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​「なぜ怒らないの?」 理不尽に怒鳴られた和尚さんが、少し寂しそうに語った「最強のメンタル」の正体








怒らない人は必ずしも「我慢」しているわけではない 仏教が導く心の仕組みの不思議

職場で理不尽に怒鳴られたとき。

SNSで攻撃的な言葉を投げつけられたとき。

私たちは反射的に「言い返したい!」、「なんでそんなことを言われなきゃいけないんだ!」と、心の中に怒りの炎が燃え上がります。


​一般的に、大人な対応とは、この怒りをグッと飲み込み、「我慢すること」だと思われがちです。

しかし、仏教を深く学んだ人たちの心の中は、少し様子が違うようです。彼らは、我慢して耐えているわけではなく、そもそも「怒り」という感情の炎が、ボッと着火しないのです。


​「何を言われても動じないなんて、最強のメンタルだ」

そう思うかもしれません。しかし、和尚さんは、その境地を「残念なこと」だと語ります。


​怒りが消えた世界に見えるものとは。そして、和尚さんが感じている意外な「寂しさ」とは何なのか。

ある日の出来事を通して、その心の深淵を覗いてみましょう。




「怒りが湧かないのは残念なんじゃ」 さとるくんが聞いた、和尚さんの意外な本音

「和尚さん、さっきは大変だったね…」

お寺の門前で、さとるくんは心配そうに和尚さんの顔を覗き込みました。


​つい先ほど、通りがかりの見知らぬ男性が、些細なことでお寺に因縁をつけ、大声で怒鳴り散らしていったのです。


「何でもかんでもお寺が悪い!」などと、理不尽な言葉を浴びせられた和尚さんでしたが、ただ静かに頭を下げるばかりでした。

​「あぁ、さとるくん。嫌なところを見せてしまったのう」

和尚さんは、いつもの穏やかな顔で微笑みました。


「もしかして、わしのことを心配してくれとるなら、それは無用な心配じゃよ」

​「ええっ! だって、さっきのおじさん、言いたい放題だったじゃない! よくわからない僕だって、あれはちょっと違うんじゃない?って思うくらいひどかったよ」


さとるくんは、和尚さんの代わりに怒っていました。

​「あぁ、そうじゃな。確かにひどい剣幕じゃった」

​「どうして怒ったりしないの? 言い返さないの?」

​「なぜ、怒る必要があるんじゃ?」

和尚さんは、ぽつりと呟きました。


「きっとな、あの人も、好きであんな風に声を荒らげているわけではないんじゃろう。虫の居所が悪かったのか、何か辛いことがあったのか…。そうならざるを得ない『縁』に巡り合ってしまい、ああなってしまったんじゃよ」


​「縁…?」

​「うむ。あの人の心が、あの人の意思とは関係なく、炎に包まれてしまっただけじゃ」

​さとるくんは首をかしげました。


「あれだけひどい怒り方をされたのに、落ち込んだりもしないの?」

​和尚さんは、少し遠くを見る目をしました。


「仏教を知っているとな、怒ることが随分と減るんじゃよ。…残念なことになるのかもわからんが」

​「えっ、どうして残念なの?」

さとるくんは目を丸くしました。


「何を言われても気にならないとか、カッとならないなんて、それって最強の心じゃないの? 僕なら手に入れたいよ」

​「いや、そんなに単純なものでもないんじゃわ」

和尚さんは、少し寂しそうに眉を下げました。


​「怒りが湧かないということはな…腹を立てて苦しんでいる、その人の『本当の気持ち』と同じ場所に立ってやれんということじゃ」

​「同じ場所?」


​「そうじゃ。人は、悲しいから怒る。苦しいから叫ぶ。じゃが、わしにはその『怒り』が伝染しない。冷静に『ああ、縁によって燃えているな』と見えてしまう」


「それは楽なことかもしれんが、同時に、その人が今どれほど熱くて、どれほど苦しいのか、その熱さを肌で感じて、心から寄り添ってあげることが難しくなるんじゃよ」

​和尚さんは、男性が去っていった道を静かに見つめました。


「怒らなくなった自分は、あの人の孤独を、本当の意味ではわかってあげられんのかもしれんのう」


​さとるくんは、何も言えなくなりました。和尚さんの「怒らない強さ」の裏には、相手の痛みさえも丸ごと理解したいと願う、深くて切ない優しさがあったのです。




​怒りは「もらい事故」のようなもの。ブッダが説く「縁起」と「不受」の教え

なぜ、和尚さんは理不尽な攻撃を受けても怒らなかったのでしょうか。

仏教には、「縁起(えんぎ)」という中心的な教えがあります。「すべての物事は、原因と条件(縁)が揃って初めて起こる」という真理です。

​和尚さんの目には、怒鳴ってきた男性が「悪い人」に見えたのではなく、「怒らざるを得ない条件(縁)に操られている人」に見えていたのです。

・朝、家族と喧嘩をしたかもしれない。

・仕事で失敗したのかもしれない。

・体調が悪かったのかもしれない。

無数の「縁」が重なり、たまたま目の前にいた和尚さんに向かって、怒りという現象が爆発した。いわば、「怒りという事故」に遭っている被害者のように見えたのです。


​事故に遭って怪我をしている人に対して、「なんで怪我をしてるんだ!」と怒る人はいません。「痛そうだな、気の毒に」と思いますよね。仏教を知ると、怒っている相手に対して「この人も、縁によって苦しんでいるのだな」という客観的な視点が生まれるため、怒りの感情が湧きにくくなるのです。


​お釈迦さまのエピソードに、このような話があります。

ある時、お釈迦さまを激しく罵倒した男がいました。しかし、お釈迦さまは一言も言い返さず、涼しい顔をしていました。

男が「なぜ言い返さない!俺に罵倒されて悔しくないのか!」と問うと、お釈迦さまは静かに答えました。


​「もし、あなたが誰かに贈り物をしようとして、相手がそれを受け取らなかったら、その贈り物は誰のものになるか?」

「そりゃあ、俺のものだ」

「それと同じことだ。私はあなたの罵倒という贈り物を受け取らない。だから、その罵倒(怒り)は、そのままあなたのものだ」


​これが「不受(ふじゅ)」の教えです。

相手の怒りを「受け取らない」。それは、無視することでも、我慢することでもありません。「ああ、これはあなたの持ち物ですね」と、ただ事実として置いておくことです。


​しかし、和尚さんはそこから一歩進んでいました。

「受け取らない」ことで、自分の心は平和に保たれる。けれど、それは同時に、相手が抱えている「怒りの荷物(苦しみ)」を一緒に持ってあげることはできない、という寂しさでもあります。


​怒りを感じないことは「最強」かもしれません。しかし、その最強の鎧を纏うことで、相手の肌の温もり(痛み)を感じにくくなってしまうとしたら…。


「怒らない」という境地の中に、他者の苦しみに触れられないもどかしさを感じる。それこそが、和尚さんの、そして仏教が目指す「慈悲」の、あまりにも深く、人間味あふれる姿なのかもしれません。




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