空を見上げて 12
これまでのお話は
居場所を失って友人の家に住むことになったエマ。本屋を営むタキの家で、朝から晩まで本を読んで過ごしていたが、体調を崩して声が出なくなってしまう。
タキは心配するが、それを重く感じ始めてしまったエマは、タキの家から離れるようになってしまった。
一方で、タキはそんなエマを心配しつつ、どう接すればよいか悩んでいた。そんなとき、タキは彼がどこへ行っているのかを知人から知らされる。
黙っていられなくなったタキは、ついエマを問いただしてしまう。
どうしてこんな
重めの話を書いたんですか
夜になっても、エマは帰ってこなかった。
一晩中、何をするでもなくタキはリビングに座っていた。もしかしたら、一瞬でも自分は寝てしまって、その間にエマは帰ってきてまた出て行ったのかもしれない、とも考えてみたが、そうではないこともなんとなく分かっていた。
そんなつもりじゃなかった。
エマを苦しめたくて声をかけたのでもないし、彼を失いたくて掴んだのでもない。
でも結局は、全て自分の、自分が満足するためだけに声をかけたのだ。彼を繋ぎ止めたかったのは、彼のためなんかじゃない。自分のためだ。
朝になってから、流石に眠くなって、タキはソファから移動した。エマの部屋の前まで階段を上がる。ノックをしようと手を上げて、やめた。扉を開けようとドアノブに手をかけて、それもやめた。
開けてみなくても、中が空っぽなのは分かっていた。そんなものを突きつけられるくらいなら、見ないままの方がいい。見なければ、まだほんの僅かだけ、エマがいるかもしれない希望が残される。
タキは扉の前に座った。ここにいれば、エマがどちらにいたとしても、扉を通るだろうから、寝ていたとしても気がつける。そのはずだ。
目が覚めて、自分がどうしてここにいるのか、しばらく思い出せなかった。家の中は薄暗くて、今が何時なのかは分からない。ダイニングにある大きな窓から、相変わらずな空の色が見えた。
エマはあの窓も気に入らなかった。家の前の道を通る人なんて、ごく僅かだし、真下から見ると意外と光の反射で家の中なんて見えない。もう少し離れた場所からなら、キッチンとダイニングが見えたかもしれないが、その辺りに人が立つことは稀だ。ご存知の通りの田舎だから。反対に、わざわざそこへ立ってこっちを見ているとしたら、よほどの変質者か自分の知り合いだろう。
たぶん、そういうことじゃなかったんだろうな、とタキは思った。この窓が、もっと、晴れた空に向かっていれば違ったのだろうか。家がもっと海岸沿いにあって、いつでも爽快な浜辺の風景が広がっていたなら。
それも、違うだろう。雨が苦手なのは知っている。年中、何かにつけて雨が降っているこの町が、エマに合わないのも知っている。だけど反対に、毎日晴れていたって、彼は憂鬱そうな顔をするのだ。眩しすぎるのだって苦手だから。
窓辺には、造り付けのダイニングテーブルが置かれている。窓も、テーブルも、チェアも、家に合わせて作った。これはタキではなく、デザイナーの発案だ。まあ、何もなく窓だけあってもいまいちだったから、何か座るところがあるのは理にかなっている。ただ、最初から誰一人ここで朝食を食べたりはしないだろうと思ったし、実際にそんなことは起こらなかった。
エマの言う通りだ。外の景色がいいとは言えない。空は陰気で、鄙びた集落が見えるだけだ。道の向こう側も自分の土地ではあったから、たとえばもう少し見栄えよく整えることもできただろうが、それには抵抗があって踏み切れない。
空き地の活用については、エマだけではなく、周りのみんながそれとなく話題に出してくる。タキは毎回、完全にそれを突っぱねるのに、まるで、タイマーでもつけられているかのように、一定の周期で聞かれる。
分かるよ、何もかもがちぐはぐだ。自分がどうにも踏み切れないのは分かっている。家のことも自分のこともエマのことも。迷っているのはエマだけじゃないんだ。自分だってそうだ。
なのに、自分は逃げる場所もない。
大事な話があるから来い、と呼び出されたのは、さらにその翌日のことだった。
小豆堂の佐伯という男の大事な話とは、大したことではない。本か酒のどちらかだ。全くそんな気分になれないタキは、それを無視することにした。
雨が降っていた。珍しく家の中にいても響くくらいに音を立てて降っている。遠く、雷鳴が聞こえた気さえする。そういう季節だからか、それとも別の理由からか。
前に、持って行けと押し付けた傘は、玄関に置かれたままになっていた。
エマは帰ってこない。一日中、部屋の前で待っていて、夜になってバカみたいだと思った。思ったのに結局はそこから動くことができずに、よく分からないままにまた一日、新しい朝が来てしまった。
頭がぼんやりとしていて、さすがにこれはまずい、と思えてきた。結局、客が来たのかどうかも分からない。スマホを持っていないことに気がついたのも、そのときになってからだった。
家も店も、雨以外の音がしない。今日くらい雨音が強ければ、人がいようがいまいが、聞こえないわけだから、同じことのような気もする。雨は次から次へと降るから、家のすべての屋根に等しく降ってくるから、家の周りの何もかもにも等しく当たって音を立てているから、間隙なんてものはないはずなのに、雨粒と雨粒の間の小さな空白が家の中に溢れていた。
探しに行きたい、とも思う。
しかし、自分が探しに行ったところで、エマは喜ばない。またあんなふうになってしまうのは嫌だったし、本人に会って感情をぶつけずにいられるかどうか、自信もない。
エマはもう、山に喰われてしまったかもしれない。
もしそうなら、もう二度と彼には会えない。
こうなると分かっていたから、ずっと少し引いて見守っていたはずだったのに。どうして。
こんなことなら、飲みにでも行ったほうがよかった。この天気なら、客も来ないだろう。来てもらったところで、人と話す気にはなれない。
普通に考えれば、スマホに連絡を入れるという手段もある。しかし、それすら怖い。これまでだって、エマはずっと長いこと、タキが何を送ったって返事をしてはくれなかった。それ以前に、エマがスマホを持って出かけているのかも分からない。何か送って、それが全部あの部屋の中に止まっていたら、それはそれで苦しい。見てもらえないよりももっと。最初から拒絶されているのと同じことだから。
それにどうせ、あまり意味はない。
山の家に行ってしまったのなら、結局は何も意味をなさない。人間の介入できる余地はもう、なくなってしまっているのだ。
初めて話したときから、ずっとエマとの間には、妙な壁だか溝だかを感じていた。それは彼が自分を守るために、長い間をかけて築いてきたもののようで、取り立ててタキ相手だからあった、というものではない。
誰に対してもエマはそんなふうで、自分とは違った意味で人から距離を置いていた。踏み込もうとすれば、必ずその目に見えない何かが立ちはだかる。
隣に座っていてすら、いつも遠くにいる気がしていた。
楽しそうに笑ったりしゃべったりしていたこともあったと思う。今となっては霞のように曖昧で、タキの脳裏には、あのエマの苦しく怒りに満ちた泣き顔しか、甦らないとしても。
ずっと感じていた、彼と自分との隔たりが、今になって現実のものになった気がした。
実際のところ、現実だ。
いや、これまでだって、エマは知らないうちに物理的にずっと遠いところに行っていたわけで、連絡を取らなければ、もう二度と会わなかったのかもしれない。
けれども今は、本当に引き裂かれた気がしていた。
家にいても、店にいても落ち着かない。縋るものが欲しかった。
そんなことは馬鹿げているし、自分から、自分たちから捨てたというのに、気がついたらタキは、家のあった場所まで来ていた。
先祖代々、住んできた家の、自分が焼いたその残骸。
雨が降っているから、周りの草はぐっしょりと濡れて、傘も差さずにやってきたタキは、上から下までずぶ濡れになりながら進んだ。足元はぬかるんでいて、これまた適当な靴を履いてきたタキの足は、何度も滑りかけた。濡れた草と泥の匂いがする。
目印なんてないのに、正しくそこへ辿り着く。
どこを見渡しても等しく同じように草に覆われていて、分からないように、分からなくなるように、こうしたのに。
柱と梁は、雨に濡れて黒々と横たわっていた。
タキのイメージの中では、ひどく禍々しいものに思えていたのに、こうして見ると普通の木材が雨に濡れているだけで、なんとなく拍子抜けする。
一つ、どうにも変なことがあるとすれば、草に埋もれてしまってはいないことだ。まるで誰かがせっせと毎日間引いたかのように、荷物の周りだけ、草がまばらだった。庭に敷いてあった玉砂利も僅かに見えている。これを除けておけば、草も生えるだろうか。
火には焼かれなかったが、雨は染み込むのだと、タキは妙なことを思った。このままにしておいたら、そのうち腐って朽ちるのだろうか。それもないだろう、よく考えたら今日までの間に何度も雨は降った。もっと地面に水が溜まるほどに降ったこともあっただろう。木材はさておき、そばにある行李はどうあっても朽ちそうなものだ。たとえば、ここには動物や虫だってくるだろうから。
それでもあの日のままに置いてある。行李の蓋を開ければ、何事もなく中身が出てくるのだろう。書物の字も滲まず。
ここへ来て、どうするつもりだったんだ。
何に縋るつもりだったんだ。
もしかしたら、タキが真摯に問えば、答えが得られるのかもしれない。しかし、それは結局のところ、自分がただの人間にはなれないことが突きつけられるというだけだ。
それに。
まだ彼は決心がつかなかった。
そうやって強引に呼び戻して、呼び戻せたとして、エマは幸せなのだろうか。本人がここにはいたくないと思ってしまったのなら、それが彼の望みなら、叶えてやるのも優しさではないのか。
そんなふうに思った自分に、吐き気がした。
それなのに、思考は勝手に回る。ここへエマが来たのは、彼が望んだからだ。むしろ、自分が呼び寄せたときにはすでに、もっと別の大きな力が働いて、ここへくることは決まっていたのかもしれない。
きっと彼はずっと、今のここではない、どこか自分が安らげる場所を探していた。それが自分のそばであって欲しいと思ったのは、タキの勝手な望みだ。それをエマは知らない。もしそれを言ってしまったら、ここには来てくれなかったかもしれない。
もしかしたら、うっかり、いつか知らないうちに、たとえば酔って帰ってきた夜かなんかに、そんなことを口走ってしまったのかもしれない。それが嫌だったから、どこかへ行ってしまったのだろう。
そうではなくて、エマは最初から山に呼ばれていたのかもしれない。それはもっと、もっと前に自分が彼を見つけてしまったときに。見つけさせられてしまったときに。
いつかこうして、彼に逃げ場を与えるために、自分はエマと出会ったのかもしれない。そうだとしたら、自分にできることなどあるだろうか。何をしたって、こうなることは決まっていたんじゃないだろうか。いまさら、探しに行ったって、呼び戻そうとしたって、どうにもならないんじゃないだろうか。
自分のことだって分からないのに、エマのことなんて、まして、山のことなんて分かるはずもない。
分かるのは今、エマはいないということと、雨が降っているということだけだ。

いいなと思ったら応援しよう!
よろしければ、サポートをいただけるとうれしいです! いただいたサポートは、くもみさきまちの運営費に活用しています!