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空を見上げて 15

これまでのお話は
 居場所を失って友人の家に住むことになったエマ。本屋を営むタキの家で、朝から晩まで本を読んで過ごしていたが、体調を崩して声が出なくなってしまう。
 タキは心配するが、それを重く感じ始めてしまったエマは、タキの家から離れるようになってしまった。
 一方で、タキはそんなエマを心配しつつ、どう接すればよいか悩んでいた。そんなとき、タキは彼がどこへ行っているのかを知人から聞かされる。
 黙っていられなくなったタキは、ついエマを問いただしてしまう。翌日、出て行ったきり帰ってこないエマ。タキはどこかで迷っている彼を連れ戻す決心をする。

いよいよ
なんのはなしか
分からなくなってきたでしょう
わたしもです

十四話

最終話


 狭い通路を抜けると、立って歩ける空間が現れた。天井からは水滴がぽたぽたと垂れてきて、あたりはぬるぬると湿っている。手元の蛍石と呼応するように、あちこちに淡い光が灯っていた。小さなもの大きなもの、赤いもの青いもの。
 こんなことでもなければ、感動的な光景だったかも知れない。この町の洞窟は妙に人気があって、パワースポットだかなんだかと持ち上げられていたが、なるほど、確かに人間が安易に考える「神秘的な絶景」なのだろう。
 洞窟はときに、胎内に例えられる。場所によっては洞窟を通り抜けることで、生まれ変わるとされる伝承がある場合もある。それよりもタキは文字通り山の内部にいることが、突然に怖くなった。洞窟の壁が、今にも迫り出してきて自分を咀嚼してしまいそうだ。物理的にも精神的にも。
 家を焼いたことを後悔していた。本当は焼くべきではなかったし、あんなふうに雨ざらしにしておくべきではないのだ。元に戻す勇気もなかったが、申し訳ないという気持ちでいっぱいだった。それなのに、こうして自分本位に入り込む勝手を許してくれ。

 自分が何者か、ということは嫌というほど祖父から、周りから言われ続けてきた。それがあまりに滑稽で現代の常識に当てはまらないことだと、跳ね除け始めたのは父がいなくなった、中学のころから。もっと小さいころは、周りが言う通りに家を継いでみんなのために働くんだと信じていた。山のご機嫌を伺って、みんなが幸せに平穏無事に暮らせるための橋渡しをする。
 最初から父も祖父も、祖母ももちろん、タキが家を継ぐことを反対していた。祖父はその当時から、自分の代でこの暮らしは終わりにするときっぱり言っていた。そのころは、何がいけないのか全く分からなかった。
 町の人たちは、いつでも自分たちを頼っている。だから、タキがどこへ行っても、かわいがってもらえたし、学校でも一目置かれていた。そのことを利用しようとしなかったのは、そう、父や祖父から教育されたからだ。町の人は誰もが自分たちを神か王のように扱う。それは大きな間違いで、自分たちはただ、山と人との間に立っているだけに過ぎない。
 それでも、幼い自分を思い返してみれば、そのことを笠に着て、不遜な態度をとったこともあった気がする。いや、もっと大きくなってからだって、たとえば高校へ行った後だって、立場をいいように使っていたのは間違いない。

 山が人を動かすなんて、荒唐無稽だ。そのために、自分たちが間に入らされていることだって、おかしな話だ。町の人たちは知らない、もっと不穏なことだって、たくさんある。なぜ自分たちが犠牲にならなければならないのか。町を平穏に導くなら、もっと別の方法だってあったはずじゃないのか。自分たちを削るようなやり方じゃなくても。
 こうなってみて、自分の血の中だけではなく、抗えないものがあることがタキにも分かった。山は大きい。家から山を見ているのと、こうして内部に入っているのとでは、意味が違う。この力に逆らうことはできない。
 逆らえないけれど、返してほしい。
 エマを。
 それは、獲物としてはとても魅力的だろうと、タキなら分かる。分かるが返してほしい。まだ、いてもらわなくてはいけないんだ。こっちに。自分と一緒にいてほしいんだ。


 進んでいる道が正しいのか、間違っているのか、全く分からなかった。分からなかったのに、どこかを目指して歩いているのはおかしな話だが、迷っていないのなら間違ってもいないのだろう。
 外で雨に打たれていた間に、随分と体力を消耗した自覚があった。立って歩ける場所に出てからも、足場は悪い。ときどき、自分の背丈よりも高い段差を降りたり、反対に登ったりして、これ、帰りはどうなるんだろうとぼんやり考える。
 不思議なことに、行きの記憶はたくさんあるのに、帰りの記憶が全くない。もっと言えば、探す相手に出会った記憶もない。タキの中に残っているのはどれも、こうやって、空の見えない薄暗い場所を、小さな灯りを頼りに進む場面ばかりだ。
 何も考えないでいると、記憶の方が頭の中を侵食していく。目の前に見えている景色が、自分が今いる場所なのか、それとも頭の中で展開されているだけなのか分からないままに進んで、気がついたら速い流れの中にいて、危うく溺れかけるところだった。

 蛇行した川の浅瀬にどうにか乗り上げて、そのときに持ってきた石がないことに気がついた。あれは、なんのために渡されるんだろう。何かの象徴かと思っていたのだが、違うのだろうか。失くしてもいいものだったのだろうか。
 どこかに光源があるのか、本当の闇ではなかったが、少しも先が見えない。どちらにしても寸前まで、周りを見てはいなかったわけだから、同じことのはずなのに、自覚すると急に怖くなった。
 入る前に自分が言ったことを思い出す。そう、死にはしないはずだ。大きな怪我をすることもないはず。さっきから今ひとつ、痛いという感覚もない。
 だからもし、このまま真っ直ぐ突き進んで、突然足場がなくなってどこかに落ちたとしても大丈夫なはずだ。そう思ってみても、想像してみたら怖かった。
 どこに向かっているのかも分からない。この先に何があるのかも分からない。死なないから大丈夫だろうと言われても、死ななければいいってもんじゃない。

 先のことなんて、本当は誰にも分からない。道の向こうなんて、灯りで照らしたところで見えない。見えたって、それが本当かどうかも分からない。行ってみなくては、どちらにしたって分からないんだ。
 その先は真っ平で、崖もなければ濁流もないかもしれない。恐怖は、崖から落ちる瞬間や、濁流に流される瞬間に抱くものじゃない。ほとんどは、そうなる前に感じるものだ。起こってもいないのに、まだ見てもいないのに、そうなったらどうしようと思って、何もしないうちから不安になる。反対に言えば、何もしないから不安なんだ。不安だから何もできなくて、何もしないでいるからもっと不安になって、そうなったらますます何もできなくなって、どこへも進めなくなるんだ。

 遠くに明るい場所が見えて、惹かれるようにそこへ向かった。道を照らせても意味はないと思うのに、光があればどうしてもそこを目指したくなる。

 近付くに従って、そこに誰かが立っているのが見えた。
 暗い洞窟の中で、いつも以上に彼の顔は白く見えた。ぼんやりと光っているようにも見える。気持ちが焦るのに、夢の中にいるように足がうまく前に進まない。近付けば近付くほどに、ずっと感じていたあの見えない壁に阻まれているのを感じた。
 気持ちを固めてここまできたはずなのに、途端に不安になる。迎えにきてもよかったのか。それをエマは本当に望んでいるのか。

 頭上の岩盤が崩れたらしく、空の見える場所だった。なるほどそれで、明るく見えたのだ。穴が空いて久しいのか、植物が雑多に蔓延っている。
 エマはそこでぼんやりと立ったまま、空を見上げていた。エマ、と声をかけても彼は微動だにせずに空を見ている。近寄りながら、自分も視線を上に向ける。
 洞窟の切れ目は思った以上に遠くにあった。崖にもびっしりと植物が生えて、それについた小さな雫が、自分の持ってきた蛍石の光に呼応するように、光って見えた。そのずっと奥には夜空があって、これまで見たことがないほどに無数の星が見える。大きな穴ではないし、葉や枝に覆われているし、ずっと遠くにあるのに、目の前に空が広がったように見える。いつの間に雨が止んだのだろうと思って、そういうことではないのか、と思い直した。慌てて視線を逸らして、もう一度エマを呼ぶ。
 それでも、まだ動かないから、タキは不安になった。この後どうしたらいいんだ。どうやって、連れて帰っていたんだっけ。無理矢理に引っ張って帰ればいいのか。それはダメだ。エマはそんなこと望まない。それに、それではあの日と同じことになるかもしれない。

「帰り道が、分からなくなって」

 え、とタキは動きを止めた。エマはまだずっと高いところを見たままだった。声を聞いたのも久しぶりすぎて、それが本当にエマが言ったのか、それとも自分が都合よく作り出した幻聴なのか、判別がつかない。

「ごめん、勝手に呼んだりして」

 ああ、エマの側ではそうなるのか。今、彼がいるのはどこなのだろう。同じ空を見ているのか、それとも知らない別の何かを見ているのか。でも、と声が続いた。

「帰ったら、だめかとも思って、でも、どうしたらいいか分からなくて、ごめん、他に、誰に言ったらいいか分からなくて、迷惑だと思うけど、」

「間違ってないから」

 でも、とさらに続くのを強引に遮った。手を伸ばせば届く場所まで来たのに、自分と話しているはずなのに、エマはまだこっちを見てはくれない。最後の一歩が、遠い。やっと目の前にいるのに、やっと声が聞けたのに。

「でも、戻っても、どうしたらいいのか、どうせ、何にもできないし、本当は、このままここにいて、」

 それはだめだ、と口を挟む。こちらの声が聞こえているのか、よく分からない。自分が来たことを認識しているかのような口ぶりだったが、本当は、別の誰かと話しているんだったらどうしよう。

「だってタキは、いつもどっかに行っちゃうし、いていいって言われたけど、いてほしいって言われたけど、飲まないと言えないことなんて、信じられないし、」

 記憶が残されてこなかった理由が分かった気がした。自分もこの部分は消し去りたい。もう誰に継がれる予定もなかったし、自分の中には残しておきたいけど。エマは、本当のエマだけど、いつものエマじゃない。だいたい、こんなに長い文章をしゃべるなんて、ありえない。
 居た堪れなくなって、佐伯が言った通り、いろいろと弁明しないといけないこととか、謝罪しないといけないこととか、あったはずなのに、タキはかろうじてこれだけ言った。

「ごめん、エマ。帰ろう」

 手を伸ばしてみたら、普通にエマに届いて、ちゃんと掴めた。エマがやっとこっちを向いて、一瞬、心底びっくりしたような顔をして、思っていた通りに意識を失って崩れ落ちるのを支える。
 さて、どうしたものかと頭上を仰いだら、音が戻ってきた。穴の向こうから、大勢の人が話すのが聞こえる。なるほど、そういう仕組みか。
 空は明るくなり始めていて、珍しく今日は晴れるみたいだ。空の星がゆっくり数を減らしていくところだった。




十四話

最終話




#なんのはなしですか
#空を見上げて
#君と魔術と星空と




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