手触りのある文章が好きだ。
「はじめて、見つけた」
それが、最初の感想だった。
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土門蘭さんの、『ほんとうのことを書く練習』を読んだ。
おもしろい、と思った。
ただ、「おもしろい」以上に思ったことは。
それは、「自分と似たようなことを考えている人に、初めて出会った」という衝撃だった。
もともと、土門蘭さんの『死ぬまで生きる日記』が好きだった。
「おもしろい」と書いていいのかはわからないけれど、心に響く一冊だった。
もう少し書くと、桜林直子さんとの交換日記『そもそも交換日記』を読んでいた時から、おもしろい文章を書く方だな、と思っていた。
そしてこの場合の「おもしろい」は、笑えるとか、そういう意味ではない。
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土門さんは、もっと読みたいと思う文章は、いい匂いがする、と書かれていた。
私は、文章には匂いがあると思っている。文字を目で追うごとに、ふんわりと匂いが漂ってくる気がする。いい匂いのときもあれば、そうじゃないこともある。そして私が「好きだ」「もっと読みたい」と思うのは、いい匂いがする文章である。
私は、文章から立ち上る匂いは、まだわからない。
わからないけれど。
こんなことを、誰にも話したことはないし、書いたこともないけれど。
私はずっと、「手触りのある文章」が好きだったし、今でも好きだ。
なんというか、文章は手で触れる、と思っている節がある。
質感はそれぞれ違う。
私にとっておもしろい文章ほど、手触りがしっかりとある。
さらさらしているもの。
なめらかなもの。
むにむにとやわらかいもの。
文章に色や香りがついているのはわからないけれど、手触りはあると思っていた。
それこそ、掴めるくらいに。
おもしろい文章ほど、触っていて楽しい。触っていることが、その感覚に浸っていることが楽しい、みたいな感じになる。
その世界に、浸っていたくなる。
例えて言うなら、お気に入りのぬいぐるみを、ずっと触っているような感じに近いかもしれない。
ずっと触っていても、飽きない。楽しい。そういう感覚。
反対に、そういう手触りがなかったり、わからない文章もある。
そういう文章は、なぜか全然掴めないし、触れられない。潜れない。
だからだろうか、だいたい読めない。
あるいは、読んでも読んでも掴めない、みたいなこともあって、結局読むのをやめてしまう。
最終的には好みもあるかもしれないけれど、もしかしたら「ほんとうのこと」が書かれていない文章は、私にとっては、手触りがない文章なのかもしれない。
確認のしようがないから、わからないけれど。
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私は、私が書いている文章に手触りがあるかは、わからない。
なぜなら、自分のことが、わからないから。
「書く私」と「読む私」以前に、私は「わたし」と仲が良くない。
水路が詰まっている状態だった。
だから、どんなに書いても、身体の感覚と、出てきた言葉がズレていた。
納得した。
身体の感覚と、出てきた言葉がズレている場合は、なんとなくわかる。
こればっかりはもう、「なんとなく」としか言いようがないけれど、なんか違うから、「なんか違う」と感じる。
どうなったら合っているかはわからないけれど、「ズレている」ということだけはわかる。
そんな状態で、休職して。
そこから、noteを書き始めた。
少しずつ、生活を、体調を整えていった。
自覚はなかったけれど、たぶん、自分の水路を掃除し始めたのだと思う。
そうしたら、ここ1年くらいで、徐々に水が流れ始めた。
けれどいかんせん、水路の掃除を長年サボっていたので、どうにも進まない。捗らない。時間がかかる。
まあ、仕方がない。
やってこなかったことをやろうとしているのだから、時間がかかることも当然だ。
気長に、根気強く、自分の水路を掃除したい。
そうしていつか、「ほんとうのこと」が書けるようになりたい。
土門蘭さんの『ほんとうのことを書く練習』を読んで、書きたくなったので、書いてみました。
普段、ほとんど読書感想文は書かないのですが、神崎さやかさんと、空原ゆにさんの感想文を読んだのがきっかけで、書いてみたくなりました。
お二方の感想文、興味深いです。よかったらぜひ。
ここまで読んでいただいて、ありがとうございました。
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