一体の舞台を作っています。先生によると、不思議な時空間にいるような感じがするそうです。
□ポルトガル
1968年、サラザール政権が崩壊して、カエターノ首相が権力を掌握します。
1974年、軍部が離反するカーネーション革命が起こって、カエターノはブラジルへ亡命しました。この渦中、独裁者から解放されたポルトガル人は、自分たちも植民地を解放することを決意します。
1973年のギニア・ビサウは革命前ですけど、1975年にはカボヴェルデ共和国、サントメ・プリンシペ、アンゴラ人民共和国、モザンビイク人民共和国が独立します。
ポルトガル領インドネシアだった東ティモールは、サラザール退陣でポルトガルの植民地独立運動が活発化していく波に乗ろうとしていました。けど、ポルトガルにとどまりたい一派、インドネシアに併合されたい一派の内輪もめがあって、1975年にインドネシアが介入します。「ここは歴史的に言って、われらのものだ」と侵攻して、1976年に占領、併合しました。日米などは冷戦の関係上、反共産主義のインドネシア政府を支持するので、黙認しています。
1975年、ポルトガルは大陸中国と国交を結びます。マカオを返還するという打診をしたんですけど、交渉は開始されませんでした。
ポルトガルは、1976年に新憲法を制定して、社会主義的な民主政を採用します。
1986年、独裁もなくなって安定してきたので、ECに加盟します。
□スペイン
1975年、フランコ将軍が死去します。フランコの遺言によって、ファン カルロス一世が即位、ボルボン朝が復活します。スペイン王国になりました。
1978年、スペインで民主的憲法が制定されます。立憲王国ですね。
1979年、カタルーニャは自治憲章を制定します。カタルーニャ語がカタルーニャの公用語になりました。カタルーニャを弾圧してきたフランコがいなくなったので、できたことです。
1986年、独裁もなくなって安定してきたので、スペインがECに加盟します。
□□ソ連
スターリン死後から、集団指導体制になっています。
ブレジネフ書記長は、反体制作家のソルジェニーツィンを国外追放します。ソルジェニーツィンは、「イワンデニーソヴィチの一日」でスターリン時代の抑圧を書いたんです。1970年にはノーベル文学賞を得ていますが、米国へ移住することにしました。ソ連崩壊後に、市民権の回復を認められて、1994年に帰国、2008年に死去します。
ブレジネフは反体制派の核兵器開発運動に対して、その一人であるノーベル平和賞(1975年)の受賞者で、物理学研究者のサハロフ博士の出国を不許可とします。サハロフ博士はソ連水爆の父とも言われる人なんですけど、平和活動に転向したので、流刑などにあっています。
1978年、アフガニスタンと善隣友好条約を締結しています。そのアフガニスタンで、アミン軍事政権が独裁化すると、親ソ連の共産主義者を排除する動きが出てきます。これに対して、善隣友好条約に反するという口実で、ソ連がアフガニスタンに侵攻しました。アミン首相は殺されて、カルマル政権が樹立されます。ソ連の傀儡ですね。
これが1979年-1989年のアフガニスタン戦争のはじまりです。
このソ連の外国への介入方針の大元は、1968年のブレジネフ・ドクトリンにあります。憶えていますか?共産主義、社会主義国家は自国を最優先せずに、社会主義全体のことを考えるソ連が指導するので、主権制限もされるべきという方針です。
国際情勢としては、1979年という年は、西隣でイラン革命が起こっています。イスラーム運動が活発なので、アフガニスタンにもイスラーム政権が成立すれば、ソ連内にいるイスラーム系諸民族の抵抗、自治独立運動を誘発する可能性がありました。チェチェン共和国などがそうですね。だから、アフガニスタンに親ソ連の政権を打ち立てておく必要があると考えたんです。これも侵攻の理由です。
大陸中国では社会主義に見切りをつけた鄧小平の改革開放、英国では大きな政府による市場介入に見切りを付けたイギリスのサッチャー首相による新自由主義の導入がありました。
第二次世界大戦後に始まった冷戦体制は、1970年代のデタントから新冷戦へという流れを経て、民族主義から宗教(イスラーム)へ、社会主義の普及から資本主義へという時代の区切りとも取れます。
米国のカーター大統領は、ソ連の侵攻を批判します。西側諸国に1980年のモスクワ・オリンピックのボイコットを呼びかけます。米日韓中、インドネシア、パキスタン、サウジ・アラビア、西ドイツなどが不参加を選びました。ただ、英仏伊、オランダ、ベルギー、オーストリアは参加しています。なにが判断を分けたんでしょうね。関心のある人は調べる方法もあると思います。
米ソのSALTⅡ/第二次戦略兵器制限交渉では、米国は調印するんですけど、米国議会は批准を否決したので、実施されませんでした。
米国のレーガン大統領はソ連を「悪の帝国」と非難します。のち、ジョージ・ウォーカー・ブッシュがイラク、イラン、朝鮮を「悪の枢軸」と呼ぶのは、この悪の帝国に由来していると思います。たぶん、この時期、映画「スターウォーズ」が人気になっているので、敵役ダース・ベイダーのいる「帝国」から取った名前だと思います。違うかな。
米ソは「新冷戦」へと入ったと言われています。宥和の時期が終わったんです。
アフガニスタン戦争中、米国はソ連に経済制裁もするし、アフガニスタンの反政府勢力に武器も提供します。戦術、戦闘方法も教えるし、武器の使い方も教えます。
ソ連は国際的な非難を浴びるし、また米国が武器供与・戦術訓練などをして、イスラーム世界からの志願兵による激しい抵抗もあって、戦争は長期化します。ソ連が撤退すれば、イスラーム国家になってしまいそうなので、引き揚げられません。コストもかかります。
この時期、西アジアではイラン・イラク戦争もあって、イラン産の石油を国際市場で誰も買わなくていいように、その分はイラクが提供しますということで、イラクが石油の増産をします。これで石油の価格が低下したので、イランは当然なんですけど、産油国ソ連も収入減で打撃を受けました。
こうしてソ連体制の硬直化が露見して、改革が求められる中で、
ソ連の書記長はブレジネフから1982年にアンドロポフ、1984年にチェルネンコ、そして1985年にゴルバチョフへと変わっていきます。
ゴルバチョフは新思考外交を掲げました。大きく言うと西側との緊張緩和です。
①西側との相互依存という現実を重視して、政治体制は違っても、核軍縮などで協力していこうということ。第一の目的は、軍事費の削減です。ただ、実際は米国と共同歩調を取らずに一方的に軍事削減を掲げることもあります。
②他の社会主義国との対等の関係も掲げた外交の方針です。
東欧に対する指導性を否定するシナトラ・ドクトリンと言われるものです。
この方針に則って、
1986年、アイスランドのレイキャビクでレーガン米国大統領と会談して、核軍縮促進を協議しています。
1987年、米ソは中距離核戦力全廃条約を結びます。
1988年に国連の仲介でジュネーブ和平協定に合意すると、ソ連はアフガニスタンから撤退を開始、1989年に撤退を完了します。
1989年12月にマルタ会談。マルタ共和国の沖合で、ゴルバチョフ書記長と、ジョージ・ハルバート・ウォーカー・ブッシュ米国大統領が「冷戦」終結を宣言します。
こうした功績で、1990年のノーベル平和賞を受賞します。ノーベル平和賞は、これまでの行為よりも、今後を期待して、勇気づけて、このままの道を進みなさいという思惑で贈られるものです。
ゴルバチョフが登場して、国内でも改革をしていきます。この動きはソ連解体につながっています。
1986年、ペレストロイカ(再建)をスローガンに掲げます。さらにチェルノブイリ/チョルノーブィリ原発事故があって、隠していたものを三日後にようやく公開したことを西欧諸国から批判もされたので、グラスノスチ(情報公開)も政策として掲げます。
サハロフ博士の解放など、スターリン時代から続く弾圧、殺害、流刑になった犠牲者たちの名誉回復なども進めます。やっぱり有罪ではなかったと承認することです。
この時期に関心のある人は「クレムリンの5000日」(首相にもなるプリマコフ.NTT出版.2002年。エリツィン、プーチンの初期までの内容)という本に詳しく書いてあります。
ソ連/ロシアの大統領府はクレムリン(「城塞」の意味)と言われていて、モスクワの赤の広場の前にあります。ロシア帝国の宮殿でもあって、ソ連時代には共産党の本部も置かれました。クレムリンのように権威ある建物には別称もあります。
韓国の大統領府は青瓦台/せいかだい(2020年代に移転する予定です)、中国は政府と共産党本部が中南海、日本では国会を意味する永田町、省庁は霞が関、米国の大統領府/住まいの公邸と執務の官邸はホワイトハウス、英国の官邸はダウニング街10番地(女王はバッキンガム宮殿を公邸、官邸としています)、フランスは別称ではありませんけど、エリゼ宮に大統領の官邸があります。
次の時代ですけど、1990年にゴルバチョフ書記長は、権限強化のために新設したソ連大統領に就任します。ソ連共産主義の象徴であるレーニンの名を冠したレニングラードを、以前のペテルブルクという都市名に戻します。
このころ、前後してバルト三国がソ連からの独立を宣言します。
次の時代ですけど、1991年エリツィンがロシア共和国大統領となって、ソ連共産党からの離脱を宣言します。
ソ連(ゴルバチョフ大統領)-ロシア共和国(エリツィン大統領)
-ウクライナ共和国
こういった構成です。強いて言えば、ソ連=神聖ローマ帝国のようなものですかね。ロシアがプロイセンという感じです。
ソ連全体の歴史に関心のある人には「ソ連史」(ちくま新書)という本があります。
□□北欧
1970年代に北欧環境保護条約を結んでいます。他国であっても、汚染、汚水などの規制を当てはめることができます。
1971年-1972年にアイスランド、スウェーデン、フィンランドがECと自由貿易協定を結んでいます。ただ、スウェーデン、フィンランドは中立政策を採るので、ソ連から疑念を持たれないようにECへの加盟はしません。ノルウェイは国民投票で加盟を拒否しています。
1980年代には相互に移民する人が多いんですけど、学校や病院で自国語を使えるようにという政策が採られています。通訳の費用は公共機関が負担します。
1982年、プロテスタントの多い北欧諸国はバチカン/カトリックと外交関係を回復します。宗教改革の1527年以来のことです。
この時期、スリランカのタミル人がノルウェイ、デンマークに移住してきます。ヨーロッパではスイスに一番多いようです。外見も違うし、イスラームだし、言葉も違うけど、受け入れてくれるというので来たんでしょう。デンマークでは1987年-1988年には、呼び寄せられる家族へのビザ発行は停止したようです。
□アイスランド
1970年代には武装化を開始して、駐留していた米軍は撤退しています。
魚のタラの漁場なので、英国との第二次タラ戦争もありました。排他的経済水域を50カイリに拡大して、入ってきた英国船の綱を切ったりしています。英国は海軍を派遣しています。NATOの仲介で収まったんですけど、こういうことがあったので、国連はEEZ/排他的経済水域を200カイリとしました。
□ノルウェイ
対共産国輸出統制委員会/COCOMに加盟します。
1970年代には、公務員、政治家などは男女比を40%-60%に収めるようにという法を作っています。1981年に女性としては初の首相が誕生します。ブルントランです。
第二次ヴィツロック政権の時期には、規制緩和、減税など、福祉国家のイメージから離れます。この時期、サーミ人が伝統的な地域での水力発電所の建設に反対して、ハンガーストライキを大規模に行いました。
第二次ブルントラン内閣は、国連でブルントラン報告をしています。持続可能な開発のための協力を全加盟国に呼びかけました。
□スウェーデン
1970年代には男女ともに、育児休暇制度の対象にしています。公立校は増えて、補助金も増やしています。就学率も1950年に79%で、1970年に99%になっています。
1976年、44年間も続いていた社会民主党政権が下野します。原子力発電所に反対する中央党が政権に就きました。
1980年-1982年には首相パルメの開催するパルメ委員会が、軍縮、安全保障を推進するために世界中の有識者を招いて話し合っています。通貨クローネの16%切り下げを実施したことが原因かとも言われているんですけど、パルメ首相は1986年に殺されました。
1988年、環境等が初めて議席を得て、2010年までに原子力発電所を廃止することを決定しました。ただ、その後、延期になっています。
□フィンランド/スオモ
米ソの対立の前線に当たる地域なので、戦争を回避するために積極的に仲介をします。それで、SALT、CSCE設立の準備に会場を提供もしています。この結果、全欧安全保障協力会議が1975年に設立されました。アルバニアを除いて、ソ連も含めた全ヨーロッパ、カナダ、米国が参加する安全保障について話し合う機構です。
こうして平和国家のイメージを強化することで、フィンランドは周辺国から攻めてくるんではないかという疑惑を持たれないようにしています。
国境を接するソ連が怖いので、1970年代の10年くらいで、国防費は10倍にしています。
□デンマーク
1973年にECに加盟しています。オイル・ショックを受けて物価高、インフレになっています。失業率も上がって8.9%に達しました。周辺国は1%台なんですけど、どうしてなんでしょう。その後の政権は減税などを進めて、小さな政府を指向しました。
1982年、88年ぶりに保守系の内閣が成立しました。賃金の凍結、公共支出減などを実施します。
将来のEU移行を見据えて、外国に負けないように、農業の大規模化、企業合併などを進めています。
1989年、世界初、異性の配偶者の結婚と同等の権利が同性の配偶者に認められる「登録パートナーシップ法」を作ります。結婚はできないんですけど、同性の配偶者の関係が法的に保障されたんです。
□□中欧
□ドイツ
1969年、西ドイツのブラント首相(社会民主党)は、東欧との和解を狙った東方外交を展開しはじめました。ポーランドとはオーデル川、ナイセ川を国境として認めます。ワルシャワのユダヤ人ゲットーでは、膝をついて献花しました。これはホロコーストへの反省を象徴的に表した行為で、ユダヤ人にとってはとても意味のある行為でした。
西ドイツが戦後に周辺国から認められていくのは、こういう行為の積み重ねがあると言われています。日本が周辺国とぎくしゃくするのは、政治家が「朝鮮を植民地にしたおかげで韓国は経済成長した」とか、 「植民地時代にはいいこともした」(江藤隆美 総務庁長官)と恩着せがましく言ったり、慰安婦の存在を否定したり、「(アジア太平洋戦争が)侵略戦争じゃないかというのは、考え方の問題です」(島村宜伸 文部科学大臣)とか言って、政府見解に反する本音を言っては「誤解だ」「言葉が足りなかった」「時間がなかった」「撤回する」ということを繰り返しているからですね。これでは本当には反省していないんだなと見透かされるのは当然です。
ポーランドと国交を回復しています。締結であって、国会承認/批准は二年後です。ソ連とも武力不行使のモスクワ条約(国交は1955年)を結んでいます。こうした功績で、ブラントは翌1971年にノーベル平和賞を受賞します。
東ドイツは、1960年-1973年はウルブリフト国家評議会議長の時期です。
1970年ブラント首相とシュトフ首相が会談します。東西ドイツの指導者層の会談は初めてのことです。
1972年、両ドイツ基本条約-東西ドイツは互いに独立国として承認しあいます。
1973年、東西ドイツが国連に加盟します。拡大ECにも入ります。
けど、東ドイツは憲法から「将来の統一」条項を削除しています。秘密警察シュタージによる締め付け、言論統制などもありました。
1973年-1976年、シュトフが首相から国家評議会議長に昇格します。
1976年-1989年、ホーネッカー国家評議会議長。
西ドイツ-1974年-1982年はシュミット首相(社会民主党)の時期です。
1974年、「ナチなど戦時中の犯罪には時効なし」という法律を制定します。
1980年、緑の党が結党されました。世界初の環境問題を掲げた政党です。
1982年-1998年は、コール首相(キリスト教民主同盟)の時期です。
1989年夏、東ドイツ国民が西ドイツへ移動する事例が増えます。東ドイツは禁じています。8月ヨーロッパ・ピクニック(事件)が起こります。東ドイツの人が、ハンガリーからオーストリアへと国境を越えたんです。そのあと西ドイツに行くんです。
東ドイツはこうしたことを防ぐために、チェコスロバキアとの国境を封鎖しました。閉じ込められた東ドイツ市民は、抗議を激しくしたので、ホーネッカーは退陣します。そして、ついに1989年11/9ベルリンの壁が崩壊しました。一年後の1990年10/3には東西ドイツが合併します。
□□東欧、ハンガリー、チェコスロバキア
東欧革命-1986年、ソ連のペレストロイカ、シナトラドクトリン以降、民主化要求が高まる東欧では、1989年のポーランド円卓会議をきっかけにして、ベルリンの壁崩壊、ルーマニア革命、ビロード革命、ポーランドでの非共産党政権誕生など、市民フォーラム/市民団体による共産党体制の打倒が相次ぎます。
□ハンガリー
1956年から主導しているカダルは1988年に解任されます。
市民は民主フォーラムというグループを結成、反政権を訴えると、複数政党制が認められました。
ミクローシュ首相は、ソ連のペレストロイカの波に乗って、1989年にはオーストリア国境との鉄条網の撤去を開始します。
この時期、オーストリア・ハンガリー二重帝国の皇帝家ハプスブルグ家のオットー・フォン・ハプスブルクを囲む夕食会では、民主化勢力が「オーストリア、ハンガリーに国境はないことを示そう」というアイディアを出しました。それが東ドイツ民をオーストリアへ逃がす計画に転化していきます。
そして1989年8月の汎ヨーロッパ ピクニックへとつながりました。ハンガリーに1000人の東ドイツ民が集まります。オーストリア国境間近の街で、オーストリアとハンガリーの市民や外交官がピクニックをしているところへ、計画通り東ドイツ民がバスで到着します。そして次々と国境を越えると、オーストリア/西側へパスポートなしで600人が逃れました。オーストリア側も見て見ぬふりです。オーストリアハンガリーのつながりというのは、社会主義、ソ連圏のつながりよりも強いんですね。1000人来て、600人が移動ということは、残りの400人はどうしたのか気になるんですけど、私は知りません。見送りに来たんでしょうか。
この事件が発覚しても、東ドイツは抗議だけ、ソ連は無反応だったので、ハンガリーはオーストリアとの国境の全面開放を宣言します。ワルシャワ条約機構からも脱退しました。鉄のカーテンは完全に崩れたんです。ハンガリー社会主義労働者党は、一党独裁の停止に続いて、共産主義も捨てて、ハンガリー社会党と改称します。
□チェコスロバキア連邦社会主義共和国
フサークからヤケシュに主導が変わっているんですけど、
1989年ビロード革命-労働者、聖職者、知識人が自由な憲法を要求して、人権擁護の内容を持つ「憲章77」を掲げます。このルールでやっていこうということですね。一党独裁で、ほかの政党は禁止されているので、この市民フォーラムというグループは実質は政党なんですけど、そう名乗りません。ハヴェルが中心人物です。
民衆も呼応した結果、ヤケシュは辞任、共産党の一党支配は終焉しました。そして、チェコスロバキア連邦共和国となります。東欧で社会主義、人民という名称の国家や政党が消えていきます。
ソ連ももう軍事介入しません。そうなると他の国も、私たちも続こうとなるんです。筋金入りの共産主義者を除くと、好きでやっていたわけではありませんからね。とくに市民の大半は西側のキラキラした自由な気風、経済成長をしている資本主義に憧れていたので、ソ連の脅しがないなら社会主義に留まる理由はありません。
□ルーマニア
独裁者チャウシェスクは中ソ論争があるので、多くの東側の国が大陸中国とは距離を置いている中で、大陸中国から軍需品を輸入したり、台湾ではなく大陸中国を国際連合の国家として認める決議に賛成したり、米国と中華人民共和国の融和を仲介したりしています。1972年のニクソン訪中はそうやって実現しました。西ドイツとも国交を結んでいます。
1974年に、チャウシェスクは大統領になっています。
1984年のロサンゼルスオリンピックにも、ルーマニア選手団は大陸中国とともに参加しています。東側のボイコットに足並みをそろえていません。
こうしたソ連と距離を置いた姿勢を高く評価した西側諸国はルーマニアにお金を貸します。ルーマニアにとっては借金です。財政が悪化したので、なんとかしようと、輸入を制限して、輸出は拡大したので、店舗に品物はなくなりました。食糧は配給制です。
首都のブカレストには豪華な宮殿があって、そこには政権の要職を占めているチャウシェスクの親族が暮らしています。この格差には憤るでしょうね。2021年にはロシアでプーチンの宮殿と言われるものが撮影されて、国民から批判を受けていましたね。
1989年12月、独裁をしていたチャウシェスク大統領がいつものように、テラスから国民に語り掛けます。区切りごとに拍手があるはずです。2020年代に生きている人は、朝鮮の元首が話すと、市民が破顔一笑して、懸命に拍手をしている映像を観たことがあると思います。ああいう感じです。本当に懸命なんですよ。
けど、その日は違いました。爆弾か爆竹の爆発音があって、動員された市民は恐慌状態に陥ります。その後、再開したんですけど、そんなことは予想もしていなかったので、チャウシェスク大統領はたじろぎます。チャウシェスク大統領はテラスから引き揚げてしまいました。そうした様子もTV中継されています。国民がその映像を観ていたんです。チャウシェスク大統領は不死身の無敵ではないと国民が認識した瞬間です。
その後、チャウシェスク大統領に対する抗議デモも開催されました。
日本では2019年に安倍晋三が街頭演説をしていると、「安倍辞めろ」「増税反対」と声を届けた市民を北海道の警官が腕を掴んで強制的に移動させています。その後、一時間くらい警察官は付きまといました。裁判所は警察官が表現の自由(憲法21条)、移動・行動の自由、名誉権とプライバシー権を侵害したと判決を出しました。当然ですね。警察側は聴衆の間で騒然となったとか、小競り合いがあったとか主張したんですけど、その様子はビデオカメラで撮影されていて、全くのウソであることが判明しています。衆人環視の場で起こったことでも嘘をつくので、まっとうな市民が警察の取り調べにはビデオ撮影を導入すべきと求めているのは自然なことだと思います。さらに警察は、凶器を持っている恐れがあったとも主張しているんですけど、所持品検査をしていません。職務怠慢ですね。実際は持っていると思っていなかったと考えるのが自然です。
こういう主権者である国民を欺く行為を治安機関がすると、時の政権が独裁化していくんです。この先に何があるかというと、2020年ころには日本の防衛省が、反戦デモはテロと同じレベルのグレーゾーンだという位置づけの資料を作成していたことがわかって、釈明しています。さらに先に何があるかというと、2022年のロシアでは反戦を訴える勇気ある市民が反政権ということで逮捕されています。その先にチャウシェスク時代のルーマニア、朝鮮のような独裁国家があるんです。歴史を学べばよくわかります。あなたが独裁者を目指していないのなら、民主主義国家で政治家、自衛官、警察官、裁判官を目指す人なら、きちんと歴史を学んでから職務に就く必要があります。
チャウシェスク大統領は武力で弾圧するように命じたんですけど、市民を撃つことはできないとまっとうな返事をした国防大臣は、すぐに死んでしまいます。殺されたと考える研究者が多いですね。それで、軍隊が政権から離反しました。チャウシェスク大統領と、妻のエレーナ副首相はヘリコプターで逃亡するんですけど、パイロットが機体が狙われているので無理だと言って、着陸を余儀なくさせます。その後、二人は車を持っていた市民を脅して、車を運転させて逃げるんですけど、逃げた先の農業施設で監禁されました。
これ以降、救国戦線が実権を握ります。
チャウシェスク大統領、エレーナ副首相は銃殺されました。遺体が公開されたことで、旧政権側の抵抗もやんでいきます。
□ブルガリア
1950年代からジフコフの独裁だったんですけど、1989年に解任されてムラデノフに代わると、共産党を社会党へ改称します。複数政党制も認めて、自由化民主化していきます。
□アルバニア
1984年にホッジャが病死すると、アリア主導に代わります。
次の時代ですけど、1990年から自由化、民主化していきます。
□ポーランド人民共和国
1970年のグダニスク暴動で、第一書記はゴムウカ/ゴムルカからギエレクに代わります。1980年、労組の存在を認めると、ワレサの主導する全国的労働組合組織の「連帯」が成立します。翌年の1981年に「連帯」は非合法化されるんですけど、反共活動は継続しています。
1981年からヤルゼルスキが首相兼第一書記に就いています。
1981年-1983年戒厳令を発します。民主化とソ連介入の双方への対抗策です。
1983年、ポーランド出身のローマ教皇ヨハネ パウロ二世が訪問して、「人間の顔をした社会主義」の実現を強く求めたことで、カトリック教徒のヤルゼルスキは「この時のローマ教皇との会見がその後の方向転換の大きなきっかけとなった」と後に語っています。
1983年、ワレサはノーベル平和賞を受賞。
1985年、ヤルゼルスキは国家評議会議長になります。
1989年、市民の抵抗を受けて、時の政権は国内諸勢力(主に「連帯」)との「円卓会議」を開催したあと、「連帯」の合法化を認めました。もう協力しないとやっていけないと気付いたんです。
1989年、ポーランド「人民」共和国はポーランド共和国へ改称して、共産主義も停止しました。
そして部分的に自由選挙を行うと、「連帯」出身のタデウシュ・ツマゾヴィエツキが初代首相、ヤルゼルスキが初代大統領に就任します。
1990年、自由選挙でワレサ大統領が誕生します。
□ユーゴスラヴィア
1974年チトー/ティトーが終身大統領に就任します。
1975年、イタリアとの間にオージモ条約を結びます。自由トリエステ地域とされて、イタリアとユーゴスラヴィアが分割して統治していた地域を、正式に互いに領土に編入することで合意しました。ユーゴスラヴィアはイストリア半島を確保しました。
1980年チトーの死去で、集団指導体制に移行します。けど、一人のカリスマでつながっていたモザイク国家は民族問題が噴出します。モザイク国家というのはクロアチア人、セルビア人、ボスニャック人など文化、宗教、言語が異なるグループが一緒にいる状態です。チトーという結び目がなくなると、分裂の遠心力が働きます。
□□キプロス
1974年、多数派ギリシア系住民がギリシアとの合併を狙ってクーデタを起こすと、トルコ系住民の保護を名目にして、トルコが侵攻してきます。1983年、トルコの支援する北キプロス・トルコ共和国が成立することで、北部にいたギリシア系住民の難民化と、国内の分断が固定化されました。
こういう紛争状態にあるとEUには入れないということが、2022年のウクライナへのロシアの侵攻でも言われています。だからロシアはウクライナ東部のドネツク、ルガンスクを国家として認めたという研究者もいます。けど、キプロスはこの分断が解消されていないのに、2004年にEUに加盟しています。どういうことなんでしょう。実際は国内の分断、紛争は関係ないのかな。トルコがEUに入れない表向きの理由も、北キプロスを支援しているからなんですけど、南を支援しているギリシアはEUに加盟しています。結局、加盟の条件は恣意的だということがわかります。
□□アジア
冷戦の終わりにともなって、1990年前後から米国や西側からの支援がなくなるので、武器もお金もなくなった独裁国家が崩壊して、民主化していきます。
軍政のバングラデシュ、王制のネパール、フィリピン(マルコス)、軍政のミャンマー、タイ、インドネシア、台湾、韓国、日本(自民党)ですね。
東側では共産党の独裁国家も動揺しています。社会主義国のモンゴルが典型です。第二次天安門事件がきっかけになりそうだったのに、民主化に失敗したのは大陸中国です。
サミュエル・ハンチントン(「文明の衝突」で有名な政治学者)が言うには、近代以降の民主化は三段階あるそうです。
①19世紀初頭から大戦後-ラテン・アメリカが独立しました。民主化という感じはしませんけどね。
②第二次世界大戦直後-東南アジアの独立と、民主主義の開始(その後は独裁へ)
③1974年、スペイン、ポルトガルの民主化をきっかけにした1980年代のラテン・アメリカの民主化、冷戦の終結でソ連、東欧、アフリカ、アジアの民主化。
「民主主義と市場経済が、今後の唯一の政体だ」と欧米はキャンペーンを張ります。テレビ、ラジオ、新聞を通じて、こういう思想が伝播していきます。工業化で中間層が増えていた国や、農村から都市へ人が移動して大都市が誕生した国では、農業と違って、政治に敏感な人がたくさんいます。だから、民主化も急激です。
ハンチントンは言っていませんけど、④2010年代アラブの春では、北アフリカ、西アジアの民主化は中途半端になりました。
□□中東
イスラーム世界は、この三つ巴のバランスで成り立っています。
①信条(個人)
②イスラーム法(近代法へ移行します。)
③社会システム(ウンマに帰属していた国家が、各々の国家、国民国家へ移行します)。
憲法や議会、人権という「西洋的近代化」、「アラブ民族主義」の台頭と衰退、「イスラーム」復興に加えて、21世紀の「アラブの春」以降は、「民主化」も、この三つ巴に影響を与える要素になっていきます。
明治維新を読んだ人は、西洋的近代化の中に民主化が入っていなかったことは知っていると思います。元首は天皇の天皇制ですもんね。
人口が多くて、平均年齢が低い/若いということはその社会の活力になると言われています。それが穏健な成長か、過激になるかのどちらかに向かうんですけど、教育と雇用が、方向に大きく影響するそうです。
壮年、老年層は保守的で独裁を支持する傾向が強いんですけど、アラブの春の時、チュニジアは平均年齢が29.1歳 エジプトは平均年齢が22.9歳でした。1960年の安保闘争の時、日本は25.5歳でした。高度成長するのもわかります。人が多いと消費者も労働者も多いですからね。2020年代は48歳くらいです。活力がなくて改革が進まなくていつも自民党政権なのもわかります。年齢の平均、中央値(順番に並ぶと真ん中にいる人)や、人口の増減を調べるといろいろわかって面白いですよ。歴史人口学という分野です。
経済成長して、先進国化しても西アジアは多産です。イランは国策で少子化にしています。日本や西欧、大陸中国、韓国は先進国化すると、少子化になりました。つまり、平均年齢が上がっていきます。
西アジアでは、この時代には、
・イスラームは日常化しています。宗教だと意識せずに取入れて、生活をしています。日本人が神道と意識しないで初詣に行ったり、御神籤を引いたり、儒教徒でもないのに位牌を置いたり、仏教徒と意識せずに仏壇に買ってきたお饅頭をお供えするようなものですね。
・政治が強くなって、政治と宗教が分離してきます。ウンマのメンバーという意識よりもトルコ人という国民意識があるし、世俗主義が強くなって政教分離が進みます。その結果、宗教の非社会化が進みます。信仰心が強いと、特別な人として見られます。
アイデンティティの揺らぎがあったりして、イスラームをよりどころにする人もいます。なにかにつけて「反イスラームだ」という意識もするようになって、アルカイダ、イスラム国というような過激なグループに入る人もいます。
・宗教を取り込まない国際社会との齟齬/ぎくしゃくも出てきます。
西アジアにはムスリムもユダヤ教徒も、キリスト教徒もいます。子が生まれると、かなり選択肢の少ない特定の名前の候補から選ぶことになっています。だから、名前を聞くと、親、名づけ親の宗教がわかります。モハメド、アハメド、ザーヒル、アブドラと聞くと、ああ、ムスリムなんですねとわかります。ミシェル、カルロスと聞くと、キリスト教徒ですね。レバノン国籍を持っているカルロス・ゴーンが有名です。名字だとわからない場合もあります。サラ、デボラ、レビ、ベンジャミン、サムエルという名前の人にはユダヤ人が多いですね。
家名と信条がセットになっているので、家を継ぎやすいということもあります。
冠婚葬祭や、相続の家族法は国家が定めているはずなんですけど、実際はイスラーム法に拠っています。この場合、信条より社会的属性を優先しています。
列強からの独立時に、国民国家を形成しました。その時に言語でなくて、たいていの国は宗教で民族を区別しました。ムスリムならトルコへ、正教ならギリシアへと移住もありました。アラブ人だからアラビア語を話すけど、ムスリムもいるし、キリスト教徒もいるんですけどね。それで、宗教の規範が強い国が多いということもあると思います。
社会の公正・福祉を宗教が担っている国もあります。キリスト教徒の救世軍のような感じですね。オスマン帝国の解体以降は、「剣のジハード」(武力でウンマを拡大)は終わって、ジハードの解釈も「そもそも郷土防衛がジハードの本義だ」が支配的になりました。
中東戦争、アフガニスタン戦争(対ソ)、イラン・イラク戦争も防衛的な意味合いを持っていました。
けど、中東戦争でエジプトが負けてアラブ民族主義が衰退したり、独裁国家の下で国民国家としてうまくいっていないとなると、社会のバランスが崩れてイスラームに偏ります。
PELPはパレスティナ解放人民戦線の略称で、PLOの下部組織です。
1970年PELPが米国、スイス、イスラエルの機体をハイジャックする事件がありました。機体はヨルダン国内のPELPが実効支配する地区に強制着陸させられました。そして仲間の解放を要求します。
メンツをつぶされたヨルダンはPLOを攻撃、その結果、ヨルダンはアラブ社会から非難されて孤立しました。PLOを支援するシリアが攻め込んでも来ました。ソ連はシリアを支援していて、米国はヨルダンを支援していました。シリアで大統領命令に従わなかった空軍のアサドはすぐにクーデタを起こすと大統領に就任して、PLOを追い出します。PLOは逃れた先のレバノンで内戦を起こします。
1974年、レバノンでは内戦が始まると、シリアが介入して、当初はキリスト教マロン派を支援します。後でイスラーム支援に移行します。
当事者を参加させないと何にもならないということで、1974年、PLOが議決権のないオブザーバーという形ですけど、国連に参加します。
1971年、バーレーンがイギリスの保護国の地位から独立します。首長制を取っているスンニ派が主な島国です。
1986年イエメン内戦-勢力争い1990年まで。1990年イエメンアラブ共和国/北イエメン(西部)と、イエメン民主人民共和国/南イエメン(東部)が統合し、イエメン共和国となる。
□イスラエル、パレスティナ、レバノン、エジプト
1970年、エジプト/アラブ連合共和国では、九月にナセルが死去しました。サダトが後継大統領になります。第三次中東戦争は休戦しているんですけど、講和はまだです。それでシナイ半島を奪い返そうとして戦争を計画します。ムバラクによる空軍再建と、ソ連からの兵器導入をします。1971年には、エジプト・アラブ共和国と改称しています(-1994年)。
1973年、エジプト・シリアが失地回復、イスラエルが占領しているシナイ半島と、ゴラン高原の奪還を狙って、イスラエルに先制攻撃を仕掛けます。第四次中東戦争/十月戦争のはじまりです。ソ連がエジプト、シリアを支援しています。
イスラエルと敵対するアラブ諸国は、1968年結成のOAPEC/アラブ石油輸出国機構が主導して、石油を禁輸する「石油戦略」を採ります。「アラブを支援する。または同情する国か、イスラエルを非難またはイスラエルに反発しない国へは石油を売らない」ということです。このアラブの石油戦略と、OPECによる石油価格の引き上げで、西アジアから石油を輸入していた米日欧でオイル・ショックが発生しました。
オイル・ショックで、国際世界は親アラブになったので、戦争は引き分けとなります。
第四次中東戦争の影響~オイル・ショック(日本は高度成長の終焉)、経済復興のためのサミット開催、石油に代わる原発の推進(チェルノブイリ/チョルノーブィリ、福島の事故、節電、省エネルギー)。
これ以降、石油価格と供給量の操作によって、政治的な発言権の強化、好景気になったアラブ諸国は、財政が豊かになったので無税、医療や教育は無料などの福祉国家へと進みます。その一方で、石油枯渇への不安や、技術が進展したのでペルシア湾岸でなくても産油国として台頭する国が出て、競合国が増えました。さらにオイル頼みというモノカルチャー経済の弊害も生まれてきます。
資本主義諸国ではオイル・ショックを受けて、石油を輸入に頼ることの危険から教訓を得ました。食糧の自給率向上にも意識が向かいます。石油の備蓄と節電なども進みました。そうなると、国際市場で石油の供給過剰になるんです。価格が低迷してしまったんですね。これがモノカルチャー経済の弊害です。
OPECなどが価格協定や石油産出抑制の協議をするんですけど、同意せずに抜け駆けで販売する国も出て足並みは乱れます。その典型がクウェートでした。
次の時代ですけど、価格が低迷して経済がうまくいかないイラクが、クウェートの石油も手に入れようと侵攻して、1990年に湾岸戦争が起きます。
戦争後、ナセルの親ソ連の路線を修正したサダトの率いるエジプトは親米の路線へと代わります。ソ連の軍事顧問団を追放すると、ソ連との友好協力条約を破棄します。ソ連と対立する中国から武器を購入したり、1974年には米国と国交を回復して、軍事、経済の支援を受けました。
1974年、PLOが国連に議決権のないオブザーバー参加をします。
1977年、エジプトのサダトがイスラエルを訪問して、議会で演説をします。有名な「不戦の誓い」です。
1978年、米国のカーター大統領が、中東安定化のためにエジプト、イスラエルの和平を仲介します。イスラエルとエジプトは中東和平会議/キャンプデービッド(ワシントン郊外の大統領公邸である別荘)会談を行います。
同年、イスラエルの ベギンと、エジプトのサダトはノーベル平和賞を受賞します。
翌年、1979年にエジプト・イスラエル平和条約を結びます。初めてアラブの国がユダヤの国を認めた出来事です。国交を結んで、シナイ半島をエジプトに返還します。アラブ連盟はイスラエルに対して和平をしない、交渉をしない、承認をしないことを共通政策にしているので、エジプトをアラブ連盟から追放しました。以降、アラブ連盟の本部はチュニスに置かれます。
「イスラエルが消滅するまで戦うのがアラブ人の正義だ」という思いのジハード団(アラブ原理主義者)が、サダトを裏切り者と考えて、1981年に殺します。脱アラブのエジプトにイスラーム過激派が登場したんです。国家の体制転覆を狙ったものなので、イスラーム世界が防衛から攻撃に変化した姿勢を示したと言えます。
けど、副大統領から昇格したムバラク大統領はサダト路線を継承します。独裁ではあります。
イスラエルでは1977年に右派/強硬派であるリクード党のベギンが首相となっています。エジプトとの敵対関係が終わったので、後顧の憂いのなくなった1980年代にはイスラエルがヨルダン、そして1982年にレバノンに侵攻しました。
レバノンでは、対イスラエルの抵抗勢力としてヒズボラ/ヒズボッラーが誕生します。神の党の意味で、シーア派の団体です。イランが支援しています。
ヒズボッラーの抵抗は、イスラーム復興運動の一つで、パレスティナのハマス、エジプトのサダト暗殺も宗教の時代への回帰の一つと研究者は考えています。
これをきっかけにして、1982年には、PLOは本拠をレバノンからチュニジアのチュニスへ移転します。
レバノンは、大統領がマロン派(キリスト教)、首相がスンナ派、国会議長がシーア派という慣習があって、各々の宗派は、住む地区、学校、軍隊の部隊なども別にしていました。
当然、国民意識よりも宗派意識を強く持って、育つことになります。そこへヨルダンから追い出されたPLO、パレスティナ難民が押し寄せてきました。レバノンのマロン派は対立せずに、南部に自治地域を認めます。PLOはそこからイスラエルを攻撃しました。それでイスラエルが報復としてレバノンに侵攻してきたんです。やり返すべきというムスリム、忍従するというマロン派の間で対立があって、1975年になると内戦が始まりました。マロン派を米ソ、ムスリムをPLO、シリアが支援します。各派が民兵を抱え込んで、警察や軍は職場放棄の状態です。シリアもこのままだとイスラエルとの全面衝突になりそうと考えていたので、レバノン政府の要請を受けてレバノンに進軍、PLOの方を攻撃します。イスラエルからも攻撃されたPLOはレバノンから出ていきます。
PLO、イスラエルのいなくなった空白状態になったレバノンの安定化を狙って、米仏中心の多国籍軍がレバノンに入ってきます。この多国籍軍に対して、大使館も含めてヒズボラが自爆攻撃をします。これ以降常態化する自爆の初例です。戦時であって、旧日本兵のように自死が主眼ではないし、敵に損害を与えることを主眼としているので、戦死/殉教扱いだから、天国に行けると解釈されています。もし自死と解釈されると地獄行きと考えられています。米仏は1980年代中ごろに撤退するんですけど、この内戦は1991年まで続きました。
イスラエルには左派の労働党が建国以来世俗的で、パレスティナ人の土地をすべて奪うという考えではありません。パレスティナ人も世俗国家を狙っているので、比較的融和姿勢と言えます。右派のリクード党は大イスラエル主義を採っていて、パレスティナ人の土地もイスラエルのものだという姿勢で、世俗的です。
イスラエルの国籍を持つ人のうち、ユダヤ教徒のユダヤ人はヘブライ語を話します。ほとんどの人は世俗的です。アラビア語を話す宗教的なユダヤ人/右派のミズラヒームもこの時期に台頭してきます。ユダヤ教超正統派はかなりの少数で、「律法/ハーラーに基づく政治」を掲げていて、宗教シオニズム「建国も入植も神の意思」と考えています。アラビア語を話すムスリムのアラブ人もいます。
選挙で労働党、リクード党、どちらが政権を担うかでパレスティナ政策がだいぶ変わります。どちらも世俗的ではあるので、アラブすべてと対立しようとは考えませんし、貿易もしています。
1987年ガザ地区(種子島くらいの大きさ)で、パレスティナ人はインティファーダを始めます。戦車、ライフルのイスラエル軍に対して、投石で抵抗します。こうした様子は写真に撮られるので、国際世論は、ほとんど無抵抗の市民をイスラエル軍が殺している、蹂躙しているというイメージで批判をします。
ジハード運動・ムスリム同胞団の支部として出発したハマスは、このときから対イスラエルの武装闘争の組織として自立します。この時期、チュニジアにいた世俗主義のPLOを支持する人もいて、パレスティナ人は主にガザのハマス、ヨルダン川西岸のPLO側に分裂します。
1988年、PLOのアラファト議長がパレスティナの独立宣言をします。1947年の国連によるパレスティナ分割案に対してユダヤ人は賛意を示してイスラエルを建国しました。当時、アラブ人は反対していたんですけど、1988年になって認めたということです。実効支配している土地はないんですけど、イェルサレムを首都としました。この俊に75カ国がパレスティナを国家として承認しています。イスラエル、米国は国家承認をしていません。
これはPLOが「シオニスト国家打倒によるパレスチナ解放」から「イスラエルと共存するパレスチナ国家建設」へ政策を変更したことを意味します。
□イラク
スンニ派のバース党員(後にイスラム国の中核の一部を占める人たち)が 権力を握っていた間は、イスラーム原理主義の国家を作ろうとする動きはまったくありませんでした。
隣国で1979年に王朝が打倒されたイラン革命があって、7月にはイラクにフセイン大統領(2006年処刑)が登場すると、イラン・イラク戦争(1980年-1988年)を起こします。イランとは国境をめぐる紛争があったので、革命で混乱しているときが好機と考えたんです。
アラブの民を主導するのはイラクだと考える覇権主義で、米国の支援を受けて軍事力を強化していました。国内のクルド人と、多数派のシーア派を弾圧していたフセイン政権は、シーア派の革命がイラクでも起こると困るので、シーア派を支援しかねないイランに侵攻したという事情もあります。アフガニスタン侵攻中のソ連からも支援を受けます。
シーア派のイラン政権に対して、スンニ派のアラブ人のイラクをアラブ各国が支援します。つまり、アラブ人のアラブ連盟はイラクを支援しました。
シリアだけはイランを支持して、イラク向けのパイプラインを停止しました。イラクはイランの石油積出港を攻撃します。ただでさえ、イラン産のオイルを買わないようにして、第二次オイル・ショックになっているのに、さらに激化を懸念した国際社会の要請で、国連が仲介して停戦になります。
直後にイランの指導者ホメイニ師が死去(ハメネイ師が継承します)、イランはカリスマを失いました。これで、宗教的な革命の輸出もなくなったと、イラクは安心します。けど、この経験から、北部のパイプラインを押さえられても南部の石油豊富なクウェートがあればと、イラクはクウェートを狙うようになって、湾岸戦争につながります。
□イラン
パフレヴィー朝です。アラブ人ではないし、国境も接していないので、イスラエルを国家承認しています。
ムハンマドレザーパフレヴィー二世(1941年-)は、1960年代から欧米風の近代化と対米従属の外交をしているんですけど、国内から批判が出ています。国王は批判者を弾圧したので、パリに亡命した人もいます。後の指導者ホメイニ師も亡命しました。
1973年からのオイル・ショックで景気が低迷すると、市民の抗議が激しくなりました。
1978年1月に開始されて、1979年に王朝が打倒されたのが、イラン革命です。格差を不満を持った労働者中心のトゥデー党が暴動をして、呼応した自由主義・反王政の学生が結集して、中東最強の王家(1963年から開発独裁)を打倒したんです。
これ以降、イランは対米批判とイスラーム強化へ路線転換をします。
なぜかというと、軍人、野党、宗教組織の人は、組織運営を経験しているし、既に担当や序列が決まっているので、革命やクーデタ後にすんなり政権を作ることができます。けど、たいていの学生は議員になったことはないし、国制の代替案を考えてはいないんです。イランでも、王政打倒の後のことを考えていなかったようです。国王を代えるのか、王政を代えて民主政にするのか、大統領制にするのか、議会は一院制にするのか、憲法の草案も作っていなかったようです。
それで、政権運営能力のない学生に代わってイスラーム的な色付けがなされていくんです。これは21世紀のアラブの春にもみられる現象で、革命を始める前から政治の経験を積んでおかないと、革命の成果は誰かに取られる教訓を得ていないんですね。歴史を学んでおけば、革命を起こした人がその後の政権運営もすることになります。
親米的な国王に反発した学生は、反米感情を持っていたので、米国の大使館を占拠して、人質を取りました。スパイ活動の証拠を見つけようともしました。そうやって、前国王が米国の傀儡だったことを証明しようとしたんですね。国外脱出した前国王をイランに帰国させるようにも要求しています。
軍人や民間人が前国王を担ぎ上げて、反革命の核になるのを防ぐ目的がありました。宗教国家になるとは予想もしていませんでした。
学生は入っていませんけど、世俗的な暫定政府は作られました。ただ、統率は取れていません。かつてのモサデクのように、石油を国有化したので、外国人労働者は出て行ったし、国内の労働者はストライキをしました。これでイランのオイル供給量が激減します。
政権が暫定政府に移ったことで主導権を失った学生たちが、ホメイニ師に頼って、ホメイニ師が暫定政府を弱腰と批判したことで、宗教指導者が力を持つようになりました。前王朝を支持する穏健なウラマー/イスラーム知識人の基盤を切り崩して、イスラームに不義な政権を打倒することは信徒の義務だったと主張して勢力を拡大します。そして、まともで柔軟な思考を持つ人は排除されて、結局、宗教国家となりました。
反政府活動家は誘拐されて、刑死します。
結果として、これまでの「革命=世俗勢力」の概念を変えました。
国王の独裁から世俗法に変わるのではなくて、イスラーム法に代わりました。
「今日から髪は隠しなさい。ロックも禁止。女が一人で出歩くなんていけません。家族もろとも刑務所に行くことになってもいいんですか?」
「I LOVE NY?なんてTシャツを着ていてはいけません。」
戦時中の日本をイメージできない人は、全土的なブラック校則というイメージが近いかもしれません。罰がひどいのでもっと息苦しいと思いますけど。
関心のある人には生活なら「ペルセポリス(マルジャン・サトラピの自伝的なマンガ)、政治なら「ホメイニ師の賓客」という本があります。
米国はイランと国交断絶をしました。もちろん英仏などの西側もイランへの武器売却を撤回します。イランはもう支払っているお金を返すように言ったんですけど、返したのは2022年です。イランで拘束されていた英国人(イラン国籍も持っています)の解放の条件としてですJね。
米国の大使館人質事件に対して、米国のカーター政権の奪還作戦は失敗します。外交交渉がまとまらずに、とうとうデルタ部隊が侵入、救出作戦を実行に移します。成功率は低いと見られていた通り、簡単に侵入したんですけど、砂嵐でヘリ3機が駄目になって、残り5機で撤収すると決定しました。けど、視界不良で離陸のヘリと輸送機が衝突して、大破して火災を起こして、8人が死去しました。
翌日の米国政府の発表で、イランは人質奪還作戦があったと知りました。
米国さえ人質を救出できないのに、21世紀初頭の日本の政権は、自衛隊にそうした任務を負わせようと検討していました。日米同盟の深化も狙っているんですけど、この20世紀の米国人の人質事件では、西ドイツや日本、イギリス、デンマーク、イタリアといった米国の同盟国も経済封鎖への協力を拒否しています。
結局のところ、国というものは自国の利益で動くので、普段からの同盟など意味はないことを示した事例です。もちろん、日本人が人質に取られたイスラム国の事件でも、米国は「テロリストと交渉するな」と主張して、人質奪還の足を引っ張りました。日米同盟は必ずしも日本人の生命の安全に繋がらないどころか、危険になる可能性があることを示した事例です。
パフレヴィー前国王が、米国の影響力の下にあるパナマから、影響力のないエジプトへ亡命して、病死したことで、当初の「米国は国王を返せ」という要求をしていた学生も、膠着状態にうんざりしてきました。国際情勢を知る政府も、交渉を何度も土壇場でホメイニ師につぶされてうんざりしていました。
隣国にはアフガニスタンにはソ連が侵入しているし、イラクの侵入によって、イランは孤立無援に陥っています。軍の補充品が必要なので、ホメイニ師の子どもの義理の兄弟を通じて、西ドイツ経由で米国と接触、とうとうホメイニ師自ら人質解放の条件交渉を訴えます。解放後の賠償請求の却下、国王の隠し資産の返還、米国企業への未払いの訴訟却下、武器引渡しを条件として、謝罪は拒否ということで合意します。
次の大統領候補レーガンが強硬派と知ったこともカーターとの交渉に積極的になった要素の一つです。ただ、こうした合意は米国を屈服させるという象徴になるので、米国の国民は支持しませんでした。それで、大統領選に敗れたカーター後に解放になりました。
1981年、レーガン大統領がこの条件で人質事件を解決します。
革命はイスラームとは関係なくて、冷戦と関係があったんです。それで東西どちらにも与さず、第三極を狙った結果、イランは孤立しました。この隙を突いたのがイラクの侵攻です。イラン・イラク戦争のはじまりです。同時期に、ソ連も隣国のアフガニスタンに侵攻しました。これもイランのイスラーム的な革命がアフガニスタンに波及して、アフガニスタンがイスラーム国家になることを心配したからというのも、理由なのではないかと研究者は考えています。アフガニスタン侵攻の研究はあんまり進んでいないので、実際はわかりません。
1980年、イラン・イラク戦争(1980年-1988年)。
イラクのフセイン政権は国内のクルド人を弾圧しているんですけど、イランにいるクルド人の反政府活動を支援しています。国内で多数派のシーア派を弾圧していたフセイン政権はシーア派の革命がイラクでも起こると困るので、シーア派を支援しかねないイランに侵攻しました。国境問題もあります。アラブ連盟、アフガニスタン侵攻中のソ連はイラクを支援しています。イラクはイランの石油積出港を攻撃したり、国際市場も米国の顔色を窺って、イラン産のオイルを買わないようにしました。それで供給不足になったところへ、OPEC、OAPECは石油の価格を引き上げました。それで、第二次オイルショックが起きます。原油価格は2年で2.4倍になりました。供給量は戻ったんですけど、5年くらいは元の価格に戻りませんでした。イラクはその分を増産しました。先進国は西アジアからのオイルへの依存度を下げようとして、アラスカ、北海、シベリア、メキシコで油田の掘削をしました。OPECの生産量は1979年に世界の50%あったんですけど、1985年には29%にまで低下しました。そうするとオイルの価格が低迷するので、産油国のイラン、ソ連は経済的に打撃を受けました。原子力発電所の増設もこの時期にありました。世界各国の原子力発電所の建設時期(時間がかかるので、運転開始時期ではなく)を調べると、いろいろわかることがあると思います。
戦争をしているので、日本は1980年に自主的に航空便を停止しています。陸路も行けません。
1985年、イラクによるイラン上空封鎖宣言で、各国の民間航空機は発着できなくなりました。実際の封鎖までは2日間あったんですけど、日本の航空機が準備をして行く時間は十分ありませんでした。民間人の機長を派遣する法的根拠もありません。自衛隊員も同じで、自衛隊員は民間航空機の訓練も受けていません。
各国は自国民の救助を優先するので、日航機の乗り入れのない日本人は置き去りです。商社の伊藤忠と日本政府、どちらの要請を受けたかは不明なんですけど、トルコ政府は日本人を救出する航空機を出してくれるようにとの要請を快諾します。そして、チャーター機を2機出しました。イランのテヘランから、イラン国内にいる日本人200人余りをトルコ航空が救出しました。
エルトゥールル号事件というものがありました。1890年、和歌山沖でトルコ船が難破して、船員を日本人が救出したという事件です。この借りを返したという美談にする人がいるんですけど、実際の国際関係はそんなに甘いものではありません。
航空機に乗りきれなかったイラン在留のトルコ人は、陸路でトルコ本国へ帰還しています。のち21世紀初頭にISに捕らわれた日本人救出に際して、日本政府はトルコではなくシリアに協力を要請しました。シリアを撤退した日本大使館がヨルダンに移ったことも含めて、これも援助国/日本と被援助国/ヨルダンなど国際関係によるものです。
オイル・ショックの激化を懸念した国際社会の要請で、国連が仲介してイラン・イラク戦争は停戦します。
直後にホメイニ師が死去しました。
ハメネイ師がその地位を継承すると、穏健化して、社会規範も自由化して、親欧米化します。ソ連や朝鮮で党が国家の上にあるように、イランでも最高指導者となるウラマーの下に、大統領がいます。
□□アフガニスタン王国
復習します。パシュトゥン人、タジク人、ウズベク人にはスンニ派のムスリムが多くて、ハザラ人はシーア派の人が多いようです。
パシュトゥン人のドゥラニー部族連合の中のバラクザイ部族から王(時期によってアミール、シャーと呼称が変わります)が輩出しているので、バラクザイ王朝(1826年~1973年)と言います。初代がムハンマドなので前期をムハンマドザイ朝、後期(1929年以降)は王家が変わるのでムサーヒバーン朝と言うこともあります。1880年、英国の保護領となって、1919年に独立しています。 第二次世界大戦は中立でした。
1933年からザーヒル・シャーが国王を務めています。1960年代には立憲君主制に移行しています。
インフラも不十分で、穀物栽培には適していない土地で、ドライフルーツ、フルーツ、鉱物の輸出をしています。阿片もあるようです。食品、石油などは輸入です。
1960年代から共産主義を目指すアフガン人民民主党/PDPA(People's Democratic Party of Afghanistan)、イスラーム国家の建設を目指すラバニ、へクマティアルなどの運動が始まっています。
1973年、ザーヒル・シャー国王がイタリアで病気の静養中に、いとこのダーウード元首相が、PDPAの支援を受けてクーデタを起こします。ザーヒル・シャーはイタリアで亡命生活に入りました。その後も、復位の行動を積極的には起こしていません。2002年に帰国して2007年に死去しました。
アフガニスタン王国は、1973年7月共和制に移行して、アフガニスタン共和国となります。ダーウードは大統領になりました。冷戦には中立で、米ソ両国から援助を引き出していました。中立なので、PDPAを排斥しようともしています。
それで1978年4月、軍部クーデターによって、人民民主党政権が成立しました。ダーウードは共産主義者によって殺されます。
この4月革命の結果、ヌール ムハンマド タラキが大統領となって、アフガニスタン民主共和国を成立させます。
親ソ連の人民民主党は内部対立をしました。知識層のパルチャム/旗派と、民衆層のハルク/人民派ですね。
教育制度改革、女性の社会進出の促進、土地改革を行ったので、保守的な人たち、つまり女性に教育などいらないという人たちや地主層は抗議をします。
タラキ大統領はハフィズッラー アミン首相の起こしたクーデタ中で殺されて、アミンが革命評議会議長(大統領に相当します)になりました。
アミンはさらに社会主義政策を進めました。これに対して、イスラーム知識人層は反発します。さらに隣国のイラン革命の影響を受ける可能性もありました。ソ連が恐れるイスラーム国家になりかねません。ソ連にもチェチェン人などムスリムがいるので、独立運動が活発化してほしくないんです。ソ連は、アフガニスタンが米国へ近づいているという懸念も持っていました。アミーンが米国のコロンビア大学に留学していたという経歴も、疑いを強めたかもしれません。
アミンは暴動、反政府勢力に対抗するためにソ連の軍事支援を求めました。こうした情勢下で、1978年にソ連が介入、1979年12月に侵攻してきます。
1979年アフガニスタン戦争開始-タリバーン、アルカイダ、国際的テロネットワークを生むことになります。
ソ連軍は治安を回復させることができない、イスラームのムジャヒディン/聖戦士を抑えることができないので、アミン/アミーン革命評議会議長を殺します。そして、カルマル/カールマル政権を樹立させます。ソ連の傀儡です。
隣のイラン革命に対して、イラクを支援する米国が軍事力を増強していることも、ソ連が手を引けない理由です。イラク、イスラエルは米国、イランがイスラーム国家なので、アフガニスタンは抑えておきたいところです。
ソ連のこうした価値観と外交姿勢は、ロシアになっても基本的に変わっていません。のちにシリア内戦に介入することも同じ理由です。親ソのアサド政権が打倒されれば、シリア国内の軍事基地を失って、影響力を失って、イスラーム原理主義が拡大して、カフカス/コーカサス地方の国々(チェチェン共和国など)がロシア連邦から離脱するかもしれません。
ソ連介入の理由はイスラム原理主義台頭を抑えておきたい、武装勢力の台頭も抑えたい、加えて1979年イラン革命がソ連内に飛び火することも恐れた。飛び火というのは、イスラーム主義の国をロシア内にも作ろうという運動が生まれること。
欧米からの解放闘争の理念がイランではイスラームになりました。アフガニスタンでもイスラームへ変化していきます。冷戦に距離を置くのが非同盟諸国ですけど、東西の二陣営に攻勢を仕掛けるイスラームが台頭してきました。
結局、アフガニスタン戦争にはアフガニスタン国外からも多くのムスリムが反ソ連側で参戦しました。ムジャヒディン/聖戦士と呼ばれて、米国が武器を与えて訓練をしました。オサマ・ビン・ラディンなど、アル・カーイダの結成メンバー、のちのアフガニスタン政権を取るタリバーンのメンバーも、この時の経験をもとにイスラーム原理主義遂行のための軍事攻撃を錬磨しました。
米ソ冷戦は21世紀にまで続く西アジアのイスラーム原理主義による混乱の原因になっているんです。米軍が鍛えたアル・カーイダが9.11で米国を攻撃します。日本ではこういうのを鬼っ子と言いますね。米国からすれば、子どもに恩を仇で返されたようなものです。もちろん、ムスリムにはそれなりの論理があるし、米国が自分の都合でいろいろしているので、恩を仇で返しているつもりはないと思います。
1986年5月、カルマル政権/人民民主党カルマル議長に対抗して、ナジブッラーが書記長に就任して、新政権が誕生します。
国際的非難と、ソ連の力が落ちてきたので、1988年のジュネーブ合意に基いて、1989年2月に駐留していたソ連軍が撤退を完了させました。
関心のある人には「アフガン帰還兵の証言」(後にノーベル文学賞を受賞するスヴェトラーナ アレクシエーヴィッチ.ソ連側の従軍した人や遺族へのインタビュー集)「アフガン侵攻1979-89」(白水社。 ソ連側の史料に依拠。)「アフガニスタン マスードが命を懸けた国」(白水社.2022年)という本があります。
ムジャヒディンには統一指揮系統はなくて、戦後は各地方で軍閥化しました。
次の時代ですけど、パキスタンが支援するパシュトゥン人が作るタリバーンの台頭に対して、ラバーニー、タジク人のマスードは、北部同盟を結成します。
□□南アジア
□ネパール
マネンドラ国王が死去して、ビレンドラが国王に即位します。反政府、反パンチャーヤト(絶対王権)運動は激化します。1980年の国民投票では、パンチャーヤトの可否が問われました。体制支持54.8%、否45.2%という結果を受けて、国王は妥協します。国会議員の選出に成人普通選挙を取り入れたんです。
1981年、ネパール国会選挙がありました。けど、政党は禁止されたので、反国王勢力はボイコットします。政争が激化します。
□ブータン
1989年、ネパール語の教育を禁止します。ブータン民族服のゴー、キラを着る義務を課しました。ネパール人労働者の契約更新を拒否して、強制退去をさせたので、10万人が難民となりました。小さな国なので外国人がたくさんいるというのは、外国の影響を大きく受けてしまいます。それを避けたかったんでしょうね。
□パキスタン
1960年-1970年の成長率は5.2%なんですけど、ベンガル地方/東パキスタン(現在のバングラデシュ)の伸びは鈍いんです。経済格差の拡大です。
1969年、ヤヒヤー・ハーン陸軍参謀長が軍事クーデタを起こします。アユーブ大統領は辞任しました。1970年にヤヒヤーが大統領に就任すると、戒厳令を発します。第二次軍政と言われる時期です。
1970年、初めて成人普通選挙を実施すると、東パキスタン(現在のバングラデシュ)では、自治を掲げたアワミ連盟、西パキスタン(主にシンド州、パンジャーブ州)ではズルフィカール・ブットー(ブット父)率いるパキスタン人民党が各々の地域で第一党になります。
どちらの党も、東西に候補を立てずに地元の地域に絞った選挙運動をしました。全土ではアワミ連盟が第一党になったんですけど、 ハーン大統領はアワミ連盟に政権を委託することを拒否しました。軍政は続きます。
東パキスタンは西パキスタンのカラチ政府の植民地というような状態で、サイクロン(大型低気圧)災害への対応の不手際もあって、独立運動へ発展します。
騒乱が起こって難民がインドへ流入するんですけど、インドは独立させる方が好都合ということで介入します。
1971年、第三次印パ/パキスタン インド戦争を経て、1971年にバングラデシュが独立します。パキスタンはバングラデシュを承認した英国に反発して英連邦を離脱します。
この敗北で、軍政への批判が強まると、パキスタン人民党のズルフィカール・ブット大統領が就任して、民政に戻ります。
1972年7月、インド首脳とシムラで会談して、1971年12月時点の停戦ラインを両国の実効支配境界とすることで合意しました。国境問題は棚上げです。カシミール帰属問題は、インド・パキスタン・中国が各々占領しています。
1973年パキスタン・イスラーム共和国憲法が公布されました。議院内閣制、ウルドゥー語だけが国語、イスラームの国教化、首相もムスリムが条件で、クルアーン、スンナ内の法が有効とされます。異端の排除、政体は民主主義、経済は社会主義という体制です。
ズルフィカール・A・ブットー大統領(象徴化)が改憲をして、首相に就任します。反パンジャーブの姿勢を採っていて、パンジャーブ人の官僚を解雇しました。パンジャーブ人の人口は5割を超えるし、パンジャーブ語はウルドゥー語に近いので習得も容易なんです。つまり、国語を話すことが必要な官僚には多く採用されていたんです。
1977年ズルフィカール・A・ブットーが、ズィヤーウル・ハク/ジアウル・ハック陸軍参謀長が主導した軍事クーデターで倒されます。1979年、政敵を殺した罪でズルフィカール・A・ブ ットーが刑死します。
この軍政はイスラーム原理主義者なので、シャリーア法廷も作ってイスラーム化を推進しました。飲酒、姦通、窃盗を禁じて、鞭打ち、石打ち、磔、手足切断という罰を与えるイスラーム刑法はあるんですけど、民衆の反発で、ほとんど実施はされていません。
この時期、生産を増やしている西アジア産油国への出稼ぎが急増して、パキスタンにいる家族に送金する人が多いので財政は潤います。
1979年開始のアフガニスタン戦争では、対ソ連の観点からムジャヒディンを支援します。
ソ連のアフガニスタン侵攻を危惧して、後背地のパキスタンに米国の支援金がたくさん入ります。経済援助、軍事援助の資金で、経済は活性化しました。
対ソ連は、イスラームにとってのジハードにもなります。アフガニスタンに多いパシュトゥン人は、アフガニスタンにも多いので300万人の難民が入ってきました。一緒にドラッグも入って来たし、密輸、武器も入ってきました。ムジャヒディンも集まって、たくさんのマドラサ/イスラーム寺院がパキスタンに置かれます。
1957年には245だったのが、1960年には464と少し増えているんですけど、1980年には 2056と急増しました。1988年には2861です。
1988年、ジアウル・ハックは飛行機事故で死去します。前大統領の娘ベナジル・ブット首相の元で民政へと移行します。イスラーム世界で初の女性首相です。米国の支持で成立したようです。
□バングラデシュ
イスラームではあるけれど、民族構成、言語が異なる東西のパキスタンでは、政治・経済面でも西パキスタンが優位で、東パキスタンでは独立論が強まりました。1970年の初めて成人普通選挙では、アワミ連盟が第一党になったのに、軍政は選挙結果を認めずに、政党を弾圧しようとしました。それで、東パキスタンの反軍政運動は激化して、アワミ連盟がパキスタンをバングラデシュとして独立させます。ベンガル人の国という意味です。1971年12月、第3次インド・パキスタン戦争を経て、独立が承認されます。
1972年、ムシーブル・ラフマン/ラーマンが首相に、アブ・シュョウドゥリが大統領に就任します。ただ、功績の独占、左翼を攻撃、ムジーブ親族の支配というアワミ連盟の一党独裁となります。それで、アワミ連盟への支持は減っていきます。
1972年、バングラデシュ人民共和国憲法が公布されて、主権在民を規定します。 ベンガル語が国語となります。
1975年、クーデタが起こって、独裁をしていたムジーブル・ラフマン首相が殺されます。
1981年、軍内の対立があって、ジアウル・ラフマン大統領が殺されます。
1982年、クーデタを起こした軍人ホセイン・モハンマド・エルシャドが戒厳司令官に就任、1983年12月に大統領になります。
□インド
1970年、第四次五カ年計画を開始します。この時期、主要な14の銀行を国有化しました。大企業に対しても規制を強化します。
ヴァラハギリ・ヴェンカタ・ ギリが大統領に就任します。
あまりに社会主義政策が強すぎるので、インディラー・ガーンディー首相は国民会議派から追放されました。これをきっかけにして、国民会議派はインディラー派の左派、シンディケート派の右派に分裂します。首相の地位は1966年-1977年まで維持しています。
東パキスタンがバングラデシュとして独立宣言をして、本格的な内戦が始まると、ヒンドゥー系難民950万人以上がインドへ入ってきました。それでも世論はバングラデシュに同情的です。バングラデシュ臨時政府が発足すると、インドは「パキスタンが難民帰還の条件を作るべき」と要請しました。
ヴェトナム戦争で仲介者のパキスタンを必要とする米国は、インド案には消極的です。それで、インドは、ソ連、共産ヴェトナムに近づきました。ここに、米国、大陸中国、パキスタンとの対立関係が現れます。
米中に備えて、インドはソ連と平和友好条約を締結しました。
1971年12/3 東パキスタンをめぐって、第三次印パ戦争が勃発します。12/17には、インドが勝利しました。戦費はかかりました。けど、懸案となっているカシュミールには侵攻しませんでした。パキスタンが安定的に存在することが米国、大陸中国の利益です。米国はベンガル湾に第七艦隊を、大陸中国はシッキム付近に軍を展開していました。カシュミールに侵攻していたら、この二カ国がインドに攻め込んできた可能性が高いでしょう。1974年にインドが核実験をするのは、米中という枷を脱するためという側面もありました。核兵器の保有は大国の脅しから逃れる条件と考えるのは、イランもインドも朝鮮もおんなじなんです。これをきっかけにして、米国がインドへの援助を停止します。
核保有宣言をしたインドに対して、1998年にパキスタンも核保有をします。
この1974年には、ニューデリーでインド洋問題国際会議が開催されています。インド洋地域からの外国軍事基地の撤廃、特に米軍の即時撤退を求める決議を採択しました。核保有保有で強気になっているし、第三次印パ戦争での経験もあるからですね。
国内では、土地の所有上限を引き下げて農民を増やすことで増産したい、自作農を増やしたいんですけど、党内の支持は低下しました。それで、化学肥料、高収量品種の投入などを、灌漑が十分に行きわたっているパンジャブ、タミル・ナードゥで始めます。前回、緑の革命のところで高収量品種については書きましたね。この時期にも続けていて、化学肥料も加えます。ただ、全国化をしたいんですけど、財政の弱い州では高価な化学肥料、高収量品種を導入できません。それで格差が拡大しました。1973年のオイルショックがこれに追い打ちかけます。この1973年-1974年の時期、インドは20%のインフレです。穀物の価格も上がります。食糧危機が起こって、ゼネスト/ゼネラルストライキ/全土全職業でストライキも惹起しました。
1975年、非常事態宣言が発せられます。さらに大統領令で、治安維持法も修正します。言論・集会・結社の不自由、報道統制、裁判人事への介入などで、10万人の市民が拘束されました。
この時期、子供は二人までと定めました。数百万人が強制不妊手術の被害に遭ったようです。なぜそんなことをしたのかと言うと、食糧不足を心配したからのようです。大陸中国でも一人っ子政策があったし、日本でも戦後から1996年まで続いた旧優生保護法によって、精神障害者、知的障害者など1万6千人くらいが強制的に不妊手術をされて、子孫を遺せない身体にされました。
この時期、インドでは持参金の廃止や、スラムの破壊などをしています。代わりの住まいを提供するんならいいんですけど、どうしているのでしょう。
天候が良好で、食糧危機も脱しました。
1978年 インド下院は選挙違反でインディラ・ガーンディーの投獄と、議席剝奪を求める動議を可決したので、インディラ・ガーンディーは逮捕されました。1980年にはまた首相になります。
1981年、大統領令で、鉄道や銀行などの重要部門でストライキを禁止する措置を決定します。
1980年代になると、地方で旧カースト低位の人たちが自立していきます。政党と特定社会階層/旧カーストの結びつきが薄れて、いわゆる族議員が減っていくので、大衆全員の指示を受けようと考える政治家が出てきます。ポピュリズムですね。政策も総花的になって、政党間の差が少なくなってきます。これは日本でも起こることです。
インドは国内に少数派のシーク教徒、南部にいる少数派のタミル人問題を抱えています。タミル人はドラヴィダ系で、スリランカでも少数派です。
外交ではパキスタン、中華人民共和国とカシュミール問題、中華人民共和国とはチベットのダライ・ラマ亡命問題と国境紛争も抱えています。
1983年、スリランカのシンハラ人政府軍と、タミル・ゲリラの内戦で、タミル難民がインドへ入ってきます。タミル人の多いインド南部のタミル・ナードゥ州は、インド政府への介入を要請しました。
1984年緑の革命で取り残されたシク教徒の暴走を恐れて、パンジャーブ州を危険騒乱地域として指定します。インド政府軍が、アムリトサルのシク教黄金寺院を制圧、そのときに一部を破壊しました。そして、インディラ・ガーンディー首相が、怒ったシク教徒の警護兵によって殺されました。その日、その長男ラジヴ・ガンディーが首相に任命されます。そして、ヒンドゥー教徒による反シク暴動で、シク教徒3000人が殺されました。
この年、ボーパールで米国のユニオン・カーバイド社の運営する殺虫剤化学工場で、毒ガスが流出する事故があって、州政府によると5295人が死去、負傷が56万8000人と言う発表があります。二万人が死去したという報道もあります。この事故をきっかけに1985年には環境省が設立されて、1986年には環境保護法が成立しました。
1985年にはインドが主導して、南アジア地域協力連合を設立します。ただ、印パの紛争があるので、開催は数回です。
1987年、インド・スリランカ和平合意協定に締結すると、インド平和維持軍がスリランカに派兵されることが決まります。これはのち1991年のラジブ・ガンディー首相殺害につながります。

□スリランカ
1972年セイロンからスリランカ共和国に改称して、英連邦を離脱します。
仏教徒(上座部)が多数派です。政権を取っている多数派のシンハラ人は75%いて仏教、少数派のタミル人は15%いてヒンドゥー教徒なんですけど、宗教対立はなくて、民族対立があります。
インダス文明の担い手はドラヴィダ人だったと言われています。紀元前にインド・ヨーロッパ系のアーリア人が侵入して以来、インド南部や紀元前2世紀からはセイロン島へと移動したのがドラヴィダ系のタミル人です。アーリア人もセイロン島へやって来て、王国を作りました。シンハラ人はアーリア人の一派です。
1972年にはタミル人が迫害に耐えかねて武装組織を結成、1976年にはタミル統一解放戦線を成立させます。
のちのタミル・イーラム解放のトラ/LTTEの母体です。イーラムはスリランカのことです。トラは、獅子(シンハ)の子孫を主張するシンハラ人に対抗する意味を持っています。南インドにあったタミル人のチョーラ朝の紋章だった虎を使用していると考える研究者もいます。
1978年、新憲法を施行して、国名をスリランカ民主社会主義共和国に変更します。シンハラ語が国家語、タミル語は民族語の位置づけです。対等ではありませんね。日本ではアイヌ語がどういう位置づけになっているか、気になる人は調べられると思います。
1983年、スリランカ政府軍によるタミル・ゲリラ狩りを背景にして、タミル・ゲリラがスリランカ政府軍の兵士13名を殺します。これをきっかけにして、シンハラ・タミル紛争が全土に拡大して、内戦が始まりました。ノルウェイや日本の仲介、ゲリラの内部分裂を経て、南部から徐々に政府軍が侵攻していきました。2009年に停戦します。
□□東南アジア
国内市場が小さい台湾、香港、韓国、シンガポールなどは輸出志向で、1970年代には経済的に成功しています。購買力が低いので国内市場が伸びない他国もこれを見て、1980年代に同じ政策を採ります。
日本では通産省が旗振り役となって、伸ばす産業を強化していたように、インドネシアでは国家開発企画庁が主導しました。韓国や中国で経済特区が見られたように、フィリピンにはバターン輸出加工区が設置されました。タイもこの時期に輸出を伸ばしています。マレーシアは、日本からの賠償金を使ってゴムの輸出用に船を二隻現物で受け取ることで、外国船に頼っていた移送コストを減らしました。
1971年11月にはクアラルンプール特別外相会議で、東南アジアの平和・自由・中立地帯宣言を出します。実際は西側なんですけど、理念として示したことは大きな意義があると言われています。
ヴェトナム戦争が終わったので、社会主義のヴェトナム・カンボジア・ラオスと国境を接するタイは、軍事力ではなく、経済や社会の強化で対抗するように変わっていきます。
1976年2月、インドネシアのバリでASEAN協和宣言を出します。「内政不干渉・武力不行使・紛争の平和的解決」を原則としています。ジャカルタ郊外に中央事務局を置きました。ただ、開発独裁の時代なので、実際の協力はありません。仲間意識を高めることに重点が置かれています。だから、内政不干渉なんです。この条件がないと、独裁を非難したら、離脱、除名が多くなってしまいますからね。
ただ、東南アジア友好協力条約/TACに加盟が条件となっていて、決定は全会一致式を採用しました。条約の締約国はインドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポール、タイです。1984年にはブルネイが加盟しました。ヴェトナム、ラオス、カンボジアも1990年代に加盟します。1989年には東南アジアではないパプアニューギニア、2004年には日本も加盟しています。
1978年には東南アジア友好協力条約/TACの締約国は、カンボジアの親ヴェトナム政権であるヘンサムリン政権を認めないこと、カンボジアからのヴェトナム軍の即時撤退を掲げました。これが1989年のヴェトナム軍の撤退につながっています。時間はかかったんですけど、影響を及ぼすことができました。
1989年には日本、オーストラリア/豪州が主導してAPEC/アジア太平洋経済協力会議が成立します。東南アジアの各国も参加しています。
□タイ
日本からの商品が増えているので、1972年には学生や知識人は日貨排斥/不買運動、さらに民主的憲法を要求しました。政治と経済、両方です。
1973年にはタノム軍事政権が打倒されて、タノムは国外逃亡します。
この時点で、タイには大学生が11万人いました。高度成長すると、大学の入学率も高くなっていきます。
1980年-1988年はプレム政権です。軍出身です。軍出身であることは、タイの政治安定に必要な支持基盤になっています。米国の大統領が最高司令官として、兵役の経験を持っていることとは違って、あくまで軍に影響力を行使できるか、クーデタを起こさないでいられるかという面です。
この時期、緩やかな経済成長をしていって、1988年時点の大学生は68万人になっています。大学生は卒業すると都市中間層になるので、バンコクなどの市民が政治発言をするようになるし、首相官邸・国会なども近いので、すぐにデモができるし効果もあるんです。経済成長、知識人や経済的中間層の拡大、民政へという流れです。
1988年-1991年はチャートチャーイ政権です。選挙を経た文民政権で、高度経済成長に入りました。ただ、金権政治を批判されてはいます。賄賂って、政権への信頼を失わせるし、そういうことが続くと政治への無関心になって、民主的な社会が劣化するので、民主社会ではしてはいけないことなんです。
□ビルマ
ビルマ連邦ではネ・ウィン独裁です。1974年にはネ・ウィンは大統領になります。そして、ビルマ連邦社会主義共和国と改称します。と言っても、ソ連とは関係なく独自路線です。
民族主義・社会主義・仏教を融合する政治を目指して、人口は少なく、経済力のある財閥もないので、外国の支援を受けず、民間の外資の投資も受けない鎖国的な体制では、当然、経済は成長しません。
1986年にはフィリピンから独裁者マルコスが亡命しています。1987年には台湾での戒厳令解除、1987年には韓国の民主化がありました。こうした世界情勢を受けて、1988年3月から始まって、7月ころに全土化した民主化運動が起こります。
首都ラングーンを中心に、学生が主導しました。ネ・ウィンの党首辞任、複数政党制の選挙、経済自由化、つまり軍政の終わりと民主化を要求したんです。
1988年8/8にはゼネスト、デモに学生、僧侶、公務員、市民が参加しました。ビルマでは上座部仏教の僧侶がかなり敬意を払われています。
こうした非暴力のデモ隊に、陸軍や治安部隊が発砲して殺しました。これに対して、一部の市民は火炎瓶、剣、毒矢、自転車のスポークで抵抗するようになります。8/10にはラングーン総合病院で、負傷したデモ参加者を治療する医者と看護婦を、陸軍や治安部隊が殺しました。
8/12になって、独裁者ネ・ウィン、サンユー大統領が辞任。軍人のセイン・ルインが大統領、ビルマ社会主義計画党の議長となったんですけど、1960年代にヤンゴン大学(英語ではラングーン大学)の学生デモを弾圧したいわくつきの人物なので、市民に受け入れられるはずもなく、17日後に辞任しました。
8/19に、文民のマウン・マウンがビルマ社会主義計画党の議長、大統領にもなって暫定政権が発足します。けれど、民主化運動を弾圧することに変わりはありません。結局、公正な選挙を通じて選ばれた人ではなく、党、軍にとって好都合な人物が担がれるだけなので、市民にとっては変わらないんです。
8/26ヤンゴンのシュエダゴン・パゴダ(仏教寺院)で100万人が抗議デモをします。アウンサンスーチーも演説して、軍政の完全な終わりを訴えました。アウンサンスーチーは英国人の夫がいて、京都に留学していたこともあります。建国の父の一人アウンサン将軍の娘です。政治には関わらないつもりで生きていたんですけど、このとき、政治にかかわる決心をしたようです。
9/18になって、ネ・ウィンに不満があった若い世代の軍人がクーデタを起こすと、ソウ・マウン将軍が実権を握ります。そして、国家法秩序回復評議会/SLORCを作ります。9/18、9/19には、軍が非暴力のデモ参加者を撃って、数千人を殺しました。数千人の民主活動家が逮捕されて、刑務所で拷問されました。数千人が近隣諸国に去りました。
ソウ・マウンは民主化運動に押されて、選挙実施を約束します。
基層の人たちは後の選挙に備えて、9/27には国民民主連盟/NLDを結成しています。アウンサンスーチーも参加しています。党首で書記長です。アウンサン将軍の娘だから、国民の人気は高いし、元軍人も反発しにくいんです。さらに英国のオックスフォード大学を卒業していて、国連勤務経験があって国際情勢に敏いので、外交もうまくやれそうで、教養もあります。
1988年9月、国名をビルマ連邦に戻します。
1989年6月、国名をミャンマー連邦へ改称します。英語のラングーンをヤンゴンに改称しました。11世紀のパガン朝以来、国名はミャンマーだったから、英国統治時代のビルマは使わないと表明したんです。民族ナショナリズムを刺激して、軍政への支持を得るのが狙いでした。
選挙が近づくと、政権は7月にアウンサンスーチーを自宅軟禁にしました。国外退去を条件に解放をと言われたんですけど、そうなると二度と入国できない可能性があったので断りました。政治家として生きていく覚悟ができていたことがわかります。
関心のある人には「ビルマ軍事政権とアウンサンスーチー 」(角川oneテーマ21.2003年)という本があります。
□ラオス王国
1971年2月、ヴェトナム戦争の局面打開を狙って、米国が侵攻してきます。北ヴェトナムへの支援をやめさせようということです。
1973年、パリ和平協定で米国はヴェトナム戦争から、そしてラオスからも手を引きました。
1975年8月、共産主義勢力が首都ビエンチャンに進軍して制圧すると、12月に国王が退位しました。
ラオス人民民主共和国へ改称します。ラオス人民党の支配する社会主義国です。
1986年からチンタナカーン・マイ(新思考)政策を開始します。社会主義なんですけど、資本主義経済に舵を切るということで、大陸中国の改革開放ですね。
□カンボジア王国
1970年3月、親米右派のロン・ノルがクーデタを起こします。
ロン・ノル将軍は北ヴェトナムに対抗して、カンボジア国内に逃げ込むヴェトコンを攻撃させるために、米軍や南ヴェトナム軍が国内に侵攻することを許可しました。さらに北ヴェトナムを支援する住人への爆撃を米軍に許可しました。さらに、国内のヴェトナム人を虐殺します。これで200万人以上の難民が出て、耕作地は荒廃して、食糧輸出国だったのに輸入国に転化します。社会主義に理解のあるシハヌーク/シアヌークと、ポルポト派/クメール・ルージュ/極左組織/カンボジア共産党は手を組んで、ロン・ノル政府軍との内戦に入ります。
1973年、パリ和平協定で米国はヴェトナム戦争から手を引きました。
1975年、親中派のポルポト(愛称。本名はサロット・サル)政権が、米国からの支援しを打ち切られたロン・ノルを打倒します。ロン・ノルはハワイへ亡命しました。
1976年1月、カンボジア民主国を成立させます。元首兼大統領はシハヌーク/シアヌークです。
ポルポトは民主カンプチアと改称すると、シハヌーク/シアヌーク国王を辞任させます。社会主義国です。外交政策は親大陸中国・反ヴェトナムです。
大陸中国の文化大革命に刺激されて、都市住民を農村へ強制移住させたり、自活生活を命令したり、家族を解体して、大人だけの生活、子供だけの生活をさせました。資本主義の象徴なので、貨幣も廃止します。仏教も否定します。
知識人(教員・弁護士・医師・芸術家)、旧体制の政治家・官僚・兵士などを強制収容所に入れて思想改造したり、100万人以上を処刑しました。ポルポト自身が教員の経験も持っていたようなんですけどね。
関心のある人には、「ポルポト<革命>史」(講談社)「最初に父が殺された」(ルオン・ウン。映画化もされています)「キリングフィールドからの生還」(光文社)、アニメでは「FUNAN」(2018年)があります。
キュー・サムファン、イェン・サリ、ヌオン・チアなどの指導層はのちに21世紀までも続く裁判で有罪となります。
1976年に南北統一した親ソ連のヴェトナム社会主義共和国が、カンボジア内の反政府組織と協力して、1977年に親中のカンボジア内に侵攻します。これもまた中ソ対立のあおりです。小規模な紛争は1975年からあって、本格的な戦争は1977年-1979年です。1978年12月からと言う研究者もいます。1989年/1991年頃にヴェトナム軍が撤退するまで続きました。
1978年ヴェトナムとの戦争でポルポトの民主カンプチアは崩壊します。
1979年2月に、報復として中国がヴェトナムへ侵攻=中越戦争が一か月続きます。
1979年、カンプチア人民共和国が成立しました。親ソ連・親ヴェトナムのヘン・サムリン政権(人民革命党)です。クメール・ルージュはタイへ逃れました。60万人以上がタイへ難民として移動します。これ以降、内戦は激化しました。
政権に対して、民主カンプチア連合政府(1982年-1993年)を結成したのが、シハヌーク/シアヌークやポルポト、ソンサンなどの連合です。タイは親ヴェトナム政府の成立に危機感を持ったので、タイの加盟しているASEANはカンボジアにヘンサムリン政権を作ったヴェトナムを批判します。
1989年、カンプチア人民共和国はカンボジア国へと改称します。そして、シハヌーク/シアヌークなどと会談もします。ヴェトナムの傀儡政権だと非難されることを恐れてのものです。まだヴェトナム軍は国内にいます。冷戦も終わりに近づいて、ソ連、東欧からの資金援助も打ち切られました。
1989年-1991年にかけて、ヴェトナム軍が撤退して、1991年、パリ協定で停戦します。
ヘンサムリン政権は死刑を廃止したり、社会主義を目指すことを言わなくなったり、永世中立国の宣言をすることで、警戒を解かせて、西側、ASEANに近づきます。
永世中立は、たとえ社会的に社会主義陣営に近づいても、軍事的に敵に回ることを防止した西側の政策とも言えます。
ポルポトの時期に、カンボジアを支える能力の高い人たちが失われるので、ポルポト後も再建はなかなか進みません。大陸中国と比較すると面白そうです。その点、GHQ占領下の日本は公職追放された戦犯容疑者が次々と公職に復帰して高度経済成長につなげたことと対照的です。
□ヴェトナム
1973年1月、ヴェトナムの独立尊重、即時停戦で合意したパリ和平協定と、ニクソン・ドクトリンによる米軍の撤退があって、その他の多国籍軍も撤退していきます。
派兵されているときに韓国軍兵士がヴェトナム女性を性的に暴行して、「ライダイハン」と言われるヴェトナムと韓国の血を持つ子どもが生まれました。ライダイハンは5千人〜3万人いるとされています。朴正煕政権下、のべ30万人が派兵されて、ヴェトナム人女性数千人に対して性的暴行を行って、慰安婦として強制的に慰安所で働かせていたりしたと主張する研究者もいます。とうぜん、こうしたことを表ざたにすると村八分に合うので、慰安婦にされた人が証言することはほとんどありません。証言がないことが、事実として存在しなかったことにはならないんです。親だけではなく、村八分にされる子も被害者と言えます。正規兵以外に、韓国の建設会社から派遣された民間人や軍属も加害者になっていたようです。韓国軍の撤退で、ライダイハンは置き去りにされました。この問題に関しては、21世紀に設立された英国の民間団体「ライダイハンのための正義」などが活動しています。この団体は、約40センチの「ライダイハン像」を制作して、在ヴェトナム韓国大使館前などに設置して、世論を喚起する計画を持っています。
韓国人の慰安婦の問題に対して、韓国社会が日本に厳しい立場を取っているので、こうした話を聞くと、韓国も同じことをしていると言いたくなる人もいるでしょう。けど、同じことをしているから免罪されないということはわかると思います。
これは日本軍による韓国女性への慰安婦問題と同類なんですけど、戦時下、戦後占領下の外国人による現地女性への性的暴行は歴史上幾多もあったことす。
第二次世界大戦中に日本人との間にも同意の上で子供が生まれました。沖縄でも米兵と沖縄の女性との間に子どもが生まれました。父親/外国の兵士は戦争、占領が終わると帰ってしまいます。シングルマザーになってしまうという問題があります。実質的に離婚と同じなので、風習、宗教によっては再婚できないし、性的な暴行を受けた場合には穢れているということで、地域、国、地区によっては、実家にも帰れないし、村八分にされるという状況もあります。インドの事例では、外国人と離婚した人は、カーストから外れるので、バラモンによってお祓いを受けて元のカーストに復帰するということもありました。
国と国の政治問題は解決したうえでの話かもしれませんけど、こうしたことは国同士の争いというよりも、女性全体への蔑視という枠組みで捉えたり、根本的にはすべての女性、あらゆる弱者への暴力という視点で捉えるべき、人類の権利、人権への蹂躙であるという枠組みで捉えるべきというのが最新の思想になっています。その意味で、誰もが加害者にもなりうるし被害者にもなりうるという立場で考えるべきでしょう。日本人で男性だから大丈夫という話ではありません。
南ヴェトナムは経済的軍事的支援者の米国が去ったから、北に対抗できません。
1975年4月に南の拠点サイゴンが陥落して、ヴェトナム戦争は終結します。
親米のヴェトナム人は見捨てられました。共産党政権下でライダイハンは「敵国の子」として迫害、差別されました。
北ヴェトナムの支配を恐れて、避難民が増加しました。いわゆるボートピープルです。ヴェトナムでは船/ボートに乗って沖へ出ると、海流に乗って国際航路に出られます。そこで通りかかった外国船に引き上げてもらうんです。うまくいかずに沈没することも多いのは、比較的静かな海と言われる地中海でも、21世紀に西アジアからの多数の難民船が難破、沈没することに通じています。
このときには、国際的圧力を受けて、日本もヴェトナム難民を引き受けました。
近代以降の日本がまとまった人数を引き受けたのは初めてのことで、これ以降も含めても稀な事例です。ヴェトナム人以外では、21世紀の日本の受け入れはミャンマー人が多いですね。
1976年7月、北が南を包括という形で統一宣言を出します。
全土がヴェトナム社会主義共和国となりました。
サイゴンはホーチミンと改称されます。
中ソ論争があるので、親ソ連のヴェトナムと、親中のカンボジアは仲が悪くなっています。
1977年、親中のポルポト政権がいるカンボジアに、ヴェトナムが侵攻します。
1979年2月、報復としてヴェトナムは大陸中国の侵攻を受けます。この中越戦争が一か月続きました。これによって大陸中国を警戒したヴェトナムは、今後カンボジアに大規模な派兵をできなくなりました。
1986年、ドイモイ政策を開始します。ドイモイは刷新という意味です。社会主義国なんですけど、資本主義へ舵を切ります。1978年からの大陸中国の改革開放に刺激されたと研究者は言っています。内戦/祖国統一戦争が終結したタイミングということもあります。国際社会からの投資を受けるために、国際的に非難されているラオス、カンボジアに駐留しているヴェトナム兵を引き上げます。
基層の人はどうしているかと言うと、中越戦争の結果、ヴェトナムでは華人への報復政策が実施されました。国内の華人の財産は没収されました。太平洋戦争中の米国で日系人が財産を没収されて迫害されたことに似ています。都市部から山岳地へ強制移住もされました。これも、多数派の民族による価値観を押し付けての国民創出、という近代国民国家という原理のマイナス面です。
海外出国を選んだ人は襤褸船(ぼろふね)に乗せられて南シナ海に出されました。迫害を避けるために早く出国したいけど、飛行機に乗るお金はないので、自分から襤褸船に乗った人もいます。こうしてボートピープルと呼ばれる避難民は30万人いて、タイ、フィリピンの漁師などから漁場を荒らされたくないということで暴行を受けたり、財産を奪われたりする人もいました。そうした国に難民として受け入れられた人もいます。
沖合に出れば古来の国際航路なので、大きな船が来て、沈まないうちに拾ってくれることもあって、近隣国や、日本や欧米に移住していきました。日本では、日本語教育などの入り口の支援はしたんですけど、その後の経過観察支援はなくて、2020年代初頭時点では誰がどこに住んでいるか、生活状態はどうかなどを政府は把握していません。
陸上ルートで中国へ去った人も25万人います。
□フィリピン
マルコス大統領(1965年~)による開発独裁です。
1972年には戒厳令を発令して、大統領任期の延長などの独裁化を狙います。よくあるパターンです。こういうことがあると独裁を続けるつもりとわかります。
マルコス独裁政府への反対活動を主導していたベニグノ・アキノ上院議員が政敵になるからと考えて、マルコスはベニグノ・アキノを投獄して、1980年に米国へ追放しました。
1983年に、3年後の大統領選挙に向けて帰国したベニグノ・アキノが空港で殺されます。マルコス一族の腐敗の上に、経済も停滞、アキノまで殺すとはもう我慢できないということで、民衆のマルコスへの批判が激しくなります。
1986年2月の大統領選挙では、アキノの妻のコラソン・アキノ(富豪のコファンコ一族)が立候補して、勝利します。けど、マルコスは開票結果を偽って、自分が勝利したと発表しました。これもよくあるパターンです。こういうことがあると独裁を続けるつもりとわかります。米国のトランプもそうでしたね。
もう民衆は我慢できません。民衆は、黄色をシンボルカラーにしています。「黄色い革命」の勃発です。ピープルパワー、デモをしていた通りに由来したエドゥサ革命とも言われます。カトリック教会も民衆側につくし、軍の一部もマルコスを見限るし、米国ももう支持しません。
2/25民衆に囲まれたマラカニアン宮殿からマルコス大統領が米軍のヘリコプターで脱出、2/26ハワイに亡命します。ベニグノ・アキノの妻コラソン・アキノが大統領になって、大統領の任期は一期四年とするなどの改憲をして、民主化を進めます。
□マレーシア
1971年新経済政策(20年計画)で、企業の株はマレー人が30%以上を保有(1990年に達成が目標)する決まりに変えました。当然、華人は保有率を落とします。この時点のマレー人の保有率は全体の2%でした。
ブミプトラ政策-ブミプトラはマレー系の人を指す言葉で、土地の子という意味です。
マレー人を優遇して民族比率に応じた雇用、大学入学、しかも(経済的に裕福でない人が多いので、一律で)マレー人は授業料は無料としました。
1970年時点のマレー系大学生は40%でした。1980年に67%になります。一部改編や廃止はあるんですけど、基本的には継続していきます。これ以降、華人は英国やオーストラリアへの留学・移民が増えていきます。
似た政策に米国のアファーマティブアクションがあります。黒人などの、迫害されてきたせいで貧しい境遇にある人を優先して大学に入学させるなどの政策です。
1981年、マハティールが首相になりました。王族でない首相は初めてで、その代わりに正統性は経済成長に求めます。開発独裁の長期政権(1981年-2003年、2018年-2020年再び首相になります)の時期です。
日本の高度成長を見習おうというLook East政策がスローガンです。憲法を改定して、国王権限の抑制、首相権限の強化をしたり、サバ州・サラワク州の自治権の縮小をしたり。王族や野党の人を逮捕したり、重化学工業を推進したり、日本や韓国の投資を呼び込んで、国内の公社と合弁企業を作らせました。
□シンガポール
国土が狭くて、水と食料をインドネシア、マレーシアに依存しています。どちらも反中国なので、シンガポールは華僑の多い国なんですけど、インドネシア、マレーシアに気を使って、非中国を掲げています。
1972年、1976年、1980年と下院選挙があります。この三回すべてで58全議席を独占したのが首相のリー・クアン・ユーが党首を務める人民行動党です。
1981年の補欠選挙で初めて野党が一議席を得ました。
シンガポールも高度成長をして、1970年代末にNIES/新興工業経済地域群と言われました。韓国・香港・台湾・シンガポールが典型です。
□ブルネイ
ブルネイの北部です。冷戦が終わりに近づいた1984年1月に英国から独立します。ブルネイ・ダルサラーム王国の成立です。代々のスルタンがいて、ハサナル・ボルキアが初代の国王になりました。2022年時点でも国王として在位しています。
ASEANに加盟します。日韓などは首相や大統領がどんどん変わりますね、けどボルキア国王は50年以上変わらずにASEANの会議など、国際会議に参加し続けているので、顔を知っている人もいると思います。
原油が出る国なので、財政は豊かで税金はありません。
□インドネシア
植民地化以前はインドネシアというまとまった枠がなかったし、イスラームを前面に押し出すわけでもないので、インドネシア国民という意識はまだ浸透していません。
地方の反政府勢力であるダルル・イスラームは、1970年代にジャワ島を中心とする単一の反政府勢力となりました。その後、複数の勢力に分裂して、1985年にマレーシアへ逃亡した一派は1993年にジェマー・イスラミア/JIを設立します。インドネシアに残った一派は1990年代初頭から2000年頃まで、フィリピン南部のモロ・イスラム解放戦線/MILFを支援します。どちらもイスラーム国家を作りたいという思いを持っています。
スハルトはゴルカルといわれる労働組合、青年団などの連合団体を政党として利用して、1971年から自分への投票を指示して選挙に参加します。また、この時代に10以上の野党を二つの政党に合併させています。管理しやすくするためです。
1976年、ポルトガル植民地の東ティモールを併合しました。
1976年には、ハッサン・ティロが主導して、自由アチェ運動/GAMを組織すると、アチェ・スマトラ国の建国を宣言しました。1989年からは、政府がアチェを軍事作戦地域に指定して、弾圧をします。
□□中国
1970年、水爆実験に成功します。
1971年、人工衛星打ち上げに成功します。大陸間弾道ミサイルの技術に通じる能力を得たということです。
この時期、中華人民共和国は外交的に孤立しています。中国は歴史的に軍事同盟国を持ったことはありません。その時々で朝鮮戦争に介入するなどはあるんですけど、中ソ友好同盟相互援助条約も第三国からの攻撃に対しては「援助」を与えるという表現なので、参戦する義務はありませんでした。
ただ、中ソ国境紛争(1969年)があったので、米中関係改善を考えるようになります。米国もヴェトナム戦争から手を引くと、冷戦緩和に入りたいので、まず中華人民共和国、それからソ連に近づこうと考えます。
1971年4月、有名なピンポン外交があります。名古屋開催の世界選手権で、中華人民共和国の選手と米国の選手の友好を見て、毛沢東は米国の選手団を中華人民共和国に招きました。もちろん中華人民共和国は当時から卓球強国で、米国に負けることはありません。こういう友好ムードを演出して、地ならしをしていきます。
7月になって、米国のニクソン大統領側近のキッシンジャーが訪中しました。両国の関係改善志向が明らかとなります。中華人民共和国、米国でも一部の人は反対しています。
9月、ソ連派の林彪は、第九回全国大会で毛沢東の後継者に指名されたんですけど、結局毛沢東と対立しました。殺害計画を持っていたけれど失敗したと言う研究者もいます。権力争いに負けた林彪はソ連への亡命途上、モンゴル上空で飛行機が墜落して、死去しました。いまだに原因不明です。事故ではないかと言われています。
毛沢東への批判が出ると、「批林批孔」で対抗します。すでに死んでいる「林」彪「批」判とセットで「孔」子「批」判をします。儒学は君子による君主制を理想としていて、共産党の敵だからですね。
こうして国内に米国と手を結ぶのに反対する勢力がいなくなったので、1971年10月、アルバニアが提案した中華人民共和国の国連代表権案が可決されました。中華人民共和国が唯一の正統な政府となって、国連に参加して、安全保障理事会の常任理事国にもなります。中華民国は捨てられたと言えます。
1972年、ニクソン訪中。上海コミュニケで米中の国交に合意します。この時は、まだ国交を結んでいません。1979年に結びます。
米国は中華人民共和国を国として正式に承認します。これまでは、米国にとっての中華人民共和国は、台湾/中華民国政府に抵抗する反政府組織の認識でした。
1975年、ポルトガルが中華人民共和国と国交を結びます。
1979年には中越戦争がありました。親中のカンボジアが攻撃されたので、報復としてヴェトナムへ侵攻しました。
1979年には中華人民共和国は米国と国交を樹立します。発表は1978年です。華国鋒首相、鄧小平副首相の時期です。
カーターと鄧小平が協議して、これまでの経緯を説明した「対華白書」を公表します。国交「回復」とする教科書、参考書もあるんですけど、中華人民共和国とは初めて国交を結んでいます。中華民国とは国交断絶/断交もしたことはありません。大陸と台湾の政府を同一国家と見なす場合は「交代」、別の政府/国家と見なす場合は「初めて国交を結んだ」という表現が適切です。
第二次世界大戦中の対日の都合上、日本と敵対する列強は対中融和が必要だったので、1947年までに治外法権や、上海などの租界はほとんど撤廃、返還されていました。わずかに残るところはあります。
1982年、英国のサッチャー首相が訪中して、香港地域(割譲された香港島・九龍半島南部/いわゆる九龍、租借した新界)の返還を鄧小平と交渉します。
当初、サッチャーは新界だけのつもりだったんですけど、鄧小平は強硬に英国領土の香港島、九龍半島南部の返還も主張しました。そして、1984年にすべてを返還することで合意します。
結局、1997年に返還されました。
マカオに関しては1986年にポルトガルと交渉を開始して、1987年にマカオの返還が合意されて、1999年12/20に返還されます。英国が香港に権益を残す条件を出したのに対して、ポルトガルはそうした条件は出さず、完全放棄です。この二地区の返還は、アジアにおける欧米植民地の消滅を意味すると言われています。19世紀後半からの流れが終わったと言うことです。
1989年5月にソ連のゴルバチョフ最高会議幹部会議長が訪中して、中ソも国交正常化されます。江沢民総書記(のちに国家主席となる)、李鵬首相の時期です。
東南アジアとの関係は古来中国がヴェトナムを支配、独立後も冊封体制に置いていました。そして清の時代には属国にしていました。英仏の植民地化すると、東南アジアは中国から離反します。日本の占領があって、戦後、中国の共産化でさらに離反しました。
そして、この1970年代後半から1980年代には、中華人民共和国は、改革開放政策で資本主義化するので、共産主義ということで距離を置いていた東南アジアに投資していきます。
国内情勢を書きます。
文化大革命中です。毛沢東の権力闘争でした。ソ中朝などの国家では、共産党が国家を
上回っているので、権限や指導者が分かりにくい。日本で言えば、自民党総裁が首相よりも偉い、権力があるような状態です。実際の日本の場合は自民党総裁/党首はたいてい首相になります。
1976年1/8に周恩来が死去します。天安門に周恩来への弔慰を示すための花束が置かれていきます。これに毛沢東が嫉妬して撤去命令を出すと、第一次天安門事件/四六天安門事件が起こります。そんなことまで妨害されるのかという怒り、国民のことを考えてくれていたイメージを持つ周恩来への親しみもあって、民主化を求める学生や知識人も加わったデモにつながります。毛沢東は市民を弾圧します。
7月には朱徳が死去、そして、9月に毛沢東主席が死去しました。
毛沢東から弾圧されていた華国鋒、鄧小平は、10/6に毛沢東の妻江青など四人組を逮捕します。もう後援者がいないので怖くありません。
華国鋒が主席になると、1977年に文化大革命の終了を宣言します。下放されていた人たち、つまり左遷されて農村で強制労働をさせられていた人たちが、続々と名誉回復されて、職場復帰をします。
1975年にも周恩来が掲げているんですけど、1978年/1979年に鄧小平が、二回目の四つの現代化/近代化と言われる政策を実施します。工業・国防・科学技術・農業分野の成長を狙います。農業では生産責任制を実施します。余剰物資は市場で売っていいというものです。朝鮮でも21世紀初頭には実施されたんですけど、市場が機能すると、利権を失う軍人が反対するので、朝鮮では停止になってしまいます。軍人を抑えるだけの力を政権が持っていれば続けられます。
モデルは東南アジアの開発独裁です。一人に権力を集中する新権威主義論/ストロングマンですね。1984年にはゴー・ケンスィー(シンガポールの元副首相で経済学者)を顧問として招いたりもしています。
この1978年からは「改革解放」をスローガンにして資本主義を導入していきます。開発独裁の時期に入ります。1980年に深圳に経済特区を設けるなどして、安い人件費と法人税で外資を呼び込んでいきます。以前1962年にも言っているんですけど、この時期にも鄧小平は
「白い猫でも黒い猫でもネズミを取るのがよい猫」と言っています。目的/経済成長のためなら、市場経済や資本主義でも導入するという宣言です。
1980年、一人っ子政策の開始。農村の一部や少数民族は例外として、漢人は子どもは一人だけ生んでいいという政策です。食料不足が理由です。家を継ぐ男子、面倒を見てくれる女子などのジェンダーもあるんですけど、家を継ぐことと、たぶん収入を考えて男子の方が好まれたので、男女の比率に差が出ていきます。女子を妊娠したとわかると中絶したり、第二子を中絶したりもしたし、子どもが死去してしまうと、高齢なのでもう出産できないという人もいました。
老後の面倒は政府が見ると発表されているんですけど、実際は不十分で、2016年には少子高齢化の影響もあって、生産年代が減ったので、この政策は解除されました。けど、都市部では子供を産みたい人が既に減少していたので、なかなか戻りません。
少子高齢化できつくて低賃金の労働者は不足しています。一人っ子でわがまま放題なので小皇帝と言われて、父母、父方の祖父母、母方の祖父母からお小遣いをもらえる6つの財布と言って羨望されてもいたんですけど、孫一人が6人を介護するという状況もあり得ます。
1950年時点で人口が5.5億人、1980年時点で10億人います。 もしこの政策がなければ2020年の人口は実際の14億人でなくて、18億人になっていたと言われています。
罰金を払っても子どもを二人以上持つ裕福な家庭と、罰金を払えないので届け出をしない経済的に貧困の家庭があります。届け出をしないので、無戸籍の子になって、学校や飛行機の利用もできません。もちろん、人口統計にも現れません。
1981年には、鄧小平 副主席が実権を握ります。1982年からは胡耀邦が共産党の総書記になっています。
「非毛華運動」-「毛」沢東と「華」国鋒を「非」難します。
1986年、胡耀邦が「百花斉放・百家争鳴」を訴えて、民主化路線を提唱します。かつて毛沢東が持ち出した言論の自由なんですけど、同じ名前なので、私が中国の市民だと怖いですね。また何か言った後に逮捕されそうです。
鄧小平は経済的な資本主義化は求めているんですけど、政治的な民主化、脱共産党の一党支配は求めていません。2020年代の中華人民共和国まで続く路線です。
胡耀邦は、鄧小平などの勢力によって、失脚させられます。
そして1989年に死去しました。
1989年6/4、(第二次)天安門事件/六四事件(第一次が4/6、四六だったので、今回は数字が逆です)。第一次天安門は周恩来の死去がきっかけで、今回は胡耀邦の死去にともなって、特権層の政治独占に学生が抗議して起こった民主化デモです。
これを政府が弾圧します。世界中に、戦車・装甲車で市民を轢く人民解放軍、無差別発砲する様子が報道されて、中華人民共和国は国際的に非難を浴びました。
この事件、デモに参加した学生は、その後も基本的に就職できず、監視される人生を送ります。亡命した人もいます。米国から戻ってハンガーストライキを主導した劉暁波(リウシアポー)は、学生を広場から撤退させて、犠牲を減らした四君子と言われます。ただ、反革命罪で投獄されました。その後も犠牲者の名誉回復や民主化運動をして、繰り返し拘束されました。2008年には一党独裁放棄・言論の自由を訴える「08憲章」を起草すると、今度は国家政権転覆扇動容疑で逮捕されて、2010年には獄中でノーベル平和賞を受賞しました。その時「私には敵はいない」という言葉が読み上げられました。
中華人民共和国の国内では2020年代初頭の時点でも「天安門事件」のキーワードを検索できないようです。共産党は恐れているんですね、市民が抵抗の意思を示した歴史が明らかになることを。
この天安門事件で、学生に理解を示した趙紫陽総書記は、「弱腰で、共産党の権威を失墜させかねない」ということで解任されて、2005年に死去するまで自宅軟禁されました。
□台湾
蒋介石が1975年に死去します。
1978年-1988年、蒋経国総統の時期です。蒋介石の子供です。
順調に経済発展して、1970年代末にNIES/新興工業経済地域群と言われます。
開発独裁ですね。戒厳令も有効です。
独裁的な体制が残っていることは、米国がその政権を重視している現れなんです。この時点ではシリア、イラク、サウジ アラビアなどです。
ただ、1979年には中華人民共和国が国連から承認されて、米国と国交を結びます。中華民国は日米などとの国交がなくなります。ただ、米国の台湾関係法によって、米台は非公式に関係は維持しています。日本もそうですね。大使館は置いていませんけど、代わりの機関がやり取りしています。
そして中華人民共和国の方が強大化してくると、中華民国の方からは、大陸への反攻可能性が低くなっていきます。いつか共産党を追い払って中国を再統一することに正統性の根拠を置いていたので、国民党の政治的合法性が低下します。米国は、重要性の落ちた中華民国/台湾にさらなる民主化を要求します。
この時期、韓国、インドネシアも同じように民主化していきます。
国内でも台湾内は蒋介石以来の国民党政権の一党独裁、常に大陸中国と緊張関係にあるので、戦後も一貫して戒厳令下です。
中華人民共和国の国際化、冷戦構造の緩和という国際情勢もあってのことだと言われていますけど、
1986年、独裁にうんざりして、市民が抵抗した結果、初の野党結成が容認されます。民進党(民主進歩党)です。
そして、1987年には冷戦の対立構造が和らいで、中華人民共和国も国際化していくので、中華民国/台湾でも戒厳令が解除されました。1989年には政党の結成が正式に合法とされました。大抵の独裁国家では集会・「結社」の自由と言論の自由がありません。政党も結社だから違法なんです。こうした民主化に伴って、外省人/国民党の文化ではなく、本省人の文化を見直す動きが出てきます。
民族という意味で歴史学では使われるエスニシティの問題です。
台湾に暮らすようになった時期には、各々のグループに差があります。エスニシティ間で摩擦もあります。この頃からだと思いますけど、北京語教育が軌道に乗って、旧宗主国の日本語を排除できたので、次は方言を排除する段階に入ります。標準語の押し付けですね。けど、うまくいきません。
2010年-2011年の調査でも、先住民の言語が1.8%あって、台湾語/閩南語(びんなんご)と客家語が13.6%あります。外省人の使う北京語は7.1%です。
外省人は、戦後に台湾に来た人です。主に国民党一派です。
本省人/ほんしょうじんは、1945年に日本国民から中華民国人に国籍復帰した人で、戦前から台湾に住んでいます。本省人はマレー・ポリネシア系の先住民、福建出身者、広東出身者/客家(はっか)から成っています。
台湾人を強く意識するので、福建出身者の言葉/閩南びんなん語は台湾語と言われるようになります。
戒厳令解除(内戦終結)・冷戦終焉(資本主義の勝利)と、中華人民共和国での文革(実際は毛沢東の権力闘争、形式的には共産主義の純粋化)失敗は、国民党と資本主義を同一視する台湾人にとっては、社会主義に対する魅力が薄れることになるので、台独/台湾独立へ収斂(しゅうれん)していきます。大陸とは違う文化を持つ国だとの意識が強まってきます。中庸で中産階級化する独台/独立台湾か、右翼ポピュリズムの独台かという選択肢があるんですけど、もう開発独裁の時代は終わりなので、後者はあり得ません。
資本主義の拡張は、過剰な貿易と設備のために中断されて、政府と企業の混合体が、これを組み替えて、もっと強化した混合体へと変わっていきます。
政治・軍事面では米国やNATOと結びついて、経済・金融面では東アジア、ASEAN+3とつながります。両方のつなぎがG7やG8、G20ですね。
□□朝鮮半島
□朝鮮
朝鮮はこの頃、自民党社会党の訪問を受けて、日朝国交正常化の足掛かりを得ていました。その後、拉致問題が浮上して、21世紀まで正常化していません。
この頃から朝鮮は日本人拉致を実施しています。理由は不明でいくつかの説があります。
日本人になりすまして工作員を韓国に潜入させるための教育係、
国内産業発展のための技術者、
既に国内にいる日本人と結婚させる妻候補。
ただ、男性や未成年も拉致しているので、複数の目的があったのかもしれません。朝鮮半島には日本の出身者もいるので、拉致する必要はないと金日成は言っています。
国内になぜ日本人がいるかと言うと、戦後、地上の楽園という謳い文句で、朝鮮に来た在日朝鮮人、その家族(日本人も含みます。妻、妻の弟とか)は9万3千人くらいいます。この帰国事業は1959年~1984年に日朝両政府の了解のもとで行われました。実際に来ると、日本から来た人は「成分」(出身地など)がわるいということで、下層に位置づけられました。
のちに朝鮮が公式に認めた拉致被害者は13人、特定失踪者/拉致の疑いある人は400人以上います。特定失踪者のうち何人かはのちに日本国内で発見されることもありました。本人にしかわからない理由で夜逃げの例もあります。
1973年、三大革命運動。社会主義を建設するために「思想」「技術」「文化」の革命を推進するというものです。
金日成(キムイルソン)首相は、この時期に首相制をやめて、1972年から主席制度へと移行をしています。国のトップである首相よりも、朝鮮労働党のトップ、主席の方が偉いということを明確化するための措置です。
1986年には、原子炉の開発を開始しています。
1987年には、敵国である韓国に打撃を与えるために、大韓航空機を爆破する事件を起こします。乗員と乗客115人全員が死去しました。実行犯は二人で、爆弾を仕掛けた後に、経由地で飛行機を降りた金賢姫(キムヒョンヒ)と金勝一(事情聴取中に自死)でした。当時の韓国は大統領選挙を控えていたので、朝鮮に対して強硬な態度の与党に打撃を与えること、ソウルオリンピックの開催国としての能力に疑問を持たせることで、東側の国に不参加を表明させることで、東西の融和をさせないことなどを狙っていたと研究者は考えています。実行犯は日本人の偽造パスポートを持っていました。日本に罪をかぶせるつもりだったんです。日韓の仲を裂こうとしたとも考えられるんですけど、この説は有力になっていません。
キムヒョンヒに日本語を指導したのは、日本から拉致された田口八重子だったのではないかと考える研究者がいます。キムヒョンヒなどの工作員を含めて朝鮮人は、外国の繁栄を知って亡命することが内容に、外国に行けず、外国のTVを見ることもありません。事件の捜査で、日本人に成りすまそうとしても、日本で持っていたTVのメーカーは何かと聞かれても答えられません。そういうこともあって、朝鮮人だということを隠しおおせなかったようです。
外国語を学ぶのには苦労があります。けど、その生活文化を知るというのは難しいですね。英語を自在に話せる日本人でもブルックリンにあるカラフルなレインボードーナツの店は何という名前?と聞かれたり、最近亡くなった有名なロックミュージシャンは誰?と聞かれると答えられない人もいると思います。外国人を装うというのは、至難の業だと思います。
□韓国
韓国歴代大統領はよく出題されるのでまとめておきます。
1948年-1960年、イスンマン/李承晩
1963年-1979年、パクチョンヒ/朴正煕
1979年-1980年、チェギュハ/崔圭夏
1980年-1988年、チョンドゥファン/全斗煥 (1987年、軍部独裁終わり)
1988年-1993年、ノテウ/盧泰愚(軍人出身)
1970年、韓中、韓ソが外交関係を樹立します。つまり国交を初めて結んだんです。これまでは朝鮮の側にいた東側と親しくなったので、朝鮮の孤立を意味します。
1971年、 朴正煕が三度目の大統領になります。憲法が三選(三回選ばれること)を禁止しているんですけど、1969年に憲法を改定して三選可能にしていたんです。独裁の手口としてよくある方法です。任期を伸ばすとか、三回連続でしていいとか、大統領の後に首相になって、その時期だけ首相が最高権力を握るように改憲するといったことが常套手段なので、日本でもそういうことがあったら、この人は独裁を狙っているなと思って間違いりません。
民主化を訴えた金大中は僅差で敗れて、直後に殺されかけて、足腰を悪くします。
1972年、南北共同声明(7・4声明)-米中の接近や、米ソの融和という国際情勢を見て、朝鮮も韓国も対立の緩和を狙います。祖国統一は武力でなく平和的に目指す、交流を増やすということで、南北対話の始まりです。
8/23融和政策への転換があったので、金日成を殺すために編成された684部隊は、今後の使い道もなく、無人島で軟禁状態になりました。さすがに待遇がひどいので、大統領に直訴するために、島を脱出してバスを乗っ取るんですけど、ソウル市内で軍と交戦となって、バスを爆破して自死しました。映画「シルミド」のモデルになった事件です。映画では死刑囚などで編成されていました。実際は一般市民の志願兵です。
1973年、朴正煕は政敵である金大中を東京のホテルグランドパレス(2020年代のパレスホテル)から拉致して、数日後にソウルで解放します。金大中は殺されることを恐れて帰国せずに、東京に滞在していたんですけどね。日本は主権侵害と抗議して、韓国は国際的に孤立しました。
高度成長をした韓国は、1970年代末にNIES/新興工業経済地域群と言われます。
1978年、大韓航空の旅客機は航法のミスで、ソ連領空を侵犯して、ソ連軍機に迎撃されました。2人が死去、13人が負傷しました。
1979年10/26朴正煕が側近に殺されました。情報部長のキムジェギュ/金戴圭が実行犯で、自身の立場が危うくなったこと、米国の介入/革命やクーデタがありそうなことを理由として、自分で排除したほうが米国に占領されずにすむと考えたのかははっきりしません。逮捕されて絞首刑になる前の陳述では、「大統領になりたかったのではない。民主主義のためにやった」と言っています。映画「KCIA」のモデルになった事件です。映画「大統領の理髪師」は朴正熙時代を舞台にしています。
この後、鄭参謀総長が戒厳司令官に就任しました。そして、戒厳司令部 合同捜査本部長に就任した国軍保安司令官の全斗煥 陸軍少将が捜査を主導して、金戴圭は軍事法廷で死刑とされました。
その後、大統領権限代行となった国務院総理のチェギュハ/崔圭夏が一応、国を主導します。
1979年-1980年、チェギュハ/崔圭夏は、軍部にパイプがないので、非常事態を統制できません。
1980年に全斗煥将軍がクーデタを起こします。これに対して、基層の人たちは、反クーデタ・民主化要求のデモをします。けれど、全斗煥は基層の人たちを無慈悲に殺します。
この光州市に始まる全土に拡大した弾圧を光州事件と言っています。
1983年、ラングーン事件- ビルマ/ミャンマー訪問中の全斗煥を、朝鮮が殺そうとした未遂事件です。全斗煥大統領は、ビルマの英雄アウンサンの廟に、弔慰を示すために向かいました。事前に朝鮮の工作員が時限爆弾を仕掛けていたんですけど、大統領の車が故障で数分遅れたので、大統領は無事でした。けど、先着していた側近が死去しました。この事件をきっかけにして、韓国は朝鮮と断交します。
ソウルオリンピックを契機にして、これをボイコットせずに東欧各国や非同盟諸国が参加して、韓国側と親しくなると朝鮮は孤立しました。もちろんソ連も朝鮮と距離を置きました。この1983年には大韓航空機が再びソ連の領空を侵犯して、撃墜されています。乗員、乗客、269人全員が死去しました。
1987年11月には、さっき書いた大韓航空機爆破事件が起こります。朝鮮によるソウル オリンピック妨害目的などと言われるんですけど、真相は不明です。結局、卑劣な行為として朝鮮は糾弾されて、参加をためらっていたソ連も中国も東欧もオリンピック参加を表明しました。ボイコットしたら朝鮮の行為を容認する仲間と思われてしまうからです。
1988年2月、軍人出身の盧泰愚が大統領になります。
1988年9月、ソウルオリンピック開催。オリンピックを開催する都市があることは、その国が発展した、先進国になった証の一つです。
基層の人は何をしているかというと、1958年に創立されたキリスト教ペンテコステ派の汝矣島(よいど)純福音教会は、1980年代には100万人以上の信者がいたと言われています。会員数で言うと世界最大の教会です。
□□日本
1971年のニクソン・ショック、つまり経済面のドル・ショックで1ドル/308円になって、円高へと代わっていきます。GHQ下の1949年4月に365円と決定されて以来の変更です。
政治面では、翌年の訪中の表明がありました。敵視政策をやめるということです。日本は中華人民共和国と仲良くしたかったんですけど、米国の核の傘にいる以上、米国の機嫌を損ねたら大変と思って、仲良くできませんでした。
それが米中接近を受けて、1972年に中曽根首相が訪中して、日中国交正常化をします。日中共同声明で、中華人民共和国を正統国家と認めて、台湾政府と断交します。交流窓口は台湾の間にも残していて、貿易もします。
日本の戦後責任に関しては、
中華民国の蒋介石は、列強に支配された中国領土回復のために、「民族自決」を題目に掲げていました。だから戦後の日本の国体「天皇制維持か民主主義国家か」も、日本人が決めること=民族自決と考えています。
蒋介石自身の滞日経験から導きだして、「軍国主義は一時の歪みであり、庶民は中国人と同じ被害者である」という立場を取ったので、日本民衆との連帯を期待していました。
毛沢東(1976年に死去)は、当初は日本人一般を戦争責任者の同志と見ていたんですけど、知日の周恩来の助言や安保闘争の挫折、原水禁運動を見て「庶民は被害者」というように見方を変えています。
つまり、中華人民共和国も中華民国も、責任があるのは軍部だけと考えて、庶民は無罪という「責任の二分論」に立っています。だから、軍部/A級戦犯の合祀された神社への政治家/庶民の参拝は、論理矛盾となって、非難されるんです。
1978年には日中平和友好条約を結んで、戦争状態の終わりを確認します。
中華人民共和国の歴史教育に関して-教科書はその時々の国際情勢によって、ソ連やアメリカを主敵としてきたんですけど、日本を主敵としたことは一度もありません。抗日を扱う文でも、その目的は共産党の抗日という功績があるから現在も正当性があるんだということと、中国人の誇りを養うことにあります。特に2000年以降は平和共存、他国文明尊重などを謳っています。中国の歴史教科書を実際に見ない人が抗日的な教科書という主張を鵜呑みにしてしまいます。明石書店から中華人民共和国を含めて、各国の教科書が出版されているので、自分で確かめることができます。
「責任の二分論」によって、現在の日本は平和国家であって、特に人民には責任がないという立場なので、「日本国や日本人が」という批判をすることはありません。「軍国主義日本を復活させんとする反動勢力が」と主張するのが何よりの表れです。どこの国にも一部の過激派はいるし、それに乗せられやすい人もいます。中国の一般市民は反日に距離を置いていることは、日本のテレビ局が、視聴率のために反日の過激なシーンだけを放映していても、デモ隊の二列目以降の中国人が暴力を止めようとしたり、目が燃えていないのを見ればわかります。そういうところにも注目しましょう。メディアリテラシーの一つの手段だと思います。
2010年代の抗日的なTV番組の割合は、日本で放映されている時代劇程度の本数です。一般的な日本人として、日本で時代劇をたくさん放映している印象を持つ人は少ないと思います。中国の抗日番組も多いとは言えません。TVは強制視聴ではないので、好きな人が見ているということです。洗脳とは言えません。強いて言えば、好きで洗脳されているということでしょうか。全国的な反日があるとすれば、それは日中間に問題が持ち上がるときだけ。基本的な態度として反日的な人は、歴史の側面でしか日本を知らないからです。それは日本人が中国人は恐い、朝鮮人は恐い、ロシア人は恐いと思い込んでいるのと同じです。実際に中国人や朝鮮人やロシア人と話したり、留学したりという人が少ないからです。そういった国の本や映画や音楽にも触れないし、TV・新聞でも悪いニュースしか聞かないからです。旅行をして日本人だから嫌な目にあったという人の割合はかなり少ないようです。
2012年に名古屋の河村市長が「南京事件はなかった。なぜなら自分の父親が南京事件の8年後の1945年に南京にいたが、現地の人からとても親切にされたから」と言っていました。1945年の8年後、1953年に日本を訪問した米国人は優しくされたと思います。東京や広島でも同じだったのではないでしょうか。「日本人は優しかったから、東京大空襲も原爆もなかった」と米国人が言ったら納得しますか?
科学とは、かけ離れた分析です。学者でさえも「韓国に行ったが、現地の人は慰安婦については口を閉ざした。私もそれ以上深くは聞かなかった。結論として慰安婦は存在しない」という研究結果を出す人もいます。校長が「いじめっ子に問いただしたが、何も言わなかった。だからいじめはない」と言うのと同じです。科学的な態度とは言えません。
結局、あとで慰安婦もいじめも原爆もあったことがわかって、謝罪することになります。
1972年の日本人への調査では、日中戦争はやむを得ず46% 自衛上当然だった8% 悪いことをした26%です。
1986年に、中央大学1年生への調査では、侵略戦争だった75% やむを得ず16%です。
年代、世代、知識が異なる集団への調査なので、単純な比較をしてはいけません。けど、それでもこの14年間に、国交正常化で中国への心情の変化、教育で加害の歴史も学んだことなどで、変化があると私は思います。
1972年、沖縄が米国から返還されます。けど、米軍基地はまだあります。
グアム島でアジア・太平洋戦争の生き残り兵、横井庄一が発見されたのもこの時期です。
1973年、オイル・ショック。第四次中東戦争によるものです。
1973年には、増原防衛長官が、内奏(天皇への報告)時の、天皇の発言を公開しました。これは天皇を政治的に利用する違憲行為とされて、増原は辞任しました。解職ではないんです。つまり、大臣の行為に責任を持つ首相は責任をうやむやにしたということです。
政治不信で、政治家に期待できないから投票しない人は、自分が真っ当と思う人を当選させるように行動する必要があります。
1974年、小塚金七がルバング島で警察に銃殺されました。小野田寛郎(少尉)はフィリピンのルバング島から帰国しました。中野学校の分校出身で継戦していました。
1974年には佐藤栄作元首相が、非核三原則などを理由にノーベル平和賞を受賞します。密約があるので、非核三原則は守られていないんですけどね。ノーベル平和賞を受けるべきではなかったと私は思います。
1974年、三木武夫首相の時期です。戦後最大と今のところ思われている贈収賄事件、いわゆる「ロッキード事件」が起こります、というか発覚します。米国のロッキード社が、全日空社へ飛行機を売り込む過程で、日本の政治家にお金を提供していた事件です。ロッキード社の代理人になっていた児玉誉士夫が逮捕されます。戦時中はタングステンなど戦略物資を海軍へ独占販売していた「児玉機関」を運営したり、岸信介などに選挙資金を提供して、政界の黒幕・フィクサーなどと言われていた人です。
仲介していたの丸紅の社員も逮捕されます。お金を受け取った田中角栄元首相も逮捕されました。事件が明るみに出たのは1974年なんですけど、田中は首相在任時にお金を受け取っていました。関係者の不審死が相次いだことも有名です。つまり真相を隠すために、政治家が殺し合いをしていたということだと思います。民主主義のレベルが低い国ですね。関心のある人には「田中角栄新金脈研究」(立花隆)という本があります。
1975年、ヴェトナム戦争が終結して、ボートピープルを日本は受け入れます。
1977年、ダッカ事件。日本の過激な左派グループである日本赤軍がハイジャックをして、16億円と収監中の仲間の解放を要求しました。「人の命は地球より重い」と言って、三木首相は仲間の釈放をしました。
1978年、日中平和友好条約で、公式に戦争を終えます。華国鋒主席・黄華外交部長、福田赳夫首相・園田直外相が立ち合いました。
1978年、大平正芳首相の時期、元号法を制定します。右派勢力の動きです。世界中で日本だけが元号を使っています。西暦に換算しないといけないので、面倒と感じる日本人もたくさんいます。それなのに、時間というものは天皇が支配すべきものなので、元号を制定するという意味で、法律上の根拠を与えたんです。元号を制定したい内閣の調査でさえ、元号があった方がいいと回答したのは、当時6割に満たなかったので、中立的な機関が調査したら、5割に届かなかったかもしれません。つまり、戦後の昭和という当時の元号には、何の法的根拠もなくて、慣例で言っていただけということです。
1979年、イラン革命と米国大使館人質事件、石油国有化で、第二次オイル・ショックが起こります。
1980年、鈴木善幸首相の時期、参議院選挙に比例代表制度を導入します。誰が国会議員になるのかを国民ではなくて、政党が選ぶ制度です。国民は政党を選びます。ただ、比例代表とは別に議員を選ぶいわゆる「選挙区」も並立しています。みなさんはこの制度、民主的だと思いますか?
1980年、拉致が初めて報道されました。
1982年、中曽根康弘の時期に、男女雇用機会均等法が制定されて、男女差別をする企業が減っていきます。
1985年のプラザ合意で、ドル安/円高を容認します。すこしずつバブル景気へ向かいます。
生鮮食料品など季節変動要因を含む名目GDPは、
249兆円/1980年、334兆円/1985年、454兆円/1990年と伸びています。
人口は1億1677万人/1980年、1億2080万人/1985年と伸びています。
いわゆる人口ボーナスの時期ですね。
1987年、竹下昇首相の時期には、リクルート事件という贈収賄事件がありました。藤波元官房長官、安倍晋太郎自民党幹事長の秘書、宮澤喜一財務大臣の秘書などが起訴されました。竹下昇首相、安倍晋太郎自民党幹事長、宮澤喜一財務大臣はリクルートの株式をもらっているのに起訴されていません。また警察が遠慮したということなのかな。独裁国家にはよくあることですね。
1987年、障害者雇用促進法が制定されます。これまでの身体障碍者に加えて、知的障碍者も含みます。
1987年、日本国有鉄道/国鉄を分割して、民営化します。JR東日本やJR西日本が誕生しました。赤字だったので手放したかったんです。
約25兆5000億円の債務/借金は土地を売却して減らして、残りは税金で返すと決めました。結局は土地が売れずに、利子を払って、却って債務は28兆円に増えました。1998年以降払っていて、2048年まで税金で返す予定です。
1988年、国会で初めて「朝鮮による拉致を否定しない」答弁がありました。
1989年、裕仁/ヒロヒト死去。崩御という言葉は、本来は君主への語用です。裕仁/天皇は君主ではないので誤用です。死去後に昭和天皇と言われます。
この1989年には、消費税も導入されました。3%です。どんどん財政が悪化しています。心配な人もいるでしょう。日本の債務残高は簡単に調べられます。他国との比較もできます。
□北海道
1972年、二風谷(にぶだに)アイヌ文化資料館が開館しました。その後、二風谷アイヌ資料館に改称します。
1972年には、冬季オリンピック札幌大会が開催されました。
オイル・ショックで節電を目指す社会で、石油から風力・太陽・光・水力へと移る中で、もう北海道の主要産業だった石炭産業は衰退するしかないという時代です。
1985年、旭川でアイヌ語教室が開かれます。アイヌ文化の復権へという時代です。
カムイ ユーカラ(神謡)、ウエペケレ(物語)、ウパ シクマ(言い伝え)などの聴解、解説もはじまったようです。
ユーカラは神話の叙事詩のことで、北欧のサーガに当たります。
1988年、青森と函館を結ぶ青函トンネルの開通と、青函連絡船の営業停止。「青」森と「函」館は車が結ぶ時代になるんです。
1989年にILOが採択した「独立国における先住民族 及び種族民に関する条約」第28条など数々あるんですけど、アイヌの権利の保護、元の状態の尊重などに関わる条約です。日本政府は批准していません。
□沖縄
1970年には糸満市で酒を飲んで速度違反をしていた米兵の車が沖縄の人をひき殺して、無罪判決が出ていました。
12月にはコザ闘争があります。コザ暴動、コザ騒動と書く人もいます。米兵が沖縄の人を車で轢いたので、周囲から人が集まってきました。さらにちかくで米兵の車が衝突事故を起こしました。前日の米軍基地にある毒ガス兵器の撤去要請のデモ隊がこのあたりに残っていたので集団に加わると、米軍の憲兵が威嚇発砲をしました。これをきっかけに数十台(80台くらいのようです)の米軍関係者の車を焼いたり、投石したり、全島ゼネストにもつながりました。
1971年、沖縄返還協定の中身が判明しました。
米軍基地の固定化です。2.8万ヘクタールから少し減って、2.3万ヘクタールになるんですけど、維持したと言えます。日本の防衛にも役立つので、積極的に基地縮小の交渉はせず、1967年に中華人民共和国が水爆実験に成功したこともあるので、維持を日本側から要望したようです。
1971年6/17沖縄返還協定に調印
このとき、米国は尖閣諸島には領土問題があるという立場を表明して、中華民国の潜在請求権があること、米国はこの問題に関して中立であることに言及しています。これが尖閣問題の直接のはじまりです。中華民国の領土だとすると米軍が勝手に占領していたことになるので、これは国際法に違反していますね。違反していないなら日本の領土ということになります。
10/25中華人民共和国に国連代表権が与えれらると、12/30に中華人民共和国は釣魚島(尖閣諸島)の所有権を主張しはじめます。
日本降伏時、内戦で釣魚併合どころでなかったというのが、中華人民共和国の主張です。中華民国の蒋介石は「琉球を日本に返還することに反対しない」と言っています。内戦をしているので、米国の支援をほしいということもあります。「領土不拡大」を主張しているので琉球併合を表立っては言っていません。
この琉球には尖閣諸島を含まないようです。大戦後、中華民国の安全のために、「尖閣諸島の大正島、久場島に米軍の射撃場を置いて管理せよ」と依頼していました。すくなくとも蒋介石死後、中華民国は尖閣諸島の領有権を主張しています。
1972年、沖縄の施政権返還-自治政府である琉球政府が閉じて、沖縄県となります。
この時点で日本にある米軍基地の63%が沖縄にあって、復帰前は32%にまで減らすし、移転地が見つかれば残りも沖縄に返すという約束があったんですけど、復帰でうやむやになりました。
沖縄は本土復帰したのに、米軍が沖縄にいる理由
米軍側の言い分
「植民地の名残で沖縄にいるだけ」「町があって快適、慰安になる」
「沖縄の海兵隊は米国外で最大規模だが、それを輸送するのは佐世保に三隻だけの揚陸艦で輸送力不足、どうせ半島有事に即応できない。失業対策として、日本からの思いやり予算があるからいる」
「政府のある本州から遠いから、日本人が望んでいるから沖縄に集中している」。
1972年、沖縄開発庁を設置します。
日本への復帰後、日本の中央政府が米軍基地のある土地の管理権を持って、米軍に提供する義務を負いました。けど、嘉手納基地や、普天間基地には元私有地が多いんです。勝手に接収した土地です。それに市町村地を合わせて80%、大和/日本国政府の国有地は87%です。私有地をどうするかという問題があります。
そこで、大和の政府は、「地代も空欄、期間も空欄白の契約書にサインせよ」と言ってきます。10円で永遠かもしれないんです。これでサインする人がいるんでしょうか、ばかにしていますね。さらに大和の政府は、ドルから円に代わった沖縄がインフレになって物価高のときに、「お金が欲しいでしょう」とばかりに、「地代は6倍にするから」と収用を強要しました。
さらに、公用地法を適用して、「復帰前に軍用地だったところは、元の所有者の同意なく5年継続使用できる」と解釈しました。憲法学者も革新政党も反対したのに断行します。さらに頻繁に軍事演習があるので道路封鎖されて、農地に行けないので穀物や果物の刈り取り時期を逃したり、収穫地は危険地帯とされたり、70ホンが常時聴こえる騒音で生理的な変調をきたしたりと占領下と変わりません。
1973年には、沖縄に米軍の毒ガス部隊がいると判明しました。漁場の近くの射爆場に枯葉剤も撒かれたいたことがわかりました。人体、魚、周辺農地に影響するので、たとえ返還されても、長期間その土地は使えないし、まして魚を取ることはできません。1981年に辺野古に生物化学兵器があるらしいという話が広まります。事故でもあれば大変です。実際に米軍基地からはいろいろなものが漏れ出たりしていますからね。沖縄では水道の水を飲んではいけないという地区がたくさんあるようです。
さらに頻繁に空挺部隊のパラシュートが人家に落ちるし、農地取られるし。スクラップにするために薬莢を拾うと逮捕されたり、米兵の速度違反の信号無視の車に轢かれるし、銃撃されるし、爆弾解体中に爆死するし、警察は米軍側に付いているし、大和の政府は裁判権を放棄して、米兵は起訴猶予されて本国へ帰ってしまうし、という状況です。
嘉手納基地から運んだ核兵器の模擬爆弾を投下する演習がなされてもいました。
1974年には、元海軍少将が「沖縄に核あります」と証言しています。
沖縄県議会は「三原則守れ」の決議をしています。
1975年、本土/大和への復帰記念として、沖縄海洋博覧会のために公共事業が多数ありました。観光ブームのはじまりです。
1977年5月には、公用地の期限切れで土地が戻ってくるかと思ったら、大和の政権(福田 赳夫 首相)は特別措置法/特措法で
「地籍の不明な土地は永久に使用できる」と一方的に決めました。戦争で公文書は焼けたし、米軍基地化で起伏や石の目印もなくしておいて、所有者不明になったから返さないという非道です。
野党は反対しました。修正案を出した与党の「自由民主」党は、沖縄人の「自由も民主も無視」して、「基地確保地籍法」と、「5年延長」の附則を強行採決しました。
この期限切れから採決までの4日間に、地主は土地へ入ったんですけど、嘉手納基地では大和の機動隊が邪魔をしました。これは大和の不法侵入ですね。
農地取り上げて、返されても土を剥ぎ取られて石ばかりの土地です。食べていくために仕方なく3000人(伊江島は100人くらい)の反戦地主は、切り崩されていきます。農産物は安くなって、地代は毎年上がるし謝礼金も出るので、売る、貸すしかないという状況です。2010年代には沖縄県外の人が、地代を目当てに軍用地を沖縄の地主から買う事例も出ています。
1978年、米軍下の右側通行から日本下の左側車線通行へ変わります。
1978年からは、思いやり予算と言って、大和の政権が米軍基地、施設の建設費や、日本人従業員の給与、米兵家族住宅の光熱費なども日本の税金で負担します。基地の恒久化を推し進めています。
米軍基地は世界にたくさんあります。2010年代の米軍駐留費の負担割合で言うと、 74.5%という最大の負担をするのが日本、次いで60%代のサウジアラビア。27.1%という最少の負担をしているのが英国です。
世界史では、ある典型的、代表的な事例を取り上げます。けど、世界中で同じようなことが、これまでにも、今も、これからもあります。米軍基地に関しては沖縄に関して詳しく書いているんですけど、キューバのグアンタナモ基地、フィリピンやサウジアラビアの米軍基地、シリアのロシア軍基地などどれも同じような問題を抱えています。何かを耳にした時に、ああ これはあれと同じことだなと気づいて、してはいけないこと、すべきことを思い出すことが肝要です。
1951年に成立して以来使ったことのない「米軍用地収用特措法」というものがあります。1980年に保守の西銘(にしな)順治 県知事が任命した委員会の採決で、土地の収容を可とします。土地の使用継続ではなくて、新たに収用する手続きなので、地籍を明確化するために、各地の米軍基地で防衛施設局と委員会が調査して、でたらめな平面図、鑑定書を作りました。そして、使用期限切れの1ヵ月前に採決して、法の定める二年五カ月でなく五年の使用としました。一括払いになるので、5年の間のインフレ率も換算せず、金利分もなく、けど地主に税金だけは一気に課されるという悪名高い策略です。自治体の歳入は増えます。
そもそも米軍基地を許可することは戦争に加担することという意識がないんですね。
1984年-1986年の基地割合が宜野座村で37.5%、恩納村で35.7%、金武町で43.4%、嘉手納町で31%、北谷町で23.4%です。
この時期になると二代目地主が増えています。専業農家ではなく、公務員や会社員なので、生活費を農地代/米軍基地に頼らないんです。地代をもらうより返還されて利用するほうが儲かる事例も出てきます。
1980年頃から米軍基地を自衛隊が共同で使用するようにしていきます。米軍の永久駐留と米軍にとっての経費削減の意味合いを持っています。
米軍容認派には好都合なことに「これまでは在日米軍の沖縄駐留は75%だったが、日米共同使用の基地で言えば、大和/北海道本州四国九州にもたくさんあるから、沖縄には米軍だけの基地は20%程度しかない。だから沖縄は大して負担していない」という主張をするようになります。
実際には沖縄の負担は減っていないし、米軍は「基地を半分返したようなもの」、沖縄は「これで米軍駐留の恒久化だ」と懸念することになりました。
基層の人を書きます。
1970年、過激な共産主義のグループ、赤軍派によって、よど号がハイジャックされる事件が起こりました。田宮孝麿などのいるこのグループは、既に逮捕状が出されていて出国できない状態だったので、ハイジャックを決行して、朝鮮に向かうよう機長に指示しました。日本以外に共産主義革命の拠点を作る目的だったようです。朝鮮はこのグループの亡命を受け入れました。
1970年には大阪万博があります。岡本太郎の太陽の塔が有名ですね。
1971年、東京都の多摩ニュータウンへの入居が開始されます。大都市化・工業化の波が郊外・地方にも押し寄せたことのシンボルです。経済一辺倒の「開発」、つまり丘を削って、谷を埋め、森を伐採して、コンクリートを林立させます。人間性がかけらもないとよく言われました。そして、光化学スモッグ、アトピーなどの公害を生みます。1993年になってようやく環境基本法を作るという遅さ。2011年には原子力ムラの癒着構造が、福島原発事故を引き起こします。
1972年、田中角栄首相の時期。スローガンは「列島改造論」。キーワードはブルドーザー、箱物、自然破壊です。土地は価値が上がり続ける最高の試算だという土地神話は、のちのバブル景気「東京の山手線の内側全部と、日本の国土25倍のアメリカ全土が同じ価格」につながります。
土地価格の急騰とインフレの発生する時期です。
あさま山荘事件-軽井沢のあさま山荘で、過激な共産主義者のテロ組織グループ、連合赤軍が人質を取った事件です。暴力をふるって自己反省を強要する総括を行って、相手よりも優位に立つことと、リンチと処刑が有名なグループです。これは日本の軍隊の伝統に由来していて、当時のタコツボ的組織/閉鎖的組織に共通するもので、部活動の顧問や先輩による暴力の系譜です。結局、戦争から30年経っても、一部の人からは軍国主義が抜けていないんです。
1973年、オイル・ショック-第四次中東戦争をきっかけに起こりました。石油から作るので トイレットペーパーが輸入されなくなると思った人たちが買いだめしました。石油価格高騰と、便乗値上げと言って、石油を使わない商品がこれを機に値上げしました。そしてインフレが加速します。1974年には「狂乱物価」と言われました。対前年費で消費者物価指数(店頭価格)は23%上昇、春闘/労使交渉での賃上げは33%になりました。インフレ対策として、公共事業の取りやめ、公定歩合の引き上げ(金利が高くなるので、預金が人気になって、消費しなくなるので、需要が減って、インフレが収まる期待)。
景気が鎮静化したので、高度経済成長の終焉につながりました。これ以降、石油の備蓄と省エネが進みます。デパートのエレベーター休止、地下鉄の駅の照明間引きなどですね。暫くすると、のど元過ぎれば熱さ忘れるになるんですけどね。
21世紀初頭には半年分の石油を備蓄しています。省エネ製品は増えるんですけど、節電は原発事故時、地震で発電所が停止したときくらいですね。
1977年には初のバスジャック事件が起きています。
1978年、アーケードゲーム、つまりゲームセンターのゲームですね、スペースインベーダーという作品が流行しました。画面の上からやってくる敵の宇宙船を撃ち落とすゲームです。
1979年にエズラ・ヴォーゲルの本「ジャパン アズ ナンバーワン」が出版されると、日本を称賛されたと思って、「日本人がやってきたことは間違っていなかった、戦争には負けたけれど経済では勝った、世界一だ」と自国を誇って天狗になります。
ヴォーゲルは「日本はまだ二位だが、NO1としての日本が来てしまう、米国はどうする?」と米国への警鐘として書いたんですけどね。
この頃から「日本の特殊性、成功の秘訣」を研究する本が続出します。
トヨタという自動車会社の、受注後に生産する、工場の現場の人がアイディアを出すなどの企業文化に世界中が学んだのもこの時期です。
高度成長は終わって、安定成長に入る時期です。国一丸となっての成長物語が終わって、「上の世代と同じくらい頑張ってももう成長しない、追いつけ追い越せでやってきたが、モデルとなる国が既にない。かと言って自分で発明するのは苦手な国民性だからなあ。」という感じです。
イノベーションを起こせない。後発国に押し上げられる。仕方なくがむしゃらに働くんですけど、過労死などが出て来るのもこの頃です。頑張ることでしか成果を出せないと思い込むんです。
「早出、残業、休日出勤に接待ゴルフ、24時間働けますか」がこの時期の社会人のイメージです。まだ戦争を引きずっていて、「個人よりも国家」のような「全体を重視する価値観」が支配的です。
「定時で帰ります」と言えないし、辞職は「一身上の都合」で会社に責任はないし、遅刻は個人の学業が遅れるからでなくて、学校全体への悪影響だから悪と思われていました。整列・制服・校則・教員の鉄拳制裁も、学校での軍事教練を継承する軍国主義的な全体主義の残骸です。セーラー服は海軍の制服に由来しています。セーラーはsailor、船員ですからね。
1980年代からは、お受験/小学校受験がブームになっていきます。そうやって幼稚園生がしたくもない勉強をさせられているというのに、原宿では竹の子族と言って、中高生の50グループ、2000人くらいが歩行者天国で、派手な格好をして踊っています。男性はリーゼントにメイクをするのが普通だったようです。芸能に従事していない男性のメイク、このころからあったんですね。
1980年代半ばから中学受験も普及して、都心では学生の10%を超えているようです。第二次ベビーブームと重なる世代なので、早くから勉強して高学歴を得ないと、いい大学、いい就職の枠に入れないという思いで駆り立てられている受験戦争の最前線にいる人たちです。受験に失敗して自死という人も出ていると思います。
皆伝は受験生向けのサイトなので言っておきますね。受験がうまくいかなくても死ぬ必要はありません。受験なんて人生において実際は大したことではありません。社会で仕事をしている人を見てください。たいていの仕事場では高卒の人も、大卒の人も、中卒の人も一緒に仕事をしています。給与が違うくらいです。アップルのジョブズは大卒で初任給が時給5ドルでした。東大卒だから社長になるというわけでもありません。大きな企業の社長だって、東大卒なんてめったにいません。だれがどの中学、高校を出ているかなんて知らないし、大学だってよく知らないし、聞いても忘れるというのが普通です。90年生きる私たちの世代にとって、最初に行った大学がどこかなんて、たいしたことではありません。死ぬのに値することではありません。死ぬくらい勉強した人はおもいきり休んでください、そんなに勉強していなかった人は、命がけではなかったということなのでとうぜん死ぬ必要はないし、没頭できる何かを見つけてください。見つからなくても、居心地のいい空間や人を探してください。
1982年、家庭用CDプレーヤーが発売されます。これまではカセットテープが主流でした。
1983年、ファミリーコンピューターというゲーム機が発売されます。ソフト/アプリケーション/ゲームとしてドンキーコングがありました。1985年のスーパーマリオブラザーズで、このファミコンが大流行したようです。1986年のドラゴンクエスト以降、ロールプレイングゲームが定型の一つとして定着したようです。
1985年には御巣鷹山に日航機が墜落しました。野田秀樹が「フェイクスピア」という舞台で取り上げています。
1987年、朝日新聞阪神支局への襲撃事件。
1988年-1989年、連続幼女誘拐殺人事件。犯人の宮崎勤がオタクだったと報道されて、オタクを観る世間の目が厳しくなったようです。
この年には体外受精で子どもを産む人もいるようです。
1989年、昭和が終わります。
バブル景気-狭い期間では1986年-1991年と言われています。
活気のある、お金を使って見栄を張る時期です。都会の一部の人が高級車に乗って、高価な贈り物をする高級な服装の若い人という消費中心の生活モデルを煽るトレンディドラマが流行して、マハラジャなどのクラブで踊って、ワンレンボディコン/片側だけ長くおろす髪形(ワンレングス)と、体形を出す服装(ボディコンシャス)が流行しました。
「ブランド品、高層ビルを買いあさる日本人」。
2010年代のチャイナマネー/中国人の爆買いも同じ構図で、現地ではお得意様なんですけど、成金なのでハイカルチャーが身についていません、それで文化の違いがあるので反感も呼びます。初めての海外旅行でグッチ、プラダ、ルイヴィトンを買いあさる眼鏡に出っ歯の日本人、チップの出し方も知らないと揶揄(やゆ)されます。
「東京の山手線の内側全部と、日本の国土25倍のアメリカ全土が同じ価格」
ゴッホの「ひまわり」、マンハッタンのロックフェラーセンターを日本企業が購入したりと、1989年のジャパンバッシングへ転化する要素もありました。例えば、通天閣、法隆寺、渡月橋、109、東京タワーを外国の企業が買ったら、どういう気分になるでしょうか。それとおなじようなものです。
この時期には、暴力団と不動産会社が手を組んで、大金を積んだり、土地の売却を断れば嫌がらせをしたりして、土地を取り上げる「地上げ」をしました。
給与が上がり続けると信じて、ボーナスもたくさん出て、株価は上がり続けるし、土地価格も上がり続けると信じ込んで、一般人が銀行などからお金を借りて、株や土地を買いあさりました。
けど、当然もう危ないのではという人間心理によって、株から手を引くようになると、バブルが崩壊、借りたお金を返せない、貸した金融機関も経営難に陥って、山一証券や日本長期信用銀行/長銀破綻につながります。
関心のある人には、「平成バブルの研究 上下」(東洋経済.2002年)、「<真説>バブル」(日経BP.空気感までわかるそうです)という本があります。
政治的な意見の変化もこの時期にあります。
戦前の総括をしていない日本で、経済が伸張して自信が出ると、「東京裁判も平和憲法も押し付けられた」という言説が出まわりはじめます。中華人民共和国もそうですね。経済成長した2010年代になると尖閣諸島も南沙諸島も西沙諸島も自国のものだと言い出します。貧乏で鬱憤が溜まっていた反動を出そうとする成金って自制心があんまりないので、はた迷惑なんです。
この時期、原爆を投下された長崎市の本島市長の意見を観ると
「戦中史観である八紘一宇・アジア解放は題目にすぎず、実態は侵略だ。中国人を殺し、半島を植民地化しておいて何が解放か。支配者が交代しただけだ。それをアジア解放だからと正当化したり、日本だけではない、他の国もやっていたと一般化して自分の罪を薄めようとするのでなく、日本の己の行為を問うべきだ」。
靖国神社への参拝に対して、各国から非難される筋合いはないと反論することも出る時期です。アジア各国に何度謝罪すれば気が済むのかという意見もあるんですけど、日本が二度と戦争をしないための反省と謝罪であって、相手の気を静める方便ではないということを理解しておく必要があります。だから世界一般を例に挙げるべきではないし、まず自分のことを棚に上げるべきではないと思います。
あなたの大切な人が殺されたとして、「もう謝っただろう」「他の奴もたくさん殺してる」と言われたらどう思いますか?
この時期まで中国では日本の残留孤児、つまり中国人にとっては敵の子を育ててくれていたんですけど、日本では在日中国人や在日朝鮮人を軽蔑しています。中朝韓のそういう人と、日本の この一部の人たちとの道徳的な差はどこに起因しているんでしょうか。
食の面では、高度経済成長期でモーレツ社員なので、忙しく父親は家にいないことが多いんです。だから、父親不在を前提にした食べ物の販売が始まります。
1971年にはプリンの一個売りが始まって、1976年には母と二人の子供という典型的な世帯向けに三つをセットにした販売が始まります。ヨーグルトは朝食用なので、父親もいるということで家族四人分をセットで売ります。納豆を三個で売るのは、賞味期限に食べられない単身世帯が多いから。ウインナーは小分けの方が鮮度が保てるし、焼きそばを三人前で売るのは、一般的な家庭用フライパンのサイズが三人前の大きさだからです。
1970年には、すかいらーくが開店。1971年、マクドナルド日本一号店が出店しました。ファストフード/fast food店が流行するのも、高度経済成長で忙しいからです。
1974年には、セブンイレブンが開店。
1979年、電子レンジの普及率が30%を超えます。調理に時間をかけずにすむからですね。
1985年、ドミノピザが営業開始。初の宅配ピザです。
服では、1970年に高田賢三の作品が「エル」の表紙に掲載されます。
1985年には東京コレクションが始まります。
1980年代後半はワンレンボディコン/片側だけ長くおろす髪形と、体形を出す服装が流行したことは書きました。
若い世代が経済的に豊かになってきたので、ブランドを周知する必要があって、グッチやセリーヌなどのロゴのデザイン化の流れが生まれました。若い人はロゴを前面に出した服やバッグなどを買い求めるようになって、ジーンズにTシャツで10000円以内の服なのに、バッグだけは10万円のブランドものという一点豪華主義なども生まれました。
音楽では、クラシックの分野で国際的水準を獲得した音楽家が輩出します。小澤征爾(指揮)、中村紘子(ひろこ.ピアノ)などが世界的に活躍します。
ポップスだと矢沢永吉 ユーミンかな。
1980年中ごろ以降はMr.children、X-Japan、JUDY AND MARY、ジ・アルフィーなどロック、ポップス、バラードなどのジャンルを超えたJ-POPが誕生します。
秋元康がプロデュースしたおニャン子クラブは加入や脱退(卒業と言います)のある固定されないメンバーのアイドルグループとしての祖型となります。のちのAKB、乃木坂のようなものです。中心メンバーは常に10代後半から20代前半なので、若い世代の支持を受け続けます。顔担当や、しゃべり担当などで貢献するので、歌やダンスのスキルが不足していてもデヴューできるようになって、アイドルの敷居が低くなりました。
1980年代半ば以降、おニャン子クラブなどアイドルが音楽をベースにして、バラエティにも進出します。
ジャニーズでは歌って踊れる郷ひろみなど息の長いタレントが輩出します。シブがき隊、少年隊、ユーモアの要素がある たのきんトリオ などの3人組アイドルグループが輩出します。
バックダンサーとして先輩を盛り立てて、舞台慣れしたら、後輩が新しいグループを作ってデビューする仕組みが生まれたのもこの時期です。ジャニーズジュニアのことです。
この仕組みをジャニー喜多川は宝塚歌劇団からヒントを得たと言われています。7人の光GENJIはローラースケートで滑り踊るユニークなグループです。
建築では、1970年代からは住宅の大型化で、LDKから、n個の部屋を付加するnLDKへと代わっていきます。
1970年代の持ち家ブーム下では、安い家を買う層が多い郊外への線路延伸・相互乗り入れもありました。都心では高額な相続税で土地が細分化されて、地価が高いので狭小住宅、有効活用の機能的建築が求められます。
公共建築はバブルへ向かって、ポスト・モダンらしく時空間を越える折衷様式が流行します。要するに何でもありです。伊東豊雄は「せんだいメディアテーク」を設計しています。植物をメタファーに、脱ヒエラルキーを志向して、壁で空間を分割しません。その意味で、和風と言えますね。
安藤忠雄は独学の建築家で、シンプルなコンクリート打ちっぱなしが典型です。1989年の「光の教会」(茨城県)が代表作です。
関心のある人には、「現代日本建築家列伝」という本があります。
絵画では、天野喜孝がこの時期に活躍しています。
舞台では、大学の演劇研究会出身者の作る劇団が主体になった小劇場ブームの時期です。「24時間戦えますか」という労働だけのつまらない大人になりたくない衝動を出しているので、少年が主人公で夢の世界で生きる演劇が目立ちます。野田秀樹、円城寺あや、段田安則、浅野和之などの夢の遊眠社が筆頭で、他に白井晃、高泉淳子などの遊◎機械/全自動シアター、鴻上尚史、大高洋夫、長野里美などの第三舞台、上川隆也が輩出したキャラメルボックスなどがあります。シリアスになりたくない社会意識を反映して、ギャグ満載、ユーモアにあふれて、問題意識が浮かんでも突き詰めずに希望を語って終わる作品が多いようです。
異彩を放つのは上の世代の井上ひさしのこまつ座で、社会の矛盾に正面から向き合いました。松本雄吉の維新派は、巨大な野外セットを組んで、国外公演も行っています。
劇場主体のものは商業演劇と言って、蜷川幸雄(演出家)の代表作「王女メディア」が有名です。日本人キャストで、日本人の演出で、ヨーロッパの地で、ヨーロッパの演劇をしたという快挙を達成しています。蜷川幸雄はシェイクスピア喜劇に妙味を発揮しました。
串田和美(かずよし)は、美しい洒脱な舞台を作ります。
1972年、麿赤児(大森南朋のお父さん)の大駱駝艦が、白塗りの舞踏団として台頭します。
1975年、山海塾が設立されます。天児牛大(あまがつ うしお)率いる舞踏団で、これも白塗り遅動が特徴です。5分で1m動いたかなという感じです。映像で観たことがあるんですけど、はっきり言って、なにがすばらしいのか私にはわかりません。
パパ・タラフマラは空間を意識したダンスグループです。
文学では、1980年、村上龍が「コインロッカーベイビーズ」で、社会の暗部を描きました。1987年には村上春樹が「ノルウェイの森」で、個人の暗部へ降りていく話を描きました。村上春樹の特徴は深層心理と世界がつながっていることで「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」が典型です。
1980年代になると、戦争物の小説がベストセラーから消えます。文学も「もはや戦後ではない」んですね。
1981年、「何となくクリスタル」(田中康夫)「窓際のトットちゃん」(黒柳徹子)がベストセラーになりました。
マンガでは1970年代に「タッチ」(1978年)、「リングにかけろ」、「ガラスの仮面」「ゲゲゲの鬼太郎」、「ドラえもん」(1974年)「ブラックジャック」(1977年)は天才外科医、「こちら葛飾区亀有前発出所」(1973年)、「エースをねらえ」(1972年)、「はだしのゲン」「ベルサイユのバラ」(1970年)、スナイパーの「ゴルゴ13」、野球の「ドカベン」ですかね。
1980年代に「北斗の拳」(1984年)は「あべし、たわば」などの面白い言葉を生みました。「ドラゴンボール」(鳥山明)はキャラの強さがどんどんインフレする戦闘マンガです。「ファイブスター物語」(永野護)は、おとぎ話の中にロボットを融合して反戦、人間とは何かという本質的な問いを投げかけています。1987年「ジョジョの奇妙な冒険」は、のちにルーヴル美術館にも「芸術」と認められた表現をしています。日常系の「ちびまる子ちゃん」、料理に特化した「美味しんぼ」、プロレスの「キン肉マン」、SFの「AKIRA」(1982年)、怪盗団の「キャッツアイ」、1989年「キャプテン翼」がスタートします。後のJリーグのサポーター世代を育てたし、世界の選手を刺激しました。
映像では、一之瀬泰造がカンボジア内戦を撮影中に、クメール ルージュによって殺されました。一ノ瀬を題材にする映画に「地雷を踏んだらサヨウナラ」があります。
女性のヌード写真で有名な篠山紀信が活躍するのもこの時期です。アラーキーこと荒木経惟(のぶよし)は社会の暗部、エログロを撮ります。 他に森山大道(だいどう)も活躍しています。
映画では、今村昌平、黒澤明の活躍する時期です。
アニメでは1970年代に「宇宙戦艦ヤマト」(ナショナリズムを感じさせます)、「機動戦士ガンダム」(ロボットアニメの金字塔)、宮崎駿は1984年の「風の谷のナウシカ」で、劇場アニメに自然主義、反戦という思想を持ち込みました。
テクノロジー面では、1970年にキャッチホンサーヴィスが開始されます。意味が分からないので調べました。通話中に、他から電話があると、お知らせしてくれるサーヴィスです。
1979年、コードレス電話のレンタル開始、自動車電話の開始、その延長として1987年に携帯電話の発売開始。1990年代には無線呼び出し機械/ポケットベル/ポケベルが流行しました。最初は番号だけが表示されたので、「16301094649」16時30分に渋谷の109前で待ちあわせよろしく(4649)という感じで、10代の人が使ったようです。語呂合わせですね。109自体が東急/とうきゅう/10 9という語呂合わせなんですけど。
□□太平洋
□オーストラリア
政府は1985年10/26にウルル一帯の所有者は先住民たちであると認めて、返還します。先史時代以来の岩絵もある、高さ348m、周囲9.4kmの岩です。英語名はエアーズロック。先住民たちが国立公園にリース/貸して、訪問者を受入れもするんですけど、聖地なので登山の禁止を求めています。2010年代には、年間約25万人の訪問者のうち、2割が登山をしました。2019年に登山禁止になります。
□フィジー王国
1970年、英連邦内で独立します。
1987年、クーデタで共和国へと代わります。英国は英連邦から除名しました。
1997年には英連邦に復帰します。
英国が植民地にしてインド人を労働者として移住させて以降の民族対立があります。
これ以降もクーデタや独裁などがあります。
歴史上、英連邦除名はフィジーだけです。離脱したのは、南アフリカ、パキスタンですね。既に存在しない自治領はニューファンドランド、直轄植民地なので英連邦に参加したことがないのはビルマだけです。
□パプアニューギニア
1975年9/16、独立の丘でオーストラリアの国旗を降ろして、パプアニューギニア国旗を掲揚します。パプアニューギニア独立国となりました。それまでの自治政府議会が国会となります。初代首相にはマイケル・ソマレが就きました。
熱帯雨林の減少は伐採が原因で、大半を日本に輸出しています。こうした資源輸出以外に大した産業がありません。
日本が「わが国土の70%は森林で、先進国では最大に残っている」と誇るのは、国内の木を切らずに外国産の木材輸入をする構図の上に成立しています。
日本国内の林業には補助金を出しています。日本の森林もほとんどは木材に適した植林をした結果の人工林なので、価格競争で負けたから残っているということがわかります。保護したからではありません。多様性のない一面スギ林の地区も多くて、過剰な花粉によって花粉症が顕在化するのは1970年代に入ってからです。以降、花粉の出ない木に移し替えたりなどの措置が始まってはいます。
今回は1970年-1989年を書きました。10万文字なので、原稿用紙で250枚、本だと170ページくらいですね。
冷戦がわかった、イランと米国の仲が悪い原因を確認できた、アフガニスタン侵攻がタリバーン、アル カーイダにつながることが納得できた、インドがわかった、役立った、バブル時代の日本が面白かった、目からうろこもコンタクトも落ちたと思ったりしたら、下にあるスキ(♡です)を押してくれると嬉しいです。
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次回は1990年-1999年を書きます。冷戦後です。湾岸戦争、バブル崩壊といった時代です。
次の皆伝30はこちらです。
https://note.com/kaiden_juken/n/n249ebd54426b
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