空を見上げて 13
これまでのお話は
居場所を失って友人の家に住むことになったエマ。本屋を営むタキの家で、朝から晩まで本を読んで過ごしていたが、体調を崩して声が出なくなってしまう。
タキは心配するが、それを重く感じ始めてしまったエマは、タキの家から離れるようになってしまった。
一方で、タキはそんなエマを心配しつつ、どう接すればよいか悩んでいた。そんなとき、タキは彼がどこへ行っているのかを知人から知らされる。
黙っていられなくなったタキは、ついエマを問いただしてしまう。
「タキちゃん」
声がかかって、タキは現実に引き戻された。のろのろと振り返ると、雨の中、傘を差した佐伯がすぐそばまで来ていた。足元はぬかるんでいるし、もちろん草が生い茂っているから、傘を差したところで酷いことになるだろうに。
「なんで傘持ってないの?」
差しかけてこようとするのを、手振りで止める。
「いいよもう、今さらだよ」
佐伯は困った顔をしていた。彼に付き従うように、小さな桃色と黄色の傘が二つ。
はあ、と思い切りため息が漏れた。
「この子たちが話があるって」
だろうな、とタキはもう一度ため息をついた。彼女たちは山が作り出した幻影だ。だから、山にずっと近い。人に紛れて住んでいるものたちの一つで、見た目は子どものよう。
佐伯のところにいるのは、彼に拾われた二人だ。見分けがつかないほど似ているのだが、姉妹というわけではないらしい。
朝に連絡があったときからそうじゃないかとは思っていた。気付いていたけど見ないふりをした。
読んだことがある。というか知っている。
伝承は、その土地とそこに住む人々が暮らしていきやすくするために、事実を少しずつ捻じ曲げて伝わっていく。恐怖や禁忌にまつわる話のほとんどは、そこが人にとって危険だからだ。自分たちの子孫が、そこで命を落としたり大切なものをなくさないように、尾鰭をつけて語られる。怖ければ怖いほど、神秘性を持たせれば持たせるほど、いかにそこが不穏で穢らわしく、立ち入ってはいけない場所かを示す。
好奇心が旺盛すぎる後世の人間は、言い伝えを信じなかったり、信じているからこそ近付いてしまったりもするが、もしそこが本当に危険だった場合、伝承は上塗りされる。ああ、やはりあれは禁忌なのだと、再び納得して話はさらに誇張されて伝えられる。
山の家もそうやって、塗料を重ねていくように、本当に少しずつ、話の中で成長していっていた。
この手の話にはいくつかパターンがあって、まるで救いのない場合と、救済が与えられているものとがある。山の家は後者だ。元々、灯りを持って無事に山を越えるか、戻ってくる人間もいた。というよりも、戻ってくる人間がいなければ、山の家という概念が成り立たない。
場所こそ自分たちには分からないものの、かなり濃厚に存在はしていて、そこを考え始めると途方に暮れてくるとしても、管理人の仕事が斡旋されてすらいるのだから。もっと言えば、この管理人に話を聞けばあっという間に解決しそうなものなのだが、これがどうも難しいらしい。
彼らは彼らで、何を担っているのか知らされていない。切れ切れに集められた話からすると、管理人はただ、来た人を受け入れるだけらしい。不思議なことに、人によっては灯りを返しにくるだか、持ってくるだかの場合もあるらしく、どうやら見る立場が変わるとこの話は大きく違ってくるようだ。
もう一つ、これは松井家に関わる話で、だからこそ考えたくはなかったのだが、帰ってこない人を探しに行くケースというのが存在していた。
まず、単純にこれは山が深いから、あの山で行方不明になる人間は一定数いる。現在進行形なのは困ったことに今でもなぜだか、現実の遭難が起きるからだ。今では町の人が手分けして山に入ることこそ、なくなったが、ごく最近まではそうやってあの雨の降る山を皆で探して回るのが当たり前だった。これには大きなリスクも伴っていて、そうしている間に、もっと多くの人がいなくなったという話も伝わっている。これは怪奇現象ではなく、山崩れが起きただけなのだろうが、それもこれも物は言いようというわけだ。
それとは別に、もう一つの意味で探しに行かなければならないとき、そう、今、自分が直面しているような状態のとき。
家には「報せ」が来ることになっていた。
報せが来るということは、まだ間に合うということ。だから、松井家の当主は「山に入って」探しに行かなければならない。それができるのは、自分たちだけだから。
「タキちゃん」
澄んだ声がする。
忌まわしいとは思わないが、どうして佐伯はこれらと一緒に暮らせるのか分からない。町の人は知っていて、山に住むものと文字通り同居する。こうやって一緒に暮らしているものもいれば、仕事を共にしているものもいる。
タキの目から見れば、異質であることが気になって仕方がない。
「聞きたくない」
でも、と困ったように言う声に背を向ける。分かっている。この子たちだって、タキと同じだ。役割があるから伝えに来てくれた。それでも無理に伝えてこないのは、きっとこちらの心情を慮ってのことだ。山の意思に心配されるなんてどんな状態なのだろう。
「なんでだよ?」
反対に、人間である方の佐伯が険しい口調で言った。彼が近寄ってくるのが分かる。放っておいてほしかった。なんだか全部知ったような風なのも最悪だ。
「迎えに行けるの、お前だけだって聞いたけど?」
危うく舌打ちを返すところだった。余計なお世話だ。相手がエマだからじゃない。こうなった今、取り返しに行けるのは自分しかいない。場所は報せを持ってくるものたちが知っている。でも、そこまで行けるのは人間と山の半分ずつを持っている自分しかいない。山のものたちは、見つけても連れては帰れないし、町のものたちはたどり着くことができない。
「だとしても……エマが出て行きたいのなら、止められないし止めていいかも分からない」
腹が立っていたはずなのに、自分の口から出てきたのは惨めな泣き言だった。重ねて何か言おうとした佐伯が、何度かそれを繰り返して結局黙ったのが雨の隙間から伝わってきた。
しばらくして、大きなため息が聞こえる。
「お前はどうしたいの?」
どうって、とタキは雨に濡れた木材をただ眺めた。やはり水は浸透している。そこに表面をなでていた炎が重なった。
「ここに来てるってことは、そういうことなんじゃないの? 自分にできることがあるはずだって、そう思ったから捨てた家に戻ってきたんだろ」
別に、とタキは反抗期の子どもみたいな返事をした。別に、そういうんじゃないし。そんなつもりじゃないし。
「町のことを気にしてんの? もう松井家は仕事をしないって言ったのに、自分の事情で戻ることになるから? それで、みんなに申し訳ないってそう思ってる?」
そんなことは考えもしなかった。薄情なやつだよなと自分でも思う。確かにその通りだ。でも残念ながら違う。天秤にかけたのはそれじゃない。ただただ、自分は普通の人間になりたかったという、それが崩れることと、それを崩してなお、エマは帰ってきたくないんだったらどうしようという、全部自分本位の事情だけだ。
立ち入ったことを聞くけど、と佐伯の声がする。
「お前さ、ずいぶん楽しそうに新しい家建ててたよな。本当は心配してたんだよ、おじいさんもいなくなって、一人になって、家を焼いてどうするんだって」
客観的に見ると、確かに変なやつかもしれないと、タキはぼんやり思った。自分の家を焼くなんて変な話だ。というか、それは祖父の言い付けで。
「でもさ、友達がいるって聞いて、安心したんだよ。いつだってお前、俺と飲んでてたって、どっか遠くにいたから。そういうやつがいるんだって、お前がそばにいて安心できる相手がいたんだって」
タキはそれにため息で返事をした。そんな風に見えていたのかと思ったら、本気でなんだか疲れてしまった。雨が自分を叩くのが妙に気になり始めた。なんで傘を差してこなかったんだろう。
そうじゃないんだ、自分が、とか、そうじゃなくて、エマが困っていたら助けようと思って、そう思って。
「だから、違うだろ」
口にしたつもりはないのに、佐伯に全否定された。何が、とタキは不機嫌に返す。
「お前が、一緒に住みたいって思ったんじゃないの? それで呼んだんだろ? お前、いつもそうやって何だかんだって、妙な理屈こねてさ」
どの理由でもいいけど、と佐伯は呆れたような声で言った。
「で、そのことをあの子にちゃんと言ったのか?」
言ってない。言えないままだった。
「お前のことだから、どうせ、行くとこないなら部屋余ってるし来いよ、くらいのノリで言ったんだろ? その癖、自分は日々飲み歩いてるって、どうなってんだ」
まるで見ていたかのように言われて、タキは言葉を詰まらせた。飲んでいるときに、うっかり何か話してしまったのだろうか。
「いや、でも、」
タキはどうにか続ける。
「エマだって、子どもじゃないんだし」
「その結果がこれだろ」
今度こそ、返す言葉がなくて、彼は押し黙った。
「何も言わなくても分かってくれるとか思ってんの?」
「そうじゃないけど」
「けど?」
佐伯はさらに尖った声で言った。
「これ、全部お前が自分で言ってたんだけど。あの子は、家にも居場所がなくって、仕事もなくなって、どうしたらいいのか分からないみたいだって。でもさ、よく考えろよ。確かに、見守ってるのは大事だと思うよ。それも優しさだよな。実際、そんなときに余計なこと言われたくないと思うし。でもさ、自分は自分のことなんでもスパッと決めちゃうから、分かんないんじゃないの。居場所がないって思ってるんだろ、あの子。居候だと思ってんじゃないの。自分はタキちゃんにとって、荷物になってるって、そう思ってんじゃないの」
自分ならそう思っちゃうけど、と佐伯は続ける。
「不安にさせてるのは、お前のそういうところだろ。昔っからそうだよな、誰よりもおしゃべりなくせに、一番大事なことは言わないもんな」
ある意味、誰よりも厄介だよ。吐き捨てるように付け加えられて、やっぱりタキは何も言い返せなかった。
そんなこと、今さら言われなくたって分かっている。自分が一番分かっている。だけど、どうしたらいいのか、分からなかったんだ。分からないうちにこうなったんだ。
それを口にはできないことこそが、佐伯の指摘が正しいことを示している。今になって、雨を不快に感じてきた。雨粒の一つひとつが自分を責め立てているように思えてくる。頭に、肩に、腕に。お前はダメなやつだ。
「あのう、タキちゃん……」
ずっと黙って待っていたらしい声がした。仕方なく、タキは振り返る。
「お迎えに、いってあげてほしいの。だって、エマちゃんは、タキちゃんのこと、待ってるって。タキちゃんを、呼んでるって、みんな言ってるよ」
「そんなの、」
「ウソだって、思う? 人間は、ウソつくもんね。でも、お山は、ウソをつかないよ、タキちゃんは、知ってるでしょう?」

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