見出し画像

空を見上げて 14

これまでのお話は
 居場所を失って友人の家に住むことになったエマ。本屋を営むタキの家で、朝から晩まで本を読んで過ごしていたが、体調を崩して声が出なくなってしまう。
 タキは心配するが、それを重く感じ始めてしまったエマは、タキの家から離れるようになってしまった。
 一方で、タキはそんなエマを心配しつつ、どう接すればよいか悩んでいた。そんなとき、タキは彼がどこへ行っているのかを知人から聞かされる。
 黙っていられなくなったタキは、ついエマを問いただしてしまう。翌日、出て行ったきりエマは帰ってこなくなった。

十三話

十五話


 本当に行くのか、と全ての手配を済ませた後になって、佐伯が不安げに聞いてくるから、タキは思わず脱力した。あれだけ言っておいて。
 本当に珍しく、いつまでも土砂降りだった。山に行くには全く適さない天候だ。道を見失う以前に、傾斜のある場所を歩くだけでも足を滑らせそうだし、何より、雨は体力を奪う。馬鹿みたいに木材と一緒に濡れたままで突っ立っていたから、それだけで本当は疲れ切っていた。みたいじゃなくて馬鹿だ。そんなことに体力を使っている場合じゃなかったのに。


 案内されたのは、町の北側にある山の端、海辺に近い崖だった。なるほど、店の前から真っ直ぐに歩いてくれば辿りつく場所ではある。ただ、途中から舗装された道は終わり、言われた場所は海に向かって岩が突き出した崖の上だ。どう考えてもエマが毎日ここへきて帰ったとは思えない。建物なんてどこにもない。タキを待っていたのは、暗い洞穴だけだった。
 それも、読んだ通りだ。
 関係のない者に「山の家」は見えない。山に喰われるという表現がどこまで正しいのか、過去にこうやって探しに出かけた記録も、どれも山のどこかに穴を開けた洞窟が対象になっていた。

 とりあえず、現実的に考えて、町から人を呼ばなければならない。こんな天候で申し訳ない上に、ここに至ってようやく、佐伯の言った、松井家は仕事を辞めたのに町の人を巻き込まざるを得ない状態、に思い至った。とはいえ、もう引き返せない。引き返す気もなかった。
 帰ってきて、家を焼くのまで手伝ってもらって、でもそれからも誰もタキを批判することはなかった。それは、これまでの習慣で松井家のものを悪様に言うことがないだけなのか、そうではないのか、自分では分からない。いつだって、周りは自分のことを支えてくれて、それなのに、結局はどこか自分は周りとは違うと思って、一歩引いていたのは確かだ。
 わがままだったろうな、と思う。町おこしと称して、それもかなり自分の好きなように周りを巻き込んだ。ただ、何もしなかったよりはマシだったかもしれない。

 小さな町だから、すぐに小さな消防車がやってくる。あとは山の向こうに頼んでくれたらしい。どちらにしても、崖の上までは何人かでしか登れない。隣町から緊急車両が来てくれたところで、手前で待機してもらうしかないのだ。
 祖父は家を潰すつもりだった。潰すつもりだったのに、父にもタキにも万が一のことを叩き込んであったから、山に入ることに抵抗はない。怖くないと言ったら嘘になるが、問題は、この雨の中、崖を登れる自信がないことだ。それは消防団にとっても同じようで、誰もが渋い顔をした。

「でも、行かないかんのよねえ」

 古い独特の訛りを含んだイントネーションで言われて、タキは頷いた。彼らの何人かは、うちの家の補助をしてきたから、どういうことかも知っているはずだ。それに。
 町ではもう、噂になっているはずだ。エマが山の家に行ってしまったことが。そうしたら、自分がどうしたって行かなければならないことも、町の人は分かっていたはずだし、だから先輩だってあんなに言いにくそうに伝えにきてくれたのだ。
 悩んでいたのは自分だけで、呼び出されるのを待っていたのだろう。ただ、何もこんな雨の日でなくてもよかったというだけで。

「行くことに問題はないと思います」

 雨音にかき消されないように、タキははっきり言った。確証はどこにもない。でも、自分が松井家の当主がきちんと声を上げれば本当になる気がした。そのくらいには、自分が存在する意味があると思いたい。
 危険ではあるが、不測の事態は起きないと思う。少なくとも物理的な何かは起きない。雨が降っているのも、単にタキのせいだ。どの日に決断しても雨は降っていただろうし、崖は切り立っていて、入り口は遠かったはずだ。
 問題は、エマを連れて帰ってきたときの方だ。最近、こうなる前からとも言えたが、彼がちゃんと食事をしているのを見たことがない。あれが普通に動いて見えたのは、山に動かされていたからだろう。そうなると、断ち切って人間に戻ったら衰弱が激しいはずだ。自分で歩いては戻ってこられない。

 それらのことを冷静に説明する自分を、タキはどこか遠くで聞いていた。変な感じだった。全て捨てたつもりだったのに。
 雨が降るのですら、作り物のようだった。この町の雨は、こんなふうに長い間土砂降りになんてならない。山の中だからと言っても、ここの標高はさほど高くはない。いつも、なんとなく降ったり止んだりしていて、どちらかといえば、曇りか霧雨のことが多い。
 それなのに、ずっと大粒の雨が降っている。最近、もう誰も車軸を流したような、なんて言わないよな、と頭の片隅で思った。バケツをひっくり返した、ならある。でも思うに、バケツってひっくり返してもすぐに終わるよな。
 雨が自分に、山肌に染みていくたびに、捨てるつもりだった何かが蘇っていく。祖父から意識して引き継がなかったもの。見ないふりをしてきたもの。これまでにこの山で起きたことと、かつての自分が見てきたものの全て。自分の意思とは関係なしに、記憶が追加されて少しずつ、少しずつ頭の中が過去に向かって広がっていく。
 目の前の景色は、雨のせいか、それとも時間のせいか、暗くなっていくのに、タキの中にあるものは鮮やかな色として描かれた。ほとんどが山の中の暗い世界のはずなのに。雨の降るのを眺めながら、皆に説明をしながら、過去の景色が重なる。
 自分の、口も手も足も、別の人間になったようだった。もちろんそれは自分で、過去にこうしていたのも「自分」だ。忘れていただけで。努めて思い出さなかっただけで。

 崖の上から、何かが飛び降りてきて、タキは言葉を切った。同時に、頭の中に広がっていた世界も消えて、ただの雨が降る山に戻る。
 小柄な影は、佐伯のところにいる二人とは違う見た目をした、山のものだった。あの二人よりも少しだけ大人びた見た目をして、雨をものともせず軽快に着地する。

「タキちゃん」

 初めて会うのに、当たり前のように名前を呼ばれた。本当はどこかで会ったのかもしれないが、いくら思い出したといっても、全てを把握するのは難しい。続けてもう一人、もう少し小柄な少年がやってきて、彼女に耳打ちした。そのまま、皆の視線を避けるように、岩の影に隠れてしまう。

「ごめんね、あの子は、ひとみしりなの。あの子が、見つけたの、エマちゃんのこと」

 ありがとう、とタキは岩の向こうに声をかけた。耳はいいだろうから聞こえて入るだろう。

「お迎え、行くのよね? ちゃんと、行って、あげるのよね?」

 ちょっと不安そうに聞かれて、苦笑する。何もかも伝わっているのか。それなら、もしそうなら、タキが躊躇ったことも、山の中にいるエマには伝わってしまったのかもしれない。

「そうよ、エマちゃんは、だけど、それでも、待ってるのよ」

 頷いたタキに、これ、と言って石が渡された。蛍石だ。久しぶりに現物を見た。もうとっくに、町の象徴でしかなくなって、使われなくなった灯り。
 灯されているのは、鈍い灰色。雨の中でなければ、見失ってしまいそうな頼りない色だった。この町の空の色と同じ、どっちつかずの色。灯りのくせに灰色をしている。灰色をしているのに、ちゃんと光っている。

「他の、人は、入り口まで。中には、タキちゃん、一人じゃないとだめ。覚えてる? わたしたちが、持って、行けるのは、これだけ」

 知っていると答えたつもりなのに、口は「覚えている」と動いた。
 何度も何度もこうやって、蛍石を手にしてたったそれだけを頼りに山に入った。過酷な道のりだったこともある。目の前にある岩壁よりももっと。山の中で穴に落ちたこともある。そこから這い上がれないまま、死ぬこともできないまま、何日も過ごした。助けは来ない。入れるのは自分だけだから。
 蛍石はどんなに長くてもひと月で消える。消えたあとは穴の中は真っ暗だった。雨が降ると、ずっと上の方に川ができて穴の底まで流れてきた。自分のいる場所も浸水していって、雨が止むとまた引いていった。あのあとどうやって戻ったのかは「覚えて」いない。
 そのときは死んでしまったのか、どうにか戻ることができたのか。
 ずっと、自分ではない誰かのためにこうしてきた。自分ではない誰かが、大切な誰かを連れ戻すために。

 持ってきていたスマホを佐伯に渡すと、なぜか彼が泣きそうな顔をしていた。雨が降っているから分からないだけで、本当は泣いているのかもしれない。

「別に、何も起こらないから」

 もう一度、山に念を押すように口にした。

「言っとくけど、怖いから行きたくなかったんじゃないから。確かにあの高さから落ちたら怖いと思うよ、でも死なないし。今は特に殺されはしないし。だってほら、俺しかいないし」

 もっと高いところから落ちたこともあるし、とはさすがに言わなかった。

 山岳救助の経験のある団員が、先行して登る。タキはその後に続いた。危惧していた通りに、岩は滑りやすく、雨の流れに何度も足を取られる。そして予想していた通りに、全て大事には至らず、崖の上まで辿り着く。
 着いてみると、下から見ていたよりも穴の入り口は小さかった。あの子たちなら、普通に出入りできるだろうが、人間の大人では身を屈めながらでなければ通れない狭さだ。
 幅もぎりぎりで、それも、どこまで続いているのか分からない。若い団員が持ってきたライトで中を照らそうとしてくれるのを、タキは制した。それもやってはいけないはずだ。

 雨足がどんどん強くなって、辺りはもう夜のように暗かった。それとももうすでに日が暮れたのか。雨の間にあった小さな隙間も埋められていって、その本当に小さな隙間から、遠く雷鳴が聞こえた。


 入り口をくぐると、突然音が遠くなった。振り返ろうにも、この狭い通路では満足に後ろが見えない。洞窟の中も湿っていて、どこもかしこもぬるぬるとしていた。
 蛍石を持って入ったものの、片手が塞がっていて動きにくい。あたりを照らすためには使えそうもなかった。
 這っていくのと、このまま中腰なのとどっちが楽なのだろう。
 なんだって、こんなにまわりくどいことをさせるのだろう。いつだってそうだ。わざわざ呼びにきておいて、無駄に困難な道を歩かせる。諦めるのを待っているのか。
 役目を放り出したことは一度もない。今回はなおさら、何をされたって諦めるつもりはない。

 「自分」を思い出してみると、山の向こうで学校に通ったことや、会社員として働いていたことが、物語の中の滑稽な一幕のように見えた。あのころはあれで、楽しいと思っていた。そうやって人と同じに生きていくことが、自分の幸せなんだと思っていた。
 別に、祖父の葬儀を終えた後、家を燃やした後だって、あの世界に帰ることはできた。町にとどまろうと思った理由は分からない。人に聞かれて、その度に当たり障りのない答えを返した。
 家と土地があってどうにかしなきゃならないから。でもそんなの、放っておいたって構いやしない。今だって放ってあるんだから。
 町の活性化に一役買いたいから。それだって本当には興味なんかない。実のところ、帰ったってやることがなかったから、何もしないでいたら、嫌でも思考の隙間にこうやって、思い出すべきことがはまり込んで来るのではないかと怖かったからだ。
 本屋とかやるの憧れてたんだよね。嘘ではない。でも、それは自分がやりたかったわけではない。やりたいことも将来の自分も一度だって、考えてみたことはない。「自分」と向き合わざるを得なくなるから。祖父が絶対に駄目だと言うんだから、思い出したりしてはいけないはずだから。

 祖父はこの血を忌まわしいものだと言った。だからずっとタキもそう思ってきた。それだけだ。本当のところなんて知らずにきた。父と祖父と、過去の自分たちのおかげで、思い出さなくても知識はいくらでも手にできた。
 今だって、まだ疑っている。
 エマが山の家に行ったのは、偶然なのか。それとも「自分」を呼び戻すために仕組まれたことだったのか。その、どちらも等しく絡まり合って起きたことなのか。

 いずれにしたって、もう逃げも隠れもしないのに。こんなに無意味に進みにくい道にしてくれなくたって、ちゃんとエマを連れて帰るのに。
 試される筋合いなんか、ねえよ。山が嫌いんなじゃない。嫌だったら、もっと遠くに逃げてたよ。それこそ海の外の、もっともっと遠くまで。




十三話

十五話




#なんのはなしですか
#空を見上げて
#君と魔術と星空と




雲岬町はこちらです





いいなと思ったら応援しよう!

フジ笑八コ(ぱちこ⭐︎) よろしければ、サポートをいただけるとうれしいです! いただいたサポートは、くもみさきまちの運営費に活用しています!